諏訪から飛騨へ晩秋の旅

              土田宏樹


 11月初旬、諏訪から飛騨に抜ける二泊三日の小旅行をした。
 生まれてから22歳まで、中央線沿線の国分寺に住んでいた。中央線快速電車の下り終点は高尾駅。その向こうは山が立ちはだかっている。幼い頃は、当時オレンジ一色だった中央線快速電車の車両が線路を行き来するのを眺めながら、大人たちが口にするタカオという地名に、そこが世の中のどん詰まりだと思っていた。世の中と表現するといかにも誇張するみたいだけれども、幼い子どもにとっては目に見える限りが世界の全てである。
 実際にはトンネルというものが通じていて、山の向こうの山梨県さらには長野県にも出かけていけるというのがわかったのは何歳くらいのときだったろうか。11月7日の朝、千葉県我孫子市のわが家を出て、常磐線と山手線と中央線快速を乗り継いで高尾駅に着く。かつてどん詰まりと思っていた場所から今回の旅は始まる。午前10時少し前、駅ホームの売店で昼食用のおにぎりを二つ買い、松本行きの鈍行列車に乗った。高尾駅では京王線との連絡口ではないほうの改札口の脇にある売店でなかなか美味しいおにぎりを売っている。鈍行列車にしたのは特急料金を節約したいのと共に、11月初旬は中央線の車窓から観る紅葉・黄葉がいちばん鮮やかな時季だからである。何も急いで通り過ぎることはない。幸い、快晴。

上諏訪の片倉館

 午後1時過ぎ、上諏訪駅で降りる。上諏訪駅の改札出口は東口だけで、諏訪湖や温泉街とは反対側である。駅前にはかつて〔まるみつ百貨店〕という地場の大きなデパートがあった。それは廃業して、今や建物には放送大学その他が雑居しているようだ。ネットで調べてみると、かつてデパートには5階のレストランがあるフロアに〔なごみの湯〕と称して温浴施設もあった。いかにも温泉地のデパートらしい。ところがリーマンショックの大波に洗われて業績が悪化、2011年に閉店した。
 温泉街へは改札口を出て右に行くとすぐ、中央線の線路を跨ぐ橋状の通路がある。左へ行っても中央線沿いを少し歩くと線路をくぐれる。この日は線路をくぐった。くぐってすぐ十字路があり、一角は老舗の佃煮屋だ。諏訪湖で獲れるワカサギなんかを今も材料にしているのだろう。向かいの角が空き地になっている。20年くらい前にここを通ったときはたしかストリップ劇場があった。地場のデパートもストリップ劇場も、こんにち生き残ることはむずかしかったか。私はどちらも中に入ったことはないけれど、一抹の寂寥を覚えつつ、諏訪湖の畔にある共同浴場〔片倉館〕に向かった。ここの<千人風呂>と称される大きな湯ぶねに浸かるのが、中央線車窓から観る紅葉と共に、旅の一日目の目当てである。
〔片倉館〕というのは、片倉製糸紡績会社の二代目が1928年、大正から昭和へ天皇が代替わりの「御大典」と自社の創業50年とを期して、製糸工場で働く女工たちの福利厚生施設として建てた。その<千人風呂>とは、同館のホームページにはこう書かれている。
「天然温泉を豊富にたたえる大理石造りの浴槽は100人が一度に入浴できるほどの広さ。深さ1.1mの底には玉砂利を敷き詰め、立つと心地よい刺激が感じられます。また、ステンドグラスや周囲の彫刻、装飾もお楽しみいただけます。千人風呂は多くの方に親しまれている芸術のお風呂です。多くの先人達が好んで訪れた温泉で90年以上の年月が過ぎた今も価値ある存在です。」
 しかし、上の引用のうち、湯ぶねの「深さ1.1m」には、温泉を楽しむだけではすまない歴史が秘められている。労働経済学者の故・森岡孝二(1944-2018)が2015年に著した『雇用身分社会』(岩波新書)から引用しよう。
「……私は先年、諏訪地方を訪れたことがある。同地には<千人風呂>の名で知られる温泉施設がある。製紙産業で『王国』を築いた片倉財閥の二代目片倉兼太郎が手がけて、一九二八(昭和三)年竣工した。浴槽の広さは四メートル×七・五メートルだからそれほど大きいとはいえない。驚くのは一・一メートルという深さである。タクシーの運転手から聞いた話では、浴槽を座ったままでは入れないほど深くしたのは、大勢の製糸女工たちを短時間で入浴させるためらしい。女工が座って眠らないようにするためという説も聞いた。」 (<戦前の日本資本主義と長時間労働>45~49ページ)
 森岡さんはさらに『女工哀史』や『職工事情』などの文献を引きながら戦前の女工たちの働かされ方を紹介している。諏訪の製糸工場では徹夜業こそなかったものの、午前午後の休憩時間を与えないだけでなく、食事時間もなるべく短縮しようとする。規則に「食事時間は五分を過ぐべからず」という項目がある工場もあった。食堂に集めては時間がかかるからと握り飯を女工たちが働く繰釜の側に配り、女工たちはこれを頬張りながら作業を続けるところもあった。
 なるほどこんなにこき使われていたら、仕事のあと風呂に浸かったら湯ぶねで寝てしまって不思議ではない。そうさせないための底の深い浴槽であったのだ。
[片倉館]が竣工する前年、1927年の新聞によれば、その年の半年間に諏訪湖周辺で自殺した女工の数は47人に上るという。過労自殺は今日だけのことではなかった。
 森岡孝二さんが心不全で急逝した2018年は、政府と財界が音頭をとった<働き方改革>が世上を騒がせていた。それが実は働き方および働かせ方の改悪でしかないことを訴え続けていたのが森岡さんである。〔NPO法人働き方ASU-NET〕というサイトの<森岡孝二の部屋>というページにアクセスすると、現在も森岡さんの当時の論説を読むことができる。

https://hatarakikata.net/category/archives-morioka/

 森岡さんが斃れてからは脇田滋さん(労働法学者、龍谷大学名誉教授)がその論営を引き継いだ。私は夕方まで<千人風呂>に浸かったり出たりをくり返してから、その日は近くにあるKKR〔諏訪湖荘〕に泊まった。

旅の道連れ

 翌8日は松本に向かう。松本駅前で池田実さん、繭山惣吉さんと待ち合わせていた。一人旅がここからは三人の旅になる。
 池田実さんについては、彼の著作『郵政労使に問うー職場復帰への戦いの軌跡』の書評がweb労働者文学作品集に収録されている。

https://roubunn.cocolog-nifty.com/blog/cat76052056/index.html

 著作そのものを読んでもらうのが一番いいのだが、人となりはあの書評からでもある程度は覗えるかと思う。繭山惣吉さんのほうは都立高校で数学を教えてきた。
 1954年1月、東京で生まれた。在学していた麻布高校で学園闘争が起きたのは1970年前後。有名な進学校である麻布は自由な校風でも知られてきた。ところが当時、校長代行に就任した山内一郎氏が強権的な支配を振るいだす。教員が労働組合を結成し団交を求めても拒否。生徒の政治活動は認めない。生徒会の活動も一時凍結……等々。
 生徒も父兄も教員も反撃に立ち上がる。対して1971年の秋には文化祭で話し合いを求めて中庭を埋めた生徒たちの座り込みに機動隊が導入された。繭山さんはそのときの嫌疑で事後逮捕され少年鑑別所暮らしも経験する。麻布の闘争は、最終的には山内氏が退陣、彼が繰り出していた施策は撤回され、生徒たちが全面的に勝利した。高校の学園闘争としては全国でも珍しいケースである。
 教員になってからは東京都高等学校教職員組合(都高教)では支部長などを務め、ストライキを何度も指導してきた。高校での学園闘争、鑑別所送り、それに労働運動といえば、前出の池田実さん著作を読んだ方ならハハーンと来るだろう。二人は共通点が多いのだ。実際、2020年の2月に都内で開かれたシンポジウム〔高校紛争から半世紀~私たちは何を残したのか、未来への継承〕に二人は登壇して若い世代の前で自分たちの体験を語っている。
 とはいえ、池田さんもそうだが繭山さんもいわゆる猛者的な雰囲気の闘士ではない。酒を飲めば相手の話を穏やかに受け止めながら、ゆっくりと盃をかさねていく。定年を迎える少し前に教員を辞め、退職金の一部でキャンピングカーを買った。今回の旅でも私たちはそれに乗って安房峠を越えて飛騨へ向かう。
 山本茂美『あゝ野麦峠』が描くのは製糸工場の労働環境がもっとも過酷だったと言われる1910年前後である。飛騨の農村の娘たちは野麦峠を越えて諏訪の製糸工場に働きに行った。年の暮れには稼いだ金を実家に届けて正月の僅かな日々を過ごし、また諏訪に戻る。真冬の行き来だから峠は深い雪である。1997年に安房トンネルが開通したので、今日では諏訪と飛騨の往来は安房峠を越えるというか潜るのが便利だ。11月初旬、雪はまだ来ていない。

飛騨古川の蕪水亭

 松本では青空だったのが、安房トンネルを抜けて飛騨に入ると曇り空だ。飛騨では高山ではなく古川に泊まる。宿はいつも〔蕪水亭〕と決まっている。
 私が古川を、〔蕪水亭〕を初めて訪ねたのは30数年ほど前である。2月の雪が降る日だった。一人旅。夜、部屋で夕食を摂っていると着物姿の若い女性が挨拶に来た。現在の女将さんである。そのときは関西から嫁に来て間もなく、まだ女将の修行中だと言いつつ、燗のついた徳利を酌してくれながら、飛騨の暮らしを、遠方から来て戸惑ったことなんかも交えて話してくれた。
 翌朝はロビーで朝食をとった。囲炉裏が切られており、炭火の上に大きな朴の葉が敷かれて、葱をたっぷり刻んだ味噌が載せてある。飛騨名物の朴葉味噌だ。これは白飯にも酒にも合う。もっとも30数年前は、私はまだ朝酒をやる習慣がなかった。
 TVでは朝7時台のNHKニュースが流れていた。桜井洋子アナウンサーがその時間帯のキャスターを務めていたときである。なんでそんなこと覚えているかというと、給仕をしてくれた年配の中居さんがTV画面にふと目をやって
「この人は感じがいいですなあ」
とつぶやいていたのが妙に印象に残っているからだ。桜井アナウンサーは現在も〔ラジオ深夜便〕という放送でたまに声を聴くことがある。声を聴くときまって30数年前初めて古川を訪ねたときを思い出す。
〔蕪水亭〕は荒城川と宮川が合流する畔にある。土地の人たちはその流れで蕪を洗ったので川は蕪水(ぶすい)と呼ばれ、それが宿の名にもなった。2004年、秋の台風で水害に遭う。母屋のほとんどを流され、再建まで9か月を要した。流されず残った土蔵が現在は改造されてロビーになっている。TVは今は置かれておらず、朝食のときは武満徹が古今の名曲をギター独奏に編んだのが流れていたりする。武満も古川の町を愛した人である。晩年の作品『精霊の庭(スピリット・ガーデン)』は古川の人びと、たたずまいに触発されて作ったのだという。音楽に疎い私はまだ聴いたことがないのだが。武満が編曲した『ギターのための12の歌』は大好きだ。その12曲の最後に採られているのは『インターナショナル』である。ロビーの書架にはたくさんの絵本が並んでいる。女将さんはNPO法人【思い出の絵本展】の理事長を務めているのだ。あちこちの保育園に〝出前〟して子供たちに絵本を読み聞かせたりしている。

https://www.ehonten.com/

 四代目にあたる現当主と女将さんは水害を乗り越え、二人の娘を育て上げた。長女は〔蕪水亭〕が古川の町なかに出す〔OHAKO〕というカフェを任されている。次女には婿が来て、若夫婦はいま五代目を継ぐべく修行中だ。
 現当主が包丁を握る料理はほんとうにうまい。飛騨に伝わる懐石料理の伝統をふまえながら、いま彼が力を入れているのは薬草を食材に採り入れることだ。女将さんがNPO【思い出の絵本展】なら、当主のほうはNPO【薬草で飛騨を元気にする会】の理事長である。二人は飛騨古川の町づくりの中心になっている。

https://www.facebook.com/hidayakusou/

 私たちが泊まった2022年11月8日は満月で、皆既月食が起きた。月は午後6時過ぎから欠け初め、地球の影に最も深く月が入り込んだのが8時ごろ、満月が完全に回復したのが10時近くということである。ちょうど私たちが飲んでいた時間だ。すなわち外に出て夜空を見上げることはなかった。途中、何度か部屋に来て話し相手をしてくれた女将さんが、そのつど月食の進み具合を教えてくれた。
 翌朝、朴葉味噌で朝食をすませ、朝酒もたっぷり飲んで、池田実さんと私は高山本線で名古屋に出て新幹線に乗って東京に戻った。高山本線の車窓からも紅葉が見事だった。朝は飲んでいない繭山惣吉さんは富山に向かった。北陸の海を見たくなったという。キャンピングカーなら泊まる場所の心配をしなくていい。夜は車中一人で飲んだのだろう。


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