プロレタリア文学の萌芽

                    登 芳久

 文芸同人誌「種蒔く人」の発足

 どんな偉大な事業であっても、その誕生は実にささやかなものから始まっている。大正一〇年二月に秋田県の戸崎港町で創刊された文芸同人誌「種蒔く人」もその例外ではなかった。この東北の一地方都市出身の小牧近江が父親の近江谷栄次に連れられて第一次世界大戦後のパリを訪れてアンリ・バルビュウスに出会ったことが一つの契機となっている。小牧近江は彼の唱える反戦平和のクラルテ運動に大きな関心を持ち、その具体的な内容を印刷費が廉価なこの地から発信しようと考えたのである。
 したがって当時の同人は小牧近江本人と戸崎小学校時代の同級生である金子洋文、今野賢三、叔父の近江谷友治、従弟の畠山松治郎、それに安田養蔵、山川亮の地縁血縁者の七人であった。この創刊号はミレーの種蒔く人を描いた表紙を含めわずか一八ページのリフレットにすぎなかった。この初期の同人誌三号を発行所の地名を冠して、ここでは土崎版と呼ぶことにしたい。
 
この土崎版「種蒔く人」はわずか三号で休刊し、大正一〇年一〇月からは東京版「種蒔く人」が再刊されることになった。この東京版の創刊号は五六ページ、発行部数も三〇〇部と大幅に拡大されることになった。その表紙には「種蒔く人」の文字が横にあしらわれ、その下の真っ赤な帯には「世界主義文芸雑誌」の文字が鮮やかであった。発行所は東京市赤坂区青山北町の種蒔き社で、定価は三〇銭であった。

 種蒔き社の同人たちとその活動

 この東京版「種蒔く人」の創刊号には、つぎのような宣言文が掲載されていた。
 現代に神はゐない。しかも神の変形はいたるところに充満する。神は殺されるべきである。殺すものは僕たちであるる。是認するものは敵である。二つの陣営が相対するこの状態の続く限り人間は人間の敵である。この間に妥協の道はない。然りか否かである。真理か否かである。
 
見よ、僕たちは現代の真理のために戦ふ。僕たちは生活の主である。生活を否定するものは遂に現代の人間でない。僕たちは生活のために革命の真理を擁護する。種蒔く人はこゝに於て起つ、世界の同志と共に!

 種蒔き社

 本誌の「世界欄」には毎号、小牧の手になるヨーロッパ直輸入のニュースが溢れていた。また執筆者に国際的な人物を揃えたばかりではなく、雑誌の企画そのものもいわゆる世界的であり、白鳥省吾、詩集『農民の言葉』で知られる福田正夫らの民衆詩派の詩も掲載されており、有島武郎から資金援助を受けるなど流派を超えた総合雑誌であったのは、先の創刊の辞をみると明らかである。換言すれば東京版「種蒔く人」は、先のクラルテ運動を基調とする世界革命のための穏健な雑誌だったのである。それを青野季吉が評論を書くようになってから、いわゆるプロレタリア文学の拠点としての性格を帯びさせ始めたのである。そして、大正一二年九日に発生した関東大震災がこの雑誌を廃刊に追い込むことになるのである。

 プロレタリア文芸誌「文芸戦線」から「戦旗」へ

 東京版「種蒔く人」の同人たちの多くは無名の文筆者だったが、その企画力や行動力によってこの小さな文芸誌をプロレタリア文学史上の重要な位置に押し上げることになったのである。なかでも大正一二年に刊行された僅か四ページばかりの「帝都震災号外」と、大正一三年一月に「亀戸の殉難者を哀悼するために」のサブタイトルで四〇ページの別冊「種蒔き雑記」の二冊に注目することにしたい。そこには関東大震災の混乱に乗じて行われた社会主義者や在日朝鮮人への迫害を子細に調査した殉難記が簡潔に記録されているからである。
 大正一三年六月には、この「種蒔く人」の後継誌として「文芸戦線」が創刊されている。そして、その翌年の暮れには日本プロレタリア文芸連盟が誕生し、これらの労働文学運動は順調に推移していくものと思われたが、大正一五年の暮れに先の連盟が日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に改組されると、これまでのアナキズム的な思想が駆逐されて、蔵原惟人をオピニオンリーダーとするマルクス主義へと統一されていくことになった。
 
創刊から三年くらいまでの「文芸戦線」は、葉山嘉樹の「淫売婦」や黒島伝治の「銅貨二銭」などの作者自身の労働体験に裏付けられた作品が多いが、昭和二年以降は中野重治、林房雄ら東大新人会出身のマルキストたちが実権を握り、これに反発する葉山嘉樹らは労農芸術家連盟(労芸)を結成して対抗している。
 こうした諍いのすえに、左翼文学の大同団結を目的に昭和三年三月に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、その機関誌「戦旗」が発刊されることになった。しかしこれには労芸派が合同しなかったので、著名な大学出身者が主体の「戦旗派」と労働者出身の実作者による「文戦派」の対立が解消されることはなかったのである。

(未完)