高見正吾
 たかみしょうご


【HPコラム 2023・9】

私の「新文学」

 よく「あなたの小説は(、)が多い」「理屈ぽく内容が不可解」「構成がまとまっていない」といわれる―それは―小学生の頃「ドモリ」「ゼンソク」「運動神経」「無器用」で苦労したことと関係があるのかも知れない。小さい頃から世間・他者とのズレを感じた。 
 他の小学生は自然にできる。だから、私も自然にやるのだけれど、できない。先生に「普通のうまいやり方」を教えてもらうのだけど、何回やってもできなかった。
 小学生―中学生の時もそうだったのだが、自然に聞いていると授業がわからない。疲れるけど独自の思考で集中して意識化すると、その部分だけよく分かった。そのため、学校の授業はまだらな理解になる。家に帰り、全て自分のやり方で勉強すると頭に入る。父は中学の教師だったので、心配してコッソリと教えてくれたのだが、その教え方だとわからなかった。父には、何度も怒られた。
 私は、世間では「問題児」だった。だから、劣等生なのだけど、テストの成績は普通であった。「あなた、普通にできるんだね。やれば、できる。がんばりましょう」といわれた。だけど、私は、一般的だとダメである。他とは違う「思考」「スタンス」「ペース」でなければ、普通の成績にはならなかった。
 だから、世間的にいうと、やはり「劣等生」になる。今ならば、アルアルの、やっかいな発達障害だといわれるだろう―文学は、日常生活よりも、もっと幅の広い世界を持っている。しかし、私独自の「思考」「スタンス」「ペース」で文章を書くとアレコレいうのだ。
 二〇世紀文学の中に「反小説」というのがあって、フィクションなら全て小説になりそう―私は、そのように考えて、オリジナル作品を書いたら―強い反発を受けた。
「こんなものは、小説ではない。もっと、まともなものを書け」というのだ。私は「反小説」を「新小説」にすることを考えていた。しかし、S文学系のある人・二人に、バッサリと切られた(笑)
 江戸時代・浮世絵と共に「ふざけた」「コッケイ」な、お笑いになる文章が生まれた。近代文学では「小説以前」にされている。私は、この「戯作」と呼ばれるものを「新文学」にしたらおもしろいと思う。私が考えるのは、太宰治・石川淳・武田麟太郎・野坂昭如・井上ひさしとは違う、ヨーロッパ的な何か?




【HPコラム 2022・7・後半】

雑文・労働者文学のPRと私

何でもネットで知る。本を買うのもネットの時代。労働者文学もネットで知り、関連する本をネットで買う。さて、労働者文学を、今後、研究するキッカケになるキーワードは何か? 私は、いい悪いは別にして「藤森司郎」で、グーグル検索して――とさけびたい。

 検索すると、一九二五年・長野県生まれ。国鉄に入社し、機関士をつとめると紹介されている。そして、二冊の本。@『鉄道員・藤森司郎小説集』土曜美術社、新日文双書。A『労働・生きることと書くこと』武蔵書房。

 私は、労働・生きることと書くことが、労働者文学であると思う。この本は、七割が「労働者文学ひろば」についての文章だという。久保田正文氏は「序文」で――「労働者文学ひろば」を読みつづけて私が感銘したことは、小説・評論はもちろんのこととして、詩・短歌・俳句・川柳などの各ジャンルにわたって広く目を配っていることであったと書いている。労働者文学は、組合の総合的な文芸サークル誌であると聞いているのだか、働き・読み書きする人が、労働者文学に投稿すると、小説・評論・詩・短歌・俳句・川柳、全て、藤森司郎のような、熱心な読者がいて、作品を読んでくれる。現在の「労働者文学」は「ルポ的なリアルさ」に注目しているのだが、今でも、熱心な読者がいて作品を読んでいる。

 もう一冊の『藤森司郎小説集――鉄道員・特別二等寝台車ほか』は、労働者文学というより、何でも知りたい鉄道ファンにとっても、おもしろい鉄道の歴史的な知識になる。当時、機関車文学というのがあったらしいよ。

 本来「労働者文学」を研究するためのキーワードになるのは『労働者文学作品集』ではないかと思う。先にあげた、久保田正文の他に、野間宏の名前がある――私は、藤森司郎や、『労働者文学作品集』を追い、今、終活として「私の労働者文学」を書こうとしている。

 藤森司郎氏は、『労働者文学』二六号、「特集/どう生きる高齢時代」の中に「二つのこと」という作品を掲載し、中野重治・平野謙・佐多稲子の名前を出す――そして「何故粗大ゴミ等々になり果てるのか(くたばること?)は、そこに非人間的な企業収奪の過重労働があり――」と書く。私は、六五才。手術歴二回。粗大ゴミととして――雑文・ボケを書いている。