書評


『郵政労使に問う ~職場復帰への戦いの軌跡~』(池田実著)を読む  
                                
                                            土田宏樹



 郵政4.28処分というものをご存じだろうか。かつての全逓労組(現在のJP労組)が1978年から翌年初めにかけて取り組んだ越年闘争に対してかけられた大量処分を指す。懲戒免職となった58名のうち最後まで闘いを続けた7名は裁判に勝利して2007年に職場復帰を果たした。本書の著者である池田実さんはその7名のうちの一人だ。これは副題にあるとおり職場復帰への戦いの軌跡であるとともに、一労働者の「自分史」でもある。

 郵政反マル生越年闘争と4.28処分

 郵政省はかつて長年にわたって全逓を敵視し、第二組合である全郵政を人事で優遇してきた。全逓組合員は昇任でも郷里へのUターン転勤でも全郵政組合員より後回しにされる。「生産性」を損なう全逓労組を冷遇して潰すのが生産性向上につながるというわけだ。そこで全逓はこれを郵政版の<生産性向上運動>すなわちマル生と呼んだ。生産性の「生」の字を〇で囲んで略称とすることが国鉄などでも行われたからである。その是正を要求して1978年の暮れ、業務のスピードを大幅に落とす業務規制闘争に突入する。
 国鉄なら順法闘争だが郵便ではブツ溜めと呼ばれる業務規制闘争は、公企体労働者は争議権が無く公然たるストを打ちにくかった分かえって以前から行われてきた。しかも、この年の春闘において全逓は官公労統一ストから直前になって脱落したことで組織内外から批判を浴びた。その反動もあって全逓本部は退くに退けなかったし、なにより長年の郵政当局の全逓敵視に職場の怒りが高まっていた。かくて年末闘争は越年し、年賀状配達は大混乱に陥った。
 三が日を過ぎ成人の日を過ぎても、配達されない年賀状が大量に残る。結局は何の成果もないまま1月25日に開催された第72回臨時中央委員会で業務規制闘争の中止を決定するのだが。
 郵政省は争議の実行者であった一般組合員の大量処分で応じた。1979年4月28日である。だから4.28処分と呼ぶ。懲戒免職58人、停職286人、減給1457人、戒告1425人という前代未聞の規模。全国闘争として闘われたのに処分は東京に集中し、懲戒免職58名のうち55名が東京だった。そのうち支部執行委員以上は4名のみ,分会長,副分会長5名,地区本部青年部委員1名、支部青年部委員14名と青年層が狙われた。一番若い被免職者はまだ20歳だった。池田さんは処分当時26歳で、それがだいたい平均の年齢である。処分を取り消し・無効とした2004年の東京高裁判決文の表現を借りれば「本件闘争の実施についての全逓の意思決定に参画したといい難い」人たちばかりであった。そこで高裁判決は
「・・一部に全逓の末端組織である支部の執行委員らがいるものの,大半が全逓組合員というにとどまり,全逓の役員等,本件闘争の実施の意思決定に参画したと認めうる者はいない」。
「本件闘争を理由として控訴人らに対してされた懲戒免職は,全逓の意思決定に従って違法な争議行為を実施した組合員に課されうる懲戒処分の選択及びその限界の決定につき,考慮すべき事実を考慮せず,社会通念に照らして著しく不合理な結果をもたらし,裁量権の行使を誤った重大明白な瑕疵があり,取消しを免れず,また,無効というべきである」。
 と明確に断じたのである。争議行為の意思決定に参画した者ではなく、その決定に従った者ばかりを処分した郵政当局、それを追認した一審東京地裁判決(2002年)の異常性を糺した。
 この判決文を書いた江見弘武裁判長はかつて1984年、民営化される前の国鉄法務課に出向し、「分割・民営化によって新会社をつくり、いったん国鉄から退社して新会社に応募させ、採用させる。応募しなければ、自動的に国鉄を継承する国鉄清算事業団送りになるという方式をとれば、合法的に新会社に振り分けられる」という方法を国鉄経営陣に助言した人物である。後日、毎日新聞インタビューに「会社更生の一般論を言っただけ。人切りの制度を考えたと言われるのは名誉ではないが、不名誉でもない」と答えている(166ページ)。
 その同じ人が、20年後には郵政における首切りをひっくり返す判決を書いた。かつての公企体が、国鉄も郵政も次々民営化され、あるいはその方向に向かい、国家公務員法によって争議行為が禁止される労働者の範囲が狭まってくる中での今日的な判決とも言えるのだろうか。世の中は、いや人間とは、まことに一筋縄ではいかない。
 2007年2月13日、最高裁第三小法廷は高裁判決を支持し、郵政公社の上告を不受理とする決定を下した。郵政省は2003年に郵政公社に変わっており、そして2007年10月からは民営企業としての日本郵政グループが発足するのである。労組のほうもそれに足並を揃えるように全逓は2004年にJPUと名称変更、さらにかつては第二組合と蔑んでいた全郵政とついに合同して2007年にはJP労組となった。
 池田さんはその2007年の3月1日、民営化間近の古巣・赤羽郵便局に復帰する。

 時代の子

 本書の目次はこうなっている。
第1章 郵便局に入って
第2章 郵政省との攻防
第3章 越年闘争突入
第4章 4・28処分発令
第5章 郵政再受験の罠
第6章 自立の闘い
第7章 一審の敗北
第8章 逆転勝訴
第9章 28年ぶりの職場
年表 4・28反処分闘争のあゆみ(1975年~2013年)

1952年生まれの池田実さんが地元である赤羽郵便局の集配課に臨時補充員として採用が決まったのは1970年11月25日で、面接を終えて帰宅したら三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で自決したニュースがTVから流れていた。私は当時高校一年生で、そのニュースを教室で知った記憶がある。私は池田さんより学年で2年下だから、池田さんはそのとき何もなければまだ高校三年生のはずなのに、その一年前の1969年11月、彼は通っていた都立高校で約30人の仲間と共に教職員室をバリケード封鎖していた。約一か月立てこもり、機動隊突入の直前になって教師たちが3人残っていた生徒の手足を掴んで無理やり裏口から逃がした。教え子を警察に突き出すような教師でなくてよかったが、そのあと池田さんは無期停学という処分の撤回を求めて定期試験中の教室に入り、答案用紙を破り捨てる。今度は少年鑑別所に送られ、高校は中途退学になった。
 鑑別所を体験したばかりの少年をよく郵政省が採用したと現在の感覚では思うけれど、臨時補充員は各郵便局が独自に採用するし、今と違って二年後には自動的に郵政事務官(当時)になった。
 当時はベトナム反戦運動がひろがり、大学では全共闘運動が燃え上がり高校にも飛び火した。池田さんもそんな時代の子であったのだろう。高校時代の池田さんのエピソードは中公新書『高校紛争 1969-70』(小林哲夫著、2012年刊)にも登場する。
 面接の翌日から働き出した。働いただけではない。赤羽郵便局には当時さまざまなサークルがあり、バンドに誘われ、写真部と山岳部に参加した。赤羽といえば酒飲みの“聖地”だ。当時もそうであろう。超勤はほとんど無かったから勤務の後ゆっくり風呂に浸かり、「近くの酒屋さんで立ち飲みして時間調整(安い乾き物で)、薄暮になるのを見計らい歓楽街に繰り出す」(11ページ)こともあった。このあたり、5年遅れて1975年秋に東京中央郵便局の郵便部に中途採用された私も身に覚えがある。中郵の場合は、繰り出すのは神田の居酒屋街であることが多かったけれど。
 本書の優れた点の一つは、闘いばかりではないこうした日常がこなれた筆致で描きこまれているところにもあるのではないだろうか。懲戒免職となった後の、職場に戻りたいという思いが、それだからひしと伝わってくる。
 全逓に加入したのは1971年の春、ストライキを初めて体験するのは72年の年末だ。公労法が公務員の争議行為を禁じている下で、当時はまだストライキと公然とは言えず、「一斉休暇戦術」と呼んだ。組合員が同じ日に一斉に休暇を取るのである。もちろん当局はそれを認めないから実質的にはストライキだ。全逓が公然とストライキと称してスト権確立のための一票投票を実施するのは翌年の1973年からだ。
 後日のことを述べれば、スト権一票投票が行われたのもそれから数年間だった。スト権スト(75年)、続く越年闘争(78~9年)の敗北を経て、労使協調路線を濃くしていく中で行われなくなっていく。郵政が民営化された今日、郵政労働者はもう公務員ではないから法の上でもストをする権利を持つが、今日のJP労組がスト権一票投票をやるなど絶えて聞かない。少数労組の郵政ユニオンは果敢に春闘ストライキを行なっている。

 郵政労使の欺瞞

 そうして1978年の越年闘争を迎える。池田さんは当時、全逓赤羽支部青年部の常任委員であった。「争議行為の意思決定に参画」はしないが、闘争指令が下りれば先頭に立つという位置である。とことんブツ(郵便物)を溜めた。赤羽局では池田さんを含めて4人が懲戒免職になった。いずれも若者たちだ。
 初めは全逓本部が取り組んだ反処分闘争は人事院での公平審査を経て、1986年9月、東京地裁での処分取り消しを求める民事裁判が始まった。
 ところが、処分から10年ほどが経ったころ、郵政省再受験という話が持ち上がる。全逓労組が4.28免職処分取り消しを求める訴訟を取り下げることと引き換えに、郵政省は40歳以下の被免職者に郵政省再受験を通して職場復帰への道を開く、という合意ができたと言われるものである。じつは郵政省はそんな確約は与えておらず、4.28反処分闘争の幕を早く引きたい全逓だけがそう早飲み込みをした。
 結果は、1991年2月24日に行われた東京郵政局外務職員の採用試験(採用予定100人に応募は2019人)を受験した被免職者14名は全員が不合格だった。いっぽう全逓は合否発表を待たず、発表五日前の3月11日には受験者からの訴訟取り下げ書を裁判所に提出した。
 池田さんは38歳になっていた。14人の一人として受験する。当時の心境はこう書かれている。
「もちろん私は、あの郵政省が一度切った<戦犯>を戻すだろうか、という疑念を抱いたものの、郵便局復帰という幻想の方が勝っていた」(109ページ)。
「明確な合格の確証のない大きなリスクを伴う決断ではあったが、ここはあえて<騙すなら騙されてみよう>という居直った気持ちになったのだった。この一年あまり、裁判傍聴をめぐり、地区役員から日常的な恫喝と数々のいやがらせ(賃金カット、定昇停止、配置換え)を受けてきた犠救出向という<飼い殺し>の身分からついに脱出できる道が開けたと、すがりつくような気持ちだったかもしれない。もし不合格と出たら本部はどう出るか、わが身を持って、その真偽を試すしかないと決断したのである。一%でも戻れる可能性があったらそれに賭けてみよう」(111ページ)。
 だが、仲間たちは反対する。
「受験するつもりだと仲間に伝えると激しいブーイングが起こった。(東京)南部地区ではすでに二人の<受験有資格者>が訴訟取り下げ拒否・裁判継続を表明しており、(90年)一〇月二日には都内で彼らを支援する反処分集会が一一〇人を集めて開かれていた。『伝送便』の編集長になっていた私が、まさか本部の軍門に降り、裁判を取り下げて受験すると周囲は思わなかったのかもしれない。すでに反連合の旗色を鮮明に打ち出し、独立労組(八労組)の道を歩み出していた<郵政全協>(郵政労働者全国協議会)は『伝送便グループ』とも呼ばれ、四・二八反処分の闘いは、全逓右傾化に抗する郵政全協の闘いの一つのシンボルとなりつつあった。・・・その<当該>であるべき私が本部方針に従う事は、とうてい容認することはできないというのが首都圏の雰囲気だった」(111~112ページ)。
 私は当時『伝送便』の職場における一読者であって、活動家グループからは距離を置いていたから、そのとき池田さんを取り巻いていた雰囲気を肌身では知らない。しかし、こういうところがいかにも池田さんらしいと思う。周囲がどうあれ、自分が納得する道を進むのである。運動家でありながら、それより現場の労働者でいたい。試行錯誤がまた運動家としての彼を非凡にする。全逓本部の方針の下でやるだけのことはやった上で、それでダメなら闘いを続けるまで。
 4月25日に開催された反処分指導委員会が「被免職者の裁判闘争と再採用については断念する」「6月末をもって犠救適用を終了する」という方針を決定するや、当時水道橋にあった全逓本部の入り口前で池田さんは4日間のハンストを決行する(5月13~16日)。<全逓本部は4.28被免職者に謝罪せよ!>という横断幕を背に、一人で始めたハンストだが、周りが彼を一人にはしておかなかった。再受験を冷ややかに見ていた人も含めて仲間たちが次々応援に駆けつけ、ときには50人を超す仲間に支えられながらハンストは貫徹される。いったんは起きかけたブーイングが以前に増す信頼に変わっていく。
 反処分指導委員会の翌日、4月26日に南部労政会館で245人が結集して開催された反処分集会には受験者として唯一人登壇した。再受験は6人が拒否しており、共に闘う決意を表明する。結局この6人と池田さんとの7人がその後10数年の闘いを経て2007年に職場復帰を勝ち取るのである。

 被曝労働者としても

 職場復帰を果たしたとき池田さんは54歳になっていた。初出勤の朝、通用門をくぐる前に激励にかけつけた仲間たちに挨拶して<今から28年ぶりに出勤します>と言うと「いつも仏頂面の労担も何と目頭を押さえていた!」(197ページ)。局長室で辞令を受けるとき<何か一言ありませんか>と質したら局長は<最高裁判決を厳正に受け止めます>と消え入るような声。しかし謝罪の言葉はなかった。職場である集配営業課では挨拶に80人余りの同僚から拍手が沸き起こった。
 とはいえ離れていた28年の間に労働環境は激変していた。かつては自転車で配達していたから、配達に出た初日も赤い自転車に乗った。ところが配達地域に着く途中で息が上がってしまう。郵便物の量ははるかに増えた一方、50代なかばとなれば体力は落ちている。翌日からは50ccの原付バイクを使うようになった。
 余談ながら、それから10数年たった今日、配達現場は原付バイクでも間に合わなくなっているようである。『労働者文学』の第90号(2021年12月刊)に『カンナナの坂』という短編小説が掲載されている。執筆した三上広昭さんも都内の郵便局で働いてきた集配労働者OBだ。この作品に登場する非正規雇用の集配労働者・岩垂の配達区域は環状7号線が通っており、題名の<カンナナの坂>とは環状7号線と交差する道路の坂のことである。その坂を登るのに50ccのバイクでは苦しいのである。正規雇用は125ccに乗っている。ところが岩垂は、人員が少ない日曜出勤のときでもない限りは125ccに乗れない。50ccのバイクはここでは郵政における非正規差別を象徴している。
 2020年10月、郵政における夏期冬期休暇・病気休暇・扶養手当・年末始手当・年始祝日休での非正規差別について最高裁は下級審の判断を覆し、「労働条件の相違は、労働契約法20条にいう不合理と認められる」として非正規雇用労働者である原告(郵政ユニオン組合員)の主張を支持した。闘ってきたからこその成果であるのは間違いない。ただ、この最高裁判決を「『憲法の番人』としての矜持を示した」と池田さんが書かれる(193ページ)のは、寛大な評価のように私には思われる。諸手当において是正が進んでも、郵政においては正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間の基本賃金の格差が大きく、労働契約法20条も最高裁もそこには踏み込んでいないからだ。ともあれ非正規差別をなくすことは、郵政のみならず日本の労働運動にとって最大の課題の一つである。
 ところで現在の池田さんにはもう一つの顔がある。原発関連労働者ユニオン書記長としてのそれである。彼は2013年3月に赤羽郵便局を定年退職した後、翌14年2月から5月まで福島の浪江町で除染作業に従事、さらに同年8月から翌15年4月まで福島第一原発構内で廃炉に向けた事故収束作業にたずさわった。その体験をふまえて被曝労働者の安全衛生などのために尽力している。池田さん自身フクイチでの廃炉作業従事中に被曝した。その日々は『福島原発作業員の記』(池田実著、八月書館、2016年2月刊)に詳しい。福島で働いていたとき詠んだ短歌は朝日新聞の【歌壇】に何度も採歌された。そんなこと聞いていなかった私は、当時日曜の或る朝【歌壇】に彼の名前を見てびっくりしたものだ。除染や廃炉作業のことを詠んでおり、福島からとなっているから、間違いなくあの池田さんだ!と。

 除染から廃炉作業に身を投じやがて福島がふるさとになる

 もっとも三十一文字が「天から降りてくる」のは福島に居るときに限られるそうで、普段の彼は作歌に励むことはないようだ。
 さて本書に収められた文章は月刊『伝送便』誌の2018年2月号から22年5月号まで46回にわたり連載された。連載中から共感が静かにひろがっているのを感じたが、郵政職場の交流誌である『伝送便』の読者は限られている。一冊にまとめられたことによって広く人々の目に留まることができるのを、郵政労働運動における仲間として友人として喜ぶ。ウラ表紙に赤い郵便バイクのイラストを描いた白井次郎さんも静岡県在住の郵便労働者OBである。池田さんの闘いは、こうした全国の仲間たちに支えられている。

 『郵政労使に問う ~職場復帰への戦いの軌跡~』池田実著、すいれん舎
 
定価1.760円(税込) 2022年8月25日 第一刷発行
 購入法については『伝送便』ホームページをご覧ください。
 https://www.densobin.net/


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