川﨑健一 かわさきけんいち


【HPコラム 2023・10】

どうすべきか       

川﨑 健一 

九月二七日(水曜日)に起きた悲惨な心中事件のことを皆様も覚えておられると思う。
 翌朝の毎日新聞社会欄に亡くなった家族のお名前と病院の写真入りで詳しく載せてあった。ご冥福を改めてお祈りしたいと思う次第です。こうしたことが年に何回か起こっております。昨日は病院で入院中の娘さんが父親の手で亡くなり、さらに奥様も亡くなり、その後、御本人が亡くなった悲惨な事件でした。
 この家族の場合だけではない。それぞれ事情が違ってもどこにも助けを求められないで事件が起きているのでないだろうか。
 特に障害者を抱える家族は家族だけで支えて生きているのでないだろうか。その家族の誰か一人が病になったときこうした事態が起きるのだと思う。決して許される事ではなくそのために救いの場がある、と言われるだろう、が、そのとおりだろうか。家族に任せて周囲の関係者は見て見ぬふりをしているのでないだろうか。
 この家族の御本人は希望を失ってこうした事件を起こしてしまっているが周囲の福祉関係者はいかなる事をして来たのか。その家族に何をしてきたのかと問いたいのである。事件が起きるとその前に何とか出来なかったかと思う。ほとんどの場合、行政担当者は知らぬ振りをして見聞きしているのが現在の姿でないだろうか。
 事件が起きると福祉行政の担当者はやるべき事をしてきたと言うし、必ず責任回避を図っている。
 私は実際、自治体の障害者支援会議の審議会に応募して二年間だったが参加したことがある。その中のことだが障害者を抱える家族から「移動の手段を増やして欲しい。」と発言があった際、市の担当者から何と「そういう事はこの場で発言しないで欲しい、」と飛び出したのである。
 当然私も含めた複数の方々から猛烈な抗議の発言で取り消したが、市当局の普段の障害者の家族へのやりとりを想像させるものであった。
 実態は余計なことに手を出すな、となっていることは万人衆知、当たり前になっているのである。
 事件が起きると事務的に処理されてしまっているのが本当の現状だ。
 行政がそうだから地域で見聞きしている他人も関わらないで生きてきているのでないだろうか。また親戚縁者の方々も「一言相談が欲しかった」と言い逃れているのが現在の日本の姿だ。
 そもそも人の生きる権利を改めて考え直す必要があると思う。
 不安が現実とならないような社会を作り替えることこそ必要だと思う。社会を民主的な手段で変えていくことが政治の目的だとすれば今回の悲惨な事件は正に日本の一人一人に社会を変えよう、と言っているのでないか。
 抽象的な問題ではなく、具体的に社会変革を訴えた事件だったと考えた次第です。


【HPコラム 2022】

「コロナを追って三年」

川﨑健一

 新潟県の川﨑健一です
 1942年5月13日 そうです 戦争が始まった昭和16年が1941年ですのでわたしは戦争が始まって半年後の5月13日に生まれました。
 両親は共に明治36年生まれでしたから年齢は39歳でした。
 父は年齢の関係から兵隊にさせられず、代わりに徴用労働者として鹿瀬町(当時)にあった肥料工場で働いたということでした 。
 それが分かったのは1961年昭和36年見附郵便局に採用されて間もなくの頃でした。
 父母とも58歳でした。
 私が郵便局で働きながら家業の農業を両親と一緒に働いていた頃でした。
 父が夏も寒いと言うようになったのです 。
 更にご飯を頂く時でした、父の両手の 震えが停まらないようになったのでした。
 父はお茶も大好きでしたがお茶も飲めなくなってしまったのです 。
 ご飯の度に父の姿を見てどうにもしてやれない自分が切なく思ったのでした。
 その時、母は「鹿瀬の仕事が元ではないだろうか」とぽつんと言ったのです 。
 ちょうど新潟県でも阿賀野川の鹿瀬電工排水公害問題がニュースになって来た頃でした。
 熊本の水俣病と同じ問題が取り上げられた頃でしたが何もすることも出来ず1966年昭和41年に63歳で亡くなりました。 
 2月の冬でした。

 しかし今思いますと素朴な農民生活の中で育ってわたしは本当に幸せでした
台風が来ると稲架掛け(はざかけ)した稲を稲架掛けから外し、台風が過ぎ去るとまた稲架掛けしたものでした。
 今のようにコンバインであっという間に収穫作業は終わらず、一日10アールを5人でやっと終わるものでした。
 ひと株ひと株鎌で刈り、藁で締めて、結わい、夕方集めて、リヤカーで運び、家族総出で稲架掛けしたものでした。今の若い農家には分からないだろう、正に八十八の作業があってようやくコメになるのでした。
 刈り取りを終えた稲は稲架掛けで乾燥させるため約2週間過ぎると、家族総出で家に運び脱穀、籾摺り、を終えて漸く俵に入れて 供出されます。米は食糧管理法(食管法)で供出させられていました。現在のような市場任せではなかったのがせめての安心でした。

 わたしは現在80歳、父の年齢を17年も越えて感謝しております。
 そして見附郵便局で郵便労働者として57名の仲間の中で働いたことも感謝です。昭和36(1961)年は浅沼稲次郎委員長が山口二矢青年の凶刃に暗殺された翌年でした
新潟三区では5の定員の内の3を日本社会党が勝ち取った頃でした。稲村、三宅、小林の三氏が勝利した頃でした。今の連合など問題にならない勢いで戦ったものでした。年末闘争春闘、それに日常の五人組の取り組みなど忘れることができません。 
 昭和38(1963)年は1月15日から雪が止まずに約2週間降り続き鉄道も陸路もすべて埋まってしまったのでした。鉄道郵便車の乗務員を駅まで迎えに行き郵便局の前にあった旅館に案内したり、差し入れを届けたりしました。駅前にあった「ポストを埋める!」と言う上司の命令で私たち若い者、数名でかんじきで2.7Kを歩き漸く着いた駅前でポストを掘り出しました。ポストを開けて溜まっていた郵便物を取り出し、外套で巻き長い竹竿の上に「ポストに郵便を入れないでください、」と書いて再びポスト埋め戻して郵便局に戻りました。

 見附駅ができる時、駅設置に当時の経済界が反対したとかと言うことで駅は街から離れたところに設置されたと言う話を後から聴きましたがとにかく見附市は現在も駅から離れております。

 郵便課で働いた21年間で今も忘れられないことはたくさんありますが「弁当の魚の骨」の思い出があります。
 私が持ち帰った弁当に魚の骨が入っていたのです。梅干しか茄子の漬物くらいしかなかった時代でした。母は入れた覚えのない鮭の骨を私に聴きました。翌日先輩にそっと聞くと「黙って居れや」と一言。無口な先輩の配慮に感謝。母はいい人ばかりだと言ってくれました。
 そう、労働運動も選挙運動も、そのエネルギーは職場や地域の助け合い、世話役活動の糧があったからこそ実ったのではないだろうかと思うのです。厳しい職場闘争を続けられたのも日常の助け合い、世話役活動、親身になって支え合う職場の先輩後輩の関係、それが長期抵抗大衆路線を支えたのでないかと今の連合の自民寄りの運動をみるとその違いが生き生きと浮かび上がってくるのです。

 わたしはコロナが始まった2020年3月から新潟県の状況を新聞や県のHPを基にエクセルで一覧表とグラフを作っています。すぐ辞めるつもりで始めたのですがコロナは終わるどころか3年目に入って新潟県の人口千人221万5千人に対して2022年㋇31日現在195342人となりました。これは1万人あたり882人となります。特にこの8月はひと月で87341人が新規感染者となりました。死者も30日に3人増えて122人となりました。このことは声なき声として聞こえてくるのです。お葬式も出せない、ご遺体に別れも出来ない、こんな感染症を植えずコロナでないウイズコロナと言う「文化人」がいますが本当に腹立たしい。ウイズとは一緒にと言う意味は中学英語でも分かります。問題はそれを野に放ってしまった政治の責任回避でないかと思うのです。国民はこんな社会を見ながら黙って居ないと思います。きっともっとましな政治を望んでいるでしょう。毎日誠実に生きていざ選挙になったら野党を勝たせようと思いながら毎日エクセルに数字を打ち込んでいます。コロナがいつか終わる日を信じて。