穂坂晴子 ほさか はるこ




「テニアンふたたび「『玉砕』の島を生きて」を観て」 

web労動者文学会作品集(外部リンク)


【茨木のり子の家を残したい会】会員

「茨木のり子さんの詩や生き方に魅かれ、彼女が
 亡くなるまで50年近く暮らした西東京市東伏見の家を
 残したいと朗読の集いなどを開催している会」



【HPコラム 2024・5】

命を大事にする社会になっていますか
ーDr.福島からのメッセージ
 3月末のある日の夜、知人からの突然のメールで、アメリカでの「脳外科医 福島孝徳医師逝去」を知った。衝撃だった。日本の報道では知られていないが、4/1付で福島孝徳脳腫瘍センターや所属のアメリカの大学病院等で逝去の知らせと今後についてのメッセージがあった。「神の手」として知られた優れた脳外科医師で、81歳で現役だった。日本でも新たに2年ほど前に脳腫瘍センターを作り、日本の医師の育成と治療困難な患者の手術に当たっている最中であったはずだ。世界で24000件の手術をこなしたという。そして私はその2/24000で、2007年、2022年と2回の手術を受け、回復し、今日こうして書き、逞しく生きている。
 
的確な医学的判断と「大丈夫ですよ」の言葉にどれだけ励まされたことか。不安を抱える患者がどれだけ命を救われ新たな人生を歩めたか。まさにお金でも名誉の為でもなく命がけで患者の笑顔を見るためにと病と闘ってきた福島医師の姿を見てきた私の思いがある。
 
コラムを書くにあたって、この文がタイトルにそぐわないかとも思った。でも医師の訴えたかったことは何だろうか。「神ではないです」、どちらかというと風来坊のブラックジャックですと言っていた医師のことばを今の私なりに記そうと思った。
 
本箱の「ラストホープ」という20年前に福島医師が書いた書籍を手に取った。そこには福島医師の生きざまとそして日本の医学界と社会へのメッセージがあった。当時は凄い先生に奇跡的に手術してもらったという喜びから「さすが」というふわふわした気持ちで読んでいた。そして20年後の今、この書籍を読み、衝撃に近いものを覚えた。
 
逝去を知った後、日を追うごとに、今まで助けられてきたことや1年半前の手術の時、「これで90まで大丈夫」と言われた言葉に支えられてきたと改めて思った。でもこの本を読んだ後、恥ずかしくもあった。
 
医師が当時発した日本の閉鎖的な医学界への警告、大事なのは論文ではなく、臨床であり貧しい日本の医療化状況では医師も育たないとの訴えは、それを許している今の社会状況は、なんと20年前と変わっていないと気づいた。最近のニュースでも非常勤医師の直面する経済的な厳しさ、体力ギリギリのところで辞めざるを得ない医師の切実な現状も訴えられている。全国での医師不足は救える命も救っていないのではないかと思う。当時の「白い巨塔」は変わっているか。何が大切にされているか。何よりも大切な命は? 福島医師は患者の命のために病と闘い、これでいいのですかと医療現場に、私たちにも「皆さんも関心持ってください」とも当時訴えていた。一人で驚異的に頑張っている姿は注目されていたが、そうせざるを得なかった状況を許していたのではないか。助けてもらった医師のメッセージを、医療現場に関わることはないかもしれないが、許している今の現状に身近なこととして声を出していくことはできるはずだ。
 
当時、治療が厳しい状況の中で「だけど、あなたにまだやりたいこと、あるでしょう?」への「はい」という私の答えが福島医師との出会いの始まりだった。だからこそ、これからまさにその続きをと思う。
 
今、世界では戦争が続き、連日子どもたちが殺され続けている。日本でも凄まじい勢いで軍拡が進み、命の大切さがないがしろにされている。新たな思いの始まりとして、日々大切に生き抜いていくことを思う。そして、そのためのペンの力を今、私たちは心しよう。           


【穂坂晴子推薦の本】 2022

「わたしの心のレンズ
現場の記憶を紡ぐ

  大石芳野

2022年6月12日
集英社インターナショナル


900円+





【HPコラム 2021・10】

地元の詩人 茨木のり子に想う   穂坂晴子

「私が一番きれいだったとき」―出版社に在職時、初めて教科書で見つけた茨木のり子の詩に衝撃を受けた。こういう詩を書く詩人がいる。コピーをしまくり、友人たちに配った。脳腫瘍になり、それからの道に迷ってる時に読んだ「倚りかからず」「自分の感受性ぐらい」、目を見開かされ、自分の道を歩もうと決めた。地域の市民運動で戸惑っている時に励まされたのは「どこかに美しい人と人の力はないか 同じ時代をともに生きる」という「6月」の1章、ノートにいつも挟んでいた。生きてきた大事な節目に、茨木の詩との出会いがあった。

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茨木のり子


 晩年まで住んだ家が東京の西東京市東伏見にある。「茨木のり子の家を残したい会」が作られ、私も会員の一人として、22歳の茨木が描いた生涯で1冊だけの美しい絵本「貝の子プチキュー」を朗読した。知らない世界を求め、美しい星や様々な生き物に出会い感動するが最後は同じ海のカニの子に食べられてしまう。最後まで「僕は海の子だ」という声を残しながら。海の中をさまよいながら新たな世界を求めひたすら前に進むプチキューは、若き日ののり子自身だったのだろう。当時初めてラジオでこの絵本を朗読し尊敬する先輩だった新劇女優山本安英は、「初々しさが大事なの。人に対しても世の中に対してもね」と語った。

 そして詩の世界へと進む。軍国少女からの脱皮、金子光晴の反戦詩との出会い、川崎洋、谷川俊太郎との「櫂」の出版、夫三浦安信との死別、50歳過ぎての韓国語の勉強と「ハングルへの旅」の出版、なぜ韓国語を学ぶのかの問いに「お隣の国の言葉だから」と答え、スパイ罪で軍事政権下の韓国で逮捕された徐俊植氏に「6月」を送った弟徐京植氏に会いに行ったという。生前に親しい人へと書いた「お別れの手紙」まで続くその凛とした表現と洞察の深さ、人間への限りない優しさは知れば知るほど心に染み入り、何ものかを私たちに問う。


 8/8、没後15年の「朗読と音楽の集い」が地元で開催された。コロナ渦の中、練習を重ねた「朗読劇」は苦渋の決断の末、延期になったが、急遽作った一生の軌跡を追った「朗読」は参加した100人以上の方の思いと共に実現できた。旧保谷市の「非核・平和都市宣言」は、1982年当時の都丸保谷市長がのり子に依頼し完成した。当日、急遽舞台に立った100歳の都丸氏を囲み、市民の朗読の声が響いた。

 みどり濃いまち ほっとする保谷に 私たちのくらし 
 水や鳥や虫たちとともに 日々のいとなみ 静かなあけくれ
 平和をねがう すべての国のひとびとともに
 守りぬこう  このなんでもないしあわせ
 新たに誓う  いっしょに育てるこの地方自治
 そっくり こどもたちに手わたすことを 
 この市民の声を
 憲法擁護・非核都市保谷の 宣言とする


 コロナ渦だからこそ、見続けなければいけないものがある。研ぎ澄まされた感性と観察眼でいつの時代も初々しくならねばと凛として語った詩人は今、何を思うのだろう。時代に自らに。そして私たちは何かを著さねばと思う。振り回されず、自分の耳目で、自分の感性で。

           倚りかからず   茨木のり子

       もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
       もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
       もはや できあいの学問には倚りかかりたくない 
       もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない
       ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい
       じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて
       なに不都合のことやある
       倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ