穂坂晴子 ほさか はるこ




「テニアンふたたび「『玉砕』の島を生きて」を観て」 

web労動者文学会作品集(外部リンク)


【茨木のり子の家を残したい会】会員

「茨木のり子さんの詩や生き方に魅かれ、彼女が
 亡くなるまで50年近く暮らした西東京市東伏見の家を
 残したいと朗読の集いなどを開催している会」



【穂坂晴子推薦の本】 2022

「わたしの心のレンズ
現場の記憶を紡ぐ

  大石芳野

2022年6月12日
集英社インターナショナル


900円+





【HPコラム 2021・10】

地元の詩人 茨木のり子に想う   穂坂晴子

「私が一番きれいだったとき」―出版社に在職時、初めて教科書で見つけた茨木のり子の詩に衝撃を受けた。こういう詩を書く詩人がいる。コピーをしまくり、友人たちに配った。脳腫瘍になり、それからの道に迷ってる時に読んだ「倚りかからず」「自分の感受性ぐらい」、目を見開かされ、自分の道を歩もうと決めた。地域の市民運動で戸惑っている時に励まされたのは「どこかに美しい人と人の力はないか 同じ時代をともに生きる」という「6月」の1章、ノートにいつも挟んでいた。生きてきた大事な節目に、茨木の詩との出会いがあった。

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茨木のり子


 晩年まで住んだ家が東京の西東京市東伏見にある。「茨木のり子の家を残したい会」が作られ、私も会員の一人として、22歳の茨木が描いた生涯で1冊だけの美しい絵本「貝の子プチキュー」を朗読した。知らない世界を求め、美しい星や様々な生き物に出会い感動するが最後は同じ海のカニの子に食べられてしまう。最後まで「僕は海の子だ」という声を残しながら。海の中をさまよいながら新たな世界を求めひたすら前に進むプチキューは、若き日ののり子自身だったのだろう。当時初めてラジオでこの絵本を朗読し尊敬する先輩だった新劇女優山本安英は、「初々しさが大事なの。人に対しても世の中に対してもね」と語った。

 そして詩の世界へと進む。軍国少女からの脱皮、金子光晴の反戦詩との出会い、川崎洋、谷川俊太郎との「櫂」の出版、夫三浦安信との死別、50歳過ぎての韓国語の勉強と「ハングルへの旅」の出版、なぜ韓国語を学ぶのかの問いに「お隣の国の言葉だから」と答え、スパイ罪で軍事政権下の韓国で逮捕された徐俊植氏に「6月」を送った弟徐京植氏に会いに行ったという。生前に親しい人へと書いた「お別れの手紙」まで続くその凛とした表現と洞察の深さ、人間への限りない優しさは知れば知るほど心に染み入り、何ものかを私たちに問う。


 8/8、没後15年の「朗読と音楽の集い」が地元で開催された。コロナ渦の中、練習を重ねた「朗読劇」は苦渋の決断の末、延期になったが、急遽作った一生の軌跡を追った「朗読」は参加した100人以上の方の思いと共に実現できた。旧保谷市の「非核・平和都市宣言」は、1982年当時の都丸保谷市長がのり子に依頼し完成した。当日、急遽舞台に立った100歳の都丸氏を囲み、市民の朗読の声が響いた。

 みどり濃いまち ほっとする保谷に 私たちのくらし 
 水や鳥や虫たちとともに 日々のいとなみ 静かなあけくれ
 平和をねがう すべての国のひとびとともに
 守りぬこう  このなんでもないしあわせ
 新たに誓う  いっしょに育てるこの地方自治
 そっくり こどもたちに手わたすことを 
 この市民の声を
 憲法擁護・非核都市保谷の 宣言とする


 コロナ渦だからこそ、見続けなければいけないものがある。研ぎ澄まされた感性と観察眼でいつの時代も初々しくならねばと凛として語った詩人は今、何を思うのだろう。時代に自らに。そして私たちは何かを著さねばと思う。振り回されず、自分の耳目で、自分の感性で。

           倚りかからず   茨木のり子

       もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
       もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
       もはや できあいの学問には倚りかかりたくない 
       もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない
       ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい
       じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて
       なに不都合のことやある
       倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ