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労働者文学会 
労働と生活にねざした文化



 デジタル労働者文学 3号

2026年1月1日 発行
 
目次
   題名  著者
 小説  郵便切手の庭の蟇  首藤 滋
 評論  暗夜行路・妙な底意(作為)について  高見正吾
 講演 『エッセンシャルワーカー』と
労働者文学
 楜沢 健
評論   労働者が次々死んでいる
〜新東京郵便局で起きていること〜
 土田宏樹
 俳句・川柳  第144回はちの会  
評論 鶏飼ひの歌、労働者のいる光景
 ー徳江元雄「歌集 意地悪き鶏」から
 秋沢陽吉
 評論  「戦後」は終わったのか?  稲田恭明
 小説  狸穴U 酒  三上広昭
 小説  日本語教師青木 北山 悠
 編集委員・後記  
 

郵便切手の庭の蟇

首藤 滋

 五燭灯の暗い寝室で、枕元の目覚まし時計の音をとめて、布団から出て南側の障子に向かう。障子をあけ、黒のアルミ枠だが少し重いガラス戸を開け、アルミの雨戸をガラガラと戸袋にしまった。六畳間が明るくなる。朝の八時、亀井康介はいつものようにしばし庭の木々を眺める。
 
目の前のジャスミンの雑然と交差を繰り返す幹、向かいの塀に近く左に三メートルに伸びた槿の緑、二メートル半の山茶花のつやのある葉、根元から細く三本の枝がひょろりと伸びた百日紅、そして右翼に二メートル余のヤツデ。新緑がでると、こうして雑然と植えられた木を、康介の眼がしばらくぼんやりと追う。
 
東京の東のはずれの雑然とした街を三回引っ越したが、建売のこの物件が出たのをみて、二〇〇一年に買い替えてもう二十年になる。最寄りの京成電鉄の駅まで徒歩十二分が七分になった。妻の啓子も康介も十代はじめに父を失い、母子家庭で育った。家族で住む家がない、という事態が二人の強い強迫観念を形成していた。啓子は、会社勤めの職業訓練をもとに、英文パソコン入力の技術を手にして、自宅で特殊な文書作成の請負仕事をしていた。夕方仕事が出ると受け取りに行き、深夜までに完成して翌朝届けた。還暦で引退した。康介は六五歳で会社を定年退職し、今年で十年になる。庭の木々と草花はほぼすべて、啓子がかつて一株ずつ植えていったものだ。

庭の幅は六メート弱、奥行きは三メートル半程度。塀として腹の高さの大谷石の塀上にこげ茶色のアルミフェンスが乗っている。塀の向こうは真南に東西に長く立つ三階建てマンションの敷地だ。木枝と葉の緑が目隠しになっているように思える。英国人の同僚に「猫の額のような庭」、とそのまま表現したら、かれは英国では「郵便切手のような」という言い方をするのだ、と教えてくれた。
 その朝はしかし康介の目の前になにか色濃い変わった塊りがあるのに気がついた。む、と言ったかどうか。康介はその塊りが蛙であることに気づいた。その背のこげ茶色の色合いと恰好から(ひき)蛙らしいとわかる。拳よりひとまわり大きいようだ。その蟇はまっすぐ康介を見ている。そう見えた。三分ほどは見ていたに違いない。腹を動かすこともなく、蟇はまったく動かない。雨戸の前は奥行き一メートル弱の茶色の石板の三和土になっていて、その外側の土面からの高さは十センチほどだ。蟇がいるのは、土から這い上がってすぐ座ったような位置だ。
 どこから出てきたのだろうか。そもそもこの狭い庭のどこに彼は住んでいたのか。この家に入って二〇年になるのに、それまで見たことがない。考えるのをやめて、康介はともかく洗面所で顔を洗い、髭を剃り歯を磨き、部屋に戻る。その蟇の姿はなかった。
 
どこへ移動したのか。康介は地面をあちこち眺めた。映画『赤目四十八瀧心中未遂』で、空き地に大きな土管が立てられて中に蟇蛙がいる。出口のない場所に置かれたような登場人物たちの象徴として描かれたのだが、ついにはこの蟇は白い腹をみせてそこで命果てるのだ。蟇を土管に投げ入れた者の酷薄、その残酷な違和感がいつまでも康介の瞼に焼きついていた。庭でそれらしく見えるものは、木の根だったり、土の色が少し変わったものであったり。康介は自分の臆病さに半ばあきれつつ蟇の背か腹かを探したのだ。蟇はそれっきり消えてしまったのである。
 それから二、三週間たったある日、庭に出て木々の伸びた枝葉をはらっていた。すると、山茶花に葉といい、枝といい、体長二センチ余りの帯状の虫がびっしりついていた。チャドクガの幼虫のようだ。針毛に刺されたら痛いらしい。山茶花の固く光る緑の葉が康介は好きだった。花よりも印象に残る。康介は高圧ガスボンベの園芸用殺虫剤をもってきて、シュッシューと噴いた。茶色の虫は噴かれて四、五秒で白い腹を見せてのたうち回り、地面に落ちていく。小気味よいくらいだ。ふと下におちた虫を眺めて、康介はびっくりした。あの蟇が出たのだ。自分のほんのつま先近くにいて、落ちた虫を次から次へとぱくぱく食べている。殺虫剤がたっぷりかかった虫を食べて、腹をこわしやしないか。心配したが、少なくともいま見るところ、その気配はない。そうか君は生きていたのか。康介はほっとして嬉しくなり、山茶花にとりついて、この枝あの葉と丹念に追って、虫を落とした。蟇はそれらを追って次々と平らげる。そのうち、蟇がその一匹だけではなく、もう二匹が近くにいて寄ってきていることがわかった。彼が一番大きく、もう一匹は少し痩せて背は緑がかっている。三番目のは、さらに小柄でまるで両親と子供のように見えた。
 すっかりチャドクガを平らげた三匹は、塀の下に寄ったり、あちこちをのっそりと歩き回ったりしている。見るのにあきた康介は、三和土から縁に上がった。そうか、三匹もいたのか。しかしいつもはこの狭い庭のどこをねぐらとしているのか。あの後から現れた二匹は、どうも南側の塀にそってきたようだ。
 東南の隅に薄く光がさしている。長らく気づかなかったが、東隣と南の境界になるところにコンクリートの境界杭が打ってある。朱色のT字の溝がしるしだ。そこから高さ十センチほどの空間がある。そうか、彼らはお隣からここを抜けて来たのか。
 東隣りの家の南側、康介の家の庭にあたる部分は、大部分が木製のデッキになっている。高さ三〇センチほどだが、その下は土だ。隣家の夫婦は共働きで、その子供たちを含め、デッキに出ている姿を見たことがない。雨風に打たれるままになっている。それでも傷んだ様子がないのは合成樹脂製か防腐加工が良いせいか。蛙が必要とする水をどう手に入れるのか。まあ、いつも湿ったようになっているデッキ下であれば問題ないであろう。康介はだいぶん安心した。
 図鑑で見た。初めに見た蟇はあきらかにメスだった。痩せて小柄なのがオスなのだ。
 二〇〇三年の夏、それまで八三歳の文子は同居する娘、康介の次姉・美子の介護をうけつつ、江戸川区小岩の家に住んでいた。康介・啓子夫婦と二人の子供たちが、そこから葛飾区の建売住宅に移ったのはその二十年ほど前のことだった。遠方を避けた結果だ。自転車で二〇分ほどのところだ。何かの用事があれば自転車で行くが、康介の脚は二十年の間に次第に遠のいて、文子の面倒はもっぱら美子に委ねられていた。美子は駅近くに小さな洋装の小売店を経営しているので、日中は文子一人となる。趣味で通っていたパチンコ店への足も、杖をつくようになってから遠のいたらしい。
 
康介の父が癌で死んでからの文子は呉服の行商をしたが、呉服はすでに斜陽産業であり、商売は縮小の一途をたどった。再婚の話もあったが、そのとき美子と康介は反対したのである。長姉は他家に嫁いでいた。康介はこの時代のことを想うたび、暗い想いが勝る。しかし、そういう時代でもあったのだ、と言い聞かせる自分もいた。「オリ」の内職があった。家にドサッと大判の新聞広告が届けられる。数枚をまとめて折ってから樹脂製の櫛の背などでぎゅっとしごく。折り目がついたら、それを一枚ずつ捌いてまた折る。要するに新聞に折り込める大きさにして、晩遅くまたは翌朝引き取りに来る業者を待つのである。後日、労働組合でビラや新聞や資料を折るとき、康介は決まってオリの内職を想い出し、少しの不快感と少しの懐かしさを感じた。次姉が洋装店を経営し始め、康介が就職するまで、限られた父の遺産と呉服の商売で食いつなぐのは、苦労が多かったろうと思うが、文子が美子や陽介にその苦労話をすることはなかった。
 その夏、近所の医院が夏休みで休院するというので、勧められて文子は区内の病院に入院することになった。見舞いに行った康介は、苦しそうに食べ物を吐き、時に意識が朦朧とする母を見た。いろんな検査があったが、極めつけは、癌を疑った食道から採った試片が「壊死している」、という報告だった。一時的入院のはずが、そのまま長期入院となった。
 美子が康介にこう言った。「あそこにちょっと荷物がおいてあるでしょ。ポリ袋に入れたものがあったの。母さんがね、ジィーッとその袋を見ているの。あたし、急いで袋を戸棚にしまったの」 康介はポリエチレンのレジ袋をかぶる文子を想像して、少し身震いした。
 入院してひと月ほど経ったころ、病院が「胃瘻(いろう)」を勧めた。嚥下が困難な患者の腹部に管を接合できる接合部をつけ、管を通して胃に直接栄養物を入れる、というのだ。胃以下の消化器系統は生きつづける。美子と康介はしばらく顔を見合わせた。結論は胃瘻をしないということだった。そのことによって死期が早まったであろうことは明らかだろう。
 のちに康介は人に紹介されて『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(石飛幸三著 講談社二〇一一年)を読んだ。最期をどのように迎えるか、あの胃瘻拒否の判断は長く康介の心によどんだわだかまりを残したが、この本によって少し救われたような気がした。
 息を引き取るまでの一一か月間、いろんなことがあった。ある程度症状が安定したその間、埼玉県に嫁いでいる長姉、小岩に住む次姉、そして康介が週二日ずつ、妻・啓子が一日、母を見舞うという七日間のローテイションを組んだ。康介は会社が休みの土・日とした。母は日に数回点滴につながれる。おむつの下の世話は看護師さんがやってくれる。
 入院まで毎日飲んでいた日本酒もヘビースモーカーのたばこも、ないことが苦になるようにみえないのが少し意外だった。康介が会社勤めを始めた一九六八年、東海道新幹線に禁煙車両は一台しかなかった、と記憶する。チェインスモーカーの文子は、相当な量の副流煙を家族に撒いていたはずだ。「口で喫うだけで、肺に吸い込まないから大丈夫」が母の口癖だった。康介も姉たちも喫煙の習慣を持たなかった。
 ある日、文子は大きないびきをかきながら眠っていた。二時間すぎてもいびきで眠りっぱなしの文子に声をかけて妨げるのもどうかと、康介は帰宅の途に就いた。翌日行くと目覚めていて「なんで声をかけてくれなかった」とうらみがましく言った。
 またある日、康介が「よくなって家に帰れるといいね」と言うと、文子はしばらく黙ったあと「帰ってもひとりで、だれもいねぇからなあ」と、生まれ育った故郷のなまりで言った。今は毎日四人が代わる代わる面会に来てくれる。顔を合わせることができる。話もできる。孫の消息も聞ける。しかし、小岩の家では、相手になるのはテレビだけで、長姉と康介の二人はごくたまに来るだけ、同居の美子も日中は店に出たり、都心に仕入れに出たりで、母は孤独をかこっていたのだ。
 ある日病室に入った康介は、文子が拘束衣に縛られて仰向けになっているのをみて、愕然とした。無意識に点滴を外してしまうから、というのだった。両腕以下ががっちり拘束されて横たわる母ほど痛ましく感じたことはなかった。母は一言も不平を言わなかった。眠りについた母をみて、康介は涙した。どのようにしてか、数週間ののち、拘束衣ははずされた。
 足がしびれる、さすってくれないか、と言われてさすってあげることもあった。小柄な文子の脚は骨にかろうじて筋肉があったが細く柔らかく、歩行は不可能だったろう。初めて母の手足の爪を切ることもあった。しかし十か月がすぎたころ、母の反応は確実に弱った。ある午後、ベッドの文子の眼が窓の外をじっと見ていた。三階の病室の窓のさきに、わずかに一本の松のてっぺんがベッドから見え、風に揺らいでいた。「あの樹がみえるんだね」と聞くと「うん」と低い声で答えた。母は風を追っていたのだ。それから数日後の深夜、母はひとりで息を引き取り、康介たちが呼ばれた。
 ここひと月の間、康介がそれとなく感じていたことが、一つの画になろうとしているのを感じた。これを聞いたひとは、荒唐無稽と笑うだろう。あの蟇は康介の母・文子の化身ではなかったか、ということだ。
 三和土にすわる蟇を見たのは、あとで振り返るに五月二〇日、それは文子の誕生日だった。この年は文子の十七回忌にあたっていたが、法要は新型コロナ禍のなかで見合わせていた。三すくみで懐かしい映画『忍術児雷也』で児雷也が乗る蟇は煙か息か白いものを吐いていた。文子はいつも紫煙をくゆらせていた。そうか、あれは母の化身だったのだ。いや紫煙をくゆらせていたのは綱手姫のほうだったか。それに、じっと康介を見ているようだったのは、ガラッとあけた雨戸にびっくりして身を固め、自分を守ろうとしたのだろう。もともとは、縁に潜む蚊を狙って三和土にあがってきていたのかもしれない。それになんでも化身が蟇では可哀そうだろう、上野の博物館でラグーザの「日本の婦人像」に文子の面影をみた康介としては。
 
三匹の蟇はそれから姿を見せたことはない。殺虫剤にやられたのかもしれない。隣家とのあの隙間も土がたまって、蛙の往還には狭くなっている。いや、今度庭に出たときは、スコップであの隙間を拡げてみよう。康介は啓子に蟇の話はしたが、化身の話はしなかった。呆れられるだけだから。

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『エッセンシャルワーカー』と労働者文学

楜沢健
 

労働者文学賞2025記念講演会

「『エッセンシャルワーカー』と労働者文学」

楜沢健(文芸評論家)

2025年831日 15
文京区・涵徳亭 別間

【「エッセンシャルワーカー」というカタカナ語について】
 今回の受賞作と佳作は、いずれも、いわゆる「エッセンシャルワーカー」と 呼ばれる労働者と労働現場が共通して取り上げられていました。芹田さんの「看護助手」は、病院の看護師を補助(ケア)するヘルパー二級取得の看護助手、中沢さんの「にぎやかな水」は水道料金徴収を市役所から委託されたアウトソーシングの民間会社に雇われた「凖社員」、隆延さんの「おめさん、出世するよ」が同じくヘルパー二級の資格を取得してデイサービスで働く非常勤職員、というように、それぞれ引きこもりや失業や廃業な ど様々な理由で食い詰め、露頭に迷い、「エッセンシャルワーカー」へと流れ着いた六〇歳前後の中年から老年の人たちが描かれています。
「エッセンシャルワーカー」というカタカナ語については、昨年も受賞作に関連して少しばかり触れましたが、コロナ禍をきっかけに突如出現した、それ以前には使われていなかった新しい言葉でした。「ケア階級」「キーワーカー」という名称も、同時に使われ、頻繁に目にするようになりました。
 最初にこの言葉をみたとき、シャンプーか化粧品の名前、商品名かと思いました。エッセンシャルオイル、エッセンシャルシャンプー……。商品の宣伝か広告コピーのような名前の付け方と共通のものを感じます。イギリス発の用語ですが、コロナ禍でにわかに使われるようになった新語のようです。それ以前には使われていなかった、誰の口にも上らなかった言葉が、突如として連呼されるようになった。
 たとえば、共同通信の「〈用語解説〉2020年」に、「エッセンシャルワーカー」の解説が載っていて、こう書かれています。

 〈日常生活を送るために必要不可欠な仕事に従事する人を指す。「エッセンシャル(本質的な、不可欠な)」と「ワーカー(労働者)」を組み合わせた言葉で、感謝や尊敬の念を込め、欧米から広まった。医療や介護、電気・ガス・水道などのインフラ、公共交通、清掃、農業、生活必需品の小売り・販売など多岐にわたる。新型コロナウイルスの感染拡大により外出が禁止、自粛される中で、社会機能維持のため仕事を続ける人々に各国で注目が集まった。〉*棒線引用者

「社会機能維持」のために、感染のリスクや危険があろうと、誰かにやってもらわなくてはならない、本質的で重大な労働、という定義になるでしょうか。「医療や介護、電気・ガス・水道などのインフラ、公共交通、清掃、農業、生活必需品の小売り・販売」とありますが、要するに新自由主義政策で多くが民営化され、切り捨てられてきた、主として「公共」にかかわる低賃金で使い捨てにされる労働・労働者を包摂する用語といえるかと思います。
 今回の労働文学賞の三作品にも描かれていましたが、どれも労働条件が悪く、不安定な非正規雇用で、給料は低く、それゆえ若い人は定着せず、生活に困窮する高齢者が採用される、そんな労働であり労働者にかかわる言葉です。傍線部の「感謝と尊敬を込め」という箇所が、何より欺瞞に満ちていて、うさんくさいですね。これまで切り捨てられ、軽視されてきた労働と労働者を、コロナ禍でにわかに「感謝と尊敬を込め」て「エッセンシャルワーカー」などと持ち上げてみせた、ということですから。つまり、自分では絶対にやらない危険な労働に従事する人たちを、「社会機能維持のため仕事を続ける人々」と持ち上げ、ある意味、都合のいい生贄となって仕事に従事することを半ば強制するニュアンスが込められている。そのための都合のいい本音が、「エッセンシャルワーカー」という、にわか用語には透けて見えますね。
「感謝と尊敬」は、当時、実際に医療従事者にみなで拍手を送ったりと、目に見える形でイベント化されていました。たとえば「現代用語の基礎知識2021」に「激励と祈り」と題して次のようなコロナ禍の世相が掲載されています。

〈巷間では「コロナに負けるな」などのフレーズが流行。社会を鼓舞・応援する動きも盛んになった。応援の対象となったのが、医療従事者やエッセンシャルワーカー(社会機能を維持する仕事の従事者)の人たち。金曜正午に彼らへの感謝を込めた拍手を一斉に行うフライデーオベーションは世界的流行となった。また2020年5月29日には航空自衛隊のアクロバット飛行チームブルーインパルスが東京上空を飛行。やはり彼らへの感謝の意思を示した。 〉

 まるで戦時中の出征や特攻隊を見送るバンザイ三唱の光景と瓜二つですね。社会にとって都合のいい存在であらせよう、強制的に働かせよう、そこから逃げ出せないようにしよう、という悪意のようなものが、このカタカナ用語からは透けて見えてしまう。
 実際、逃げ出せないよう、イギリスでは二〇二三年に、スナク政権が公共機関、つまり「エッセンシャルワーカー」をターゲットに「最低サービス水準法」という反ストライキ法を議会に提出しています。コロナ禍の危機を経て、新自由主義政策を見直し、民営化の傷跡を改善するどころか、このままの現状に彼らを鎖でつないでしまえというわけです。
「感謝と尊敬」など、どこ吹く風でしょう。呆れてしまいます。「エッセンシャルワーカー」という広告コピー的なくくりのボロがどんどん明らかになっているのが現状ではないでしょうか。今回の受賞作を読めば、それは明らかです。

【葛藤・懺悔・贖罪】

「軍隊」を聖なるものとして持ち上げるのが危険なことであるのと同様、社会機能を維持するうえで不可欠だからといって、たとえば近代的な管理と支配と生権力のシステムである「病院」を都合よく聖なるものとして持ち上げるのは、とても危険なことです。「エッセンシャルワーカー」は、そうした管理と支配と生権力のシステムに深く関係している労働と労働者ですから、当然のことながら権力を与えられ、いわば人の生殺与奪の権を握る管理の問題に直面させられる人たちでもあります。三作品で描かれているのも、社会機能を維持するうえで不可欠の労働者であるにもかかわらず、低賃金で不安定な立場に置かれているというだけでなく、そうであるにもかかわらず、人を管理し、服従させ、権力を行使し、なおかつその責任を負わなければならない、そういう理不尽な状況に置かれた人たちの不安であり、葛藤です。
「看護助手」には、そうしたケア労働の在り方をめぐる葛藤と不安、患者に対する贖罪感というものが、とても強く出ていると思います。作者の芹田さんは「受賞のことば」で「懺悔の気持ち」をこうつづっています。

〈今、何故これを書いたのかと、もし問われたら、歌謡曲の文句ではないのですが、心の底のどこかに懺悔の気持ちがあったから、と答えるかもしれません。(中略)多くの人たちが病気や老いや死に直面して苦しむ姿を見ているうちに、次第に心が麻痺してくるのを感じていました。病院の都合で不都合を押し付けられる患者さんの立場に立つことなく、犬に追われる羊のように業務をこなすことだけを考えている人間になってしまいました。 〉

 こうした葛藤と贖罪感に苛まれながら、ただひたすら「病院の都合」に従い、心を麻痺させてやり過ごすしかないような労働に直面させられている人たちにとって、「エッセンシャルワーカー」などというあざとい持ち上げやヨイショなど、ご都合主義な「上から目線」の鼻白むものでしかないだろうという気がします。
「看護助手」では、患者の身体拘束の是非をめぐる問題が描かれています。寝たきりの老人、点滴や胃ろうチューブを引き抜かないように拘束された患者たちの「不幸であり、苦痛でもあるはずのものをやすやすと受け入れている」姿を目の当たりにして、主人公の看護助手はいたたまれない気持ちに襲われます。同時に、患者の生殺与奪の権を握っている不安と葛藤、贖罪感に直面せざるをえない。
 夜勤の看護師たちもまた同じく葛藤と贖罪感を抱えていますね。職員の狭い休憩室の壁に残された、無数の蹴ったり、こすったりした傷跡が、そのことを伝えています。「年端のいかない子供たちが書き残した、ただただ滅茶苦茶としか言いようのない落書きのような」傷跡と書かれていますが、職員たちの心の奥底にある不安や葛藤が壁そのものに染み出ているような描写で、とても印象に残ります。

【河林満「渇水」から35年後の世界】

 他方、「にぎやかな水」では、主人公はすでに料金滞納者の水道を停める権限を行使して、水道が使えないまま生きている老人の生活を目の当たりにします。「看護助手」は文字通り「看護師」ではなく、さらにそれを補佐(ケア)する「助手」というポジションでしたが、「にぎやかな水」も「準社員」ですね。「三下のくせに」という蔑視を、滞納者から投げつけられる場面がありますが、こうした末端にいる人たちが現場で、見下され、差別される一方で人を管理し、その生殺与奪の権を握る前面に立たされるわけです。ここに登場する正規採用の公務員や社員は、「準社員」にそうした管理の権限、生殺与奪の権の行使を委ねることで、みずからは贖罪感や葛藤をまるごと抱えることなく、逃げるとまではいえないが、軽くすることができるわけです。準社員とはそのために存在する「三下」身分だというのが、ここで描かれていることではないでしょうか。
「にぎやかな水」を読んですぐに思い出すのは、河林満「渇水」(一九九〇年)です。 三五年前のバブルのころに書かれた、同じく水道料金滞納者の家庭を巡回する徴収員の視点から、浮かれた世相の死角をみごとに突く作品として、当時たいへん話題になりました。「にぎやかな水」における民間会社の「準社員」などまだ(ぎりぎり)存在しない時代ですから、主人公は公務員です。しかも徴収の業務は一人ではなく、二人体制。分散されるというか、共同で責任を負います。だから、同じ業務でも、倫理的な葛藤の抱え方が両作品ではまるでちがう。そこが三五年という時間を感じさせるところでしょうか。アウトソーシングの「準社員」が、「渇水」の公務員と同じような葛藤と責任を一人で背負わされているわけで、そんなのあまりにも不条理でバカバカしくてやっていられない、というなげやりな感じが、「渇水」とは違う状況のもとで、「にぎやかな水」にはよく出ていると思います。

【「生活習慣病」と「労働環境病」】

 カタカナではありませんが、「エッセンシャルワーカー」と同じような言い換え、すり換えに「生活習慣病」という言葉があります。この言葉がはじめて使われるようになったのは一九九五年だそうです。細川勝紀『労働環境病の提唱―「生活習慣病」批判』(二〇一九年)を読んではじめて知りました。それ以前によく使われていたのが「成人病」で、これも問題含みの名称なんですが、厚生省(当時)から説明を受けてはじめて聞いた「生活 習慣病」には、それ以上の違和感をおぼえたと、細川さんは書いています。
 それまでほとんどの病気疾患は、公衆衛生と環境の影響で発生するという概念が、医者はおろか社会でも広く共有されていた。結核などの労災や、水俣病やぜん息など公害の問題を考えれば、当然です。しかし「生活習慣病」は、そういう社会環境要因を無視して、病気はすべてあなた個人の責任であるという新自由主義の考え方が強く反映された病名に言い換えられたということです。細川さんは、この病名のおかげで一番得をして、楽になったのは医者だと批判しています。病気と労働環境の関連を調べ、企業や国を告発し、人々の健康を守ることが医者と公衆衛生の責務であったはずなのに、その必要がなくなり、病気になったらあなたの生活習慣に原因があると言えばすむようになってしまった。医者が労働者のために企業や国と戦わなくてもよくなった。要するに、この言葉のおかげで、それまで医者が抱えていたはずの葛藤や悩みから解放されたというわけです。
 細川さんは、それに代わって「労働環境病」という名称の必要性を提起しているのですが、そもそも「生活習慣病」などと誰が考え、提案したものか、言葉のくくりの政治は、怖ろしいものだと、あらためて思い知らされます。「エッセンシャルワーカー」という言葉で、得をし、楽になり、葛藤から解放されたのは誰なのか。看護師や介護士、水道などのインフラ、清掃、小売りなどにかかわる労働者では、けっしてないですよね。そういうことを考える必要がありますね。

【コロナ禍とカタカナ語の氾濫】

「エッセンシャルワーカー」同様、数々の怪しげなカタカナ用語がコロナ禍でつくり出され、氾濫したことは、まだまだ記憶に新しいと思います。「ステイホーム」「オーバーシュ―ト」「ソーシャルディスタンス」「スーパースプレッダー」などなど、どれも怪しげで実体の伴わない、翻訳不能、そもそもなぜカタカナである必要があるのか腑に落ちないものばかりでした。「ステイホーム」を直訳すれば「家に居ろ」「家に居よう」「外に出るな」になるでしょうか。暗黙の要請や命令のニュアンスをともなうスローガンですから、カタカナにすれば、そのニュアンスを隠したり、あいまいにしたり、やわらげたりすることができる。要するに、ごまかすことができる。すくなくともそういう効果はある。
 コロナとは何であったのか、いまだに判然としないままですが、怪しげなカタカナの氾濫に、その嘘くささが暗示されていたように思います。カタカナでごまかし、煙に巻くのでなければ透けてしまうような怪しい陰謀や利権がきっと背後に隠れているのでしょう。
 おそらく電通をはじめ広告会社が裏で絡んでいるでしょうが、こういう状況や本質を煙に巻くカタカナ用語の操作とすり込みの巧みさには、ほとほと感心してしまいます。
「エッセンシャルワーカー」をネットで検索すると、トップには人材派遣会社や、採用のためのアドバイスをするコンサルタント会社のサイトが出てくるんですが、人が集まらない職種にいかに人を集めるか、そのためのノウハウをいろいろ伝授している。「エッセンシャルワーカー」という言葉の解説と啓蒙、さらに普及という目的も、そのひとつです。業界と労働のイメージアップを画策しているのだと思います。ネオリベ的な広告宣伝、それは体制と市場の要請でしょうし、「SDGs(エス・ディー・ジーズ)」などのカタカナ用語を使うことで株価もアップする。「生活習慣病」と同様、「エッセンシャルワーカー」というカタカナの言い換えによって得をして、楽ができて、儲けて、笑いがとまらない人間や業界や資本家がいるということです。「リスキリング」しかり、「ダイバーシティ」しかり、「デロゲーション」しかりです。

【九段理江「東京都同情塔」からの問いかけ】

 こうした広告的カタカナ語の気持ち悪さに目を向けたのが、昨年芥川賞を受賞した九段理江「東京都同情塔」(二〇二四年)という作品でした。PC的な反差別が過剰に行きわたった、二〇二一年東京五輪後の架空の東京が舞台です。そこでは「刑務所」は差別表現だというので、新しく建設する刑務所を有識者会議は「シンパシータワートーキョー」と名づけます。ところが設計を担当した建築家の牧名は、「リゾートホテルみたいな語感」の、そのカタカナ語が受け入れられない。素直に口から出てこない。そのカタカナ語が体の中に入ってくることが許せない、「レイプされている気分」だと感じます。だから同時通訳的に「東京都同情塔」と言い換えます、それがタイトルの由来であり、物語のはじまりになっています。同じく、「犯罪者」は「ホモ・ミゼラビリス」、すなわち「同情されるべき人々」と再定義されます。こんな興味深い一節が出てきます。

〈けれど、頭に浮かんでくるのは依然言葉だけだった。仕方なく、脳内のゴミを掃き出すように文字を書き出していく。浮浪者=ホームレス。育児放棄=ネグレクト。菜食主義者=ヴィーガン。少数者=マイノリティ。性的少数者=セクシャル・マイノリティ。自分の手から書かれたとは信じたくないような文字に、辟易する。(中略)私はカタカナをデザインした人間とは酒が飲めない。美しさもプライドも感じられない味気のない直線である以上に中身はスカスカで、そのくせどんな国の言葉も包摂しますという厚顔でありながら、どこか一本抜いたらたちまちただの棒切れと化す構造物に愛着など持てるわけがない。生理的嫌悪感がどうやっても私のカタカナを歪ませる。(略)  母子家庭の母親=シングルマザー。配偶者=パートナー。第三の性=ノンバイナリー。外国人労働者=フォーリンワーカ―ズ。障碍者=ディファレントリー・エイブルド。複数性愛=ポリアモリー。犯罪者=ホモ・ミゼラビリス。……ずさんなプレハブ小屋みたいなその文字たちを、冷やしたミネラルウォーターに浮かべて口の中で転がしてみる。
 外来語由来の言葉への言い換えは、単純に発音のしやすさ省略が理由の場合もあれば、不平等感や差別的表現を回避する目的の場合もあり、それから、語感がマイルドで婉曲になり、角がたちづらいからという、感覚レベルの話もあるだろう。迷ったときはひとまず外国語を借りてくる。すると、不思議なほど丸くおさまるケースは多い。〉

 複雑な歴史や背景のある言葉を、言い換え、すり換え、曖昧にし、角がとれた不思議なカタカナ語で組み立て、構築する世界に、われわれは生きています。すぐにボロが出て、メッキがはげ落ちるほどに、中身はスカスカ。でも、そのカタカナ語の論理でしか、世界を見ることができなくなりつつある。日々、死角や盲点がどんどん拡がりつづけている。それは検証や議論を寄せ付けず、論理抜きで感情に訴えようとしてくるたぐいのものといえます。
 現実は、重大なことは、その言葉の外で起きている。それを見せないための、見ないようにするための、考えることを放棄させるための、ボロに塗りたくったメッキでしょうか。広告コピーやスローガンやポエムと本質的に何も変わらない。外来語由来の言葉への言い換えを次々と生み出して、何を混乱させ、何を覆い隠そうとしているのか、というのがこの作品の重要な問いかけになっています。
 さすがに「エッセンシャルワーカー小説」というくくりは巷では見かけませんが、「お仕事小説」というくくりはかなり広がっているようです。「お」が付くところからして、「エッセンシャルワーカー」と同じあざとい持ち上げのにおいがします。なめられている感じがします。派遣業界と電通と厚生労働省がバックで暗躍していそうで、渡部直己の「電通文学」という批判的くくりを思い出してしまいます。
「労働者文学」というくくりを、「エッセンシャルワーカー」というくくりを異化する反「電通文学」、反「お仕事小説」の文脈で鍛え、練り上げていくことが大切ではないでしょうか。

 【広告と川柳の関係、並びに「反語」について】

  そのためには、いつだってプロレタリア文学の遺産に立ち返る必要がある。同じカタカナ語ですが、「エッセンシャルワーカー」には「プロレタリアート」で、カタカナにはカタカナで対抗したいものです。
 文学がいまある現実と体制を保守するための広告コピーやスローガンやポエムでしかない、という問題を考えるとき、忘れてはならないのが、当時、同じ問題に向き合っていたプロレタリア川柳の試みと実践です。
 今日、結社をはじめ「新聞川柳」「シルバー川柳」「サラリーマン川柳」(現在は「マン」を外して「サラっと一句!わたしの川柳コンクール」)など、川柳人気のすそ野は広いのですが、やはり中心は企業や行政主体の広告コピー的な川柳、いわゆる「冠川柳」ですね。第一生命主催の「サラリーマン川柳」が「お仕事小説」の川柳版のようなもので、同じく派遣業界協賛の「バイト川柳」「転職川柳」のようなものから、「牛丼川柳」「毛髪川柳」「育児川柳」「トイレ川柳」「クリーニング川柳」「ペット川柳」など、業界のイメージアップを狙ったとおぼしき広告コピーと瓜二つのようなものまで、川柳とはそもそもコピーのことだったのか、と首を傾げざるをえなくなるものばかりというのが現状です。
「エッセンシャルワーカー」でいえば、「介護職川柳」というのがあります。「ケアきょう」という介護職のためのサイトが主催(エステー化学協賛)で、たとえば次のようなものが掲載されています。(https://carekyo.com/event/list/18343/

 「マスク越し 面会家族 間違える」
「コロナ明け 面会自由 いい笑顔」
「イイネより 夜勤に欲しい いい眠り」

 現場の介護職員、被介護者をいたわる内容ですが、反語的要素はほぼ皆無、あるある的な小さな共感と笑いがある、と誉めようにも、いたわりと気配りが前面に出すぎて、かえって気の毒に感じ、笑うに笑えなくなる作品が多いという印象をもちます。反語や皮肉より共感が先に立ち、それを求める表現なので、広告や宣伝と馬が合う、というか、コピーそのものにしかならない。要するに、まあまあ、できの悪くないコピーといったところでしょうか。
「サラリーマン川柳」だと、こうなります。

「チェックする今日の株価とオオタニさん」
「面くらうコメの高値に麺くらう」
「コメ不足やっと見つけてひとめぼれ」

 
 ここでも、コピーにすぎないものが川柳の顔をして、当たり障りのない現状追認、体制順応を呼びかける宣伝や広告になりはてている印象です。電通川柳ですね。『東京都同情塔』にあった、カタカナ語への言い換えに対する違和感の説明に倣うなら、「いかにも世の中人々の平均的な望みを集約させた、かつ批判を最小限に留める模範的回答。平和。平等。尊厳。共感。共生。」といったところでしょうか。これでは高値のコメを食わされる現状を、仕方のない、自然なこととして受け入れるだけの、恭順な奴隷的ポエムに過ぎません。
 川柳の特徴である「反語」や「皮肉」、現実や出来事の本質を的確にとらえる「穿ち」の要素は、病院や介護施設など「病」や「老い」の現実を前にすると、失礼だ、無礼だ、不謹慎だ、と猛烈な批判を浴びることになるので、萎縮しがちです。「エッセンシャルワーカー」「お仕事」という言葉のように、批判を最小限に留める、あざとい持ち上げの言い方が流通しがちになるのも、わからないでもない。
 一九九七年に月刊「オール川柳」の掲載された次の川柳が話題になったことがあります。(「(井之川巨『君は反戦詩を知っているか』)

「老人は死んで下さい国のため」

  これは川柳ですから反語です。文字通りに老人に死んでくれ、と宣言しているわけではなく、国の医療、介護、福祉の政策と現状は、まるで老人に税金の無駄ですからさっさと死んでくれ、と公言しているに等しい、そのような権力と体制に対する批判を、反語的に訴えているわけです。ところが、川柳とは反語が命であるにもかかわらず、その反語を理解できずに、「病人や弱者を差別するのはけしからん」「老人差別だ」「どうせ若者が書いたのだろう」というような抗議の投書が、編集部にたくさん寄せられたそうです。よく考えてみてください。これを老人や介護士や看護師をいたわるあまり「老人はいつまでも若く国のため」などと詠んでしまったら、老人はおろか看護師、介護士を「エッセンシャルワーカー」ともちあげる、あざとい広告川柳、電通川柳と同じになってしまいます。
 この川柳の作者である宮内可静さんは、元特攻隊員だったそうです。かつて青年のとき「国ために死ね」、と宣告され、かろうじて生き延びて老年を迎えたら、再び「国のために死ね」と宣告されるような現実に直面している。何とも、重く、深い川柳だと、感心してしまいます。この、ひたすら権力と体制にむかう批判の重さ、深さは「反語」なしに描くことは難しいのではないでしょうか。

 【「エッセンシャルワーカー」には「プロレタリアート」を】

  プロレタリア川柳もまた、川柳の本質として、こうした「反語」に焦点をあて、それを尖鋭化させることに賭けた川柳革新運動だったといえます。プロレタリア川柳は一九二〇年代の新興川柳から生まれたんですが、大正期のモダニズム、大衆消費社会の勃興とともに台頭していたのが、今日と同じ、広告コピーやコピーライターの存在でした。大正期を代表する川柳人のひとりである「番傘」を主宰した岸本水府は、創成期の高名なコピーライターで、大阪を拠点に、福助、寿屋、グリコで活躍していました。反語よりも物語性を重視する「抒情川柳」を掲げ「電柱は都へつづくなつかしさ」「カステラの紙も教えて子を育て」「新家庭下女を省いて瓦斯にする」などの句で知られています。広告と川柳のつながり、密接な影響関係は、このあたりからはじまるといえるでしょう。そういう状況の中から新たな川柳革新運動として新興川柳運動が生まれ、そこからさらにプロレタリア川柳が枝分かれしていったわけです。

 餓死に近代医学無為無能
(井上剣花坊)
 水道の栓の中から社会主義
(森田一二)
 目かくしとマスクを皆んな強いられる          
(森田一二)
 屍のいないニュース映画で勇ましい
(鶴彬)
 修身にない孝行で淫売婦  
(鶴彬)
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
(鶴彬)

「老人は死んでください国のため」と同様、尖鋭な「反語」の効いた、広告やスローガンのメッキで固めたエセの現実を見事にひっくり返し、異化する重く、深い川柳だなあと、感心します。一〇〇年前の川柳とは思えないものばかりで、批判すべき、異化すべき嘆かわしい現実は、今も変わっていないということでしょうか。こうした尖鋭な「反語」を許さない権力と体制、ならびに、そうした尖鋭な「反語」の享受と理解を許さない広告的現実とに包囲されて、プロレタリア川柳は未曾有の弾圧にさらされることになるのです。
「プロレタリア」同様、「労働者」という言葉は、いまなお批判用語として有効であり、死んでいない。「エッセンシャルワーカー」「お仕事」といった広告的な現状聖化によるあざとい持ち上げ搾取に対抗して、あらためて「労働者文学」をいま現在のただなかで再定義し、位置づけ直すことが必要かと思います。

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労働者が次々死んでいる
〜新東京郵便局で起きていること〜


土田宏樹 

去年10月23日のことだ。
 夜、都心で小さな会合があって、帰宅したのは10時半である。
 連れ合いはもう寝に就いていたが、台所に焼きナスを用意しておいてくれた。かつお節をたっぷりかけ、おろし生姜を添え醤油を垂らす。秋の夜ふけの寝酒のアテとして最高である。富山の銘酒〔満寿泉〕を冷やのまま蕎麦猪口に満たす。〔満寿泉〕は富山市郊外、かつて北前船の寄港で栄えた海岸沿いにある造り酒屋で醸される酒。すっきりして、それでいて豊潤。
 そうこうしているうち、夜は更けていく。風呂に入ってから寝床にもぐり込んだときには日付が替わっていた。
 思い出すのは、郵便局で働いていた10年前までのことだ。私は2015年3月末に60歳定年を迎え、そのあと1年間再雇用で働いて16年3月末に退職した。
 在職中、深夜勤(泊まり勤務)の連続に入る前日は夜勤が指定されることが多かった。
 夜勤というのは泊まり勤務とは違う。私の職場(東京都江東区にある新東京郵便局)では午後0時45分に就労して、終わるのは9時30分。それから帰宅するわけだが、職場から千葉県我孫子市の我が家まで、その時間になると電車の接続があまりよくなく、まるまる2時間を要した。常磐線の我孫子駅から乗り換える成田線の本数が少ない。家に着くのは午後11時半である。去年10月23日の晩よりちょうど1時間遅い。
 仕事帰りだから小腹が空いてくる。やはりちょっと飲みながら、食べる。ゆっくり寛いでいるわけではないのだけれど、それから風呂に入ると寝るのは午前1時を回ってしまう。
 翌朝は7時前には目が覚める。陽が高く昇れば、いくら前夜は夜更かししたといっても自分だけ夜の世界に居続けるわけにはいかない。
 深夜勤(泊まり勤務)が始まるのは夜になってからだから、昼のあいだ休む時間があることはある。私も昼食を摂ったあと夕方まで寝床にはもぐっていた。 しかし、昼間は眠れないのである。熟睡はまずできない。ウトウトできればいい。ウトウトでも横になっていればだいぶ違うが、小さな子どもや介護を要する家族がいる人は、それができない場合も多いだろう。夜の労働に備えて昼間に睡眠をとるのはほんとうに困難なのである。すると前夜6時間ほど寝ただけで、その夜は一晩中一睡もできない深夜労働に入ることになる。
 初日は、それでも昼間は動いていないから、なんとか乗り切れる。けれども深夜勤は連続して指定されるのだ。勤務が明けて、その夜また不眠の労働が待っている。泊まり勤務と泊まり勤務の間の昼間は、私自身の体験では4時間くらい眠れれば上出来だった。これって、かなりきつい。

「柔軟な働き方」とは

 去年10月23日の晩に話を戻すと、高市政権が成立して三日目というところであった(首相指名は同月21日)。寝酒を飲みながら眺めていた民放TVのニュース番組で新政権が打ち出そうとしている労働時間規制緩和のことが話題にされている。女性コメンテーターが「労働時間規制よりも柔軟な働き方を進めることが大事」といったようなことを述べている。
 飲みながらだからあまり集中して視てはいなかったし、深夜なので音声を小さくしていたので、よく聴き取れもしなかった。しかし、「柔軟な働き方」という言葉にひっかかる。
 なんだか働き手が自由な働き方を選べるみたいだが、実態は使用者にとっての「柔軟な働かせ方」ということである。コメンテーターは例として(1日8時間にこだわらなくても)10時間働いて、それを週4日やれば(労基法上の法定労働時間である)週40時間に収まるというようなことをおっしゃる。
 先に述べた、私が10年前まで従事していた(そして現在でも郵便の集中局で行なわれている)深夜勤が、まさにそういうものだ。実働が10時間で、休憩1時間が入るので拘束時間は11時間。休憩1時間は昼間の勤務で言えば昼休みのようなものだ。食事を摂るための時間である。仮眠できる時間は勤務する間に全くない。
 この深夜勤を二晩続けて、明け非番が入り、また深夜勤二晩。明け非番が入り、7日目が週休だ。
 深夜勤・深夜勤・明け非番・深夜勤・深夜勤・明け非番・週休となる。
 上っ面だけ見ると、7日間の中に非番が2日、週休が1日と、つまり休みが3日あって、なまじいの週休2日よりラクではないかと思えるかもしれない。
 だが、この非番は、朝まで徹夜で働いてきた後その日の残りはもういいですよ、という非番である。当時の時間帯では早番(前夜午後7時スタート)なら午前6時、遅番(前夜午後9時半スタート)なら午前8時半まで、夜通し働いている。
 朝から一日をまるまる休める休日は最後にくる週休の1日だけだ。
 労働基準法が定める1日8時間という原則を緩め、トータルで週40時間ならいい、という柔軟化が郵便局における連続深夜勤務のような働かせ方を可能にしてしまった。働く側の身体のリズムや生活を無視した、働かせる側にとってだけ都合の良い柔軟化だ。

2年足らずで6人が在職死亡

 私がかつて働いていた、その新東京郵便局で一昨年(2024年)から去年(2025年)にかけて二年足らずの間に6人の労働者が在職のまま死亡した。深夜勤の従事者、あるいはかつて従事していた人ばかりである。勤務の苛酷さとの因果がないわけはない。
 郵便労働者の交流誌『伝送便』の誌面から追ってみる。

 2024年2月 62歳、勤続14年、非正規雇用、死因は不明ながら心臓に持病があった。
 2024年3月 51歳、勤続26年、非正規雇用、心不全。
 2024年6月 52歳、勤続14年、非正規雇用、前年9月から仕事を休んでいた。
 2025年3月 51歳、正規雇用で副部長、死因は不明。
 2025年6月 54歳、勤続31年、非正規雇用、死因は不明。
 2025年8月 63歳、60歳定年後は再雇用で夜勤専担。定年までは深夜勤にも従事。死因は大動脈解離。

 先に2年足らずの間と書いたけれど、こうして書き出してみると1年半ちょっとの間でしかない。その短期間に6人もが亡くなった。50代と60代ばかりだ。初めの2人は同じ課(局の1階にある、大型郵便物を処理する職場)であり、2月に亡くなった人は16日、3月に亡くなった人は1日なので、2週間のうちに立て続けに亡くなったのだ。
 私は自分の在職中を思い出した。2007年だった。7月に非正規雇用のKさんが、10月に正規雇用のYさんが、どちらも急死した。Kさんは49歳、Yさんは57歳だった。Kさんは深夜勤専担で、先に例示した一週間4回の深夜勤をくり返していた。約一月(4週間)で16回の深夜勤である。死因はくも膜下出血。一昨年〜去年にかけて亡くなった6人のうち非正規雇用の4人は深夜勤に従事していたと聞くから、やはり4週で16回という深夜労働漬けの日々であったろう。  Yさんは心臓を悪くしてから日勤(午前8時〜午後4時45分)専担になっていたから、去年8月に大動脈解離で亡くなった人の場合にいくらか似ているかもしれない。心筋梗塞だった。休みの日に家で斃れていたのを発見された。去年8月に亡くなった人は、仕事中だった(上に書いたように60歳を過ぎてからは夜勤専担)。暑い最中であったので、倒れたとき熱中症かと周囲に思われ、保冷剤を身体にあてがわれて台車の上に寝かされていたという。
 それは8月18日のことだった。その6日前、12日に新東京局では団体交渉が行われている。求めたのはJP労組でも郵政ユニオンでもなく、東京中部ユニオンという地域合同労組である。『伝送便』誌去年11月号には、同ユニオンの原由美子さんが報告を寄せている。その記事によれば、局側から団交に出席した総務部長も総務課長も4月に着任、これだけ在職死亡が続いているというのに、深夜労働の健康問題をめぐって前任者から詳しい引継ぎはされていない模様ということだ。組合側が配布した、深夜労働が健康に与える深刻な影響についての資料に「こんな詳しいことは知らなかった」「よく読ませていただきます」といった対応をするばかりだったと原さんは痛憤している。

過労死認定基準の落とし穴

 JP労組員として退職し、現在は郵政シルバーユニオンの一員である私は、東京中部ユニオンには不案内だ。一昨年9月に参議院議員会館内で開催された<郵便局過労死家族とその仲間たち>(郵便局員過労死家族会)の結成総会に参加したときが原さんとは初対面であった。結成総会のあと厚生労働省内に場所を移して家族会の趣旨を説明する共同記者会見が行われ、マスコミも多く参加した。北海道新聞などは翌日くわしい記事を書いてくれたが、全国紙の中には全く報道しないところもあった。
 過労死の労災認定では「発症前1か月で時間外労働が100時間以上」または「発症前2?6か月平均で1か月あたり80時間以上の時間外労働」ということが重視される。この数字(100時間とか80時間)は、過労死した労働者の遺族や弁護士たちが粘り強い闘いで勝ち取ってきた成果でもある。実際、この数字が認定基準となった2001年以降、過労死の認定件数は大幅に増えたのである。それ以前は泣き寝入りさせられたケースが多い。
 ところが、認定基準が時間外労働の数字にかえって縛られて、他の要因が適切に考慮されなくなってしまったきらいもなしとしない。郵便局の労働現場での在職死亡は、上司によるパワハラや営業ノルマの強要でメンタルを病んでの自死と、ここまで述べてきたような深夜労働・変則勤務による健康破壊が多い。それは長時間労働という基準だけでは測れないのである。一昨年<郵便局過労死家族とその仲間たち>の共同記者会見をいくつもの全国紙は記事化しなかったのは、過労死とはそぐわない、というような判断を記者たちがしたせいもあるのではないか。
 けれども、認定基準の時間外労働100時間ないし80時間の根拠は何かというと、週40時間労働の他に月にそれほどの時間外労働をやっていては日割りして一日5〜6時間の睡眠を摂るのは難しい、という計算である。その睡眠時間ラインを切ってしまうと脳・心臓疾患のリスクが増大するというデータがある。深夜労働の従事者は、先に述べた私の体験からしても、時間外労働をしていなくとも睡眠時間が危険ラインを切っている人が少なくないのではないか。
 これまで遺族や弁護士たちが闘い取ってきた成果を引き継ぎながら、もっと幅広いケースに拡げていくことも私たちに課せられた課題であるかと思う。  

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 第144回はちの会
白川 一

宝くじ当たれと思う秋の夕

秋暑し特高騙る詐欺電話

なかなかに手強き痒さ秋の蚊は

暴れ蚊を許さず夕の草刈りに

秋の蚊は敬老の字も知らざるか

秋暑し季節外れの竹の花

稲光巡洋艦は黒く浮き

その灰を塵と見遣れば蝶の立つ

赤とんぼ暮れゆく陽さし飛び行けり


小澤康秀

勿忘草忘れる事の多き日々

青梅の浅漬け食みて目をつむる

紫陽花の終りの色は老の色

五月富士水車の廻るそば処

青嵐爭い盡きぬ地球星


加野 康

寂しさをぶらさげて一つ残り柿

今日を生き明日を知らぬ身秋刀魚焼く

儚なくて散る人生もよし遠花火

新蕎麦の謡い文句に暖簾(のれん)揺れ

蕎麦猪口を粋にかまえて残暑呑む


山寺博丸

処暑過ぎてハンディファンの乙女たち

秋高しAI時代の米騒動

炎天下介護に通う足重し

原爆忌「安上り」と言う馬鹿が増え

風吹かず季語も溶けゆく熱波かな


川柳  小林 晶

トランプとグルでガザ撃つネタニエフ

官邸にポーズで埋める原発土

猛暑日や今年も咲いた彼岸花

ウクライナ灯り掲げる安青錦

がんくびを並べる自民総裁選


増田勇

いつまでか九月下旬で炎天下

暑さなか作文したよ私の宿題

九月だが夏だ暑さだ毎日だ

冷房だ天丼まだだ夏終らない

暑し暑し下着一枚恥がない

ものごとを忘れに忘れ手が出ない

書いた場所忘れっちまいまた新た

今日もまた道を忘れてウロウロウロ

確かここいやそうでないはてどこだ

大宇宙起源がどこかわからぬまま


野沢英智

クビアカにモンクロで内憂外患

(かさ)を増すフラス根元に桜萎え

芽蜩(ヒグラシ)の声なき夕の空虚さよ

虫の音をBGMに夕餉採る

長丁場汗腺全開(しの)ぎきる

*クビアカツヤカミキリは外来種のカミキリ虫で成虫は全体が黒、首部のみ赤色、全体に光沢がある。おもにサクラ類の樹体内に穿し木部を食害する。モンクロシャチホコは大型の蛾で幼虫がサクラなどの葉を食害する。熊谷スポーツ文化公園、熊谷さくら運動公園などの公園・緑道、市内の小中学校でもクビアカの被害は甚大で、スポ文に隣接する側道のソメイヨシノはほぼ全枯れしてしまった。今期、市内江南地区の小中学校、看護学校では木部をクビアカが葉をモンクロが同一のサクラの木を同時に食害していた。初めて見る光景だった。
*樹幹穿孔虫害はコスカシバ、コウモリガなどの蛾の幼虫によるものもあるが食入孔から排出される木くず状の虫糞を一般にフラスと呼称する。中でも旺盛に食害するクビアカのそれは根元廻りに大量に堆積される。


篠原汀路

夏草や婆這いつくばって草むしる

海遠き地に住み重ねる寿司の皿

参院選ノウゼンカズラの一面落花

落雷か轟音ゴキブリ何処へか

しおれたるトマトをばっさり一しずく冬までに言わねばならぬ「最後までありが と」

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鶏飼ひの歌、労働者のいる光景

―徳江元雄「歌集 意地悪き鶏」から

秋沢陽吉 

 

徳江元雄は大正九年の生まれです。今生きていれば百歳を超えます。私は山形の、彼は群馬の文学伝習所に学ぶ縁で、生前に二度か三度主宰する小説家井上光晴の東京府中市にある自宅で会っています。ただこれといって格別の話をしたことはありません.
 歌集を出版したと聞き、連絡を取り送ってもらいました。約千首を収めた生涯でただ一冊の「歌集意地悪き鶏」(一九九三年五月影書房発行)に私は激しく心を揺さぶられました。「鶏飼ひ」と自らを呼ぶ農業に携わり一生を過ごしました。その仕事について、また、生きる悲しみや特異な家族ゆえのいさかいなど、どの歌も私をつかんで離しませんでした。今でも歌は少しも古くなっていません。
 私へのお礼の返事には、ぎくしゃくした文字で次のとおり書かれていました。「はじめてのことで不安で仕方なかったのですが皆様に励ましていただいて少し心も落ち着いて来ました。全く驚くほどの好評をいただいてゴウマンになってはいけないと自分に強くいいきかせている毎日です」望外の高い評価に喜びを抑えきれないでいる興奮が伝わってきます。一方、自らのナルシズムをえぐっていくこの人の性向の一端も感じられます。
 それからしばらくして、歌集にゴム印で押された群馬県佐渡郡玉川村の自宅に電話をしたりしました。確か老人ホームに入所している時も話しました。                          
  2
  虚弱児の吾がため祖母は鶏飼ひきつづきつづきて吾の養鶏
  幼くて吾ヘルニアを病みたりき人に言へぬかなしみ早く知りたり
  虚弱児の吾が殊更の泣虫に常争ひき吾押し黙り飯を食ひにき
 「村内の医師が五歳まで生きられないのではないかと言った程の虚弱児」(あとがき)だったといいます。
 こうした事情もあり、養鶏を生業とするようになったようです。
  桜の花片糸に通し椿の花を紐に通し友と遊べぬ少年なりき
  掘深くひそかに咲ける水車前草の花吾は幼く心寄せにき
  学校を怠け利根川に鴨の巣を見つけし喜び今に忘れず
 幼い子供の頃にすでに水車前草の花に心を寄せまた鴨の巣を見つけた喜びを歌っています。農村が未だ汚され穢されていなかった時代の自然を享受できる得難い資質を持っていました。
 だからこそ次の歌のように、働く姿の傍らにある麗しい光景を主題とすることができたのです。
  小千鳥は常にいづこにか鳴きゐたり霜けぶる土手を牛引きゆくに
  風にのり利根の瀬音の高き朝心すがしく鶏舎に向ふ
  夕餉終へ育雛小屋に戻る道麦の芽そよぐ月の照る下
 牛を引き鶏舎に向かい育雛小屋に戻る。その折の風景描写はあまりに美しく心が洗われる思いがします。
  二反歩の田を買ひ得たり鍬を買ひ来て籾を播くなり
 働いて蓄えた中からようやく田を買うことが出来ました。わずか二反歩であっても自分のものにできたこのうえない喜びが、新しい鍬を買い籾を蒔くという行為に晴れやかに表現されています。新たな大地を手にした神にも匹敵する気分ではなかったでしょうか。
  バラの接木百本ばかりやり終へてもう儲けた様に楽しい
  麦の間にたちまち硫安はとけてゆく心たのしく撒きてゆくなり
  吹きさらす麦野の光も今日は楽し人に言へぬたのしきことあり麦の作切る
 働くことはこんな風に楽しいものですが、労苦もあります。
  痛き腰にカイロを当てて朝より雛の嘴焼き切りて居り
 農作業は彼にとっては過酷であり、そのせいで六度も骨折をします。
  枇杷の花人の気付かず咲きつぎて吾が折れし足癒えつつありぬ
 生き物と共に暮らす仕事の中で、生きとし生けるものの根源的な命の悲しみを痛切に知らされもします。
  ふるえ居る仔牛押へて鼻輪を通すこのかなしみのながく残らむ
  淋しげに一羽鳴きゐるかのヒナは死にゆくものと馴れて思ひぬ
  八千のヒナの凍死の夢に覚め動悸はしばしおさまらぬなり
 また、心安らぐひと時もあります。
  一万羽のヒヨコ声なく寝静まる心安けく吾も眠らむ
  小屋深く寝たるヒヨコ等月射せばいつか窓辺に移り来て寝る
  逃げ出して居りたるヒナも夕暮れは鳴きて寄り来る吾が足元に
 こんな風に、売り渡すために育てたヒヨコと心を通わせもするのです。
 農業に真剣に取り組んで飯を食ってゆく人の短歌。他にもあるかもしれませんが、決して平凡ではなく、私には独自の光彩を感じられてなりません。
  易々と土に親しむと人は言ふに吾には一生言へぬ気がする
 仕事や暮らしを見詰める冷徹なまでの眼差し。他の人間が近づけない領分から発せられた歌に違いありません。
  こうした歌に触れてゆくと、貴族の作った歌ばかりを称揚する教科書に載るごとき古典文学なんぞ今は読む気がしません。

  銃持ちて人ゆきたるぞ草深くひそみてよ鳴くことなかれ

徳江元雄にとって雉子が特別の存在なのかもしれません。殺されぬよう鳴くなと懸命に祈りを込めて歌います。
 と思えば次のように小さな生き物を憎み殺す歌もあります。
  川原のここに散らばふ鶏卵の殻見るにいまいまし盗みしカラスここに食ひたる
  またたびの粉末買ひ来て毒を混ぜ鶏盗る猫を買ふ
  育ちおくれの栗の苗木のアブラ虫憎みてつぶす朝々を来て
 生業の中で、邪魔する生き物を容赦なく排除します。当然といえば当然ですが、やわな動物愛護者が目をひそめるかもしれません。
  土手の向こふの松の巣にゐるカラスのヒナ中の一羽の声悪きなり
 この歌には敵であるカラスであっても生きる命としてそれぞれの個性までを感じ取り、大切にする姿勢が潜んでいます。

 私は日々の暮らしのひと時に湧き上がる思いや自分の人生について詠んだいくつもの歌がとても好きです。
  人を恋ふ歌をくどくど吾が作り人におくれて生きてゐるなり
  鶏飼ひの狭き心は酔ふ度に人にからまり嫌はれている
  人に世に後れて一生鶏を飼ふ焦り心をあはれと思へ
  鶏飼ひて終わる一生を淋しとも甲斐あることと思ふときあり
 なぜ心に響くのでしょうか。自虐でもなく甘ったるい嘆きでもありません。辟易するナルシズムは全くありません。自身のエゴイズムを厳しく剔抉してゆきます。次の歌のように生きる思想の根本には、冷徹な人間自己観察があるのです。
  打たれたときだけ牛はいくらか早くなるかくのごとくに吾が生きてゐる
  やすやすと人に同情されて来ぬ父に生き別れしことより淋し
  妻子なく一生は過ぎる自堕落をおそれいましむると言ふにもあらず

 暮らしてゆく中で人と争い、人を傷つけることもありました。人を羨み憎むこともあります。そうした如何ともしがたい側面を浮かび上がらせた独自の歌は強く胸を打ちます。情感を込めて、花や水の流れの傍らにそっと置いてあります。そうした独自の手腕はなかなかのものです。
  考への同じ人とも争ひて枇杷の花咲く家に帰りぬ
  人を傷つけその折り折りに来て座るアカシヤの林も黄ばみ初めたり
  暗き過ぎし心は悔し水ごけのたゆたひながら流れるみれば
  吾が悪口日毎言ひ居る人あると聞きて吾にも憎しみの湧く
  胸張れる思ひなく過ぎ胸を張る人を羨みうとみて居たり
 そればかりではなく、楽しみもあります。
  農の処女と合唱し語り合い清々とゐるこの二三日
  メリーテーラーに妻子を乗せて畑に行く夢と言ふには小さきものを
 なかでも特に人と交流する楽しき歌はあたたかな光で歌集の一隅を照らし出します。
  仲間割れすぐにしそうな共同養鶏の組合長となりて三十年過ぐ
  墨田の友カリン持ち来ぬふたたびのカリン酒造る思はざりきうれしかりき
  今年また目白を捕りに来し老にさそはれ酒くむ利根川の土手
  河上肇の自伝読む会はじめるに若者たちまち多く集まる
 そして子供の言うままに希望をかなえてやる姿も実に好ましく輝いて見えます。
  昨夜轢かれし鴨持つ子等の言ふままに道辺の合歓の下に埋めたり
  鶏のヒナ飼ふ吾に飼わしめて子等は見にくる朝夕べに

 時代とともに日本の社会は変わっていきました。農村もまた彼の幼い頃とは大きな変貌を遂げます。農業のやり方も大きく変わりました。おそらくは進歩や発展とは思えず、徳江元雄にとっては必ずしも望ましいものではなかったのではないでしょうか。
  日に七八十台のトラック砂利を運び去る村をうるほすこともなきなり
  農の友等が土建屋の選挙運動する一日鶏糞百袋吾は詰めたり
  オートレース場近くに出来て村内の農民二人家財を亡くす
  親の安く貸せる桑畑のゴルフ場農継がぬ子等がゴルフす
  不動産屋土建屋連れ立ち鴨を撃ちに来る田中内閣よりの流行
  子の継がぬ農を互いになげき合ひ方策の誰にもなくて早きゆきすぎぬ
  pcp撒きし田水は澄み透り何の幼虫か死にて沈める
  休耕田水の光りてこの夕べ鴨の一群ひそかに居りぬ
  ダム底の村出で来しが父母を亡くし一家離散す五年が程に
  公害学者宇井純先生は助手のまま東京大学を遂に去りにき
 農村の貴重なかけがえのない財産を収奪する大きな動き。「田中内閣よりの流行」とあるが、列島改造以降の変容は果たして良策だったのでしょうか。農地や山林であった土地にゴルフ場やオートレース場を作って破壊し、人々の生活を誤らせたのではないでしょうか。金が人心を操り暮らしを衰退させたのでは……
 これらの歌は今となっては悲しいカナリアの声であったと痛感させられます。

 3
 あとがきによれば、父と生き別れた母は祖母も住む叔父の家に寄宿していました。徳江元雄はその叔父を父と呼ばされました。
  吾が心乱れ乱れて今日ありぬ物言わぬ吾に母はおどおどとゐる
  祖母と母の争ふ日々に吾が育ちませ悪口するどき少年なりき
  父と呼び育てられ来し叔父と吾があひ争へば母のなげきぬ
 母や祖母への情愛があればこそ、争いはひときわその身にこたえます。子どもの自立心が芽生えていくと、それがまた、一層家族のいさかいをもたらします。家族の誰もがそこから逃れることができません。争いと怒りの爆発と悲しい涙。互いに傷つけあい悔いにとらわれもします。それこそがこの世を生きることであり、その生きることの深い哀感が真正面から率直に歌われています。
 それにしても叔父への反感や抵抗は激しいものです。
  仕方なく叔父の言葉に従ふ時吾が反抗心は煮ゑたぎるなり
  怠け者と罵る叔父には怠けてもやりぬ嫌はるる気性一途に生きて来にけり
  吾を憎む叔父が吾が鶏に薪を投げつけてをるをいかりおさえて
 差別感情が剥き出しともいえる理不尽な叔父の仕打ちの数々。人としての尊厳を賭けて抗う叫びに心を打たれます。戸主である叔父に迎合しない、個の立場に立った短歌を生み出したことこそが大いなる価値のある事でしょう。
  いさぎよく叔父の家をば出ん思ひ一人の母のためにくづれる
 こんな時もあったがついに家を出てひとり住むことになります。
  叔父の家のためにただひたすら働きて来ぬこれからは吾がために働らかむ
 自立への出立でした。
  人を愛するは楽しからむに育てられ来し叔父を憎みて吾が生きており
  生きること悲しと思ふ一つ村に一人の母と別れ住むなり
 母と離れて住んだもののやがて共に暮らす機会が訪れます。
  八年の空白ありて共に住む母はまづ吾の腹巻を縫ふ
  言葉少なき母子の生活母のまきし松葉ぼたんの庭一ぱいに咲く
  稲刈りて疲れ帰るに菊の花てんぷらにあげて母は待ちゐき
  寝たきりの母ひとり置き八千羽のヒナを飼ひ居り時折淋し
  くらやみに寝たままの母吾を待つ点せば変らず笑顔を見せる
 母と子がようやく睦み合う歳月に恵まれました。その安らかな喜びや幸福感がよく感じ取れます。
 そして、父の存在もその人生に大きな影を落とします。
  生き別れし父をなげきて一生過ぐるまこと女々しと思ひ続けて
  ただ一度父に会ひにきもの言わず踵かへして戻り行きたり
  生き別れし父の死告げられぬ肉親の思ひすでに淡々し
  ふたたびは来ることなけむ父の墓人目はばかり急ぎ立ち去る
 女々しいとは思いながらも、思いは父に向かう時もありました。叔父との確執があまりにもつらい故に、今いるこの場所が苦しいゆえに、もし父と一緒ならと望んでしまうのです。その気持ちは痛いほどにじんわりと伝わってきます。
  母にしたしき人多く皆やさし賜ふ草餅母に供える
  老いぼれの歯のなき吾の発音は酔ひていよいよ分からなくなる
 いさかいもひとときの怒りも心の底に沈んだ悲しみをも、時はどこかに連れ去ってくれます。今はもう母も父もこの世にいません。そうして自分自身も年老いました。
 とはいえ折々の深い嘆きや悲しみは歌にくっきりと刻印され、今なお私たちの心を打ち胸に響きます。
 家族の間の小さないさかいや生き別れた父への思慕、叔父への反抗とそこからの独立。大状況からすればささいなことに見えようとも、家族のひとりひとりにとっては、しがらみにとらわれる苦しみやそこから逃れられない悲しみは並大抵の苦労ではありません。
 自らの体験と重ね合わせて共感する人がかなりいるのではないでしょうか。
 この歌集を貫く一本の太い流れとなっています。


 考えたいのは徳江元雄がなぜ歌を作ったのか、書くことのとらわれ人となったのかという不思議です。そして表現することは彼が生きるうえでどのような意味があったのかということです。彼のように、人はただ働くだけではなく、ただ生活するだけではなく、なぜ表現しながら生きる道を選ぶのかという人生の秘密を知りたいと思います。
 昭和二十六年三十二歳の徳江は若い友人を通して「ケノクニ」といううすっぺらなザラ紙の短歌誌を見せられ、その夜はじめて十首を作りました。編集者は斎藤喜博です。若くして土屋文明に師事した歌人で、教育実践家としても著名であり宮城教育大学の教授を務めました。本物の教育者であったと言っても間違いないでしょう。徳江元雄の短歌を斎藤喜博は良い作品だとほめ、勉強するように励ましました。そして、「なにも歌人にならなくてもよいのです」と言いました。
 「自由な時間も持てず、自由な考えも実行出来ず、将来の目標も持てず、気持ちの落ち込んでいた時の私にとって、これ程勇気を与えてくれたものは今迄になかった事でした。私の喜びは大変なものでした。」(「意地悪き鶏」あとがき)
 ここには徳江が表現を選び取った由縁が明かされています。勇気や喜びを与えてくれたものは何でしょうか。眼目は「自由」です。
 人は家族の中で、学校で、働く現場で何となく自分の感じていることや考えることが周囲とそぐわない、ぴったりしないという違和感を持ちます。その隙間に生まれた、まだ漠然とした何かを思い煩います。
 生きるためには働かねばならず、労働には数多の制約や不自由が待ち受けています。そして生きることは何と思い通りにならないことばかりなのでしょう。  そんな中で、ある種の人々は書くことを追い求めます。誰かに言わされた言葉ではなく、何とか自分の言葉で表現してみたい。それも空に消えてしまう言葉ではなく、しっかりとした形ある文字によって。ほとんどの時間を売り渡していても、自分だけの感慨や思想を明瞭明確な姿にしてみたい、そう思い定めます。
 小説家丸山健二は言います。真の創作者とは「どこまでも個人の自由という掛け替えのない精神と権利を求めずにはいられない」者のことだと。徳江元雄は間違いなくそのひとりでした。
 師斎藤喜博としてまとめられた中から三首を選びました。
  はげしさとやさしさたたへし君の面輪畏れ慕ひし三十年
  暗闇をまさぐる思ひあはれ先生に友におくれて吾が独りなり
  伊丹万作魯迅明平読ましめて鶏飼ひの狭き古きをいましめられぬ
 日本の戦後文学のプロレタリア作家として前衛を標榜した作家井上光晴に群馬文学伝習所において出会います。徳江元雄が初めて書いた原稿用紙四枚の「猫を殺す」の井上光晴の批評を聞いた一瞬の衝撃を次のように書いています。
 「私は体中に強い電流が走ったような衝撃を受けました。先生の知る筈のない三十年前、当時三十八歳の私が、自由と独立を得ようと、育てられた恩義ある叔父と争った時の心情をずばり言い当てていたのでした。作家のこわさ、凄さを腹の底から知らされました。(略)先生ほどの力を持つと、私たちの表面に表れない、形に表れない考えとか思いとかを、見透かし、その上その質まで見分けて、励まし、または戒められるのでした」(「意地悪き鶏」あとがき)
 優れた文学者との出会いを通して、文学の本質の何かを、文学の凄さをつかんだのです。すなわち、文学とは世俗を支配する道徳などのつまらぬあれこれを超えた、魂の倫理とでもいうべきものに到達しようとする営みであること。そして世の不条理を超えて、意味のある何かを求める営為であること……
 ここで、文学が応えるべき問いについての丸山健二の言葉に耳を傾けてみましょう。「果たしてこの世は生きるに値するのか。この世に在ることの意味とは何か。四苦八苦しながらこの世を過ごす喜びとは何か。なぜ、この世であらねばならないのか」徳江元雄は、この重い根源的な問いに、あがきながらも短歌という表現によって真摯に応えようとしたと言えるでしょう。
  先生の短歌に我は励まされ叔父と争い独立したり
  苦しみのもとに挫けぬ魂に吾があくがれて短歌習ひ来ぬ
  父あらば幸く安らに吾あらむ或いは短歌など知ることなしに
 人生の重要な道を定めてゆく折々に短歌がありました。誰にも何ものにも邪魔されることなく、文字によって自己の自由な考えを表現すること。それこそが書くことの真の意義であり、真に生きることなのだ。この文学の魔力に人々はしばしばとらわれます。徳江元雄はいつの頃からか、文学の本質の高みを目指し続け、その厳粛な回答として「意地悪き鶏」一冊を残しました。


 ここで私たちは文学をめぐってのもうひとつの重い課題に触れねばなりません。それは、文学の本当の難しさ、厳しさについてです。作品はあくまでも質の高さを要求されるという厳粛な事実。誰にもできそうなありふれた自己表現などと軽々しく言われるレベルとは違った高さをある種の読み手は求めます。書き手の間には、想像力の質の高さや技術のレベルの高さに歴然とした差があり、凡百の衆生は到底その高みに達することはできません。
 しかし、徳江元雄はいつからか凡夫の域を抜け出し、高みに到達することができました。
 私にはそのことを表現するこれ以上の言葉の力がないので、井上光晴亡き後歌集の出版を引き継いだ夫人慧眼の井上郁子の文章を引いて、その証とします。 「かなしい夕暮れの色にようやくなごむ胸になお抜き難く突き刺さっている一日の棘を歌い、自分を傷つける行為によってまた解放されもするという不思議を歌うことのできる力」
 まさにこれこそが徳江元雄の核心を言い当てています。
  意地悪き鶏は卵を良く生めりそれの事実を吾は肯う
  打たれたときだけ牛はいくらか早くなるかくのごとくに吾が生きている
  淋しげに一羽鳴きいるかのヒナは死に行くものと馴れて思ひぬ
 この三首を選び出したのは井上郁子です。私もまたこの三首こそ徳江元雄が達した文学の凄さを証立てる作品と思うようになりました。この歌を前にしては粛然とせざるを得ません。井上郁子は次のように書きます。
 「どう頑張ってみても、これらの三首の下の句を歌うことは私たちには容易ではありません。単に生活者としての感覚と読み過ごすには重すぎて、ぬるま湯になれた日常の足許を揺さぶられる思いがします」
 人がなぜ表現を欲するのかについては理解できます。それを味わう地点までは何とかたどり着けるでしょう。しかしこの三首がつかみとった魂に至るのは極めて困難です。誰もがなせる技ではありません。では、なぜ徳江元雄は歌い得たのでしょうか。背負う生まれ育ちの十字架の重さと心に宿った文学への執念。そして当代の優れた文学者斎藤喜博、井上光晴との一人ならず二人もとの稀有な出会い。いや本当のところはよくはわからないのです。
 もし文学の神がいるとすればその神が一瞬徳江元雄を拾いあげたとでもいうほかはありません。類い希なる出来事でした。懸命に努力したからなどとつまらぬことは言いますまい。報われないのがこの世であることは誰もが身に沁みてわかっているはずです。
 表現することの魔力にとらわれた人々は、その妄執のままに死ぬまで懸命に努めるしかないでしょう。あるかないかわからない、いつ巡ってくるか定かではない僥倖に向かって。 


「戦後」は終わったのか?

稲田 恭明  

 戦後70年だった10年前、私は「戦後責任」という短い論文を書き、日本において「戦後」が終わるとしたら、1つは日本が新たな戦争に参戦する場合、もう1つは戦後責任の決済を果たしたときであろうと述べ、「今日、前者に至る危険性は極めて大きく、後者の可能性は限りなく遠い」と書いた。10年経った今、戦争の足音はますます高まってきてはいるものの、実は、後者とは関係なく、「戦後」はもう終わってしまったのかもしれない、という気がしている。では、「戦後」とは一体なんなのか。私の解釈を一言で言えば、あの戦争の記憶と結びついた平和志向、ないしは戦争忌避の風潮である。そこには良い面と悪い面とがある。良い面は、戦争をとにかく忌避し、戦争は絶対に起こしてはいけないという感覚である。そこには、戦争を原因によって侵略戦争と自衛戦争その他に区別しようとする発想が乏しく、戦争を一律に悪と断罪する傾向がある。いわば消極的無差別戦争観と呼べるような態度である。「無差別戦争観」という言葉は、国際法においては、19世紀に支配的になった考え方で、主権国家同士の戦争においては、戦争の良し悪しを判定できるような国家より上位の権威が存在しないため、戦争原因による戦争の善悪は判断せず、戦争の選択は主権国家の自由に属す、という立場を指している。そこでは、戦争の仕方に関するルール(jus in bello:交戦法規)のみが問題とされ、開戦に関するルール(jus ad bellum:開戦法規)は問題とされない。このような意味の無差別戦争観は、戦争を否定せず、むしろ国家主権の自由に属する問題として肯定的に捉えているという意味で、あえて言えば積極的無差別戦争観と呼ぶことも可能だろう。これに対して、戦後日本社会で支配的となったと私が考える戦争観は、戦争原因を問うことなく一律に戦争を否定する傾向が強いために、これを消極的無差別戦争観と名づけることにした。これ自体を良いと見るか悪いと見るかは難しいところである。しかし、日本の「戦後」思想には明らかに弱点があった。それは日本が関与したアジア太平洋戦争を、原爆や空襲被害、疎開や空腹といった「銃後」の被害体験が戦争記憶の中心を占めており、日本がアジア各地で行った凄惨な加害・侵略犯罪の記憶が極めて弱い、ということである。これは、戦争原因を深く追究しないという態度とも関連している。「終戦」という言葉、あるいは「戦争だから仕方なかった」といった言葉に典型的に表れているように、戦争を自然現象か何かのように捉える発想が根深くあるように思われる。

 
 しかし、そうした時代も終わったのかもしれない。ロシア・ウクライナ戦争が始まったとき、日本中に正戦論が俄かに盛り上がり、侵略したロシアに対抗するため、ウクライナを支援しよう(すなわち、ウクライナが勝つまで戦争を続けさせよう)という声が、即時停戦を求める呼びかけを圧倒したのには驚いた。(もっとも戦争が長期化し、ウクライナ側が劣勢を強いられる状況が続く中で、当初の好戦的な声も勢いが衰えてきたようではあるが。)しかし、あらゆる戦争を否定したはずの憲法9条が、自衛戦争は認めているとする解釈が「護憲派」を含めて多くの国民の支持を得るようになって久しいので、いまさら驚くようなことではないのかもしれない。

 丸山眞男は1964年5月に出した『増補版 現代政治の思想と行動』の「増補版への後書」の中で、「戦後民主主義を「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説」に言及したあと、「私自身の選択についていうなら、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」に方に賭ける」と書いた。丸山は具体的に言及していなかったが、この一文が、『世界』の同年1月号に掲載された大熊信行の「日本民族について」を念頭においていたことは間違いない。大熊はその中で、「軍事占領下に政治上の民主主義が存在したという考えかた。これは一言にして虚妄である。にもかかわらず、民主主義が樹立され、そしてそれが育ったかのように見えるとすれば、育ったもの自体が、そのなかに虚妄を宿しているのである」と述べていた。大熊の論文全体を読めば明らかだが、大熊は戦後民主主義を一括して「虚妄」だと述べたわけでもなければ、大日本帝国の「実在」を評価したわけでもない。丸山の批判は的外れだと言わざるを得ない。私は、軍事占領下に政治上の民主主義が存在しなかったことよりも、旧安保条約の締結により、形式的には独立した後も、対米従属が構造化したことの方がはるかに大きな問題であったと思っている点で、大熊とは強調点は異なるものの、戦後民主主義が虚妄を宿していたと考える点では共通している。大熊はまた、同じ論文の中で、「平和憲法は、われわれがそれによりかかっていればいいのではない。われわれがそれをささえてゆくことでそれは存続するのだとすれば、やはり日本においても個人としての実践的な平和主義者を欠くことができないと思われる」とも指摘している。戦後民主主義に欠けていたのは、このような「実践的な平和主義者」だったのではないか、それがまた、戦後民主主義を終焉においやった遠因なのではないかと思わずにはいられない。

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 さて、高市首相の「台湾有事は存立危機事態」発言である。中国が次々に制裁措置を繰り出すなか、高市首相は発言の撤回を拒否し、日本政府も「従来の政府の立場を変えるものではない」との説明を繰り返しているが、中国側がそんな説明に納得するはずがない。その説明は、日本側では元々、台湾有事は日本が集団的自衛権を行使して戦争を行う前提となる存立危機事態になりうると思っているし、そのための準備も着々と進めているが、歴代首相は「台湾有事」という特定の状況への言及を避けていただけです、と正直に語っているのと同じだから、中国の怒りの火に油を注ぐだけである。しかし、日中関係がここまで悪化しても、高市政権の支持率は下がらず、ネットやメディアでは中国批判の言説が飛び交っているようである。そもそもなぜ中国がこれだけ怒っているのか、理由がわからない、という日本人が多いのではないだろうか。

 今年は戦後80年の節目であったが、中国から見れば、中国人民抗日戦争勝利80周年、台湾から見れば台湾光復80周年である。中国人は、日本が行った台湾の植民地化や中国侵略戦争を決して忘れないが、日本人の側は果たしてどれだけ記憶しているだろうか。石破前政権は戦後80年談話を出すことができず、退任直前に個人的な「所感」を出すにとどまったが、それは自民党内部に、戦後70年の安倍談話を上書きされることに対する強烈な反発があったからだ。安倍談話の中には、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という一文があるが、これは、日露戦争が韓国併合への第1歩であり、台湾植民地化の始まりであり、旅順・大連を占領したことで中国大陸干渉政策への第1歩であったことをまるで認識していない歴史の無知を露呈したものであった。そして、安倍談話の肝は、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という謝罪拒否宣言であった。そして実際、その年(2015年)の暮に安倍政権が、被害者を蚊帳の外においたまま、朴槿恵政権との間で締結した「慰安婦」合意は、問題の「最終的かつ不可逆的」解決を謳っており、合意を受けて安倍首相(当時)は、「子や孫、その先の世代に謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」と嘯いたのであった。

 日本人がいくら一方的に都合よく過去を「水に流して」忘れようとしても、中国人は霧社事件や平頂山事件、南京大虐殺や三光作戦などを決して忘れないだろう。その中国人から見れば、日本が近年、軍事費を急増させ、武器輸出も(「防衛装備品移転」などと称して)解禁し、非核三原則も骨抜きにし、南西諸島(琉球弧)に長射程ミサイルを林立させようとしていることは、決して看過できることではない。その最中に日本の首相が対中国侵略もあり得る(中国から見れば、中国の内政問題である台湾問題を口実に軍事介入することは侵略にほかならない)と発言したわけだから、許すことができない、となるのも当然のことであろう。

 では日本のリベラル派は高市発言に対してどう対応しているのだろうか。多くは発言の撤回と謝罪を要求しており、ひいては高市内閣の総辞職を求める声もある。確かに、そこまでやれば中国側もいったん矛を収めはするだろう。だが、問題は、それで一件落着としてよいのか、ということである。いくら高市首相が仮に発言を撤回したとしても、現実には台湾有事に向けた日米共同作戦行動への準備は着々と進められている。南西諸島(琉球弧)の奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島にはミサイル部隊が設置されており、当初は防衛用と説明されていたが、中国大陸本土を射程に収める「能力向上型」の長射程ミサイルの配備が今年度(2025年度)末から始まることになっている。2021年3月にフィリップ・デービッドソン米インド太平洋軍司令官が、6年以内に中国による台湾侵攻があり得ると示唆し、翌月、バイデン大統領と菅首相の間で行われた日米首脳会談後の共同声明では、52年ぶりに「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調する」という一文が盛り込まれた。その年の6月までには米軍から自衛隊に、台湾有事の際の日米共同作戦計画を早期に策定すべきだと強い圧力がかかるようになり、同年12月、共同通信は、「自衛隊と米軍が、台湾有事を想定した日米共同作戦計画の原案を策定したことがわかった」と報じた。原案では、米海兵隊が南西諸島の島々に一時的な軍事拠点を設けて、移動しながら(なぜなら長期間滞在すると攻撃の標的となるから)地対艦ミサイルで中国艦隊の排除にあたり、自衛隊が米軍の作戦を支援するという。2015年に強行採決された安保関連法によれば、日本に対する武力攻撃がない段階でも、政府が「重要影響事態」と認定すれば、他国軍(米軍)への支援が可能となり、「存立危機事態」と認定すれば、集団的自衛権の行使も可能となる。なお、重要影響事態とは、「そのまま放置すればわが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等わが国の平和および安全に重要な影響を与える事態」と定義され、存立危機事態とは、「わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」と定義されているが、実際にどのような事態がそれらに当たるかは、時の政府が自由自在に認定できることになっている。つまり法律による制約はほぼないに等しい。もっとも、各事態の実質的な決定主体は日本政府というよりはアメリカ政府かもしれない。2022年12月、当時の岸田政権が閣議決定した安保関連3文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画)では、敵基地攻撃能力(ただし文書では「反撃能力」とごまかし)の保有を解禁し、長射程のスタンド・オフ・ミサイルを敵基地攻撃に使うと方針転換した。近年、台湾危機を想定した自衛隊と米海兵隊の共同訓練が南西諸島各地で実施されている(布施祐仁『従属の代償』参照)。

 こうした現状を放置したまま、高市発言の撤回だけを求めてもあまり意味はないのではないだろうか。むろん、当面の日中関係の鎮静化という目的には資するとしても、本質的問題の解決には役立たないどころか、かえって問題の本質をはぐらかす効果すら持ち得てしまうかもしれない。ではどうすればいいか。むろん簡単な解決策などあるはずもないが、まずは「南西シフト」をはじめとする日米軍事一体化の背後にある対米従属構造の現実を見据えることが不可欠の課題である。そして、このような現実を変えようとするのであれば、このような現実がなぜ、どのようにして形成されるに至ったかという歴史への洞察も必要とされよう。そして、周辺諸国、とりわけ中国、台湾、韓国、北朝鮮との恒久平和を願うのであれば、これら諸国民とも共有できる近現代史の歴史認識を育てるとともに、「戦後」の出発点にあったはずの平和主義を、軍事に依存しない人類共存のための平和主義として鍛え直すことが喫緊の課題であろう。

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日本語教師青木

北山悠

  青木が高田馬場の戸山口を出たのは朝の八時過ぎだった。週に二回、青木は高田馬場にやってくる。今日もいつものように山の手線は込んでいて、席にはありつけなかった。近くに青木が通う日本語学校・KE国際学院がある。狭い通りには通勤の人々が行きかい、線路の反対側には飲食店が並んでいたが、まだシャッターが下りている。青木が帰る頃には行列ができるのがいつものことだ。学校前のコンビニでホットコーヒーを買うのがいつものルーティンだった。
 青木が日本語教師になったのは二年ほど前だった。鉄鋼会社に六五歳までお世話になり、退職後の生活をどうしようかと思っているときに、日本語教師養成講座に出会った。そこで四二〇時間の講習を受ければ、日本語教師になれるというのがキャッチコピーだった。青木は子供たちが独立して妻と二人暮らしになっていた。妻は長く区内の日本語を教えるボランティア活動をしていて、青木も誘われて出かけたことがあった。それはそれで楽しい時間だったが、凝り性の青木はうまく教えられないことにショックを受けた。長い間日本人をやっているというのに、なぜ日本語が教えられないんだろうと思ったものだ。そこで本格的な挑戦をしてみることになったのだった。何よりも二人だけの生活はいかにも単調だったし、家のなかをうろうろすることを妻が嫌がっているのか分かった。
 コーヒー片手に学校に入ると、マグネット式のネームプレートをクラス表の紙に貼った。これが出欠確認になっていて、急な欠勤が確認されると、学校が代講の教師を手配することになっていた。今日のクラスは、水曜日の上級Vの三のクラスだった。職員室に入ると、専任講師たちのデスクが右側に見え、左側は非常勤講師のテーブルだった。その非常勤のテーブルに適当な席を見つけてコーヒーを一口すすると、仕事が始まる。ここで授業に必要な教材のコピーをするのが普通だが、その日は特に必要なコピーがなかったので、B五のコピー用紙を十枚ほどファイルに入れた。
 半年ほどは毎日養成講座に通った。弁当持参の通学が楽しかった。授業は昼までだったが、弁当を食べて帰宅する毎日が続いた。専業主婦らしい人が多かったが、青木のような退職組もいて、仲良くなった。授業が終わると、コーヒー・チェーン店でおしゃべりをしたり、安い中華料理店で生ビールを飲んだりするのが楽しみになった。そのうちに月に一度ほど「男子会」というのをやることになった。サラリーマン生活では味わえなかった人間同士の付き合いがあった。つたクラスにいる女性たちの噂話や日本語の話を肴にしたものだった。上下関係も肩書も気にしなくていい付き合いには、職場では味わえない、講座をともにする学生同士の関係があった。
 上級Vの三のクラスは上級クラスだった。青木は最初こそド初級のクラスをやらされたが、そのうち上級クラスになった。日本語教育のスキル以上に学生管理やら話題の豊富さが要求されるからだ。このクラスには、中国人、モンゴル人、ネパール人、ミャンマー人、ベトナム人がいるが、幅を利かせているのは中国人だ。クラスによっては中国人だけのクラスもあった。このクラスは進学組と言われていて、大学や専門学校、そして大学院を目指す学生たちで構成されていた。大学院進学の学生以外は高卒なので、青木にとってはほんの子供たちで、青木たちは「少年少女たち」と呼んでいる。向学心に燃えている子もいるが、勉強嫌いで落ちこぼれ気味の子供を親の財力で日本に送り込まれたのも多い。脛かじりでゲームやスマホ依存症気味の学生には苦労する。勉強好きで会話の上手な学生がいると、クラス運営がうまくいく。このところ増えているのはネパール人とミャンマー人だが、ネパールにはさしたる産業がなく若年層の失業率が高く、軍事政権下のミャンマーでは若者は徴兵されたり弾圧されたりするのが増えているのが日本にやってくる理由だった。
 三階の教室に入ったのは八時半。まだ誰も来ていない。クラスは多くて二〇人だが、このクラスは一八人だ。まず、備え付けのコンピューターを立ち上げる。そこで、チームズというアプリに入り、上級Vの三のクラスに入ると、昨日の担当教師からの引継ぎや連絡事項などがあるので、まずはチェック。今日は面倒な引継ぎはなく、問題行動もなかったみたいだ。それから電子黒板に接続する。電子黒板の導入は今学期からだったが、最初は戸惑ったものだ。
 青木はかつて鉄鋼会社の南京事務所で働いたことがある。仕事は本社とユーザーとの連絡が主で、そんなに忙しくはなかった。定年まで二年のところで飛ばされたが、社内ではそれは「ご苦労さん人事」と呼ばれていた。だいたい定時に仕事が終わり、休みの日は国内旅行に精を出した。「ご苦労さん人事」の行先はさまざまだったが、青木にはご飯のない国には行けなかった。青木の英語力と筆談で何とか中国旅行を楽しめた。交通チケットや宿の手配は、中国人スタッフまかせで、中国料理や中国文化に触れた楽しい時間だった。そんな海外生活のおかげで、語学学習には関心があった。言葉が通じない不安やとてつもないミスをやらかして大恥をかいた経験は、学生たちにも共通する体験であるに違いない。
 授業は九〇分授業が二コマで、一限目は漢字と文法で、二限目はちょっとした読み物がついている教科書の授業だ。青木の授業は脱線することで有名で、「面白い先生」というので定評がある。漢字は毎日六字ずつ進むのだが、この日は「廃、棄、却、陳、貫、賠」の六字でそれぞれの漢字を使った例文が紹介されている。青木は非漢字圏の学生の教科書を覗いて母国語でチェックしているか確認する。中国人学生は漢字を見れば、七割ぐらいは理解できるようなので、いつも非漢字圏の学生の表情で理解度を確認する。それが終わると、文法学習に移り、その日は「〜はそれまでだ」と「〜にはあたらない」を教えた。用法、意味、接続などを確認したあと、例文と練習問題で理解を深めることになっている。進学クラスでは受験のための日本語が主流なので、会話力はあまり重視されない。中国人は漢字のおかげで読解力はあるが、会話力はイマイチだ。どうやら文法の近似性がないせいらしい。ところが、モンゴル語は日本語に近いので、モンゴル人の会話力はすごい。大相撲のモンゴル出身力士がすぐに上手になるのはそのせいだと青木は最近知った。意外なことにネパール人も会話力がある。あの狭いネパールには百以上のカースト・民族集団があるらしく、彼らのコミュニケーション能力は並外れている。今学期から初めて教えることになったミャンマー人のことは何一つ想像できない。エィンさんという女子学生はいつも笑顔を絶やさないが、青木にとっては強敵だ。ネット情報によると、公用語のミャンマー語は日本語の文法に似ているが、発音はちょっと面倒らしい。発音と言えば、ベトナム人の日本語はときおり聞き取れなかった。一通り練習問題を終えると、持ってきた用紙に例文を作成させて一限目は終了した。
 養成講座を終えた青木の就職活動は大変だった。七つ目の履歴書提出でやっとたどりついたのがKE国際学院だった。養成講座の宣伝文句ほど世の中は甘くなかった。まず、年齢が問題になった。七〇歳に手が届きそうなことが難点だったし、一部上場の鉄鋼会社出身なのも嫌われたと青木は見ている。従順に学校の方針に従ってくれるか心配しているらしく、扱いにくい教師の部類に入れられたに違いない。何よりも採用の障害になったのは教授経験がないことだった。面接のたびに模擬授業をさせられるのだが、いつも冷や汗ものだった。KE国際学院のKEはオーナーで校長の金子英一から付けられたのだが、青木の面接のときもオーナーが出てきて、いくつか質問され、なぜかそのやり取りが気に入られた。オーナーは青木の笑いを誘う応対に声をあげて笑った。七回目だったから、青木にも就職活動のノーハウが蓄積されていたのだろう。
 休み時間の十分間に出席のチェックや授業記録を入力した。それも全てコンピューター上でしなくてはならない。学生たちの何人かは菓子パンにかじりついていた。二時間目は読み物のついた教科書だったが、その内容は日本人の働き方についてだった。読み物には百年以上続く老舗やサラリーマンの「ほうれんそう」の働きぶりなどが書かれていた。そこで青木はここぞ「脱線」のチャンスとばかり、サラリーマン川柳も交えた「日本サラリーマン事情」をぶった。ときおり学生が「本当ですか」と質問したり、「ありえない」と発したりした。「脱線」しても予定の学習範囲を終えなくてはならないが、この頃の青木は「脱線」の時間も計算して終えられるようになっていた。それもいつも三分前ぐらいには「解散」と叫んで授業を終了した。その三分ほどの授業の切り上げも好評だった。授業が終わると、コンピューター上の出席簿に出欠を入力し、授業記録を書いて明日の教師への引継ぎ業務をする。この頃は休み時間や授業の合間に処理したりするので、授業の終了時間が勤務時間の終わりとなった。
 授業が終わったその日は弁当がなかった。ベテラン教師の諏訪とランチをすることになっていた。水曜日だけが諏訪に会える曜日だったので、月に一度ほどはランチをともにしていた。テーブルの隅の諏訪に声をかけると、
「すまんな、この作文チェックするからちょっと待って……」と諏訪。
「作文チェックですか……」
 青木は作文の添削が苦手だ。意味不明の日本語を添削するためには、学生の意図を推測しなくてはならないからだ。その点、諏訪は韓国語と中国語に長けているので、学生の誤用を推測してすらすらと直していく。
「さあ、行こう」と諏訪が腰を上げた。
 目指すは早稲田口前の雑居ビルの地下。そこに「長春飯店」という中華料理の店がある。ニューカマーの中国人の店で、餃子はピカイチだ。青木はいつもの隅の席に諏訪と向き合った。まずはセットメニューを頼む。九〇〇円で飲み物に餃子三個、ザーサイとチャーシューが少しついてくる。生ビールのジョッキを合わせて乾杯。
「どうです。日本語教師は楽しいですか」と諏訪。
 諏訪は韓国と中国に滞在経験があり、そこで大学などで日本語を教えていたことがあり、もう三〇年からの日本語教師歴がある。
「まあ、なんとかやってますよ。いまだに授業準備に時間がかかって酷い時給になっています」
「初めは誰だってそうさ。俺だって最初は授業時間以上の時間が必要だったものさ。日本語ができても教えるとなると、そうはいかないものさ。副詞のたぐいは未だにまごつくよ」
 昼ご飯を食べにきたサラリーマンたちが会社に帰る時間になり、食堂には疎らな客がいるだけだった。青木たちもセットメニューはほとんどなくなり、追加注文をする時間だった。諏訪は紹興酒に切り替え、青木はレモンサワーにし、中華風ソーセージ、ピータン豆腐、焼売を注文した。料理はおつまみセットの小皿盛りだった。
「諏訪先生の日本語教師歴ってどんなです」
「俺はねえ、子連れ留学で韓国に行って半年後には日本語教師になったんだ。韓国語もイマイチ上手にならなかったし、なんたって生活がおぼつかなくなってね。日本語教師は韓国では稼げる仕事だったんだ。その頃の韓国では日本人だったら誰でも教師になれたんだよ」
「いつ頃の話ですか」
「そのときの子供がいま三四歳だから、そろそろ三〇数年前かな。韓国は軍事政権の盧泰愚政権のときで留学先の大学周辺ではよくデモがあったものだ。戦闘警察がデモ隊を追いかけて学内まで来たんだ。催涙弾が立ち込めて涙を流しながら、僕は日本人ですと叫んだものさ」
「へえ、そうですか」
 それから諏訪は一〇年ほど韓国にいたのだという。最後の数年は妻子も先に帰ってしまっての一人暮らしだった。
「ところで、校長のこと知ってるか。本当の名前は金英一、韓国語読みではキム・ヨンイルっていう在日韓国人三世なんだ。親父さんが作った学校を引き継いだらしい。だから、初めは韓国からの留学生が多かったんだけど、このところ韓国人が減って、手当たり次第に学生集めをしていて、大変らしいんだ。俺も韓国人が多いので応募したんだよ」
「それで、最近、学生の質が悪いんですね」
 諏訪はピータン豆腐を摘み、紹興酒をぐいと飲み込んだ。
「そうなんだ、中国の苛烈な受験競争に敗れた子供たち、なかには精神病みたいのもいるらしんだよ。ゲームやスマホ依存症もね」
「やっぱりそうなんですね」
 青木はクラスの学生たちのそれらしき顔を思い出した。レモンサワーが喉元を過ぎていった。
「問題はもっと深刻らしいんだ。この間、大手の日本語学校が授業を見に来たらしいんだ。どうやら、身売りをするかも知れないんってね」
「そうなんですか」
「それで、専任講師たちも浮足立って、俺にも声をかけてきたんだ」
「えっ、どんなことですか」
「だから、対策会議だよ。まずは事実確認からだろうけど。青木先生も顔を出してくださいよ」
 青木たちは労働の疲れを癒し、職場の噂話をしながら二人だけの男子会を終えた。

 青木が「長春飯店」の個室にやってきたのはそれからまもなくだった。その個室には教務副主任の男性教師、専任教師の女性教師、ベテラン非常勤講師で主婦の桜井、そして、諏訪と青木の五人が向き合っていた。諏訪の推しでこの会合のメンバーになったのだった。専任講師にとっては勤務時間後のことだったので、青木たち非常勤講師はカジュアルな服装だった。テーブルにはおつまみ料理の小皿がいくつも並び、各自に生ビール、そして紹興酒のボトルがあった。
「とりあえず乾杯しましょうよ」という桜井の音頭で食事会は始まった。
「ここは職場ではないので、私が主宰しているわけではありませんが、今日の集まりの主旨について説明させてもらいます」と教務副主任が話し始めた。
 校長が大手日本語学校に身売りするのは確かなようだとのことだった。相手側と条件面の話し合いをやっていて、金蔓の学生は全員移籍するだろうが、教員は少し整理されるらしいとの情報だった。人事体系が異なるので、全員が正規職になれるとは限らないとのことで、専任のなかではパニックになっていると副主任は話した。
 青木は高齢者のうえ新米教師の自分は難しいだろうと想像した。
「ところで、あっちは年齢制限があるのかしら」と桜井が言った。
 諏訪の話では、桜井は後期高齢者になっていて、これまでも更新時にはダメ押しされるのがいつものことだったが、KE国際学院には定年はなかった。しかし、桜井はコロナのときの非対面のズーム授業にもついてきていた。あの時期、どれほど多くの日本語教師が脱落していったか知れないという。コンピューター操作に不慣れな教師もいたが、対面授業でない日本語教育は邪道だと言って去っていった教師もいた。あのコロナ期の篩にも耐えた桜井の頑張りは凄かったと諏訪は何度も言ったものだった。
「いろいろ不安はあるだろうけど、校長に問い質す機会が必要だと思います。専任のなかには労働組合を作ろうという話も出ているんだけど、組合ができたら、身売りそのものが破産しかねないので、僕は止めに入っているんです」と副主任が言った。
 専任の女性教師は何度か頷いて見せたものの、これといった発言はなく、熱心にメモをとっていた。
「じゃ、校長との話合いが持てるようにしましょうよ。まずは事実確認だし、俺たちの不安も伝えなくては……」と諏訪が言った。
 それはその日の結論となり、話の進め方やメンバーの人選に及んだ。それが終わると、いつものように学生たちのことや校長への評価などの話になったり、桜井ら高齢者はしきりに健康話を持ち出したりした。初めて持たれた会合だったが、打ち解けた団結を作り出したことは確かだった。
 青木はどうしても諏訪ともう少し話がしたかったので、「長春飯店」の出口で諏訪を誘った。
「諏訪先生、まだ時間も早いし、お茶でもしませんか」と言った。
「うん、いいよ」と諏訪。
 夕方のこの街を歩くのは初めてだった。二人はコーヒー・チェーン店の二階に席を見つけて向き合った。青木はほんのりと酔いを感じていたし、諏訪も少し赤い顔をしていた。
「やっぱり僕は危ないですかね」と青木が言った。
「いや、そんなことはないよ。経営者というのはベテランで、年寄りの俺や桜井先生みたいのを嫌うものだよ。ひと癖ありそうな奴は煙たがられるのさ」
「そうですかね」
「それより青木先生のような一流企業を終わったひとは、悠々自適で年金もたっぷりだからいいが、俺のような安い年金生活者はどうなるんだ。なんとか今のところに入れてもらったはいいが、もう他にはいけないよ」
 青木の年金は、夫婦二人だけのつましい暮らしを維持するには十分だったが、若い学生たちとの接触、新たな挑戦をもたらしてくれた日本語教師の仕事は青木の活力になっているのだ。できたら、この生活を続けたかった。
「ところで、青木先生は登録日本語教師のほうはどうなんです」
「Eラーニングの講習は終わったけど、試験も受けなくてはならないんです。それも頭の痛いところですよ」
 日本語教師は二年ほど前から国家資格に切り替わろうとしていた。その経過措置のために日本語教育能力検定試験に合格していない青木はEラーニングの講習と本試験を受けなくてはならなかった。Eラーニングはコンピューター上で好きな時間に視聴し、確認テストに合格すると次に進むのだった。青木は初めてのことで、戸惑ったものだ。それに、結構な金額の受講料が必要だった。この試験のための経費は、二年間の義務勤務を条件にKE国際学院が出すことになっていたが、それはどうなるんだろうと青木は思った。
「諏訪先生はどうなんです」
「俺は日本語教育能力検定試験に合格している原職者だから、本試験なしでEラーニングを受けるだけだよ。いまは合格通知を待っているところさ。ラッキーだったよ。でもそんな先まで日本教師をやっているかどうか……」
 この制度によれば、登録日本語学校で働く者は登録日本語教師でなくてはならないことになっている。身売り先の大手日本語学校は、登録日本語学校になる可能性があり、試験合格は必須条件になるだろう。
「青木先生、まだ経過措置の段階で、制度が動き出すのはもう少し先の話ですよ。どうせあと数年の教師生活だから、心配には及びませんよ。でも、コロナ期に非対面授業についていけない教師が篩にかけられたけど、今度の登録日本語教師でまた脱落組が出るのは確実だな」
「僕はね、長い宮仕えでは感じられなかった充実感を日本語教師に感じているんです。一日でも長く続けられたらいいなと思っているんです」
「そういえば、桜井先生は未亡人の一人暮らしだから、仕事がなくなったら老け込むかもしれないなあ。しかし、誰だって潮時ってのがあるんだから、しかたないさ」
 二人はコーヒーを飲み干し、少し酔いがさめた頃に立ちあがった。

 夏の学期が終わって講師会が開かれたが、その日の講師会はいつもと違っていた。いつもは青木のような非常勤講師の参加は任意で、もちろん無給だったが、その日の講師会は授業時給は出ないものの、イベント時給が出るとのことだった。イベント時給というのは、学校の遠足とか運動会などのイベント参加者に支払われるものだった。「重要なお知らせがあるので、極力参加されたい」との通知が来ていた。間違いなく身売り問題についての説明があるに違いなかった。
 いつもは仕切られている教室の仕切りが外され、広い会場が作られていた。初めは新任講師の紹介や前学期の状況説明、さらに来学期の学生数の見通しや業務変更の連絡だったりした。これはいつものパターンだった。
 最後に校長の話があった。
「いつも、学校のためにご尽力いただきありがとうございます。今学期も無事に終わり、来学期も迎えられそうです。しかし、皆さんもお気づきのこととは思いますが、コロナ期を境に、学生数の伸びが芳しくなかったうえに、ズーム授業や電子黒板の導入など、経費の嵩む状況となりました。本校は韓国からの留学生が多かったのですが、最近はほかの国からの留学生が多くなり、送り先会社の開拓も必要になりました。留学生も中国、ベトナムはもとより、ネパールやミャンマーからの学生も増えてきて、本校のネットワークだけでは難しくなってきました。そこで、現在大手の日本語学校の傘下に入る交渉をしているところです。講師の皆さんや職員の方々からの要望もあり、それを活かしながら交渉を続けてまいりました。とりあえず、春学期から看板だけを変えて建物も皆さんの雇用も継承することで話がまとまりました。しかし、その期間は基本的に秋学期の終わる九月末までとなりました。それまでに契約更新のある方は順次新会社との交渉になるとのことです。私の力不足でこれが精一杯の条件となりました。なお、私は新会社に移行するまでは校長職を努めますが、それ以降は新しい校長になると思います。私としても、次学期が最後となります。最後までご協力のほどよろしくお願いします」
 何人かが校長への労いの言葉を伝え、質問もあったが、校長の説明以上の答えはなかった。校長の挨拶が終わると、講師会の式次第は終了し、散開となった。 「諏訪先生、昼飯でもどうですか」
「ええ、いいですよ。じゃ、いつものところへ」
 猛暑だった暑さは収まり、気持ちのいい秋風が吹いていた。
 いつもの席が空いていて、二人は向き合った。
「青木先生、一杯だけ行きますか」と生ビールを頼み、ランチセットの定食を注文した。
「要するに、春までに身の振り方を考えろということですよね」と青木。
「どうやら専任の先生方のなかには労働組合を作らないと雇用は守れないという動きがあったらしいが、例の副主任たちの説得でおじゃんになったらしい。そんなのを作ったら身売りの話そのものがなくなりかねないってね」
 生ビールが並んで、二人はジョッキをぶつけた。
「諏訪先生は、実績もあるベテラン教師だからいいけど、僕は駆け出しの教師だし、何よりも高齢者だから心配です。国家試験に合格できるかも未知数ですからね」
「聞くところによると、行先の学校は正規職の専任教師は雇用延長も入れて六五歳までで、俺らのような非常勤講師は七五歳までらしいですよ。まあ、前期高齢者までは大丈夫だけど、後期高齢者はアウトです。桜井先生はアウトで俺は数年先だが、青木先生はまだ大丈夫だよ」
「いや、登録日本語教師にならないと、危ないかもしれない。今度の試験が心配です。どうも僕は音感が悪いようで、アクセント問題はチンプンカンプンですからね、たぶん無理でしょう。実は去年受けたけど不合格だったんです」
「そうですか。俺は後期高齢者まであと二年だから、それが潮時かなって思っているんだ。カミさんにもそう言っているんだ。諏訪先生はどこか外国にいたんでしたよね」
「ええ、中国にいたんです」
「だったら、海外に出るのはどうです。海外生活に抵抗感がないんだったら、それもいいかもしれませんよ」
 外国人教師は雑務もないし、決められた時間数の授業だけで、長い休みにも給料が出るんだから、楽なものだと諏訪はしきりに勧めた。青木は南京での生活を思い出した。生ビールが半分ほどになったときに、ランチメニューがテーブルに並んだ。二人の会話はそれっきりになり、まもなく高田馬場駅で別れた。
 日本語学校は九月中旬に学期が終わり、青木は契約更新して二週間ほどの秋休みに入った。青木は本試験のための勉強を始めていた。養成講座での教材を引っ張り出し、Eラーニングの講習を見直したりしていた。
 なによりも諏訪からの提案を考えてみようという気になっていた。サラリーマン時代の南京生活が思い出された。ネットで中国での日本語教師募集情報を覗いてみたりもしていた。青木はひょんなことから日本語教師になったが、この二年の間に日本語教育の世界を知ることになった。日本語教育の世界は女性が幅を利かせる職場だった。女性が語学教育に向いているというよりも、男性はこの世界では長続きしなかった。日本語教育の現場の賃金水準は他業種と比べて低いので、子供への教育費負担が増えたり、住宅ローンに悩まされるたりするようになると、転職を余儀なくされる場合が多いのだった。したがって、若い教師、それも女性が多かった。それを補っているのは非正規職の非常勤講師だった。桜井のような主婦や青木のような退職組である。この非正規職の多用は経営的にもメリットがあった。まず、学生数の増減によるリスクの安全弁になっていたし、社会保障費の負担がない。ほかの職種より時給がよいから、日本語教師になりたい人も後を絶たない。それよりも何か文化的なイメージがあり、国際交流の一端を担っているという矜持のようなものがあるのだった。社会の、それも国際社会の役に立っているという自負が大きい。それは錯覚に過ぎないと青木は最近思うことがあった。労働者にとって労働の意味に違いはないはずなのに、あなたのお仕事は別物よという囁きに弱いのだ。
 南京にいたときは、近場の中国南部を旅行していたので、もし行くことになったら東北地方にしょうと考え始めていた。妻はどう思うだろう。職場結婚した妻は基本的に専業主婦だったが、パートで働いたりしていた。それは生活のためというよりも、生活の張りだった。青木が南京に単身赴任したときには、短い滞在だったが、南京にやってきて一緒に旅行に出かけたりしたものだ。そんなことがあったので、今度も反対はしないだろうと青木は思った。
 まもなく青木は妻と話す機会があった。外にランチに出て、食後のコーヒーを飲みに行ったときだった。いつものコーヒー・チェーン店ではない静かな喫茶店だった。
「どうしたのよ、こんな高いカフェなんかに来て…」と妻は言った。
「たまにはいいじゃないか。静かに話したいときもあるんだ」
「…………」
 コーヒーが置かれて、一口啜って青木は話し始めた。
「諏訪先生のこと話したよな」
「ああ、ベテラン教師で酒飲み友達の……」
「うん、日本語学校が身売りするのも話したよな。そうなったら、俺はかなり危ないんだ。真っ先に切られちまう。そこで諏訪先生と話したら、外国にでも行ったらっていうんだ」
「外国?」
「ああ、中国だったらちょっとは知っているし、俺のようなキャリアでも就職先があるようなんだ。せっかく始めた日本語教師だから、もう少しやってみたくてね。それに南京生活は楽しかったから、そうできたらいいなと思ってね」
「だって、通院はどうするのよ。薬だって飲まなくちゃいけないし……」
「それは医者とも相談するし、長い休みに帰ってくればいいさ。心配ならあんたがたまには見に来たらいいさ」
「あんたのことだから、もう着々と進めてるんでしょ」と妻は笑顔を見せた。
 その笑顔は承諾というよりも諦めに近いものだと青木は思った。六五歳でリタイヤした時には想像もしていなかった退職後の新たな人生が、またひとつ始まる予感があった。

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