昼に、自分を使役している主人から渡された文献を読んだ為か、なかなか寝つかれずに、

彼女―天后 芙蓉―は、庭に出て形の変わらない満月を眺めていた。

一刻程、そうしていただろうか。微かな溜息をつき、屋内に戻ろうとした彼女は、

落ち葉を踏む足音に気づいて振り返った。

「よぉ、芙蓉ちゃん。こんな時間に何してんだい」

背中に派手な刺繍の入った白い学生服を着た青年が近づいてきて、そう尋ねる。

「村雨…。お前こそ秋月様から離れて、この様な刻限まで何処に行っていたのです」

「ちょいと、如月のトコにな」

「また賭け事ですか…」

自分を咎めるような口調にも動じる事なく、青年−村雨 祇孔−は、相手を探るような

目つきで、芙蓉を見た。

「芙蓉ちゃんこそ、こんなトコで何してんだ?マサキの側についてなくていいのか?」

「お前如きに、心配される事はありません」

「へっ、相変わらず可愛げのない女だぜ」

その言葉を気にもしないで、屋敷に戻りかけた芙蓉は、ふと足を止めて、村雨の方を

振り向いた。

「村雨。人というのは、前世と同じ人生を歩むものですか?」

「何だよ、急に」

「答えなさい。お前も人ならば判るはずです」

「そんな事を言われてもよ。俺は、前世なんてもんは、信じてねぇし、どっちかってと

晴明の方が詳しいんじゃねぇか?」

「やはり、お前に尋ねたのが間違いでしたか」

芙蓉は、そのまま屋敷に入っていこうとした。

「おい、一体、何の事を言ってんだよ」

いきなり腕を掴まれた芙蓉は、いつもの習慣で村雨の事を殴っていた。

「放しなさい!無礼者!」

「…ってなぁ、人が心配してやってんのに、なんだよ。その態度は」

頬を押さえながら、村雨が抗議する。

「お前がいきなり腕を掴むから、悪いのでしょう」

冷ややかに、芙蓉は断言する。

「やっと、いつもの芙蓉ちゃんらしくなったじゃねぇか。この寒い中、庭先で二時間近く

も、月を眺めてぼんやりしてるから、外界の毒気にでも当たったんじゃないかと思ったぜ」

「お前…最初から見ていましたね」

「で、何があったんだい?神将のお前が、前世だ、何だって言い出すからにゃ、それ相応の理由があんだろ?」

「晴明様から、昼間渡された文献に、過去の龍脈を巡る闘いについての文章が載っていたのです」

「それが、どうしたんだよ」

「そこにはこう書かれてあったのです。『《器》の資格を持つ者、朧なり。闘いの終結と

ともに消え、その後、一切、人の眼に触れる事適わず』と…。これは、緋埜様の前世の姿

を指しているのではないのですか?」

「悪い冗談だぜ。同じ人生を歩むとすると、先生は俺達の前から姿を消しちまう事になる。

そんな事、あるわけねぇだろう」

「そう言いきれますか?」

普段、滅多に感情を表さない芙蓉に、微かな表情の動きを見て、村雨は溜息をつく。

「そんなに気になるなら、直接確かめりゃいいだろう。たぶん、要らねぇ心配だと思うぜ」

「どうして、そう言いきれるのです。緋埜様を見ていて、判らないのですか?あの方は

朧です。いつか、消えてしまうかも知れない月の光で、我らを闇から救い出してくれたの

ではないのですか?」

「太陽だって、言う奴もいるぜ。あたたかい光だってのは、認めるがな」

村雨は、被っていた帽子を指で押し上げながら、そう言った。

「それに、先生は朧なんかじゃねぇよ。お前は見た事はないだろうけど、怒ったら、

誰よりもおっかないんだぜ。ありゃ、どっちかってえと太陽の炎のように熱い光だぜ。

普段は、本当に穏やかだけどな」

「…」

「だから、気になるなら、聞いてみりゃいいって事だ。先生なら笑い飛ばしてくれるさ。

何なら、明日にでも行ってみるか?つきあってやるからよ」

「そうですね。朝なら時間がありますから、聞きに行ってみる事にしましょう」

そう言い置いて、芙蓉は屋敷に入っていった。

(やれやれ…。しょうがねぇな)

村雨も苦笑を浮かべながら、その後に続いて、屋敷に入っていった。

次の日の朝。芙蓉と村雨は、麻桜が暮らすアパートの扉の横のある呼び鈴を押した。

『は−い』

少女にしては低めの声が聞こえて、すぐに扉が開かれる。

白い大きめのシャツと黒いスパッツを着た麻桜が、芙蓉と村雨を見て、眼を丸くした。

「どうしたの?こんな朝早くから。しかも珍しい組み合わせだね」

「お尋ねしたい事がございまして、朝早くから御無礼かと思いましたが、お伺い致しました」

「?まぁ、いいや。立ち話もなんだから、あがってよ」

麻桜は、二人を室内に招き入れた。

「麻桜?誰だ?」

部屋の奥から声が聞こえた。

「村雨君と芙蓉さんだよ」

その問いに答えながら、麻桜は居間に入っていった。

「誰か、いんのか?」

「うん、京一が昨夜から来てるんだ」

その言葉を聞いた村雨が、複雑な笑いを浮かべた。

「なるほどな。昨夜はお楽しみだったって訳だ」

「え?」

振り向いた麻桜に、自分の首筋を指して見せる。

「ついてるぜ。首筋にキスマーク」

笑いながらの言葉を聞いて、麻桜は顔を真っ赤にして、首筋を押さえた。

「…!」

彼女は、慌ててバスルームに走って行って、鏡を覗き込んだ。

「京一っ!」

その後、寝室に走って行き、京一を怒鳴りつける。

「あんたねぇ!こんな目立つ所に、何つけんのよ!」

「…」

京一が、何とか宥め様としているらしい声が聞こえる。

「いいのですか?止めなくても?」

居間に座り込んで、落ち着き払っている村雨に、芙蓉が尋ねる。

「ああ、どうせ痴話喧嘩だろう。ほっときゃいいのさ」

やがて、少し怒ったような表情を浮かべた麻桜と、その後ろから京一がやって来た。

「ごめんね、放ってて」

「余計な事言いやがって…」

不貞腐れたように、京一は床に座り込んでそう言った。

「京一!少しは、反省しなさい!…二人とも、何か飲む?芙蓉さんは、日本茶よね。

村雨君は?」

「俺も同じでいいぜ」

「うん、判った」

麻桜は、台所に立っていった。

「…それで、何しに来たんだよ」

「先生に芙蓉ちゃんが聞きたい事があるってんでな」

「あたしに?何?」

湯呑茶碗を二人の前に置きながら、麻桜は尋ねた。

「緋埜様は、闘いが終わったらどうなります?」

「は?」

芙蓉の言葉の意味が判らなかったらしく、麻桜は隣に座っていた京一と顔を見合わせた。

「どうなるって…、芙蓉さん、何を言ってるの?」

「我らの前から、消えたりはなさいませんよね?」

「!」

思わず自分の肩を掴んだ京一の手が震えているのを感じて、麻桜は彼を見上げた。

「何…言って…麻桜が消えたりする訳…」

麻桜は、京一の手に自分の手を重ねた後、息を吐く。

「京一…」

自分を見上げる麻桜の瞳から、京一は視線を逸らした。

「そんな事、ある訳ないじゃない。誰から、何を聞いたのか知らないけど…」

「あんたら、何隠してるんだい?今更、隠し事はなしだぜ」

麻桜の言葉を遮るように、村雨が口を開いた。

「やだな。何を隠すってのよ。そんな事する理由もないじゃない」

「そういう台詞は、人を選んで言うんだな。…言えよ、一体、何を隠してるんだ?」

「だから、何も隠してなんかいないって…」

「いい加減にしろよ!先生も蓬莱寺も、先刻から様子がおかしいじゃないか!」

村雨は、思いきりテーブルを拳で叩いた。

「何時までごまかすつもりだ?」

「いい加減にしろって言いたいのはこっちだ!朝早くから押しかけて来て、訳判らねぇ事

言いやがって…。一体どういうつもりだ!」

京一は、思い通りにならない乾き切った唇から、声を絞り出すように叫んだ。

「麻桜がそんな事はねぇって言ってんだ。何故、それを信じねぇ!?」

立ちあがりかけた京一を、麻桜が止めた。

「京一、落ち着いて。村雨君、あたし達は何も隠してないし、芙蓉さんが心配してるような事もありえない。あたしは、消えたりしないから。まだ、やりたい事残ってるんだし」

麻桜は、笑ってそう答えて、村雨達を見た。

「あくまで、しらを切るつもりかい?…判った…あんたらがそのつもりなら、それでも

いいさ」

村雨は立ちあがった。

「行こうぜ、芙蓉ちゃん。これ以上、ここにいても時間の無駄だ」

芙蓉も立ち上がりかけて、麻桜を見た。

「最後の闘い、我らも参りますので、必ずお呼び下さいましね。緋埜様」

「うん、ありがとう」

2人を見送って、扉が閉じたのを見ていた麻桜は、京一に背後から抱きしめられる。

「ごめん…京一。辛い思いさせちゃって…」

「馬鹿野郎…、こんな時まで、俺の事気にしてんじゃねぇよ。麻桜の方が辛い思いしてんだからよ。あいつらを騙す形になったんだから」

「あたしは、大丈夫…。一人じゃないから」

そう言って笑おうとした麻桜の身体を抱きしめる腕に、京一は力をこめる。

「そう思うなら、消えたり…まして死んだりすんじゃねぇぞ」

そう言う京一の胸にもたれて、麻桜はその鼓動を聞いていた。

「うん…」

「まったく…、水臭いにも程がある。一体、どういうつもりなんだ!あの二人は!

見え透いた嘘をつきやがって!」

「人の事情に、あまり踏み込むものではありませんよ。村雨」

自分の横に停止した黒い外車の窓が開いて、中から聞こえた声に、村雨は顔をしかめる。

「なんだよ、晴明」

「あの二人が、隠し通そうとしている事を暴くのは、お止しなさい。それは、私達が知る

べき事ではないのです。知る権利を持っているのは、他にいるのですから」

「晴明様、あの御二人は大丈夫でしょうか?」

それまで黙っていた芙蓉が、自分の主人にそう尋ねた。

「彼女は、なんと言いました?」

「否定されました」

「ならば、大丈夫でしょう。私達に出来るのは彼女の言葉を信じる事なのですから」

何時ものように扇で隠した口元に笑みを浮かべて、晴明はそう言った。

「そんな事よりも乗りなさい。早くしないと遅刻しますよ。村雨も今日は特別です。

一緒に乗っていくといいでしょう」

その言葉を聞いた二人は、黒塗りの自動車に乗り込んだ。

「なぁ、晴明。先生は本当に大丈夫だよな」

シートに深く座り込んだ村雨が、晴明に尋ねた。

「何の為に、私達がいると思っているのです。彼女を助ける為にいるのですよ。

こんなに彼女にとって、心強い味方はいませんよ。そう思いませんか?」

「へっ、相変わらず自身過剰な所は変わってねぇな。一体、何処からその自信はくるのかねぇ」

「村雨!晴明様に無礼な物言いは許しませんよ!」

芙蓉が、少し怒ったように言った。

「相変わらず、躾も行き届いてるようだな。たいしたもんだぜ」

「褒め言葉と受け取っておきますよ」

晴明が可笑しそうに笑う中、自動車は皇神学園の中に入っていった。

(強運の俺がついてんだから、うまい事立ちまわってくれりゃいいけどよ)

麻桜が、何時までも彼女のままでいられる事を村雨は望んでいた。

「心配要りませんよ。彼女には、何よりも強い護り手がついてますからね」

先程の自分の問いに、答える晴明に少し驚いたように、村雨は彼を見て、

帽子を押し上げながら少し笑った。

「そうだな。心配要らねぇか。太陽は簡単に消えたりしねぇもんな」

彼女を最後まで護る役目を担っているのが、自分でないのが少し癪に障るが、

それは、仕方のない事だと諦めもつく。

出会ってからの時間が違い過ぎるし、何より彼女が選んでしまってるのだから、仕方の

ない事だろう。

「太陽の光は、俺達には眩しすぎるもんな。傍にいられりゃいいか」

彼は、そう言って空に輝いてる太陽を見上げた。

「先生は朧じゃなくて、太陽だもんな」

それを信じて、彼は、やがて来るであろう最後の闘いを勝ち抜く事を誓った。

 

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