高見正吾 たかみしょうご |
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現在、六七才。六〇才を直前に父が急死。 以後、長男として、葬儀・相続をおこなう。 父は、地元の名士なのだが、亡くなる頃は、すでに語られていなかった。しかし、葬儀場には、三五〇人、いっぱいだった。最後まで残ってくれた人が百人弱いた。 父の後を継ぎ、教師にならないのか? 長男だろう、まだ、結婚しないのか? とよくいわれた。本当の自分は、どもり・ゼンソク・神経、他の問題があり、運動・生活能力ゼロ。学校は、大嫌い。かなり、いかれていた。 父のため――長男として付属高校から、無事、大学に行く。大学に行ったのは、就職する自信がないから――小説を書いていた。 私は、世間一般でいう、親不孝者であった。 父の死後の手続き――株とパソコンの解約がやっかいであった。手続きに必要な知識・情報を、残されたゴミの中から、ひとりで、関係する社名が印刷された、封筒・ハガキ・書類を捜し、ひとつひとつ、電話・訪問して確認した。 私は、東京にいた。父の死後、母が一人になるので、弟家族がいるけど、私が会社をやめ、実家に帰り、母と二人暮らしをする。 ヘルパー二級を取得していたので、母の介護が必要な時は、少々できた。親不孝者なので、母は大事にする考えだった――ところが、大腸・ヘルニアの二回の手術、その間、親戚と、福祉施設の世話になった。家にもどり、母の介護と、自分の病気のことを考えた。 さらに、弟家族が、今の実家を借地・建てかえ等の問題から、相続しないと判断――私が、実家の処分をして、次回の、借地権・更新日前に、外にでることについて考えなくてはいけなくなった。 借地になった理由は、行政の区画整理。 無理やり、現在の借地に、建物を移動させられた。里山がくずされてから、地元の土地は、どのような歴史があるのか? 地名がわからなくなった。 母は、施設の人。帰らない、私ひとり。 今、家財と庭木の処分に追われている。 将来、どうする? という悩みを、必要なものは、三LDKのアパートを借り、移して、そこに、本当の自分をおちつかせることにする。そして、地元の本当の歴史――相馬氏と、会津藩の歴史から、ふり返り、調べて、書くことにした。私のわからない終活がはじまる。 |
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【HPコラム 2022・7・後半】 雑文・労働者文学のPRと私 |
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何でもネットで知る。本を買うのもネットの時代。労働者文学もネットで知り、関連する本をネットで買う。さて、労働者文学を、今後、研究するキッカケになるキーワードは何か? 私は、いい悪いは別にして「藤森司郎」で、グーグル検索して――とさけびたい。 検索すると、一九二五年・長野県生まれ。国鉄に入社し、機関士をつとめると紹介されている。そして、二冊の本。@『鉄道員・藤森司郎小説集』土曜美術社、新日文双書。A『労働・生きることと書くこと』武蔵書房。 私は、労働・生きることと書くことが、労働者文学であると思う。この本は、七割が「労働者文学ひろば」についての文章だという。久保田正文氏は「序文」で――「労働者文学ひろば」を読みつづけて私が感銘したことは、小説・評論はもちろんのこととして、詩・短歌・俳句・川柳などの各ジャンルにわたって広く目を配っていることであったと書いている。労働者文学は、組合の総合的な文芸サークル誌であると聞いているのだか、働き・読み書きする人が、労働者文学に投稿すると、小説・評論・詩・短歌・俳句・川柳、全て、藤森司郎のような、熱心な読者がいて、作品を読んでくれる。現在の「労働者文学」は「ルポ的なリアルさ」に注目しているのだが、今でも、熱心な読者がいて作品を読んでいる。 もう一冊の『藤森司郎小説集――鉄道員・特別二等寝台車ほか』は、労働者文学というより、何でも知りたい鉄道ファンにとっても、おもしろい鉄道の歴史的な知識になる。当時、機関車文学というのがあったらしいよ。 本来「労働者文学」を研究するためのキーワードになるのは『労働者文学作品集』ではないかと思う。先にあげた、久保田正文の他に、野間宏の名前がある――私は、藤森司郎や、『労働者文学作品集』を追い、今、終活として「私の労働者文学」を書こうとしている。 藤森司郎氏は、『労働者文学』二六号、「特集/どう生きる高齢時代」の中に「二つのこと」という作品を掲載し、中野重治・平野謙・佐多稲子の名前を出す――そして「何故粗大ゴミ等々になり果てるのか(くたばること?)は、そこに非人間的な企業収奪の過重労働があり――」と書く。私は、六五才。手術歴二回。粗大ゴミととして――雑文・ボケを書いている。 |
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