眠り姫と夕食を

 

「京一君、今日は寒いから、シチューでいい?」

全ての闘いが終わって、平穏な日々が続いていたある日の事。台所に立っていた麻莉菜が

そう聞いてきた。

「ああ、いいぜ」

リビングでくつろいでいた京一がそう返事をする。

「じゃ、ちょっと待っててね」

台所の方から、野菜を刻むリズムが聞え始める。

(なんか、こういうのいいよな)

その音を聞きながら、京一の顔に口元に笑みが浮かぶ。

その事を気づかれない様に、広げていた雑誌で口元を隠す様に持ってくる。

「痛っ!」

突然、そのリズムが途切れて、麻莉菜の小さな叫びが聞える。

「どうした!?」

慌てて、台所に入っていった京一を安心させる様に、麻莉菜は指を押さえながら笑って見せる。

「ちょっと、指を切って…大丈夫。何ともないから…」

「何言ってんだ。見せてみろ」

京一は、麻莉菜の指の傷を確認する。

「…これくらいなら、ここにある救急箱で何とかなるな」

彼は台所から、麻莉菜を連れ出すとリビングのソファに座らせた。

「珍しいな、麻莉菜が調理中に手を切るなんて」

彼女の指に薬を塗りながら、京一が言った。

「考え事してたら、ちょっと気が散っちゃって…」

「何、考えてたんだ?」

「え…あ、たいした事じゃないの」

(言えない…亜里沙ちゃんの言葉が凄く気になってたなんて…)

「気にしないで」

「そうか?なら、いいけどよ。…っと、出来あがりだぜ」

包帯を巻き終わって、京一は救急箱の蓋を閉めた。

「今日は水に濡らさねぇ方がいいな。…よし、俺が料理の続きしてやるよ」

「え?」

「後は煮こむだけだろう。任せとけって」

麻莉菜が慌てて立ちあがりかけたのを肩を押さえて座らせると、京一は笑って見せる。

「まぁ、味の方は確実に落ちるけど、そこは我慢してくれよな」

それだけ言って、彼は台所に入っていった。

「あ…あの、京一君?」

麻莉菜は、その後を追っていった。

「どうした?」

何かを考えていた京一は振り向いた。

「大丈夫だって、食べられないようなもの作ったりしねぇから。まぁ、麻莉菜みたいに素から

作るってのは無理だから、インスタントでも我慢してくれよ」

「でも…」

「心配なら、そこにでも座って、見ててくれよ」

京一は台所に置いてあった椅子を示してそう言った。

「な?」

「う…ん」

麻莉菜は、その言葉に従う様に、椅子に座った。

「ちょっと買物に行ってくるから、おとなしくしてろよ」

それだけ言い置いて、京一は出かけていってしまった。

(どうしよう…また…京一君に迷惑かけちゃった…)

少し、自己嫌悪に陥って、麻莉菜は溜息をついた。

(京一君が、使いやすいように台所片付けておこう…)

野菜を切った後に出た屑やまな板を、彼女は片付け始めた。

「こら、麻莉菜!水使うなって言ったろうが!」

急いで、帰って来たらしい京一は、まな板を洗っている麻莉菜を見て、水道の栓を止めながら

そう言った。

「でも、これくらいなら平気だから…」

咎めるような京一の言葉に、麻莉菜は困った様に短く言った。

「…あのなぁ、麻莉菜。こんな時くらい、俺が全部やってやるから。少しは頼ってくれよ。

じゃないと、一緒に暮らしてる意味がないだろう?」

少し苛立った様な表情を一瞬浮かべた後、すぐに穏やかな表情を浮かべて、彼女に話しかけた。

「うん…、判った…。京一君に任せる」

「よし、じゃ、そこで待っててくれよ」

麻莉菜が元の椅子に座ったのを見て、満足そうに笑った京一は、コンビニの袋から取り出した箱の説明を読み始めて、まず分量通りの水を用意する。

それから、切ってあった材料を鍋に入れて炒め始める。

色が変わったのを確かめると、水を全て鍋に入れて煮こむ。

「少し煮込んでから、これ入れりゃ、いいんだよな」

箱から、クリームシチューのルーを取り出してコンロの横に置きかけた。

「ああっ!?しまった。これ、牛乳入れたほうが良かったのか!」

説明書にもう一度、目を通した京一が叫び声をあげた。

「今から、水減らしても大丈夫か。これ…」

鍋の中身を不安そうに覗きこみながら、彼は呟いた。

「まだ、ルーを入れてないから大丈夫だと思うけど…」

立ち上がってきた麻莉菜が同じように覗きこんでそう言った。

「そっか…」

側に置かれていた計量カップに、鍋から余分な水をすくいあげて、流しに捨てる。

「これで大丈夫だといいけどな…」

京一は、湯の中で踊っている野菜類を見ながら不安そうに言った。

「大丈夫だよ…きっと…」

麻莉菜も少し不安そうだったが、笑ってそう言った。

「後は、材料が柔らかくなったら、ルーを入れたら大丈夫だから」

その言葉を聞いて、京一はますます情けなさそうな顔をする。

「美味くなかったら、ごめんな」

自分に向かって、手を合わせる京一を見て、麻莉菜は先ほど示された椅子に座り直す。

「きっと、美味しいのができるよ。待ってるから」

それから、しばらくの間、二人の間には会話がなかった。

コトコトと鍋の中身が踊る音だけが響いていた。

「…もうそろそろ、これを入れて大丈夫だな」

野菜の硬さを確かめてから、鍋の中に白いルーを放りこむ。

「これで、弱火にすれば良いんだよな」

説明書の最後の文章を読んで、火を弱める。

「少し、向こうで待ってるか?」

振り向いた京一は、椅子に寄りかかって眠っている麻莉菜に気づいた。

(まったく…)

彼女を起こさない様に静かに抱き上げて、寝室に運んだ。

「俺が気づいてないとでも思ったのかよ。ここ2,3日寝てねぇの…」

麻莉菜の身体をそっとベッドに横たえた。

(何を悩んでんのか知らねぇけど、相談くらいしてくれよな)

麻莉菜の髪の毛に指を絡めながら、ふと思う。

「…悩んでても仕方ねぇか。取り合えず、今は食えるもの作らないとな」

思考を前向きな方向に切りかえると、京一は立ち上がって部屋から出ていった。

煮こみ具合を確かめながら、他にできる簡単な料理を作っていった。

夕方になった頃、火を止めた京一は麻莉菜の部屋の扉に眼をやった。

(もうそろそろ起こした方がいいんだよな)

時計を見上げてから、扉を静かに開ける。

「麻莉菜…?起きてるか?」

暗い部屋の中を注意深くベッドに近づく。

彼女は、静かな根息をたててまだ眠っていた。

「麻莉菜…メシできたぞ。麻莉菜?」

「ん…」

その声に、彼女が薄く眼を開ける。

「京一君…?」

眼を擦りながら、麻莉菜は起き上がった。

「メシできたけど、どうする?」

「え?きゃあ!」

突然、悲鳴を上げられて、京一は吃驚して一歩後ずさった。

「ま…麻莉菜?」

「あ…ごめんね。ちょ…ちょっと、驚いて…」

麻莉菜は、慌ててベッドから降りて彼に近づくとそう言って謝った。

「いいけどよ、どうしたんだ?悪い夢でも見たのか?」

「う…うん、そうなの。夢、見ちゃって…ごめんね」

「たまには、そんな事もあるだろう。それより、メシできたぜ。どうする?」

「うん、すぐ行く」

麻莉菜は衣服を整えながら、そう答えた。

「じゃ、食えるようにしとくからな」

「う…うん」

彼女の返事を聞いて、京一は準備の為に部屋を出て行った。

(どうしよう…大声出しちゃって…。目の前に、京一君がいたから、驚いちゃって…気を悪く

してないかな)

麻莉菜は居間の方の様子を窺った。

そこからは、京一のいつもと変わらない気配を感じる。

「麻莉菜、早く来ねぇと冷めちまうぞ」

その声に誘われる様に、麻莉菜はリビングに入っていった。

テーブルの上には、シチューと簡単なサラダが置かれていた。

「パンの方がいいか?一応買っておいたんだけどよ」

「ご飯がいいな…」

椅子に座りながら、麻莉菜は小声で答えた。

「そっか、ちょっと待ってろ」

京一は、もう一度台所に戻って、すぐにご飯茶碗を二つ山盛りにして持ってきた。

「…」

黙ってそれを受け取った麻莉菜は、その茶碗を見つめていた。

「どうした?多すぎたか?」

「そんな事、ない…」

慌てた様に箸を持って、麻莉菜は食事を始めた。

「美味しい…京一君、ありがとう」

シチューを一口食べて、麻莉菜は礼の言葉を述べた。

「いいって、こんな時は作ってやるから」

少し照れ臭そうに、京一は短く言って、自分の前の食事を食べ始めた。

「…さっき、ごめんね…起こしてくれたのに、大声出しちゃって…」

「寝ぼけただけだろう?いいって、気にすんな」

謝罪の言葉に、彼は笑って見せた。

「それより、本当に美味いか?」

「うん、とっても美味しい」

食事の感想を求められて、麻莉菜は微笑みながらそう言った。

「そっか、美味いか。また何かあったら、俺が作ってやるからな」

その言葉に気を良くした京一は、機嫌良さそうにそう言った。

「うん、楽しみにしてる」

「おう、楽しみにしててくれよ」

その後、食事は和やかな会話のうちに終り、立ちあがった京一は食器を重ね始めた。

「運ぶくらいできるよ」

立ちあがりかけた麻莉菜を制して、京一は食器を持って台所に運んでいく。

「京一君…!」

「いいって。今日は全部俺がやってやるから、麻莉菜は休んでろ」

鼻歌混じりで、京一は台所に姿を消した。

水音とかちゃかちゃと食器のぶつかる音が聞えてきた。

「それにしても、麻莉菜は偉いよな。こんな面倒くさい事、毎日やってんだから」

片付け終わった京一は感心したように言いながら、麻莉菜の所に戻ってきた。

「そんなこと…」

「本当だって。俺なんて、こんな事毎日やれなんて言われたら、そいつをぶっ飛ばしてるぜ」

「お母さんが、一人暮しを始めて困らない様にって、教えてくれたから…。出来合いの物とか

外食ばかりにならないようにって…」

「いいおふくろさんだよな」

「うん!」

京一にそう言われて、麻莉菜は嬉しそうに笑った。

彼女の隣に座った京一は、麻莉菜の髪の毛に指を絡めて撫ぜ始める。

麻莉菜は一瞬身体を固くしたが、すぐに京一のされるがままになっていた。

「京一君。あたし、京一君に髪の毛触られるの大好き。凄く安心できるから」

「そっか?」

「京一君の手って、大きくて暖かいんだもの」

そう言って、麻莉菜は京一の顔を覗きこむ。

「俺も麻莉菜と一緒だと安心するよ」

小さな肩を抱き寄せながら、京一はそう言った。

「…」

恥ずかしそうに、頬を紅くする麻莉菜の唇に自分の唇を重ねる。

「ん…」

麻莉菜が苦しそうに息を吐いて、自分に寄りかかって来るまで、彼はそれを止めなかった。

「明日の朝も俺がメシ作ってやるからな。眠ってていいぞ」

自分の肩に顔を埋めている麻莉菜の背中を緩やかに撫ぜながら、京一はそう言った。

「う…ん…」

静かな寝息が聞こえてくるまで、京一は麻莉菜の背中を撫ぜつづけていた。

完全に眠ってしまったのを確かめると、京一は麻莉菜を抱き上げて寝室に運んでいった。

「ゆっくり眠ってろよ。お姫様」

愛しい娘をベッドに横たえると、それだけ呟いて、京一は部屋から静かに出ていく。

扉が閉められた後、闇に包まれた部屋の中で、麻莉菜は穏やかな表情を浮かべて眠り続けていた。

夢の世界を漂いながら…。

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