文芸同人誌にみるプロレタリア文学

                    登 芳久

はじめに

 現役の頃は勤め先の建設会社の業務の他に、社命によって業界団体の機関誌等の編集と投稿俳句の選をしていた。そのころの機関誌は月刊で、ときには会員会社の幹部社員から技術論文の掲載を依頼されることがあった。そうしたときにはその掲載料に見合うだけの広告を出してもらって本体を増ページし、その増えたページに当該論文を搭載することにしていた。幹部社員の持参する論文の多くは新規事業の創始か自社で開発した新工法のアピールなので、先の広告との相乗効果を考えると、全くの無駄使いとは言えないところがあった。
 そのうちにこの論文掲載者から、身銭をきってもいいから、もっと自由に書ける学術雑誌の発行を望む声が出てきたので、同人雑誌として季刊で刊行することにした。いわゆる建設技術論文を主とした同人誌が誕生したのである。この同人誌では、何か大きな事業が完成したり、海外から特別な新規技術が導入されたときには図版や写真を多用した特集号となるので、これらの資金的な助成は最大手である自分の勤め先に求めることになった。

文芸同人雑誌の簇生

 このわが国独自の文芸同人雑誌の伝統は、明治四三年四月に学習院出身の武者小路実篤らによって洛陽堂から創刊された「白樺」から始まったというのが定説になっている。この武者小路や志賀直哉の短編小説と併設して、ロダン、ゴッホ、セザンヌなどの西欧美術も紹介する、いわゆる和して同ぜずの向日性の強い雑誌だったのである。
 この「白樺」と前後して早稲田大学の前身である東京専門学校文学科からは「早稲田文学」が創刊されている。これは第一次から第七次まであるが、取り敢えず初期の第一次から第二次に至る経緯を紹介することにしたい。
 この第一次「早稲田文学」は明治二四年一〇月~同三一年一〇月の期間に、坪内逍遥の主宰で早稲田文学社から刊行されている。続く第二次は明治三九年一月~昭和二年一二月の期間に、島村抱月(後に本間久雄)主宰で金尾文淵堂、早稲田文学社、東京堂、春秋社等で二六三冊が発行されている。
 これらの同人誌は坪内逍遥によるシェクスピア等の英文学の紹介から始まって、しだいに文芸雑誌の色彩を加えながら島村抱月、後藤宙外、綱島梁川等の論客が活躍するようになった。そればかりではなく第二次の島村抱月の主宰以降は自然主義文学の牙城となり、正宗白鳥、中村西湖、近松秋江ら数多くの作家を輩出することになった。
 明治二六年一月には明治女学校教頭の巌本義治によって創刊された同人誌「文学界」は、星野天知、平田禿木、島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、馬場弧蝶らを同人として発足している。当初は北村透谷の評論「人生に相渉るとは何の謂ぞ」等に代表される宗教と芸術との矛盾を問う形而上的なものが多かったが、第二期以降は樋口一葉の短編小説「たけくらべ」等の審美的な作品も収容されるようになった。
 明治三九年に日本の勝利で終結した日露戦争は、戦勝国であるわが国の文化芸術に大きな発展を齎すことになった。明治三〇年代に主流であった自然主義が後退し、明治四〇年一〇月には小山内薫の個人編集で「新思潮」が創刊され、海外の近代演劇の翻訳紹介が盛んとなり、明治四二年には新劇の自由劇場が創立されている。これを第一次として、第二次には顧問に島崎藤村を迎えて、谷崎潤一郎の「刺青」に代表される耽美的な傾向を帯びることになった。
 これから少し遅れた明治四三年五月には、慶応大学文科関係者によって反自然主義を標榜する「三田文学」が三田文学会で創刊されている。この同人誌は大正一四年三月に終刊したが、その後にも復刊を繰り返して先の「早稲田文学」とその覇を競うことになった。 

プロレタリア文学の登場

 このような事情から次の大正時代には「白樺」派によるコスモポリタン的人道主義や新興の「三田文学」派による唯美主義、そして「新思潮」派の理知主義などの混沌とした状況を呈するなかで、主流の「早稲田文学」は緩やかに心境小説や私小説へと変貌して行ったのである。こうした文学状況の渦中から新しい文学思潮としてプロレタリア文学が誕生し、それを代表する同人誌「種蒔く人」が登場したのである。
 この「種蒔く人」は大きく二期に分類されている。その第一期の同人はフランスからバルビュスのクラルテ運動の洗礼を受けて帰朝した小牧近江を初めとして、金子洋文、今野賢三たちで、小牧近江の「第三インターナシュナル」の紹介がこの時代としては新鮮で、これに平林初之輔、青野季吉、前田河広一郎、山田清三郎らの新進気鋭の論客を加えて、プロレタリア文学の活動が始まったのである。先の青野季吉は「新小説」の大正五年四月号で、その歴史的意義をつぎのように記している。
 1. プロレタリアの立場に立つ創作家、評論家が現れて、直接文壇へ呼びかけたこと。
 2. 従って文壇内において、ブルジョアジーとプロレタリアとの闘争が行なわれたこと。
 3. プロレタリア文学ないしその文学運動の意義に関してて、同一陣営内で研究討議が行われたこと。
 4. プロレタリア文学運動に対して、他のプロレタリア運動から批判が加えられたこと。
 5. その過程中においてプロレタリア文学の開放運動上に占むる位置が他方に確立されたこと。
 この「種まく人」の後身としては、大正一三年六月に「文芸戦線」(後に「文戦」と改題)が創刊され、その翌年の大正一四年一二月には日本プロレタリア文学連盟が結成されている。

                     (未完)



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