父を待つ

             藤川六十一


 

 今日も、駅に来ている。待合室の固い木のベンチに、長い間座っている。
「毎度、ありがとうございます」
 
売店のおばさんの甲高い声。
 ホームへ出た乗客が、そちら側の窓から新聞を買っている。
 売店は、改札口の右側にある。その前に、二列の背中合わせのベンチ。駅前広場に向かう窓に沿って、作り付けの腰掛もある。
 
改札口の左側は、駅員室。二つの切符売り場の窓口。その奥には、タブレット(通票)を収める赤い色の機器がある。駅員室の外のホームには、腕木式信号機を操作する、てこが並んでいる。細いワイヤーで信号機とつながっている。
 時々、駅員が、てこを重そうに引いて、ガタンと音がする。遠くの腕木式信号機が下がる。列車の出発だ。ワクワクして見守る。
 駅長がタブレットを機械に出し入れする様を見るのも好きだ。同じ線区を複数の列車が走ることがないようにする仕組みらしい。

 
川上雄一が毎日のように駅へ来ているのは、父征雄を待っているのであった。
 父は、少し前に召集され、南方の戦地に送られていた。やがて終戦となり、各地の兵士の復員が始まった。雄一は、復員してくる父を待っているのだ。
「坊や、今日も、お父さんを待っているのか」
 顔見知りになった駅員から、声が掛かった。
「はい。そうです」
 色白の、父に似た長めの顔をわずかに赤らめ、細い目をしばたいた。
「何年生だったっけ?」
「小学校二年生です」
 座ったまま、答えた。
「そうか。えらいな」
 四角い顔が笑っている。
「お父さん、その内、きっと、帰ってくるよ」
「はい。ありがとうこさいます」
 嬉しかった。
 雄一も、そう信じていた。友達のお父さんも、次々と帰ってきている。

「必ず、帰ってくるからな」
 出発の時、征雄は雄一を抱き上げ、耳元でそう言った。
 父は約束を守ってくれる、そう信じていた。
 やさしい父だった。大好きな父だった。母の茂子がやさしくない、というわけではない。嫌いというわけではない。だけど、どちらか選べと言われたら、父を選ぶだろう。
 征雄が出征する前に、雄一が病気になった。高熱を発して、学校を休んだ。
 雄一は、父と二人きりの時に、
「僕の病気は、治らないかもしれない。僕は、父さんの代わりに、死にます。だから、父さんは、必ず生きて帰ってきて下さい」
 と話した。
 父は、すぐに、首を大きく横に振り、
「お前の病気は、死ぬかもしれないような重い病気じゃない。だから、お前こそ、死んではいけない。一人っ子のお前は、俺の宝物。お前が死ぬくらいなら、代わりに俺が死ぬ」
 と言った。
 それは、雄一の胸を鋭くえぐった。
「いやだ。そんな悲しいこと、言わないで」
 そう叫びながら、激しく涙を流した。
 征雄は、眉をひそめ、
「わかった。もう泣くな。お互いに、頑張って、生き抜こう。俺は、必ず、戻ってくる」
 と、力強い口調で、言った。
 雄一は、その言葉を信じて、待ち続けた。
 最初に駅へ行ったのは、祖母と一緒だった。次第に慣れてきたので、
「ばあちゃん、もう来なくていいよ。大丈夫だから」
 と言い、一人で来るようになった。
 時間がわかるように、祖母から女物の腕時計を貸し与えられた。

 父との思い出は、いっぱいある。
 駅で、ベンチに座りながら、その幾つかを思い浮かべる。
 雄一は、小さい頃、父が引くリヤカーの後ろに乗ってどこか遠くへ行ったことを覚えている。それは、戦時中、父の会社の原料山の土地を借りて、さつま芋などを作っていた時のことらしい。リヤカーに鍬や肥やしと雄一が一緒に乗せられ、雄一は嬉しそうに笑っていたそうだ。
「おい、楽しそうだな」
 父は、汗を拭きながら、雄一に話しかけた。
「大きくなったら、手伝ってくれよ」
 食料不足で、随分遠い所であったが、家や近所に耕せる土地がなかったから、仕方がなかった。たまの日曜日、父は休むことなく、リヤカーに雄一を乗せて、遠い畑まで出掛けて、汗を流したのである。
 この場所へは、その後も、父と遊びに行った。大便を催して、父が私を人目につかぬよう隠してくれたことがある。
「さあ、安心して、やれ」
 それから、父の会社へ行った。休日でも、煉瓦などを作る工場は稼働していた。炉が高温で暑かった。独特の臭いがした。
 他には、港へ行き、岸壁でたこ釣りをしたこと。町の行事、でか山・ちんこ山・城山祭りなどを、一緒に見に行ったこと。蛍狩り・小丸山公園の花見も楽しかった。
 銭湯で、身体を洗ってもらったこと。とても気持ちが良かった。風呂から出て、飲む牛乳がうまかった。
 父の、子供の頃の話も、面白かった。
 父は、近郷の村に生まれ、この町の中学に入学し、この家に下宿していた縁で、卒業後、子のいない祖母に請われ、養子となった。
「俺の母さんは、早く亡くなった。そのせいかどうかはわからないが、かなりのわんぱく坊主だった」
 目を細めて、遠くを見るような顔つきで、雄一に話した。
「俺の実家の墓の近くのお寺を覚えているな」
「毎年、お盆になったら、父さんと必ず行くから、忘れるわけがないよ」
 お盆に父の実家を訪れることは、雄一にとって、大きな楽しみだった。墓参りの後、父の実家で、仕出し屋から取り寄せた、おいしいご馳走を腹いっぱい食べることが出来た。
「子供の頃、餓鬼大将だった俺は、あのお寺の境内で、隣の集落の子供達と、大喧嘩したことがあった。俺は、松の木の枝に上って、仲間達を指揮した。形勢が悪くなったので、飛び降りて、敵が持っていた青竹を奪い取り、振り回して、形勢が逆転した。皆で「万歳、勝った、勝った」と喜び合った。ところが、夢中になって竹を振り回している内に、手のひらが破れたことに気づかず、血を流しながら家へ帰り、父親と兄からひどく叱られた」
 そんな話を、懐かしそうに語った。
「隣近所の親しい男の子達が集まって、崖からいかに遠く飛べるか競争したこともあった。だが、飛び過ぎて、大怪我をした」
「足を骨折したの?」
「いや、桑の枯れた枝が、頬の右側、口の近くに突き刺さったのだ。ほら、その時の傷跡が、今でもはっきり残っている」
 父が、自分の顔に指をあてた。
「これは、餓鬼大将の勲章だな」
 そう言って、誇らしげに笑った。
「乱暴な子供だったのだね」
 おとなしい雄一とは、随分違う。
「でも、良いことも、結構したぞ」
「何をしたの?」
「学校へ通うのは、ほとんどが草履だったが、鼻緒が切れて困っている子を見つけると、自分の帯を引き裂き、鼻緒を立ててやった」
「…」
「親父から「おまえの帯は、紐になってしまったな。何もお前がそこまでしなくとも、家の人がやってくれる」と、何度も叱られたが、俺はそれをやめなかった」
「へー」
「≪山学校≫というのも、やったな」
「≪山学校≫?」
「授業をさぼって山へ行き、自主的に勉強する、平たく言えば遊ぶということだ」
「いけないことだね」
「まあな。唱歌の時間…。ああ、唱歌と言っても、わからないか。今で言う音楽だな。その授業の時に、俺が言い出しっぺになり、男の子全員で、それをやって、きれいな女の先生を泣かせてしまった」
「悪い子だね」
「俺は、早くに母ちゃんを亡くしたせいか、その先生にあこがれていた。先生が俺の母ちゃんだったらいいな、と」
「それなのに、意地悪したの」
「意地悪じゃない。あこがれているから、反抗した。あこがれの裏返しだ。これは、お前には、難しいな。大きくなったら、わかるよ」
「それじゃ、学校の成績は、悪かったね」
「いや、餓鬼大将のわりには勉強が出来た。クラスで一番か二番だった」
「本当?」
「うそじゃない」
 父は、笑っていた。でも、本当なのかもしれない。うそに照れる笑いではなかった。
「仲間と学校をさぼって、歩いて新潟へ行こうと、夜、家を脱け出したこともあった。しかし、途中、偶然一人の仲間の親に見つかり、諦めた。その夜は野宿し、朝、鳥の声で目が覚め、家から持ってきて背嚢に入れていた握り飯を分け合って食べた。水代わりに近くの畠の西瓜に穴を開け、麦藁を差して汁を飲んだ。時々やっていたことだが、あれはうまかったな。次の日は、≪山学校≫だ」
「むちゃくちゃだね」
「大人になっても、よく反抗したな」
「まだ、やったの」
「今の会社へ入る前、俺は教師をしていたが、無能な教頭によく反抗した。当直の時に、教頭の机を自分の机の後ろに持ってきたこと。研究発表会の資料作りに遅れた教頭を、のけ者にしたこと。そんなことをやって、挙句の果てに、先生を辞めた」
「いけないことばかりだね。そんなことをするような人には見えないけれど」
「満州へ行く夢を抱いて、おばあちゃんと喧嘩したな。これは、反抗じゃない。しつこく食い下がったけれど、最後は従った。結果的には、その方が良かった」
 父とは、本の話も、よくした。
 雄一も、本が好きだった。大人の本まで読んだ。父の本棚から借りた。
「お前、こんなの読んでいるのか」
 と、征雄が驚くこともあった。
 ある日、雄一が帰宅した征雄に話しかけた。
「お父さん! 一回聞いてみようと思っていたのだけど、人は何の為に生きるの」
 最近読んだ本に書いてあったことだけれど、答えは書かれていなかった。
「うーん。難しいことを聞くね」
唐突な質問に、征雄は答えられなかった。彼自身が探し求めていることであった。
「俺も考えているが、まだわからないな」
 その顔つきを見て、
「父さん、ごめん。後でいいよ。疲れているのに、ややこしいことを聞いて」
 と、雄一が、すまなそうに言った。
 征雄は、複雑な表情で、部屋を出た。
 別の日に、雄一は、茂子に同じ質問をした。
 この前に、征雄に聞いたけれど、答えがなかったことも話した。
 彼女は、首をひねりながら、
「生きる為に、生きる、かな」
 と答えた。
「何だか、言葉でごまかされているみたい」
 すかさず、雄一が口を尖らせた。
「僕が聞いたことを、答えにしている」
 これに対して、茂子は、
「ごまかしじゃないよ。何よりも、生きることが一番の目的だ、ということよ」
「…」
「何の為に生きるかと聞くのは、生きることの更に上にある目的を考えているからだね。でもね、生きることより上にあるものはない。生きることより大切なものは、ないのよ」
 雄一は沈黙した。
 さすが先生をしているだけあるな、と思った。そのとおりかもしれない、と思った。
 数日後、雄一は、祖母の糸に
「いつか聞いてみようと思っていたのだけど、人は何の為に生きるの」
 と言った。
「えらく難しいことを聞くね。そういうことは、お父さんやお母さんに聞いて」
「うん。お父さんに聞いたけれど、出てこなかった。後で、ということになった」
 
既に茂子に聞いて、答えをもらったことは、触れなかった。そう言ったら、祖母から答えは得られないだろう。
「私も、出てこないな。そんなに年寄りをいじめるものではないよ」
「いじめるつもりはありません」
「うーん。わからないな。毎日生きるのに精一杯で、あまり考えることではないからね」
 と言いながら、真剣に考えている。
「でもね、わからないから、面白いのではないかな。何の為に生きるかの正解はこうだと決まってしまえば、人生は面白くないよ」
「そうかもしれないね」
「何の為に生きるか、それを探す為、見つける為に、生きるのではないかな」
「ずっと見つからなければ、どうなるの」
「まあ! へ理屈を言って、私を困らせて。見つからなければ、それでいいじゃないの」
 雄一を、軽くにらんでいる。
「とにかく、わからないね。それでも、あえて言えば、幸せになる為に生きる、かな。
 しかし、戦争で非常時が続き、毎日の生活に追われて、そんなことを考えてはいられない。戦争は、悪いこと。したらいけないね」
 糸は、それ以上話したくないようであった。
 雄一は、三人の中で、父の対応が一番正直で良いと思った。父が大好きだから、そう思ったのかもしれない。
 これが、父が戦地へ行く、少し前の思い出であった。

 今日も、雄一は、学校が終わった夕方、駅へ来ている。
 このことは、学校でも、評判になった。
「川上君は、実に立派です。みんなで、彼を励ましましょう。そして、お父さんが早く帰って来られるよう、お祈りしましょう」
 先生がそう話したら、近所に住む仲良しの桜井栄吉が立ち上がって、「万歳」と叫び、拍手した。少し遅れて、他の子達も拍手した。
「おいおい、万歳は、まだ早いんじゃないか」
 と、先生。
 皆が大きく笑った。
 雄一は、下を向いていた。
 家では、母の茂子が心配していた。雄一は、身体が丈夫ではない。
「そんなに、いつも行かなくてもいいのじゃないの。身体によくないよ」
「父さんが会社へ通っていた頃から、やっていることだから。慣れているよ」
「でも、あの時は、お父さんが帰る時間は、大体同じだったけど、今はいつかわからないじゃないの」
「いいんだ。外れてもいい。それで、僕の気が済むのだから」
 そう言って、駅へ行き続ける。だが、父は帰ってこない。
 学校が休みの日の朝だった。
 居間の仏壇の前に、祖母の糸・母の茂子・雄一が集まった。
「征雄が戦死したそうだ」
 糸が紙を持ったまま、涙を流した。
 しばらく、重い沈黙があった。それを破ったのは、雄一であった。
「うそだよ。僕、信じないよ」
「でも、役場から通知が…」
 茂子が、つぶやくように言った。
「父さん、きっと帰ってくると約束した」
「…」
「何かの間違いだよ」
「そうであれば、いいけどね」
「でも、間違いということも、あるかもしれないね。そんな話を聞いた」
「小林さんのご主人は、戦死と通知され、葬式まで出したのに、ひょっこり帰ってきた」
「骨箱が届いたけれど、中には小さな石しかはいっていなかったそうだ」
「うちは、紙切れ一枚だけだからね」
「それだけでは、信じられない」
「お母さんも、前に「お父さんは、きっと帰ってくる」と言ったじゃないか」
「確かに、そう言ったけどね」
 雄一は、立ち上がり、玄関へ駆け出した。
「遊びに行ってくる」
 糸と茂子は、顔を見合わせている。足止めはされなかった。
 雄一は、桜井栄吉を呼び出して、公園へ行った。遊ぶのではなく、父の話をした。
「そうか。戦争は、いけないな」
 栄吉は、沈痛な表情で、下を向いた。
「でも、まだ、わからないよ。行方不明なのかもしれないし、怪我か病気で帰れないのかもしれない」
「…」
「きっと、帰ってくるよ」
「いい加減なことを言うな」
「いい加減に言っているのじゃない」
 栄吉が、雄一をにらんだ。
「お前は、いいな。お父さんが戦争へ行かなくてよかったから。戦死することはないから」
 栄吉の父は、軍需工場に勤めているので、兵役免除になっていた。
「でも、忙しくて、大変なのだ」
「だけど、死ぬ心配はしなくてよいだろう」
 その後、二人は、ベンチに、無言のまま、長い間座っていた。
 それからも、駅へ通った。
 相変わらず、駅員や近所の人から、
「親孝行なことだね。お父さんは、きっと帰ってくるよ」
 と、慰めの言葉を掛けられた。
 実際は、何の根拠もない、空疎な言葉であった。雄一はその言葉を信じていたが、徐々に疑いも芽生えつつあった。
 それは、雄一の心の中の戦いになった。父の帰りを信じる雄一と、疑う雄一、どちらが正しいかは、わからない。
 駅で待っている間、ひまなので、心の中の戦いが起き、それを紛らわせる為に、待合室のごみを拾い始めた。
 駅員から「偉いね」と褒められ、
「そのような良いことをしていれば、お父さんがきっと帰ってくるよ」
 と言われた。
 たいしたことではないのに、褒められるのは嬉しかった。
そして、蒸気機関車を見るようになり、急速に好きになった。それも駅へ通う原因になった。心の中の戦いを紛らわせるもう一つの方法となった。
 駅裏の機関区へ行き、C58やC56を眺めた。祖母の時計を見て、列車が到着する時間になったら、駅へ戻った。  機関区では、運転手達とも顔なじみになり、運転席に座らせてもらった。
「坊やは、よく来るな。機関車が好きか」
「はい。大好きになりました。僕のお父ちゃんのように、力強いから」
 運転手と助手が、笑った。
父ちゃんは、戦争に行き、まだ帰ってきません。駅で待っているが、帰ってきません」
「…」
「父ちゃんも、ここでお仕事をしていたら、戦争へ行かなくてすんだのですね」
 運転手達は、沈黙した。
 駅で、若いお姉さんと知り合いになった。
「お兄ちゃん、よく会うわね」
 目の大きな、きれいな人だった。
「誰かを迎えに来ているの」
 事情を話した。
「そうか。私と似たようなものね」
 雄一を見つめて、笑顔を見せた。
 丸い、健康的な顔の、唇がかわいい。
「あなたの顔、弟によく似ている」
 女性の顔が近くなった。
「おとなしそうな細い目がそっくり」
 圧力を感じて、少し身を引きながら、
「あの…。お姉さんも、弟さんをお迎えに来ているのですか」
 お姉さんの低めの鼻が、少し揺れた。
「いえ。私が待っているのは、弟ではなく、夫よ。弟は、あなたくらいの時に、病気で死んだわ。とても良い子だった」
「…」
「主人とは、召集前に、これ難しい言葉だわね、言い換えると戦争に行く前に、結婚したの。数日前、彼から帰るとの電報が届いた。飛び上がって、喜んだわ。だけど、いつかわからないから、こうして待っているのよ」
「でも、帰ってくるのは間違いないから、本当に良かったですね」
「ええ。ありがとう。あなたのお父さんも、きっと帰ってくるわ」
「はい」
 雄一の心の中で、再び戦いが始まった。父の帰りを信じる雄一と、疑う雄一の戦い。
「ところで、あなたのお母さん、ひょっとしたら、学校の先生をしていない?」
「はい。先生です」
「やはり、そうか」
「母ちゃんを知っているのですか」
「私、習ったの。川上先生に」
「そうですか」
 雄一が、少し笑った。
「怖い先生だった。みんな、そう言っている」
 女性も、笑った。
「怖かった?」
「よく叱られた。出来の悪い子だったから」
 二人で、笑った。
「川上先生は、お家でも、怖いの」
「いえ。家では、やさしいです。怖いことは、ありません」
 きっぱり言った。
 家では、本当に怖い人ではなかった。
「弟も、やさしい子だった」
 話が変わった。
「僕の父ちゃんも、やさしい人です」
 話を合わせる。
「私の主人も、やさしい人。やさしい人が多いから、怖い先生は目立つのね」
 話が元へ戻った。
 売店から、ジュースを買ってくれた。お姉さんも、やさしい人だった。
 その翌日も、お姉さんと一緒になった。
 だが、話すいとまもなく、列車が到着し、下車した人達を見て、彼女が小さな叫び声をあげ、改札口へ近づいた。
「あなた!」
 あまりの大声に、周囲の人達が驚いた。
 背の高い、兵隊服を着た、若い男性が、改札口を出て、お姉さんに走り寄った。
「お帰りなさい」
「ただ今」
 黒く日に焼けた、痩せた顔が笑っていた。
 二人は、手をつないで、小声で何か言っていた。お姉さんは、泣いているようであった。
 雄一は、座ったまま、それを見ていた。うらやましかった。僕に、このような喜びの時は来るのだろうか。
 お姉さんが、雄一の方を見た。男性に、何かささやいている。
 お姉さんが、手招きした。立ち上がって、二人のそばへ行く。
「川上雄一君よ」
 ぺこりと頭を下げた。
「ここで待っている間、話し相手になってくれたそうだな。どうも、ありがとう」
 雄一は、男性の顔を見た。鼻の高さが目立っていた。男らしい顔だった。
「お父さんを待っているのだってね。感心なことだ。早く会えればいいね」
「ありがとうございます」
 そう答えながら、ふと父には会えないかもしれないと思った。
「そういえば、あなたに、まだ私の名前を言ってなかったわね」
 と、お姉さん。
「私は、太田光子というの。あなた、**町でしょう。同じ町内だから、遊びに来てね」
「はい」
「それじゃ、元気でね」
 二人は、駅の外へ歩いて行った。
 雄一も、立ち上がった。いつもは、もっといるのだが、帰ることにした。
「今日は、早いね」
 駅員の声に、答えなかった。
 夕焼けの空を見ながら、家へ向かった。

 翌日、雄一は、いつものように駅へ行った。

 もう父さんには会えないのかもしれない、そう思いながら、身についた習慣は変えられなかった。
 家を出る時、糸から、
征雄のことは、もう諦めた方がいい」
と言われた。
「今朝、夢を見た。あの子が、遠くで、手を振っていた」
 雄一は、完全に諦めているわけではない。必ず会えると信じているわけでもない。
「その夢、父ちゃんが死んだということなの」
「そうとは限らないけど…」
「生きていると、信じてあげないと。僕達の他に誰が信じてくれるの」
「そうだね。雄一は賢い。いいこと言うね。ばあちゃんが、悪かった」
 実は、雄一も、今朝夢を見た。父が、遠くで、手を振っていた。そのことは、糸には言わなかった。
 ベンチに座りながら、ふと父の部屋にある一枚の絵のことを思い出した。画用紙いっぱいに、クレヨンで父の顔が描かれている。描いたのは、雄一だ。下手な絵だと、自分でも思う。父は、それを額に入れて、自分の部屋に飾った。
 数日前、糸と茂子が、何か相談していた。
「征雄の写真は、少ないね。葬式の写真になるようなものがない」
間違いもあるからと、葬式を遅らせていたけれど、することに決めたらしい。
「あの人は、写真が嫌いだったから」
「いっそ、雄一の絵を使おうか」
「まあ。お義母さん、冗談を…」
 久しぶりの笑い声であった。
 こんなことなら、もっと上手に描けばよかった、そう思っている内に、少し涙が出た。手の甲で、目をぬぐった。
「どうしたの」
 近所のおばさんから、声を掛けられた。
「いえ。大丈夫です」
「そう。何かあったら、言ってね」
 向こう側のホームに列車が着いた。大勢の人が降りてくる。改札口まで行って、それを眺める。
 雄一が、突然改札口を通り抜け、駆け出した。一人の男を見て、父だと確信したのだ。(実際は、彼の思い込みに過ぎなかった。)人混みの中に姿を見失いそうになり、あわてて走り、転んでホームの端で倒れた。
「危ない!」
 列車が近づいていた。激しい警笛…。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 雄一は、歩いていた。
 いつの間にか、一人の男が寄り添っていた。
 父であった。
「約束通り、帰って来てくれたね」
 しっかり手をつないで、歩いた。
「父さんと一緒で、嬉しいよ」
 家への分かれ道の角で、立ち止まった。
 父は、懐かしそうに我が家を眺めていた。
「家へは、帰らないの」
「俺は、家へは帰れない。一人で帰れ。ここまでが、俺に許された仕事だ」
「父さんは、どこへ行くの」
「遠い所」
「父さんと一緒に行きたい」
「だめだ」
 厳しい声であった。
 空に、星が見えた。
 父は、あそこへ行くのかもしれない。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 闇の中に、光が見えた。
 白い部屋で、ベッドに寝ていた。
「あっ、目を開けた」
 大きな声だった。母の茂子だった。
 父の姿はなかった。
「死ななくて、本当によかった」
 祖母の糸が泣いていた。
「父さんは?」
「父さんは、やはり、天国へ行った」
 がっかりしながら、再び意識を失った。

≪了≫