九月二七日(水曜日)に起きた悲惨な心中事件のことを皆様も覚えておられると思う。
翌朝の毎日新聞社会欄に亡くなった家族のお名前と病院の写真入りで詳しく載せてあった。ご冥福を改めてお祈りしたいと思う次第です。こうしたことが年に何回か起こっております。昨日は病院で入院中の娘さんが父親の手で亡くなり、さらに奥様も亡くなり、その後、御本人が亡くなった悲惨な事件でした。
この家族の場合だけではない。それぞれ事情が違ってもどこにも助けを求められないで事件が起きているのでないだろうか。
特に障害者を抱える家族は家族だけで支えて生きているのでないだろうか。その家族の誰か一人が病になったときこうした事態が起きるのだと思う。決して許される事ではなくそのために救いの場がある、と言われるだろう、が、そのとおりだろうか。家族に任せて周囲の関係者は見て見ぬふりをしているのでないだろうか。
この家族の御本人は希望を失ってこうした事件を起こしてしまっているが周囲の福祉関係者はいかなる事をして来たのか。その家族に何をしてきたのかと問いたいのである。事件が起きるとその前に何とか出来なかったかと思う。ほとんどの場合、行政担当者は知らぬ振りをして見聞きしているのが現在の姿でないだろうか。
事件が起きると福祉行政の担当者はやるべき事をしてきたと言うし、必ず責任回避を図っている。
私は実際、自治体の障害者支援会議の審議会に応募して二年間だったが参加したことがある。その中のことだが障害者を抱える家族から「移動の手段を増やして欲しい。」と発言があった際、市の担当者から何と「そういう事はこの場で発言しないで欲しい、」と飛び出したのである。
当然私も含めた複数の方々から猛烈な抗議の発言で取り消したが、市当局の普段の障害者の家族へのやりとりを想像させるものであった。
実態は余計なことに手を出すな、となっていることは万人衆知、当たり前になっているのである。
事件が起きると事務的に処理されてしまっているのが本当の現状だ。
行政がそうだから地域で見聞きしている他人も関わらないで生きてきているのでないだろうか。また親戚縁者の方々も「一言相談が欲しかった」と言い逃れているのが現在の日本の姿だ。
そもそも人の生きる権利を改めて考え直す必要があると思う。
不安が現実とならないような社会を作り替えることこそ必要だと思う。社会を民主的な手段で変えていくことが政治の目的だとすれば今回の悲惨な事件は正に日本の一人一人に社会を変えよう、と言っているのでないか。
抽象的な問題ではなく、具体的に社会変革を訴えた事件だったと考えた次第です。
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