松川事件、三鷹事件、「新しい戦前」について  2023年12月17日

                         労働者文学会   福田玲三


(本日は師走のお忙しい中、ご参会くださいまして有難うございます。馬齢を重ねた凡人の人生を回顧し、とくに、3つの項目について、報告させていただきます。)

Ⅰ 松川事件:救援運動は最悪の条件から出発した


 私は、戦争から帰った翌1948年に、郷里を出て上京した。そのころ、東京へは縁故がなければ流入できなかった。幸い、戦前から労働組合活動をしていた義兄が東京にいた。
 
その義兄の紹介で、国鉄労働組合の文化部に試験を受けて就職したのは翌49年6月末、25歳のとき。初出勤は7月5日、ちょうど下山国鉄総裁が行方不明になった当日。
 
その日、東京駅北口の運輸省5階に間借りしていた国労本部にいた役員は、後に副委員長になる菊川孝夫ただひとり。あとの執行委員、闘争委員は全員、それぞれのアジトにこもり、団体交渉の対策を検討していた由。そこに、昨日まで団体交渉で相手にしていた国鉄総裁の、突然の行方不明のニュース……、菊川委員は、他の委員がいないがらんとした部屋で、「第三国人の仕業だ!」と叫んだ。(後で考えると、根拠も何もない、彼自身のカンの発言だった)新聞記者が2,3人居たかもしれない
 
その10日後の7月15日に三鷹事件が、翌8月17日に松川事件が発生した。
 
私は当時、戦前の学校で学んだフランス語関係の仕事に就きたく、国労就職はそれまでの当座の腰掛のつもりで、組合活動についての知識は皆無だった。
 
それに、国労自体も定員法で共産系の執行委員は馘首され,反共民同に指導権が移ったため、三鷹事件や松川事件への関心は薄く、翌50年12月、まだ占領下の福島地裁で行われた松川事件の第一審判決(死刑5名、無期懲役5名、その他の懲役10名)にも、ほとんど私は無関心で、松川事件に注目するようになったのは、それから2年後、組合外での世論の高まり、たとえば、仙台高裁の判決前、53年の雑誌『世界』2月号「松川事件特集」によってだった。
 
『世界』2月特集号から4カ月後の6月に開催された国労第12回大会(鬼怒川)では、福島県の郡山工場支部出身吉村吉雄中央委員らが提出した緊急動議「松川事件の公正裁判要求と現地調査団の派遣」が圧倒的多数によって決定された。事件の地元、仙台地方本部内で、共産派と対抗していた民同派の吉村中央委員らが、その共産派の被告を救援する動議を提出したことに、私は感動した。
 
国労大会の決議を受けて、翌月、総評大会が公正裁判要請を決議した。もっとも、日教組などは、すでに、その前年に救援を決議していた。
 
大会決議にもとづき、国労機関誌『国鉄文化』の記者として、私が53年12月22日の松川事件第二審判決を取材することになった。
 
判決日が近づくにつれ、読売新聞記者の取材から、有罪判決は間違いないと関係者に分かった。そのことを、病気で執行停止中の佐藤一被告らは聞いたが、獄中の被告には知らせない配慮が払われた。
 
判決日は朝からどんよりと曇って寒かった。仙台高裁前には傍聴希望者の長い列ができていた。私が国労本部の機関誌から取材にきたというと、すぐに別口の傍聴券が渡され、そのまま入廷できた。
 
法廷は午前10時に開廷され、満席の傍聴席を前に、鈴木禎次郎裁判長が判決要旨の朗読に入った。

 
主文、原判決を破棄する。
 
被告人,鈴木信、同本田昇、同杉浦三郎、同佐藤一を各死刑に処する。
 
被告人、阿部市次、同二宮豊を各無期懲役に処する。
 
被告人、高橋晴雄、同太田省次を各懲役十五年に処する。
 
被告人、赤間勝美を懲役十三年に処する。
 
被告人、浜崎二雄、同加藤謙三、同佐藤代治を各懲役十年に処する。
 
被告人、二階堂武夫、同大内昭三、同小林源三郎、同菊池武を各懲役七年に処する。
 
被告人、二階堂園子を懲役三年六月に処する。
 
被告人、武田久、同斎藤千、同岡田十良松は孰れも無罪。

 
ついで判示事実の朗読に入り、およそ18分ほどつづいたとき、突如、佐藤一が起立し、「裁判長、それは何ですか」絹を裂くような声を上げた。ついで被告たちがこもごも立って発言し廷内は騒然。やがて鈴木信が代表して発する許可を与えられ、「あなたは何とおっしゃってもわれわれは実際やっていない。全くやっていない」と、気持ちが高まり、くりかえす。そのとき、山本弁護人が高橋陪席裁判官を指さし「にやにや笑っている」と詰問。「笑うのは僕のくせで」と陪席が弁明。廷内がふたたび轟音に満ちた、そのとき、岡林辰雄主任弁護人が立って、湖面にわたる風のように静かな声で語りかけた。
 
「裁判長は直接死刑に手を下すことはないでしょう。しかし、いやしくも人に死刑の宣告をなすとき、にたにた笑うような裁判官にわれわれは断固として抗議せざるをえない。このようなことをいやしくも人間性のあるものが黙っていられますか。けだものの行為ですぞ!」。
 
静まりかえった法廷で、鈴木被告が発言をつづけた。「実際やっていないのに、どうして有罪の判断になるのか!」。裁判長「被告はやらないと主張しているが……」。被告たちが立って、いっせいに「主張ではなく、真実だ!」と叫ぶ。つられて裁判長が「やっているかいないかは神様しかわかりません」と抗弁した。このわれを忘れた発言で、判決に自信のないことを、裁判長は自ら明らかにした。
 
そして、裁判長は職権で佐藤被告に退廷を命じたが、廷吏も看守も動かず、ついに弁護団に促されて、休憩を宣言した。
 
午後の法廷が開かれたとき、裁判所の廊下は警官と看守で一杯になっており、それに抗議して被告団は退廷、裁判長は被告のいない法廷で判決理由要旨を朗読した。
 
夜になって本降りの雪のなか、仙台市公会堂で開かれた抗議大会には2000余の支援者が詰めかけた
 
運動の前途には、なお絶壁が立ちはだかっているが、この時点に至るまで、松川運動は、次のように、考えられる最悪の条件から出発していた。

① 被告たちの多くが所属していた共産党は、当時、主流派と国際派に分裂し、被告たちが頼れる状況になかった。
② 被告たちが属していた労働組合では反共民同が執行部をにぎり、支持を全く期待できなかった。
③  被告の家族たちは、人前で話した経験もなく、途方に暮れ、少しも力にならなかった
④ 報道機関は、法廷で次々に明らかされる真実を全く伝えず、反共宣伝を一貫して続けた
⑤ 被告たちは投獄され、無実の訴え直接ができなかった。
⑥  前例として、1911年に幸徳秋水ら12名が処刑された大逆事件、米国では、1920年に逮捕され8年後に処刑されたサッコ=バンゼッティ事件など、この種の権力による(ねつ)造事件で死刑を宣告され、生きて帰った事例は、国内外になかった。

 
孤立無援の状況下で、運動は下記のように進められた。
①  被告20人のうち、権力の強制によってウソの自白調書を作られた8人を、その他の被告たちは責めることなくかばい、鼓舞激励し、立ち直らせ、20人の団結と統一を守り続けた。
②  それぞれの住所も家業も考え方もばらばらで、人前で話した経験もない家族を、後に松川事件対策協議会事務局長になる小沢三千雄弁護人などが家族会にまとめた。全国各地に初めて訴えに出た家族たちは、組合訪問や懇談会のあと、無罪釈放の署名用紙を手提げ袋の中から取り出し,きれいなのも汚いのも、丁寧にしわを伸ばし、たんねんに処理していた。その姿に、人々は同情を深めた
③ 51年11月に仙台で労農救援会第六回全国大会が開かれ、その際、無罪釈放署名に対して公正裁判要請の意見が出されたが、この意見は正式には取り上げられなかった。この要請が、階級裁判の本質をぼやかし、裁判は公正という幻想を助長すると受け止められたためだ。しかし、現実の運動では、公正裁判要請と無罪釈放の署名が並行して進められ、裁判の内容を十分に知らない労働組合や、すこしでも裁判に関心を持つ人にも、運動に参加してもらい、そのなかで無罪の内容を知ってもらうことができた。このことは現地調査の経験によって一層はっきりした。二者択一ではなく、また相対立することもなく、相補って運動の発展することが理解された。
④ 法廷のなかでどんなに真実が明らかにされても、その真実が法廷外の大衆に知らされず、社会的な怒りと闘いが組織されなければ真実が勝利しないこと、法廷内の事実とは逆のことがマスコミによって伝えられれば、真実が勝利し得ないことが、一審公判のなかで明らかになった。その段階で、岡林主任弁護人による「主戦場は法廷の外にある」の訴えが定まり、その方針にしたがって運動が展開された
⑤ 被告の手記『真実は壁を透して』が第二審判決の直前、51年11月に発行され、これを読んだ宇野浩二の「世にも不思議な物語」が『文芸春秋』53年10月号に、広津和郎の「真実は訴える」が『中央公論』の同じ10月号に掲載され、運動の拡大を促進した。
 
どんな新聞、雑誌でも、読者欄がある、これらを活用すること、とくに青年を対象としている雑誌や農村向けの雑誌『家の光』などを重視し、獄内外の被告がいっせいに文書活動にとり組んだ。
 
被告たちはまた、心血を注いで、最高裁宛の「上告趣意書」をかきあげ、それを大塚一男弁護人らが全部目をとおし、不明な点はすべて書き直させた。
⑥  前記の小沢弁護人は救援関係機関に次のような書簡を送っていた。「大水におし流され、おぼれようとしている人を見たら、誰でも理屈なしに、手早く助けようとする心が湧いてくるのは自然のことだ。無実の人が殺されようとしているとすれば、誰でも、どうにかしてそれを救う方法はないかと考えるのが、人の常である。人の心には、ヒューマニズムから発する怒りと悲しみ、助け合いの心がある。ここから行動がはじまる。」と。このような人間の善意への強い信念が運動の基礎にあった。

 
全員無罪が確定した翌64年9月、松川事件現場を見下ろす丘のうえで、松川記念塔除幕式が行われた。その塔にきざまれた広津和郎起草の碑文に次の一節がある。
 
「この列車転覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労組員10名、合わせて20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、思想を越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曽有のことであった。救援は海外からも寄せられた
 
かくして14年の闘争と、5回の裁判とを経て、ついに1963年9月12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。
 
人民の力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。」
 
 さて、私が戦前、戦後を振り返るとき、日本人は自国の戦争犯罪人たちを自力で断罪できなかった情けない国民だと思う。それどころか、これら戦犯を靖国神社に合祀し、そこに国会議員らが列をなして参拝している。これら国会議員は、まさに戦争挑発者であり、国賊と呼ばれてしかるべきである。外国からの非難を受ける前に、日本人自身が弾劾すべきものだ。
 
他方、松川運動で真実と正義のために結束した人民の規模は、内外の歴史にも未曽有だった。その運動の基礎はヒューマニズムであり、ヒューマニズムから発する怒りと悲しみ、助け合いの心であり、無実の人が殺されようとしているとすれば、どうにかしてそれを救う方法はないかと考える、人の世の常道だった。
 
この地道なヒューマニズムと被告の家族たちの真心が火種となり、燎原の火のように広がったのが、内外の歴史に未曽有の日本人民の結束であり松川の運動だった。
 
私は、靖国神社に参拝する国会議員たちを、そしてまた、彼らが代表する日本国民を、嫌悪する。逆に、松川運動に結束した日本人民を信頼する。私の人生の希望は、つねに、この信頼に基づいている。
 
2006年2月に96歳で亡くなられる前年の7月、私が千葉県鎌ケ谷市のシルバーケア鎌ケ谷に、前記の小沢三千雄・元弁護人を見舞うと、ほとんど耳の聞こえなくなった小沢さんが大きな手をさすりながら、「日米の帝国主義と闘って勝ったんだからなぁ」とつぶやいた。それはまさに日本人民が勝利した偉大な経験だった。この経験を活かしたいのが私の願いだ。

Ⅱ 三鷹事件における竹内景助氏の風呂場のアリバイについて  

 (まず、三鷹事件の概要を紹介します)
 
三鷹事件は1949年7月15日の夜9時24分、中央線三鷹電車区構内の無人電車が、三鷹駅下り1番線に時速60㎞以上で暴走、車止めに激突して転覆、死者6名、負傷者20名を出した事件。国鉄労働組合に属する組合員10名の共同謀議による計画的犯行として起訴され、50年8月11日の第1審は共同謀議を「空中楼閣」として退け、被告9名に無罪、竹内被告だけが、単独犯行として無期懲役。51年3月30日の第2審は、書面審理だけで、無期を死刑に変更。55年6月22日の最高裁は8対7の1票差で死刑を確定。
 占領下の裁判では全員無罪の判決は無理だった。そのため、竹内氏一人が犠牲の山羊とされた。竹内氏は再審申立て中の67年1月18日に獄死。2011年11月30日ご長男が遺志を継いで第2次再審を請求。2019年7月31日東京高裁で再審請求棄却。同年8月東京高裁が異議申開始。2022年3月1日東京高裁が棄却決定。同年3月7日最高裁へ特別抗告。

 
(裁判は今も係争中であり、被告の故竹内景助氏は、事故発生時に電車区構内の風呂に入っていたと、一貫して主張していた。後述するように、私はこのアリバイはなお生きていると思う。そして幸か不幸か、この風呂場のアリバイは一度も法廷に出されていないので、これを提起すれば新証拠として再審請求における貴重な要件になるだろう。私はこのアリバイをぜひ皆さんに確かめていただきたい。そして新たに研究会を開き、一緒に勉強してくださる人を求めたい。)

 
さてここに、風呂場のアリバイについて、竹内氏の同僚の口述書が、下記のとおり2通ある。(1955年<最高裁判決>後に執筆された『三鷹事件再審理由補足書』に所載。)

口述書
 ……事件のあった昭和廿四年七月十五日二十一時(夏時間)少し過ぎ私は電車区の風呂え行きました。
 
中には教習所の教官である丸山広弥さんが居りましたから挨拶をしました。それからすぐ停電になりましたが間もなく点灯しました
 
点灯してから私は湯ぶねの中え入りました。そこには他の人達も二三人、入っておりました(氏名については判りません)その時湯ぶねの外に、竹内景助君の姿を見かけました。
 
行政整理の直後の事とて竹内景助君の立場に同情する者もあり、話題も其の方に変わりました。将来の事を考える竹内景助君に皆と一緒に組合の事や、就職の点に就いても語り合っておりました。其の間に再度停電になりましたが、入浴を終わって寝室に行った時に三鷹駅で事故があったと聞かされたので運転事務室に行きました所、数人の人達が事故に就いて話し合っておりました。
 
右の通り相違ありません。
  
昭和三十一年三月五日     東京都江戸川区来岩町六丁目八八七番地
                                           
小倉 照男  印

口述書
 
……三鷹事件のおきた昭和二十四年七月十五日午後九時ごろ(夏時間)私は三鷹電車区構内にある風呂に行きました。風呂に入ってしばらくして停電があってすぐつきました。その時、竹内景助君は湯舟の中で誰かに、首になったと言っていることを私は聞いていました。
 
そして私も竹内君と「就職口をみつけてくれ」とか「見つけなきゃならない」というような話をしました
 
それからしばらくして私は風呂から出て運転事務室によったら、四五人「人の乗ってない電車が駅の方え走っていった」と岩崎助役か岩田助役のどちらかが言っていたように記憶しています。
 
それからまもなく停電しました。
 
右の通り相違ありません。
  
昭和三十一年三月五日       東京都北多摩郡国分寺町二四六六番地
                                            丸山 広弥 印

  また、竹内氏自身は次のように書いている(同上『再審理由補足書』)。
 
 「私は……湯ぶねにつかって五分くらいしてから一旦湯ぶねの外に出て躰を洗おうとしたら電灯が煽って消えたりついたりし、まもなく停電しました。皆んな口々に『なにをいたずらしてやがるんだ。ヒューズをとばしたなぁ!』と騒いだけれど、別に修理の催促にゆく者もなくいるうちに、数分して点灯しました。当時の停電は、私の体験では次の状況でした。
(図解)
 それから躰を洗い流して湯ぶねに入り、ヒゲを剃るために出ようと立上がって後ろを見たら、そこに元電車区員で、運転士、検査掛も一緒にやり、教習所教官になっていた丸山広弥氏が居るので、一年に一度会うかどうかという久しぶりなので、私は挨拶をし『今度の整理では馘首されてしまった』ということや、立川や八王子の分会の模様や、就職口があったら紹介してくださいよなどと話をしました。丸山も同意して『まったくひどい首切りだねぇ、方々でもさわいでいたよ。竹内君も、あんなに大ぜいの子供を抱えて之からどうするんだい』と慰め励ましてくれたので、私はなお湯ぶねの中に立った格好のままで『兎に角、十把ひとからげの首切りなんだから仕様がないです。八王子機関区の十八年勤めて首切られた人が一家心中したという気持が分かりますよ。しかし発令されてしまったのだから今更泣きごとは言いません。そんな暇に明日から仕事さがしです。区長は欠員が出たら優先的に採用すると言いましたが、それよりも一日も遊んじゃあいられないから、どうかうまい口があったら紹介してください。頼みます……』と、一、二分話をしました。
 そのうちに、私が湯ぶねから上がってヒゲ剃りに鏡の方えいったとき、やはり左側の脱衣所の入り口から運転士の小倉照男君が入ってきて丸山氏と挨拶を交わして話をしているので(鉄道教習所で、私は丸山氏より二期後輩。小倉君は私より三期後輩で、小倉君は丸山氏を師匠にして乗務見習をした関係がある)私は、鏡の台に置いていたカミソリでヒゲを剃りました。その間、丸山氏は子供も連れてきていて、ときどき小言をいったり、小倉君と仕事の話などしているようでした。
 
私がヒゲそりを終って、湯ぶねに入るとき、湯ぶねの外の北側に運転士の大谷英三郎君が入ってきて湯を使うのを見た記憶があります。私がこうして、高橋、青木、丸山、小倉、大谷と憶えている人を見たのは同時ではなく、二十余分の入浴中に、だんだん入り代った中で顔見知りしている人たちです。
 湯ぶねから出て西側の水道の水をかぶってから躰を拭こうとしたら再び停電しました。皆は『どうしたんだ、しょうがねえなぁ!』と言い合い、丸山氏が子供を叱っていたのを記憶します。その頃、風呂の中には、やはり五、六人入っていましたが、以上の人の他は憶えていません。私は、電灯が消えてまっ暗だけれど、毎日入り狎れている風呂なので躰をふいてすぐに脱衣所え出ました。そのとき、私のそら耳でなければ、たしか風呂場の中から、検査掛の赤尾長太郎氏の『こんばんわぁー』という、ききなれたのんびりした声が聞こえたので、赤尾氏は風呂の中にいなかったので、裏の汽缶場の戸口から入ったのだと思います。……
 私が脱衣所を出るとき丸山、小倉、大谷君らはまだ入ったばかりなので風呂場の中に居り、殊に丸山氏は停電したのでまごまごしている男の子に、ぐずぐずしていないで早くしろ、など叱言をいっているのをハッキリ聞きました。私が脱衣所に出て服を着ているとき、まん前にある運転当直室の開け放った窓を通して、何やらガヤガヤ電話で、大声で叫ぶように話しているらしい声がきこえましたが、私が外え出たとき、誰かが運転当直事務所の出入口からとび出し『駅に事故がおきた、たいへんだ、行って見てこなくちぁならん…』と叫び乍ら、構内通路を三鷹駅の方に向かって駆けてゆきました。それから、運転当直助役二人がいる当直室の中を窓の外から見ていましたが、中にも私の近くにも二、三人の人がいて、事故だ、何の事故だ、電車区の電車が起こしたらしい、などと聞いた憶えがありますが、そのときはまだ、電車区機関区等に居る者ならよくぶつかる(他区の事故復旧作業にも応援にゆくので)接触脱線事故か、踏切の事故か、ポイント事故か、そういう種のことと想っていましたが、とにかく家に帰ると、そのままの格好で直ぐに駅前え行きました。そのとき、家の中も停電していましたが、私が台所から見たら、六畳の間には蚊帳が吊ってあるのが、白い蚊帳なのでボウッと分かりました。」 

 さて、このアリバイは第一審でどのように扱われたのか。『三鷹事件』片島紀男(NHKディレクター)著は次のように記している。
 
 「竹内は幾度か『自供』を変転させているが、たとえ『単独犯行』『共同犯行』を自供していようとも、この風呂場の証言だけはいつも同じである。事件が起きた時、竹内が丸山と一緒に風呂に入っていたというのは、動かせない事実なのである。
 実は、竹内のアリバイを証明する丸山広弥が証人として法廷に出るチャンスが一度あった。
 一九四九年一二月二日、検察側が三鷹事件第六回公判前の準備公判で計一一〇名に及ぶ証人喚問を裁判所に申請したが、その中になんと丸山広弥の名前があったのである。検察側提出の『証拠調請求書』を見ると、『証人番号八四番・坂本安男』の次が『証人番号八五番・丸山広弥』となっている。しかも検察側は丸山喚問の理由として、『本件発生当時三鷹電車区浴場にいたこと及び同浴場内で見聞した事実の立証』をあげている。
 検察側はなぜ丸山を証人として喚問しようとしたのか。まさか竹内のアリバイ立証のために丸山を法廷に呼ぼうとしたのでないことは当然である。
 
検察側の狙いは、竹内のアリバイを主張する丸山を坂本の次に法廷で尋問することで、丸山に証言の変更を迫り、竹内のアリバイを崩そうとしたのであろう。
 社会評論家の高杉晋吾はこう書いている。(と片島本は続ける)
 『そのことは、検事が八十五番丸山広弥と八十四番坂本安男をならべて証人にしていることで判る。つまり坂本に『当日九時二十五分に竹内に会った』と証言させれば、丸山はそれにツジツマを合わせるべく、入浴時間を遅らせて証言させようと仕掛けたのだろう。それはミエミエである』(「三鷹事件の真犯人を追いつめる」『現代』83年4月号)
 しかし検察側の狙いがどうであれ、竹内のアリバイを立証する『丸山証言』が仮に法廷に出ていたならば、三鷹事件の公判はまったく違った展開を見せていたであろう。
 
ところが、丸山は証人とし、ついに法廷に立つことはなかった。なぜか。
 実は意外なことに、なんと弁護団のほうが丸山広弥の証人喚問を拒否したからである。
 
 『検事側の証拠請求にたいする被告人、弁護人側の意見』という公判資料が残されている。それによれば、理由は『関連性なし』となっている。
 『八四番・坂本安男』の証人喚問には『可然』としながら丸山の証人喚問に弁護団はなぜ反対したのであろうか。『関連性なし』とは一体どうゆう意味なのか。
 
一二月一二日第六回公判に弁護団から『証拠調請求書』が提出されたが、八三名にのぼる証人尋問請求の中にも丸山広弥の名前はない。なぜであろうか。竹内を含む被告全員の無罪を勝ち取るとの方針を掲げていたはずの弁護団がなぜ竹内の無罪を立証する『丸山証言』が法廷に出ることを拒否したのか。これは今もって三鷹事件の裁判の最大の謎となっている。」(以上、片島本からの引用)

 そのあと片島紀男氏は、その謎の解明を試みているが、結局、弁護団全体の重点が共産党の冤罪そそぎに傾き、竹内氏には関心が薄かったためか、としている。
 ここで、証人の坂本安男について説明しておこう。
 
竹内氏有罪の証拠として、第一審判決は、竹内氏の「自白」以外にもう一つ証拠をあげている。事件発生の夜、三鷹電車区正門前の道で竹内景助に会ったという元三鷹電車区技工、坂本安男の証言だ。彼は当夜午後九時一八分三鷹駅到着の電車から降り、帰宅の途中、同九時二三分の停電(事故発生時の停電)直後に、(電車を暴走させた後、官舎に帰る途中の)竹内氏に遭遇した、というものだ。坂本は結局警察に操られた人形だった。竹内氏よりも一〇歳以上年下で、国鉄への入社が八年も若い後輩の坂本が、その時、竹内に『オス」と声をかけたと証言しているのだから話にならない(しかし、一審判決はこの坂本証言を証拠としている!)。仕業検査掛の荻島美信がある夕方、坂本に「新聞に出ていたけれど(あの証言は)本当か」と聞いたら、坂本は「竹内に正門前で会ったと言うように実は警察に言わされたんだ。そしてあまりうるさいから田舎に帰る」と言っており、その言葉通り、彼はどこかへ姿を消してしまった。
 ところで、風呂場のアリバイは現在どう扱われているのか。現弁護団長・高見沢昭治著『無実の死刑囚』増補・改訂版に、次の記述がある。
 「……従来、竹内は本件電車に乗り込んで暴走させたという時間に構内の風呂に入っていて、電気が消えて暗い中で同僚だった者たちと話をしていたという竹内の主張と、それを裏付ける何人もの口述書などが残されていたことから、本書の初版本ではそれをかなり詳しく紹介し、再審請求の初期の段階でも、それを竹内のアリバイだとして主張・立証した。

 ところが、竹内が停電の中、構内の風呂で何人かと話していたことは事実であるが、東京地裁の第四六回公判で証言した妻の政は、『竹内は私の布団の横で本を読んで居りました』『私は赤ん坊に乳をのませ乍ら寝ていました』『証人はそれから竹内がどうしたか知らなかったのか』『竹内が停電になってから風呂に行って来ると言って出かけたのは知って居ります』と明確に述べており、さらに、今度の再審請求の弁護団からの証拠開示請求によって、検察側から『三鷹事件停電状況図』が提示された。それを見ると九時二三分(事故発生時:福田注)の後、一七秒停電、一〇秒通電、一九秒停電の後、九時五六分から一〇時五分の間の九分間停電したことが明記されている。
 竹内本人も、これも新たに開示された逮捕直後の八月一日付調書では『夕食後、新聞や雑誌を読んで居りますと電灯が二回位消えました。その消えた期間は一分から二分くらいですが、時間は判きりしていません。私は本も見つかれましたから、子供を先に寝かせるつもりで布団をひき電車区の風呂へいく途中運転事務室の傍らにある掲示板を見ていると又電気が消えました(下線・福田)。私はその足で風呂に行き入浴しているときに電気がつきましたがその間は五六分くらいと思います』と供述していることが分かった。

 『三鷹事件停電状況図』で明らかになった事実に照らし、電車が発車し暴走する時間に入浴していたというのは実態にそぐわないこと、妻政の法廷証言や竹内本人の初期供述の信用性が高いことから、弁護団では電車が発車し暴走した時間には竹内は自宅にいたことは間違いないと判断し、むしろそのことによって竹内のアリバイが完全に成立すると主張を変えた。」と、弁護団長は記している。

 弁護団が、この主張を変えて再審を請求したのは2011年11月であり、2019年7月に東京高裁第四刑事部は、この請求を棄却した。つまり、竹内氏の、この官舎でのアリバイは認められなかった。
 
そこで私が改めて考えてみると、自宅でのアリバイよりは、風呂場における数人の同僚によるアリバイの方が、格段に立証価値が高いのに、なぜ弁護団は主張を変えたのかという疑問だ。弁護団の先生方も知恵を集めての判断だと思いながらも、私は風呂場のアリバイへの未練を捨てられない。
 そこで私は以下の諸点を思いついた。

①  「三鷹事件停電状況図解」を検察側から提示されると、なぜ、竹内の官舎における停電が、事故発生時の停電であると、弁護団は主張を変えたのか。九時二三分の事故発生における停電の前にも別の停電があったのではないか、と私は疑う。
 このことについて、片島紀男著『三鷹事件』に次の記述がある。
 「……事故発生前に短い停電があったことは、竹内以外にも記憶している人物がいる。たとえば、竹内の官舎近く、電車区正門前の東京鉄道局職員官舎『双葉荘』に住む中野電車区運転士、篠塚晴夫である。
 
三鷹事件第三〇回公判での篠塚の証言によると、九時二二、二三分頃、短い停電があった。奥さんが仏壇から持ってきたローソクに篠塚がライターで火をつけると、すぐに電気がついたのでローソクの火を消した。するとすぐに電気が消えて、また少しでつき、そして消えた。(これが竹内の官舎と同じ停電)。その後、また短い停電があり(これが事故発生時の停電)、そして九時五〇分頃、三回目の長い停電があった(これが一〇分間の停電)
 事故発生前の断続的な短い停電はなぜ記録にないのか。三鷹電車区構内の一部だけの停電なのか。それは三鷹事件の発生と何か関係があるのではないかと疑問視する説もあるが、今なお謎である。」と。
 
一方、小松良郎著『新訂版 三鷹事件』には、次のような記述もある。
 「事故発生前には停電はなかった(第九回公判における三鷹変電区長宮下憲太郎の証言『公判速記録」』〔九〕三一二頁)」

② 弁護団は、主張を変えて、竹内氏の官舎における停電が、事故発生時の停電と認定した。事故発生前に停電はなかったとの証言を取り入れたためと思われる。ついで運転事務室前の停電を九時五〇分の停電としたのだろう。それでは、竹内氏入浴中の停電をどう位置づけるのか。弁護団は検察側の提出した「三鷹事件停電状況図解」の前後に、停電のなかったことを前提にしていると思われるが、竹内氏やその同僚たちの入浴中の停電は説明がつかない。もっとも、その一方、風呂場で竹内氏が先輩、同僚と交わした会話の内容を否認してはいない。そのことに注目したい。

③ 検察側の筋書きを見てみよう。竹内氏が構内一番線で暴走電車の発進操作を終えたのは九時二〇分頃とされている。その現場から官舎に帰る途中、そわそわと歩く竹内に坂本安男が遭遇した後、官舎に帰った竹内が、すぐに入浴の支度をして風呂場に向かい、風呂場に到着したのは九時三五分頃とされている。それでは、異常な決意のもと、異常な発進操作を断行した被告と、気を静める間もなく風呂場に行き、いつもの仲間と、いつもの世間話を、いつもよりもいっそう親密に交わしている事実とを、どう結びつけるのか。そのような結びつきは、人間の経験則からしてあり得ないだろう。

④ 風呂場における会話の内容について、もちろん弁護団は否定していないし、検察側も竹内氏の入浴時間を遅らせることに気をとられ、風呂場における会話の内容に異議を提出してはいない。つまり暗黙の了解と解釈してよい。それでは犯人の異様な決意や行動と、風呂場における穏やかで親身な会話とはどう結びつくのか。両者は決して接合しない。前段が本当なら後段はウソ、後段が本当なら前段はウソだ。後段の風呂場における会話の内容については、上記のように、弁護団も検察側も、もちろん竹内氏やその仲間たちも、否定していない、確かな事実だ。それであれば前段、竹内氏の犯行という前段が偽証であることは明らかである。竹内氏のアリバイは、ここに完全に成立する。

⑤ 片島紀男は1997年3月②日、「丸山証言」を確認するために埼玉県大宮市在住の丸山広弥を訪ねている。竹内氏獄死の後、ご子息による第2次再審請求前のことだ。
 
そのとき、丸山は丁寧に次のように語っている。(『三鷹事件』片島紀男著)
 
「子供を連れて、電車区の風呂へ……行ったら竹内は風呂にいたんです。たしか顔を剃っている時に……。わしの方が先に行って入ったのか、竹内が先に風呂に入ってたか。その辺はあんまりはっきりしないんだけど、竹内はいるにはいたんですよ。たしか顔を剃っている時に……」
 ――いつ気づいたんですか、竹内の姿に。
 「あそこへ行って浴槽はこんなものですよね。ここの応接室は六畳だから。こんな浴槽があって、その周りにいるから、わしが浴槽の中に入っている時には、竹内がいるとか、小倉(照夫)がいるとかいうことはわかったんだけども」
 
――それは停電の前ですか、停電のあと?
 「いや、停電の前ですよ……
 
それで、わしが浴槽に入っているところをへ竹内が入ってきて、『よぉ』なんて言って挨拶をしてですね、あのころ国鉄の人員整理でクビの話をしていたですよ。クビというのは行政整理の定員法ですからね、それでクビになったとかならんとか、誰それがなったとかならんとか、そういう世間話的なことで竹内と喋った記憶はあるんですよ。だから浴槽に入っていたのは入っていたんですよ、一緒に。そしたら、風呂に入っている浴槽の中で停電があったですよ。『なんで電気が切れるんだろう』なんていう話で」
 ――その時に停電があったんですか、湯船の中で。
 
「あったんだと思うね。なんでも湯船の中で一回、それからあがるので、今の四角の棚のところの脱衣所の少し板場のところがあるんだがね、そこにいてシャツを着る。そういう動作をやっている時にまた消えたんだよ、二回目が。だから、浴槽の中で一回、それから衣類を入れておく脱衣所で、シャツを着る時に一回、『また消えたな』なんて言っちゃった。その時は竹内はどこにいたか、それはもうわからないでいた」
 
――そうすると、風呂場の中で二回停電があったと。
 
「二回だと思うんですね。とにかく脱衣所でシャツを着て外へ出る時は、もう電気がついていましたからね。それで竹内が先に出たか、私が先に出たのか。わたしがいったん家へ帰って、着替えてからまたいっぺん電車区へ行きました。その時、助役の岩崎さんがいたから、『なんで二回も消えたんだ。電気が消えたけど何かあったの』というようなことを言ったと思うんですよね。そしたら、『駅の方でなんか事故があったらしい』という話だから、それから駅へ歩いて行ったら、もう縄が張ってあって、あの駅前の広場はもう全然入って行けなかった」と。

 この「丸山証言」は「口述書」とほぼ完全に一致しており、証言内容は間違いない。

 
以上を総合して、検察側にとっても、この風呂場のアリバイは重い。だから、手持ちの情報を持ち出して切り崩そうとした。だが、風呂場における会話は抹殺は免れて生き残った。検察に騙されてはならない。彼らは時に証拠を捏造(ねつぞう)することさえある。私たちは検察側の持つ証拠を全部提出するよう要求する。たとえば、暴走電車運転室の窓、運転台、ハンドルなどに多数の指紋が検出されたのに、それらは法廷に提出されていない。彼らは都合の悪い証拠はすべて隠した。だから竹内氏を犯行に結び付ける物的証拠はまったくないのだ。この点で再審法の改正が期待される。

 
竹内氏の遺児5氏のうち、長男の健一郎氏は再審の請求人になっていられるが、あとの4氏は、死刑囚の家族として身元を伏せ、今なお日陰の生活を送っていられるという。この重大な人権侵害からご家族を救済するためにも、竹内氏の風呂場のアリバイを確認して、氏の無実を再審によって勝ち取りたい。力を合わせて、この大願を成就しょう。


Ⅲ 「新しい戦前」と「古い戦前」

 
最近、「新しい戦前」という言葉が生まれている。それでは、「古い戦前」はどうだったのか。「古い戦前」を生きた私の経験から、両者の相違を以下に数点挙げてみたい。
①  「古い戦前」では、情報が厳しく規制されていた。
   
そのことを象徴する2例を挙げよう。

1)1933年、「関東防空演習」と称して軍官民の10万人以上が参加した大規模な訓練が、東京府と神奈川、埼玉、千葉、茨城の4県で3日間実施された。これはAK(現NHK)のラジオで全国中継され、その放送を聞いた信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は、「関東防空大演習を(わら)ふ」と題して、空襲を受ければ日本は破局する、と約2000字の社説を書いた。その主旨は
「こうした實戰が、將來決してあってはならない」
「架空的なる演習を行つても、實際には、さほど役立たない」
「敵機を迎へ擊つても、一切の敵機を射落とすこと能はず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻擊を免れて、帝都の上空に來り、爆彈投下する」など。

 
桐生悠々(1873〜1941年)は、この社説で軍部の怒りを買い、退社を余儀なくされた。こうして反戦の言論は弾圧された。

2)1940年2月2日、帝国議会衆議院本会議で,立憲民政党の斎藤隆夫は「支那事変処理を中心とした質問演説」を行った。それは日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起している。翌3月7日、彼は衆議院議員を除名され、その2日後、衆議院本会議は「聖戦貫徹ニ関スル決議」を全会一致で可決した。さらに、演説の大部分が速記録から削除され、国民の目から隠された。

 
だが、「新しい戦前」と言われる今、表現の自由は憲法で保障され、その活用は不十分とはいえ、戦前とは雲泥の差がある。
② 「古い戦前」には、女性には参政権がなく、女性は国防婦人会によって戦争に全面的に協力させられていた。いま、女性は参政権を獲得し、例えば、去る10月22日、「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」が東京都内でシンポジュームを開き、オンラインを含め900人ほどが参加しているように、反戦運動の大きな支えなっており、この変化は画期的だ。
③  「古い戦前」、国民皆兵制度により、男性にはすべて兵役が課せられ、これを忌避すれば、逮捕、監禁され、リンチを受け、その生家には非国民のレッテルが貼られ、生きてゆくのがむずかしかった。戦後、この制度は廃止さた。
④ 1882年1月4日、明治天皇によって下付された軍人勅諭には、「義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」と明示され、兵士たちの命は風に舞う鳥の羽毛よりも軽いと決めつけられた。いま、日本国憲法は基本的人権が永久不可侵の権利であると宣言している。この隔たりには天地の差がある。
⑤ 「古い戦前」、日本は神の国といわれ、危急の際には神風が吹くと教えられ、子供にとっても、そんなことは上の空で半信半疑だったが、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変と続く戦争に、負けたことがなかったのは事実だった。だから戦争に負けるとはどういうことか、誰に分からず、想像もできなかった。いまは、敗戦の実情を、当該世代の悲惨な体験を通じて、国民のすべてが知っている。この経験の差はけた外れに大きい。

 以上、大まかに「古い戦前」と「新しい戦前」の今との、画期的な相違を略述した。かつては、政府の行為によって、国民はやすやすと戦争に引き込まれたが、今は、反戦を決意した国民の抵抗によって、平和擁護の可能性は格段に高まっている。上記に列挙した反戦のための好条件を活かし、「新しい戦前」を「新たな戦争」に移行させないことは、現世代の重大な責務であろう。

(ご清聴有難うございました)