人生七〇古来稀なり

北山悠


 

 その日は勇三の誕生日だった。いつもなら何の感慨もないはずだったが、それは七〇歳の古希を迎える日だった。二〇代の頃の勇三は、そんなに長生きするとも、するつもりもなかった。三〇歳から先の自分を想像することもできなかったからだし、太く短く生きようと密かに思っていたからだ。そんな思考が突飛とは思えないほど、世の中は激しく動いていて世の中がひっくり返るかもと夢想したものだった。今から思うと、青春時代にありがちなものだったのだろう。勇三の二〇代にはまだ全共闘時代の影響が燻っていた。立看の前では独特のアジ演説をするヘルメット姿の学生もいた。チラシはガリ切りのもので、活字のような文字が並んでいた。卒業するころには運動は下火になったが、学生たちのなかには闘いの場を企業内の労働運動に向かわせたものもいたし、機動隊の催涙弾と盾を突破できなかった政治グループは武闘の道を選択するものもいて、いずれにしろ安穏とした生き方はできないものと思っていた。
 勇三の考えが変わったのは、同棲していた真理が妊娠して思いもかけず父親になってからだった。八〇年代が始まる頃で、運動は停滞し始めていて安穏とした生活を選択することが許されそうな予感があった。そのときに生まれたのが恵で、今晩古希の祝いに食事をすることになっていた。恵が生まれたのは勇三が三〇歳のときだったから、今年は四〇歳になるはずで、小六の息子との母子家庭だった。決してメソメソしない元気な母親になった。恵の下に二つ違いの耕一がいて、今は広島に住んでいた。それなりの会社のサラリーマンで、小学生の女の子が二人いた。ごく普通のサラリーマンで、なんとなく自分に似ていると勇三は思う。その日の朝、耕一からも誕生祝いのメールがあったが、決まった形式にコメントやら名前を入力するものだった。メールの画面でクス玉が割られ、賑々しく音楽が流れ、耕一家族からのメッセージがあった。忘れずいたことが勇三は嬉しかった。どこかの機会に古希を迎えることをそれとなく言っていたのかも知れないし、耕一は自分の歳を計算しながら思い当たったのかもしれない。
 勇三が恵親子と会ったのは池袋の西口改札口だった。その辺りには街中華の店とは違う、ニューカマーの中国人が経営する店がたくさんあって、ガチ中華と呼ばれるようになっていた。勇三もかつて日本語学校の学生たちと行ったことがあった。従業員もお客の大半も中国人で、そこは中国そのものだった。何よりも勇三が嬉しかったのは、その店が東北地方の店だったからだ。小さな個室を予約してあった。駅前で恵親子と落ち合い、店に向かった。
 丸テーブルに料理をいくつか並べ、勇三には白酒を頼み、恵たちにビールやジュースも頼んだ。白酒を口に含むと、高粱の香りが口中に広がり、勇三には懐かしい味だった。恵は勇三のためにプレゼントを用意してくれていた。暖かそうなセーターだった。誕生日に会食するのは久しぶりのことだった。息子のサッカークラブの話、恵がやっているディーサービスの話、そして勇三が週二回行っている日本語学校の話などで近況報告が終わると、恵が話し出した。
「ジイジのことが心配なのよ。どうなの、考えてるの」
 勇三は何年か前から同居を勧められていた。勇三の住んでいるアパートに建て替え話があり、優先的に居住できる権利はあるものの、家賃が上がるのは勇三には負担だった。
「そうは言ってもお前のところも手狭だろうし、俺なんかが行ったら、大変じゃないか」
「そうなったら、引っ越してもいいのよ。ジイジなら、結構家事もできるし、やってくれるなら大助かりというところ。それに、そうなったら耕一にも少しはお金出させるわよ。あいつが長男なんだからってわけじゃないけど、あいつが一番余裕あるんだから、当然よ」
「うん、考えてみるよ。でも、俺の年金でも何とかやっていけるけどな……」
「でも、敷金だの引っ越し費用もかかるし……。前向きに考えてよ。私だって、そのほうが助かるんだから。いわば共助ってわけよ」
 勇三の友人たちにもそんな話がしきりだった。一人暮らしの友人のなかには、自宅で脳内出血を起こし、危うく命拾いをした者もいた。他人事ではなかった。それを聞いてから勇三は緊急連絡先を書いたメモを財布に入れることにし、そこには子供たちの携帯番号が入っていた。いつかどこかで倒れても、子供たちに連絡がいくことだろう。
 いつになく酔った勇三は食堂近くの中国物産店を覗いた。そこで中国酒やらピータンやらを買ってリュックに入れると、ふらふらと駅舎に向かった。
 電車は込んでいて、座れなかった。車窓を眺めながら、勇三は恵親子との新しい生活を始めようという思いが頭をもたげてくるのがわかった。勇三の年金はやっと二桁になるぐらいだったので、これ以上の負担は無理だった。日本語教師のアルバイトがそれを補填してくれていたが、いつまで働けるのか保障できなかった。一年単位の契約が更新されるたびに胸を撫ぜおろすことを繰り返してきた。誰もいない一人暮らしの部屋に帰るのも精神的には限界のように勇三は感じはじめていた。

 勇三が初めて逮捕されたのは、一九七五年の夏の終わりだった。その年、昭和天皇裕仁の訪米が予定されていた。勇三は当時、ある政治グループに加わっていたが、久しぶりにステ貼りの指示が中央から下りてきた。天皇の訪米反対を呼びかけるもので、広く電柱や壁に貼りだすようにとの指示だった。勇三は当時、地方都市にいたが、地方組織は県庁のある中心街にステ貼りを行うことを決めた。組織としては久しぶりのことだったが、そのノウハウは蓄積されていた。いくつかの街から学生や労働者がやってきて準備が進められた。ステッカーは一枚ずつ重ねて円筒形が作られて貼りやすいように準備され、貼り付ける糊が作られた。
 ステ貼り部隊として三人ずつ二組が作られた。三人一組で街路の両方に貼るためで、見張り、糊付け役、ステッカー貼り役の三人だった。ステ貼り作業は深夜近くになって始められた。勇三の組には、勇三のほかに学生と労働者がいた。街路は人通りがほとんどなく、ときおり数台の車が過ぎていくだけだった。勇三は糊付け役だったので、糊を入れたポリバケツと刷毛を持っていた。街路の向こう側の組は勇三たちよりも早く進んでいるのが、遠くに見えていた。
 街路に沿って何枚かのステッカーを貼り終えたころだった。勇三たちの後方に黒い車が止まると、数人の男たちが声もなく飛び出してきた。勇三は糊の入ったバケツと刷毛を男たちのほうに投げ捨てると、細い路地に向かって走り出した。同じ組の二人も別々の方向に走りだしたのがわかった。かつてない力走のために心臓が飛び出しそうだった。カッカッと追いかけてくる警察官の足音が次第に勇三に近づいてくるのが分かった。警察官の息遣いを真直に感じたかと思うと、「この野郎」と罵声を浴びせながら、勇三は抑え込まれ、後ろ手にされた。車のあるところまで連行されると、二人の仲間も連行されてきていた。「そんなに乱暴にするな」と逮捕歴のある仲間が警察官に話していた。そこには別の車とパトカーがやってきて、三人は別々に乗車させられ、警察署に護送された。後部座席に二人の私服警官に挟まれて護送されたが、勇三は刑事のタバコの臭いが記憶に残っている
 警察署に着いて間もなくすると、指紋と顔写真が取られた。知識としてあるそれらの手続きを勇三は記憶に残そうとし、「こうするんだ」と映画のシーンのように記憶した。人相の悪い写真を取られたに違いなかった。留置所の別々の房に入れられると、先輩が「怪我はなかったか。完黙で頑張れ」と声をかけ、看守が「話をするな」と大声を上げた。夜更けに酔っ払いが勇三の房に入れられてきたので、勇三は目を覚ました。初めは元気に毒づいていた酔っ払いは、そのうち高いびきを上げて眠りにつき、翌朝には萎れた様子でいなくなった。
 二日が過ぎて弁護士が接見にやってきた。
「とにかく、名前と住所だけを言えば、出ることができる」と伝えてくれた。
 次の取り調べに勇三が素性を明かすと、担当の刑事が何度も確認しながらメモをとった。勇三は、自分がマークされていなかったのだと思った。あの雑然とした勇三のアパートに型通りのガサが入るに違いない。勇三が逮捕されるとすぐに、ガサ入れ対策がなされているはずで、弁護士の登場はその合図だった。
 勇三が釈放されたのはその日の夕方のことで、すぐに公衆電話で連絡を入れると、ステ貼りの集合場所だった家に来いとの指示だった。そこに集まると、「ご苦労さん」の声と共に、「警戒心不足」を批判する声もあった。勇三の職場には同僚から休暇届けが出されていて、職場には知れないだろうが、公安警察が嫌がらせに訪問するのが心配された。実際、数日後に公安は職場にやってきた。勇三はそのとき、職場に労働組合を作ろうと何人かと話していたが、その試みは挫折せざるを得なかった。
 勇三の軽微な犯罪は起訴されることはなかったが、指紋と顔写真は確実に記録されるに違いなかった。当時、勇三が加わっていた政治グループは大きな政治路線の転換を迎えようとしていた。より穏健な労働運動を中心にしようという人たちがいる反面、引き続き政治課題中心の路線との間に分岐が生まれていた。その論議のなかで勇三は政治グループからの離脱を考えていたころだった。勇三の政治グループへの参加は、一種の時代の流れのように感じていた。その流れは、確実に退潮しつつあり、明るい見通しが見えなかった。未来への確信がない中では続けられないものだ。一九七五年秋は勇三にとってはそんな時代であり、そんなときの逮捕は勇三にとってはチャンスだったのかも知れない。天皇訪米に反対する動きは、全国的に起こっており、勇三の事件はそうした事件のひとつとして報道された。このまま職場を維持することは難しくなるかもしれないし、この地方都市では再就職も難しそうに感じられた。これを転機に新しい生活を始めようと勇三が決意したときだった。

 七〇歳の誕生日を祝ってもらった日から何日が経って、勇三は「政経問題研究会」に出かけた。時々の政治や経済の動きを自由に意見交換する集まりだった。コロナ禍でもあり、最近は数か月に一度の集まりになっていた。勇三と変わらない高齢者が多く、研究会が終わった後の飲み会がひとつの楽しみになっていた。政治に関心のある老人会のようなもので、責任のない放談会ともいえた。その日はコロナの感染の沈静化で久しぶりに飲み会が行われることになっていた。その日のテーマはウクライナ情勢をめぐる意見交換だったが、それぞれの立場が予想されるので、百家争鳴となるだろうと思われた。会は午後二時からの二時間ほどで、飲み屋が始まる時間から飲み会になるはずだった。
 都内の文化センターに着いたのは十分ほど前で、今日の報告者がセンターの入り口のソファに座っていた。その日はウクライナ事態での中国の立ち位置が報告されるはずだった。
「勇ちゃんは中国寄りだよね。僕の報告じゃ、いろいろ言われそうだから、加勢を頼むよ」「俺って、そんなに中国寄りかな」「だって、中国に何年かいたんだから、そうじゃないの」
 勇三には中国居住体験があり、中国を肌感覚で感じているのは確かだった。
 その日、集まったのは七人で、ほとんどが勇三より年配者で、年下は五十代と思しき女性研究者だけだった。その女性には勇三同様に中国居住体験があり、中国の大学院で近代史を研究してきたという。一度、この会で報告者になってもらってから、例会に顔を出すようになっていた。勇三たちの放談とは違う研究者の視点が新鮮だった。勇三も含めた古いイディオロギッシュな意見とは違う彼女の主張が会を引き締めていたのだった。勇三たちは、ともすると社会主義中国という見方になり、それぞれの社会主義論に結びつけることが多かったが、彼女はいつも国際政治における国益という視点だった。しかし、彼女は彼女で、古いボルショビッキたちの意見が新鮮な刺激のようだった。
 その日の報告は、中国系の媒体が取り上げている中国の専門家の論述を紹介するものだった。報告者が紹介した論点で重要なことはふたつあった。まず、中国は、ロシアのウクライナ侵攻を支持せず、批判もしないものの、制裁にも参加していないと報告した。ロシアがNATO拡大を警戒するのに理解を示すが、中ロ関係は同盟関係ではなく、NATO諸国とも一線を引いているというものだった。歴史的に中国は、中ソ関係が悪かったときには、アメリカに接近したことがあり、伝統的に理念的ではなく国益重視のスタンスだと報告された。もうひとつは、中国の関心は中米対峙にあり、それがまず優先され、ロシア支持に前のめりになることはなく、国際世論の動向を見ながら自らの立場を選択するだろうとのことだった。
「ロシアのウクライナ侵攻は侵略そのもので、それはしっかり批判しなくてはならないんじゃないか」と一人が話し始めると、それに同調する意見が続いた。
「国連憲章などの国際法に違反している。国連安保委常任理事国のロシアが取るべき行動ではない。これは独裁者プーチンの大ロシア主義によるもので、レーニンが掲げた民族自決権にも反する行為じゃないか」
「左翼が国際法を問題にする時代なのか」という声も聞こえた。
日本の対応こそ問題にすべきという意見もあった。
「問題は日本政府のスタンスだよ。アメリカが行ってきた侵略戦争には目をつぶってきたのに、ロシア批判をするのはダブルスタンダードじゃないか」
 報告者が勇三に視線を送ったので、発言した。
「俺は報告された中国の立場を支持できるな。中国としては米中対立こそが関心事なんだから、それに役立つなら、どことも繋がるんだよ。中国外交のしたたかさにアメリカが翻弄されているってとこかな 」
 件の女性研究者が勇三に加勢するように言った。

「ある人が言っていたんだけど、中国の外交は毛沢東の『農村が都市を包囲する』路線なのよ。よく言われる国際社会ってのは所詮NATO諸国とG7ってところなんだけど、確かにGDPでは相当なものだけど、人口にしたら世界の八分の一でしかないのよ。G7のGDPシェアはかつて七割近かったが、いまや半分ぐらいで、どんどん影響力が低下しつづけているんだって。BRICS諸国、アフリカ、中南米、ASEAN諸国などのアジア、中東諸国はほとんど中国と同じ立場で、制裁には参加していない。それは長期的な中国外交の成果なんじゃないかしら。それに第二次大戦後の民族解放闘争を支援してきたロシアへの親近感はアジアやアフリカでは侮れないわよ」
「農村が都市を包囲するか、懐かしいなあ。中国の第三世界重視は変わってないのか」
 議論はさらに続きそうだったが、半分ぐらいは飲み屋行きを考え始めているようだった。
 プーチンの話が出るたびに勇三は彼も今年古希を迎えることを思い出す。
 いつものチェーン店の飲み屋には勇三たちのボトルが入っていて、コロナ禍で出入りが少なかったが、健在だった。この飲み会では、いつも卵焼きが必ず注文され、北海道生まれの仲間がホッケを頼むのがいつものことだった。
 共通の友人の消息情報が交換され、なかには訃報もあったり、入院話があったりした。それからそれぞれの病気の話になり、さまざまな民間療法が話題になった。
 飲み屋の論議は、安倍銃撃に集中し、おおむね「自業自得」だの「因果応報」となり、安倍亡き後の日本政治への放談へと続いていった。国葬にはいずれも反対意見だった。それから、旧統一教会やら警備問題へと話題は変わって、年寄りの勇三たちの酒量が限度に達して解散となった。
 駅に向かう勇三に女性研究者が声をかけてきた。
「先生、よかったらちょっと酔い醒しにコーヒーでもいかがですか。時間ありますか」
「帰っても誰も待っているわけじゃないから、かまいませんけど……」
「ちょっと教えていただきたいことがあって」
「…………」
 駅前のカフェの席に向き合うと、研究者が話し出した。
「私、また中国に行こうかなって考えているんですけど、今度は日本語でも教えながら研究しようと思っているんです。先生も中国にいらっしゃったんでしょう」
「そうね、四年ぐらいいたんですよ。楽しい時間でした。日本語教師をしてたんですけどね、とにかく楽しい時間だったなあ……」
 勇三は学生たちと過ごした日々やあちこち一人旅で出かけたことを思い出した。
「そうですか。私も日本語教師で生活費を賄いながら、フィールドワークでもしようかと思って…」
「えっ、日本の大学で教えてるんじゃないんですか」
「はい、でも時間講師ばかりで、中国語と現代中国論をやってるんですけど、生活に追われるばかりで楽しくないんです」
「そうですか。中国の日本語学習者数は世界一だから、あまり資格のない人でも雇ってくれると思いますよ。ネットでもいろいろ募集しているから、見てみたらいい」
 勇三は中国生活の様子を話したり、募集の方法についてアドバイスしたりした。

 勇三が真理に会ったのは、勇三が三十歳になる手前のことだった。恵が生まれたのが三十歳だったから、その前であるに間違いない。その頃、勇三の父親が亡くなり、結婚相手を見せられないままに送ってしまったことを勇三は悔いていた。せめて母親にはそんな思いをさせたくないものだと思っていたころで、少々焦っていた頃だった。
 その頃、勇三は足立にある電気メーカーに勤めていた。勇三がその会社を選んだのは、そこに全国金属所属の労働組合があったからで、組合活動のために「潜り込んだ」と言っても過言ではなかった。組合は共産党系の活動家が牛耳っていたので、勇三と同じように「潜り込んで」きたグループはその方針を左から批判する役割を果たしていた。その当時、社共勢力とは違う政治勢力があり、それは労働運動の中でもある程度の存在感があった。しかし、現場のライン仕事は単調で、決して楽しいものではなかった。組合運動への関与を目指しながらも、政治活動への渇望があり、勇三は職場とは違う地域の運動に顔を出していた。職場では扱われない政治課題への取り組みがそこにあった。
 一九八〇年代のあの時代、学生運動から労働現場に入って行った人たちがいて、さまざまな労働組合があり、いろいろな争議があった。足立の小さなハム工場が閉鎖されて、工場占拠をしているところがあった。その工場占拠の場は地域のたまり場になっていて、そこが真理と会った場所だった。その工場は新井ハムという名前で、そこに労働組合ができて労働条件の改善に要求書を出し、労働条件は改善されるようになるや、中心的活動家を学歴詐称で解雇してしまった。組合が解雇無効の闘いを始めると、親会社は業績不振を理由に会社そのものを潰してしまった。それは労組活動を嫌った組合潰しだった。新井ハム労組は、地区労にも加盟していたので、その支援もあることはあったが、主な支援者は社共とは路線を異にする人々だった。組合活動とは違う市民運動をやっている仲間や産直運動の仲間たちもいた。職場での勇三の活動は職場委員をするところまではいっていたが、執行部は共産党系の活動家で占められていたので、勇三にとっては新井ハムの工場占拠に出かけるのは居心地がよかった。工場占拠には組合員たちが輪番で泊まり込んでいた。勇三が出入りするようになったころ、組合員は七人になっていた。中心人物の二人の男性組合員が泊まり込むことが多かったが、女性組合員も時折やってきた。真理はその組合員の一人だった。その工場の会議室は地域の活動の拠点として貸し出されてもいた。
 勇三が真理に初めて会ったのは梅雨の長雨がうっとうしい金曜日の夜だった。金曜の夜にはいろいろな活動家がやってきて酒盛りをし、そのまま泊まり込むことが多かったので、勇三もそれを楽しみにしていた。その日の組合員は女性が二人で、ジャンボさんと呼ばれていた年配の組合員と真理だった。ジャンボさんは姉御肌の新井ハム労組の元気印だった。ジャンボさんが真理を紹介してくれた。
「この子、真理ちゃん、組合で一番若くて、独身。ちょっとシャイで、要求が高いせいなのか、なかなか結婚相手にありつけないの」と言った。
「変なこと言わないで、そんなんじゃないわ」と真理が頬を膨らませた。
 その夜、勇三たちは政治情勢を肴に酒盛りをしたが、真理はときおり台所に立ってツマミを準備し、静かに隅で話を聞いていた。政治論議には関心を見せないというよりも、若い論議への戸惑いと蔑みを勇三は感じていた。政治論議とはいっても、自分たちの活動が先細りになりつつあることへのボヤキのように勇三も感じたし、視線は真理と変わらなかった。勇三はその夜、酔いつぶれて泊まり込んでしまった。
 翌朝の昼近くに勇三は眠りから覚めた。喉の渇きとかすかな頭痛があった。
「どう、朝御飯食べられる。と言っても、パンとコーヒーぐらいしか期待できないけど…」
 真理がテーブルの上の酒盛りの後片付けをしながら言った。
「ほかの人たちはいないの」
「明け方まで飲んでたけど、みんな、帰って行ったわ。私も山ちゃんたちがやってきたら帰ろうと思っているの」
 山ちゃんは解雇された組合の中心人物で、ほとんど新井ハムに住み込んでいた。ときどき連れ合いがやってきたが、彼女が妊娠すると、山ちゃんも家に帰るようになっていた。
 山ちゃんがやってくると、勇三と真理は近くの駅まで歩いた。
「この近くでモーニングやってるから、行ってみる」と真理。
「…………」
 喫茶店の奥で向かい合った二人は改めて自己紹介をし、いろいろ話をした。
 真理は、自分はノンポリで山ちゃんたちとは違うけど、新井ハムのやり方は許せないと語った。組合活動は楽しかったし、結構働きやすい職場だったと真理は言った。真理は新井ハムで経理事務をしていたのだという。勇三も大学での活動やら、職場の組合の話をした。まだ春闘が激しく闘われていた時代だった。あちこちの職場に赤旗が掲げられていた時代だから、ノンポリだと言っていた真理にも同時代の影響はあったのだと勇三は思う。
 それは真理と勇三の初デートだったのだ、と勇三は知った。
 新井ハムの占拠闘争は、親会社の大洋食品との闘いだった。新井ハムの閉鎖を指揮したのも親会社だった。親会社は霞が関の一角にある大企業だったが、新井ハム労組と支援の仲間が本社闘争をときおり展開し、勇三も参加したことがあった。親会社の玄関からは皇居が見えていた。新井ハム労組は地労委に申し立てをしたが、いずれも棄却され、工場の占拠を武器に親会社との直接交渉を求めていた。
 その争議支援で親しくなった勇三と真理は、お互いのアパートに泊まり合う仲になり、間もなく真理は妊娠した。仲間たちがちっぽけな祝う会を開いてくれ、真理が勇三のアパートに引っ越してきたころ、争議は勝利的な解決を見た。新井ハムの不動産を処分したい親会社は、会社前にやってくる彼らが目障りだったに違いなかった。勇三たちは活動のたまり場を失うのが残念でならなかった。真理にもそれなりの解決金の一部が入り、新生活をスタートさせる条件が整っていた。

 勇三が恵の家に引っ越したのは秋になっていた。恵は勇三の部屋を確保するために新しいマンションに引っ越してくれた。勇三はそこら中に置かれていた書籍やら書類を処分させられ、部屋に収まるものだけを業者に依頼して引っ越した。勇三が大量の私物を処分するのは久しぶりのことだった。勇三の部屋は六畳ほどの洋間で、ベッドとパソコン机が勇三の家具らしいものだった。勇三はこの引っ越しで新しい生活をスタートさせようという思いがあった。古希を迎えた勇三には、いわゆる「終活」のようなものだった。
 勇三はいまも日本語教師をしていたが、コロナ禍が始まったころから週に二回だけ午前中の授業を担当するだけになっていた。大幅に留学生が減って講師のコマ数が減っていたからだった。このコロナ禍で閉校の憂き目にあった学校も多く、そんな学校から勇三の学校に流れてくる講師も多いようだった。なにせ登校日そのものが少なく、情報交換する時間もなく早めの帰宅を要請されていたので、本当の実態はつかみ切れていない。
 オンライン授業を強いられた当初は大変だったし、機械音痴の日本語教師は大幅にコマ数を減らされたり、自ら退職したりした人が続出した。それほどコンピータ―に精通していない勇三が未だに教師稼業を続けていることが不思議だった。勇三が出かけている日本語学校では、時間講師の年齢制限もなく、実際勇三より高齢の講師もいた。勇三の年金では十分でなかったし、何よりも若い留学生と接する喜びを失いたくはなかった。娘の恵には「ボケ防止だし、酒代ぐらいは何とかしなくっちゃ」といつも発破をかけられていた。日本語学校には四学期があり、休みも多かったので、このコロナ禍でアルバイトを強いられている講師もいた。
 引っ越ししてまもなく日本語学校の学期が始まった。以前より遠くなったし、住所変更と通勤費の変更届を出さなくてはならなかった。学校は池袋の駅近くにあった。学校からの連絡では、新学期も対面とオンラインの両方を同時に授業するハイブリット授業で始まるとのことだった。一番やりやすいのは対面で、次は全員オンライン授業、ハイブリット授業ではどうしても対面学生が優先されてしまい、うまくいかなかった。
 久しぶりの登校の日、勇三は通勤時間を計算しながら学校に向かった。以前より二〇分ほど余計にかかった。学校の玄関先には体温計と消毒薬がいつものように置かれていた。事務方に住所と交通費の変更届けをもらい、随分早めに教室入りした勇三は、まずはコンピューターを立ち上げ、オンライン授業の開設準備を済ました。クラスは先学期からの持ちあがりだが、新入生が二人いるのだという。一人はいまだ入国できずに本国からのオンラインで、もう一人は入国したものの、待機期間とかで空港近くのホテルからのオンライン学生だという。コロナ感染が収まっていないので、希望者にはオンラインが許されてもいたので、寝坊した学生はオンラインを選択するに違いない。
 定刻になると、何人が対面授業のためにやってきた。イタリア人とアメリカ人、そして中国人、韓国人もやってきた。しかし、中国人のほとんどはオンラインによる参加だった。その日は初日の連絡事項やら、自己紹介で終わった。半分はオンラインだったので、もどかしい時間になった。
 勇三が残務整理を終え、事務室に戻ってクラス担任を探した。住所と通勤費の変更届けには担任の印鑑が必要であり、そこを経由して学校側に提出することになっていたからだ。勇三のクラス担任は三十代の専任講師で、はきはきとした、仕事のできる美形の人だった。なんでも以前は航空会社に勤めていたという。日本語学校は女の職場なので、校長も教務主任もそうだし、専任講師のほとんどが若い女性だった。そのほかに時間講師がいて、そこにも主婦の講師たちが多く、男性講師は肩身の狭い思いをしていた。
 担任教師は事務所の奥の席にいた。勇三が見つける前に声をかけてくれた。
「先生!」と声をかけながら手を振り、時間講師の席を指差して立ち上がった。
 勇三がテーブルに着くと、コーヒーの紙コップ二つ持った担任教師が勇三の前に座った。
「先生、クラス、どうでした」
 担任教師はかつて勇三とおなじ時間講師だったが、その仕事ぶりが認められたのかまもなく専任講師になった人だった。
「まあ、何とか終わりましたよ。今日は、引っ越したもんで届けを出したいんです」
「そうでしたね。お嬢さんと同居するんでしたね」
「はい、先生はお変わりないみたいですね」
「えっ、それって未だに独身ってことですか。それって、セクハラ発言だわ……」
 担任講師はクスっと笑った。彼女に会うたびに勇三はいつも真理を思い出した。細かなところに気が付いて、仕事ぶりにもミスがなかった。彼女が担任になると、勇三は安心できた。美形の彼女がマスクをしていのが残念だった。

 勇三と真理に恵が生まれ、二年後には耕一が生まれた。八〇年代の半ばになっていて、組合運動も右傾化を続けていた。勇三も家庭持ちになったのを言い訳に組合には背を向け始めていたものの、地域の市民運動には顔を出していた。しかし、何よりも子育てに忙しかった。思い出してみると、子供の成長していく間は、自分の時間ではなかったと勇三は思う。ただひたすら生活に追われる日々だったが、子供の成長を見守る生活はまんざら悪いものではなかったし、勇三は満足していた。子供たちが学校に上がるようになると、真理は簿記の資格を活かして会社の経理仕事に出るようになった。勇三は欝々としながらも人の親になった責任を果たさなくてはと、サラリーマン生活に耐えていた。そもそも組合があるから選んだ職場だったから、仕事に魅力ややり甲斐を感じたことはなかった。生活の糧を得るだけが目的だったから、家庭のなかに喜びを見つける以外にはなかった。
 その頃、勇三は検査現場から営業に回された。組合活動に熱心な社員を営業に回すのは会社の労務政策のひとつになっていた。労働組合の拠点である本社工場から切り離されて都心の営業所に回された。その先には地方に飛ばすことも考えられたので、勇三は組合と距離を取るようになっていた。会社の労務政策にまんまと嵌められたことが悔しくてたまらなかった。
 新井ハム争議の当該だった真理は、決して中心的な活動家ではなかったが、争議が始まって何人も離脱していったなかでも真理は踏みとどまっていたのだった。学生運動上がり特有の思想的な確信があるわけではなかったが、それでいて新井ハムの理不尽な対応への怒りは揺るぎなかった。新井ハム闘争の過程でも、争議の開始とともに生活者の何人かは離脱していった。独身の真理にはそうした生活条件はなかったものの、揺るぎのない真理の意志が不思議なもののように見えた。真理との家庭を築き始めてからも、真理の頑固な、芯の強さに勇三がタジタジになる場面が何度もあった。二人の子供が踏み外すこともなく育ったのも、真理のおかげだったし、いつも夢見がちでインテリ臭さの抜けない勇三をそれなりの生活者にさせたのも真理の力によるものだった。いわば勇三は真理にオルグされてしまったのだった。勇三の友人のなかには「勇ちゃんが結婚したのも信じられないけど、いいのに当たった」と真理について語ったものだった。 
 恵と耕一が独立していくまでの時間はあっという間に過ぎ、その間の記憶も希薄だったが、また二人だけの生活が始まることへの期待があった。しかし、期待はもろくも崩れ去った。真理との二人だけの生活が始まった矢先、真理はあっけなく帰らぬ人となってしまった。くも膜下出血だった。三割ほどがひと月以内に亡くなる病気で、真理は二週間ほどの闘病のすえ亡くなった。子供たちが駆けつけてきたが、彼らの心配は勇三のことのようだった。「お父さん、しっかりしてよ」と何度も声をかけられたのを思い出す。子供たちにも勇三夫婦が真理の踏ん張りで持っているのを知っていたのだろう。勇三は真理の死を受けとめるだけの心の準備ができていなかった。自分が真理に無理をさせていたのではなかったかと勇三は自らを責めた。葬儀やら残務整理やらの慌ただしい時間が過ぎると、大きな喪失感に襲われ、悔いだけが残った。まがりなりにも家庭を維持でき、二人の子供を育てられたのは、真理なしにはありえなかった。これから先、どうやって一人で生きていったらいいのだろう。ときおり見る真理の夢で目を覚ますと、なかなか寝付けなかった。真理への感謝のための時間がこれから始まろうとする矢先のことだった。勇三の思わぬ落ち込みように子供たちも当惑したが、彼らの生活を犠牲にすることはできなかった。

 そんな勇三に助けになったのが、中国での日本語教師の話だった。そもそも勇三が参加していた政治グループが中国派のひとつだったし、勇三もいつかその地で暮らしてみたいという思いがあった。まがりなりにも社会主義を標榜する現実を見てみたかったからだ。このまま日本に居ては立ち直れないだろうと結論を下し、早期退職と中国生活を選択した。勇三の人生では居住地を変え、周囲の環境を一新することがいつも効果的だった。流れ者らしい選択だった。簡単な研修を受けて長春の学校に赴任したのは二〇一〇年の秋のことだった。急増する日本語学習者に教師の供給が間に合わない事情があり、素人同様の勇三も職にありつけたのだった。新しい生活に慣れること、日本語やら中国語やらの勉強に追われているうちに勇三の喪失感は癒されるだろうと期待した。とにかく忙しくしていることだ。実際、来てよかったと勇三は思ったものだった。 
 勇三が赴任した学校の責任者は日本に住んでいた中国人で、なぜか中国の悪口をいうのが常だった。それが彼の日本社会で生きてきた知恵のように思われた。その下に長く長春に住んでいるという年配の教師がいたが、いつも人民帽をかぶった毛沢東カブレだった。冬になると、毛沢東のように大きなオーバーを羽織った。遠い時代を連想させる毛沢東カブレは、若い中国人教師や学生からは不人気だった。そんな時代ではないというわけだ。勇三は彼らとは大人の付き合いをするだけで、決して馴染もうとはせずにどちらかというと、若い教師たちや瞳を輝かせる学生たちとの交流を楽しんでいた。かつては社会主義の中国という目で見ていた勇三だったが、日本以上に資本主義的な競争社会になっているのに驚いたものだった。彼らもその荒波に翻弄されているように見えた。彼らとの付き合いは本当に新鮮な刺激に満ちていた。長春の冬が厳しかったのには閉口したが、勇三には楽しい時間でしかなかった。勇三が住んでいた宿舎では日本の国際放送も視聴でき、日本の事情にも接することができた。長春はかつて満州国の首都・新京だったので、「偽満皇宮博物館」が学習施設になっていた。近くのハルピン近くの「七三一部隊陳列館」や瀋陽の「九一八歴史博物館」にも行ってみた。それらはどこも無料で見ることができた。勇三は満州国の爪痕を見て回るだけではなく、観光も楽しみ、名物料理も食べ歩いた。
 完全に立ち直ったわけではないが、帰国を決めたのは真理の七回忌が近づいたころだった。三回忌は慌ただしく帰国したが、勇三の傷はまだ癒えてなかったし、もっと中国生活を楽しもうと思っていた。一人旅に慣れてくると、東北地方以外にも足を伸ばした。北京や上海では中国の躍進を目の当たりにし、西安への旅では中国の歴史を感じたりした。日本とゆかりのある鑑真や空海の足跡を訪ねたりもした。日本に帰っても誰もいないと思えば、そのまま中国にいるのも悪くないとも思ったが、あの毛沢東カブレのように日本人でもなく中国人でもない存在になるのかと思うとぞっとした。
 真理の七回忌が帰国のチャンスだった。恵とメールのやり取りをしながら勇三の帰国作戦は始まった。一人暮らしができそうなアパート探し、帰国後の日本語教師の職場探し、七回忌の段取りも相談した。恵と耕一の家族、真理の両親や兄弟だけが出席する細やかな七回忌にするつもりだった。
 帰国する日は朝から雪が舞っていた。頼んであったタクシーが朝早くにやってきた。凍てつく道路を雪が横殴りに舞った。いかにも長春らしい日だった。この寒さを二度と経験できないかと思うと、寂しい気がした。何度目かのリセットが勇三には待ち構えていた。



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