雪解け

北山 悠



 1

 その頃、そう七〇年代後半の僕はちょっと変わった仕事をしていた。その会社は、毎朝新聞輸送という名前で、毎朝新聞などを県下の販売所に配送する会社だった。仕事は販売所ごとに仕分けする内勤と販売所にトラックで届ける配送部門に分かれていて、僕は内勤の仕事に就いていた。勤務は夕方から始まり、一二時前後に仕事を終えることができた。毎朝新聞輸送の事務所は小さな事務所があるだけで、僕らは毎朝オフセットという印刷会社の建屋に出勤した。そこで印刷された新聞を販売所ごとに仕分けし、配送トラックに積み込むのだった。新聞の版によって配達される地域が決められていて、最終版の印刷・発送が終わるのが深夜になった。選挙情報を載せなくてはならないときには、夜中の二時頃になることもあった。今でも記憶しているのは、毛沢東逝去のトップ記事を見たときだった。かつてない大きな活字が躍っていた。印刷会社に判組みが送られてきて二台の輪転機に装着すると、あっという間に印刷は終わり、次の版までには時間があったので、実労働時間は短かった。輪転機には何人もの作業員が張り付いていて、判の装着やインクの状態のチェックをしていた。その段階で組版のミスが発見されると、金一封が会社から出された。普通の職場と違って夜の仕事だったこと、休みが不定期だったのが変わっていた。昼間の毎朝オフセットには社長と事務担当の女性が三人いたが、彼女たちが印刷作業員と顔を合わせるのは夕方の数時間だけだった。印刷会社の作業員は高校卒が多かったが、輪転機ごとのチーフだけは少し年長だった。若い印刷工たちは若い女性社員の噂話でいつも盛り上がっていて、誰が射止めるだろうかと噂が絶えなかったものだ。
 
印刷された新聞が輪転機から吐き出されると、僕らの仕事になった。販売所ごとに指定された枚数に仕分けし、梱包機に繋がるベルトコンベアに乗せると、自動的にビニールで包装され、ビニールテープで十文字に縛り上げられた。新聞包みはその先に駐車されているトラックに積まれていった。所定のコースの積み込みが終わると、トラックは配送作業に出発し、次のコースのトラックが駐車場に入ってきた。夜の道を走って帰ってくるのだから、深夜になることも、日付を過ぎることもあった。コースは県内だけでなく、隣の県まで行くこともあった。どんな悪天候でも配送車は出発した。
 
最初の印刷と仕分けが終わるのは夜の七時頃で、そこから一時間ほどの休憩時間になった。会社の近くの食堂で夕食を済ませる者もいたし、毎朝オフセットの社員たちはほとんどが弁当持参で、休憩室兼食堂を利用していた。昼間の女性社員が準備しておいてくれた味噌汁を温め直し、これも用意されていた漬物が丼に盛られていた。
 
僕はいつも自転車で近くのアパートに帰って食事をした。次の印刷開始までには一時間半ほどあったので、僕は軽くビールなんかで晩酌したものだったし、そのためにわざわざ帰宅するのだった。そんなことが許されるとは思っていなかったが、仕事を始めた頃に同僚からアルコールの匂いがしたり、ほんのり赤ら顔だったりしたのを見て、「俺もやってみよう」ということになった。お互いに「今日は飲み過ぎだぞ」などとアドバイスしながら、楽しんでいたものだった。
 
僕が毎朝新聞輸送に入ったのは、最近毎朝オフセットに労働組合が組織されたからだった。夜間勤務という労働条件であり、人材確保もなかなか難しい会社は、労働組合の要求に妥協的で、県下でも好条件の職場になっていた。そして、組織の山辺さんに毎朝新聞輸送で社員募集しているから、行ってみろと言われたのだった。その頃、組織は公務員や教員が中心で、民間にも活動範囲を広げようとしていた。僕も公務員試験に挑戦させられたが、いまいち真剣みに欠けて失敗を繰り返していた。そもそもその頃の僕には自分の未来を考えてみようという意識が希薄で、何となく流れのままに生きていたような気がする。なんとなく生きているのは若者の特権であり、そんな先まで見通せないからこそ若者なのだ。今から振り返ると、公務員や教員にならずに正解だった。ひとつの職場で地味にやって行く性分ではなかったのだから。そんなわけで、組織の勧めもあって大卒の学歴を詐称して面接に出かけ、運よく職を得ることができた。毎朝新聞輸送には組合はないが、そのうちできるに違いないと思っていた。その時代、労働運動は活気を帯びていた。
 
仕事は夜だったから、友人たちに会うことは限られていた。仕事を終えた夜中にアパートに帰る途中、遅くまでやっている焼肉屋や食堂に寄って一杯やるのが楽しみだった。もちろんほろ酔いで自転車に乗った。アパートに帰りつくのは夜中の一時を過ぎていて、酔いに任せて寝付き、朝を迎えるのは九時を過ぎていた。仕事に行くまでの時間は組織の文書を読んだり、読書に使ったりしていた。社会問題や社会科学の本が大半だった。今から思えば、あの頃は知識力が旺盛だったものだ。時々僕は市役所にいる組織の山辺さんに呼び出されて、昼ご飯を御馳走になった。役所の構内食堂だったり、役所の近くの食堂だったりした。職場の状況やら、組織活動の点検だったりした。山辺さんは青年部の役員をしていて、組合内の小さなフラクを組織しようとしていた。山辺さんの話は元気の出るものだったので、僕はいつも卑屈な思いをさせられた。大学を出ていろいろあったものの、肉体労働の毎朝新聞輸送の仕事には満足していなかった。これが僕の望んだ人生とは思えなかったが、組織の方針に背くこともできなかった。単純で面白味のない労働を続けていくのが苦痛になり始めていた。組織を離れることも射程に入れながら数年が過ぎた。

 2

 
その年、冬がやって来そうな寒い日、僕は思いがけず秀ちゃんに会った。大学時代の友人の一人だった秀ちゃんは、大柄で大きな目と八重歯が魅力的な女性だったが、そのときはもっと色っぽい女の秀ちゃんになっていた。
 
僕はその日、市立図書館に出かけた。新聞や雑誌を眺めていると、
「あら、徹君じゃない」と声をかけられたのだった。
「あっ、秀ちゃん」
 
秀ちゃんは同じ教育学部の学生だった。学内の学生運動で顔を合わせることがあった。僕らは図書館近くの喫茶店「キャッツ・アイ」で向き合った。
「徹君、どうしてるの」と秀ちゃんに聞かれ、僕は現在の職場について話した。
「徹君、潜り込んだのね。今でも頑張ってるんだ」
「…………」
「私ね、千葉の小学校の先生になったんだけど、この春、退職したの。私が考えていた教育とは随分違っていたし、職場に日共の人が多くて、これが労働運動なのかって嫌になったの。彼らの聖職論にはついていけないわ。あれじゃ労働運動はできないし、そのうち理不尽な長時間労働に抵抗できなくなるわ、きっと。三年間も勤めていたんだから、私としてはもう限界よね。子供たちとの別れは辛かったけど、もう疲れちゃって……」
 
僕には安定した職場と組合活動のできる現場にいることが羨ましくてならなかったが、秀ちゃんならそんなこともあるかも知れないと思えた。
「今は小さな病院の医療事務の仕事をしているの。昼までに出勤すればいいの」と秀ちゃんは腕時計を覗いた。僕らは住所や勤務先の電話番号を交換して別れた
 
秀ちゃんは地元出身の人だった。ローカル線に乗っていくつ目かの町に実家があって今はそこから通っているのだと言った。駅前で雑貨屋をやっているはずだった。
 
秀ちゃんが学内で活動していたときはノンセクトで、僕らの組織とは違っていたが、教育学部の学生自治会活動ではよく顔を合わせていた。僕は教師になることに戸惑いがあり、教職の単位も取れないままに卒業してしまった。僕は地元に残って民間の組合活動をすることにし、秀ちゃんは教職に就いたのだった。その頃、「デモシカ教師」という言葉があったが、安易な道のように思えたし、組織の専従のような仕事をしたいと思っていた。秀ちゃんは一浪して入学してきたので、僕よりひとつだけお姉さんだった。秀ちゃんに会って一週間ほどして、秀ちゃんから葉書がやってきた。あの頃、もちろんスマホなどなかったし、僕の部屋にも電話はなかった。時間ができたら会いたいという内容で、時間と場所を駅の伝言板に書いてほしいというのだった。僕の職場は変則的な勤務時間だったので、勤務が終わって同僚と飲みに行くことはなかったし、組織の仲間以外にはこれといった友人もいなかったので、秀ちゃんの申し入れは有り難かった。
 
その日の勤務が終わったのは、日付が変わる頃だった。深夜までやっている食堂に寄ってビールとラーメンで夜食を終えると、自転車に跨って駅前まで行き、「三日十時、喫茶キャッチアイ、トオル」と伝言板に書き込んで家路についた。約束は二日後のことだったので、次の日に駅前で伝言板を覗くと、僕の伝言の後ろに「OK、ヒデコ」とあった。その夜は安ウイスキーをチビリチビリやりながら、秀ちゃんとのデートのことを思った。
 
大学時代の秀ちゃんと僕は、それほど深い関係ではなかった。僕は専門の二年になって教育学部の学生自治会にかかわり出した。そこは日共民青の影響力のあるところだったが、反日共グルーブが執行部選挙に出ることになり、僕も組織から言われてそのメンバーの一人になった。組織は教育学部にも何人かいたが、それほど影響力のある位置にはなくて、第三グループといったところだった。秀ちゃんはノンセクトグループの、それもあまり熱心ではないメンバーの一人だった。秀ちゃんが活動の中心に据えていたのはフォークダンスクラブだった。合コンの延長のようなフォークダンスではなく、とても専門的なクラブで大きな大会にも出るようなところだった。そのクラブのリーダーが反日共の人だったので、秀ちゃんもその流れで僕らの集まりにも顔を出していたのだった。僕も何回かそのクラブ活動に参加したことがあったが、みんな汗だくになって踊っていて、リーダーがときおり厳しく叱責していた。ソ連とかその友好国の踊りが多かったと記憶している。
 
約束の日に「キャッツアイ」に行くと、秀ちゃんは前回と同じ席にいた。その喫茶店は夕方からはお酒出すせいか、薄暗い照明だった。秀ちゃんは僕を見つけると、笑顔で手を振った。大柄の秀ちゃんは、大きな目を僕に向けていた。
あんな葉書出してごめんね。あれからずっと徹君のこと考えていたんだけど、あの頃の人といったら、いまは徹君ぐらいだし、そもそも友達が少ないのよ、最近……」
 
秀ちゃんは紙袋からタッパを二つ出して、手作りらしいオカズを見せてくれた。
「徹君、食事はどうしてるの。おいしくないかもしれないけど……」
「うん、ありがとう。秀ちゃんが作ったの」
「ううん、半分は母親のものなの」
 
僕らはあの頃の友人たちの消息を話し合った。秀ちゃんの友人のなかにはかなり過激なグループに行った人もいるらしいが、ほとんどはあの頃のことをすっかり忘れて、ろくでもない教師になっているのだと秀ちゃんは言った。まるで、自分はその「ろくでもない教師グルーブ」から外れたことを自慢しているように僕には聞こえた。いや、秀ちゃんにも自分の立ち位置が見えていないのかもしれない。僕は世界情勢から国内情勢まで、僕なりの感想を話した。その度に秀ちゃんは、感心した頷きを見せながらも、ちょっと曇った表情を見えた。僕は学生時代と少しも変わってない自分を感じて恥ずかしくもあった。
 
そんなデートが何度か続いてから、秀ちゃんが僕のアパートにやってきた。その日は看板取りの日で、仕事は夕方に終わった。その仕事は、新聞包みの上に乗せる販売所と部数を書いた紙を一週間分揃える仕事だった。看板拾いの日はひと月に一度ぐらいの割で巡ってくる貴重な日だった。僕はいつもより早めに出勤し、秀ちゃんの退勤時間に合わせた。
 
アパートの近くのスーパーで食材や飲み物を買い、アパートの部屋に秀ちゃんを迎え入れた。この部屋に女性がやってくるのは初めてのことだったので、僕なりに念入りに掃除をしてあった。トイレも台所も部屋の外にある古いアパートだった。
 
秀ちゃんは、買ってきた食材で焼きうどんを作りに台所に行き、僕は乾きものなどのツマミやお酒をテーブルに並べた。大きな皿に盛った焼うどんがテーブルの真ん中に置かれ、僕らは細やかな晩餐を楽しんだ。ビールで乾杯し、日本酒に切り替えた。冬が始まろうとする頃だった。
「やっぱりこれからはお酒よね」と秀ちゃんが言った。
「女の人が来るの、初めてなんだ、秀ちゃんが…」
「相変わらず、難しいそうな本を読んでるのね。でも、小説なんかも読まないとダメよ」
 
秀ちゃんは本棚に並んだ本を眺めながら言った。ラジカセからフォークソングが流れていた。ほろ酔い気分になった頃、秀ちゃんは蛍光灯のヒモを引いて小さなオレンジ色の電灯だけにした。音楽が流れ、薄暗い部屋のなかにほろ酔いの僕らがいた。部屋の外には冬の風が吹いていた。

 3

 それは夜半からひどい雪が降った日だった。
 
僕が出勤すると、同じ内勤仲間の中島さんが
「おい、岡野君、ちょっと…」と僕を食堂に誘った。中島さんは古くからいる人で、内勤グループの主任をしている人だった。
「昨夜、配送運転手が事故を起こしたらしいんだ。岩ちゃんの車らしい。明け方に課長から電話があったんだ。岩ちゃんのカミさんの連絡先、知らないかって…」
「どんな事故だったんです」
「配送が終わっての帰りに、あの雪の中でスリップ事故を起こして入院したらしいんだ。幸い人身事故じゃなくて、ガードレールにひどくぶつかったらしい。隣町の病院に入院したらしい」
「そうですか」
 
僕は岩ちゃんが誰なのかも知らなかった。
「このままだと岩ちゃんは首になってしまうんじゃないかな。インテリの岡野君なら、いい方法を知ってぃるんじゃないかと思ってな」
 
学歴詐称しているのに、僕のことをインテリというのはどういうわけだろうか。結構気づかれていたのかも知れない。
「でも、それって労災だし、首にはならないと思いますよ」
「なるほど、労災か…
「そうだ。毎朝オフセットの労働組合に聞いてみたらどうですか。一号機の沼田機長さんが委員長のはずですけどね…」
「そうなのか」
 
僕は沼田機長が組合の中心人物で、ほとんどが高卒の社員が多いなか、大卒の人であることを知っていた。僕が毎朝新聞輸送に潜り込もうしたとき、組織の誰かがもたらしてくれた情報だった。沼田機長がどこかの大学で学生運動に参加していたことがあるとも言っていた。職場では物静かな人で、空いた時間にはいつも新聞記事に目を通している人だった。それとなく見ていると、沼田機長は刷り上がった新聞の政治面に熱心に目を通していることが多かった。僕も何度か政治面の話題で話したことがあった。

 
数日のうちに僕らは出勤前に会社近くの喫茶店で沼田機長に会うことができた。
 
中島さんが事故のことを報告した。
「岩ちゃんは一人暮らしで、見舞いに来る者をいないんで、この間見舞いに行って話したんだが、どうも首になりそうなんだ。岩ちゃんはこれまでにも何度かミスをしているし、社長は素行に問題ありということで、これを利用して首にしようとしているようなんだ。労災事故を起こしたら、毎朝オフセットにも顔を立たないようなんだ」
「ところで、その岩田さんはなんて言ってるんですか」と沼田機長が言った。
「首だけは勘弁してくれって言っているんだ。いろいろ個人的な事情があるらしいんだ。運転手はとにかく流れ者が多いし、素行の好くないのもいる。こんな夜間勤務だし、当然だけど、天候に関係なく夜間運転を強いられるんだから、出入りも多いんだ」
 
岩ちゃんには別れた女房と小さな娘さんがいると中島さんは話し、縒りを戻したんだと話した。その日も仕事帰りに別れた女房のところに行こうとしていたという。
「じゃ、事故を起こしたのはいつもの通勤途中じゃないんですか」と沼田機長がいう
「いつもは岩ちゃんのアパート近くの駐車場に入れていたんだけど、その日は違っていたらしい。それで、会社は労災を認めたくないらしい」
「なるほどね……」
 
僕は運転手たちの話を伝えた。
「何人かの運転者たちに聞いて見たんだけど、誰だって事故ることもあるだろうから、医療費も車の修理代もこっち持ちじゃたまったもんじゃないって意見が多いんです」
「じゃ、運転手さんのしかるべき人と中島さんとで、社長と話すのはどうです。場合によっては、岩ちゃんを毎朝オフセット労組に入れてもいいんです」
「そんなことができるんですか」と僕は聞いた。
「うん、同じ職場の仲間だし、いつかはそうしたいと思っていたんだ。印刷労連の仲間のなかにも輸送部門と一緒にやっているところもあるんですよ。組合の交渉力も上がるし、これはいいチャンスです。組合の執行部にも話してみます」
 
僕は思わぬ進展に驚いていた。組織にもいい報告ができそうなのが嬉しかった。

 4

 
その日は休みで、僕は秀ちゃんの家に呼ばれていた。朝から雪が降っていて、夕方に最寄り駅に着いた時も雪はやまなった。駅に着くと、秀ちゃんが改札口に立っていた。その駅に降り立ったのは数名で、秀ちゃんは何人かと挨拶を交わしていた。キュキュと雪を踏む音を立てながら、秀ちゃんが先を歩いて行った。秀ちゃんちの店は、街の店では見かけない農作業のための道具なんかもあった。僕は珍しそうにそれらを眺め、秀ちゃんは笑っていた。
「徹君、いつも外食じゃいやになるわよね。今度、家庭料理食べに来ない。今度大学時代の友達が来るんだけど、徹君もどうかしら……」
 
と秀ちゃんに誘われて、僕は出かけて行ったのだった。僕は秀ちゃんに言われた菓子折りを紙袋に入れていた。気の利かない僕には菓子折りを準備する知恵はなかった。
 
家に着くとすぐに秀ちゃんの部屋に通された。二階の畳部屋だった。そこには同じ教育学部で見かけたことのある人がいた。名前までは記憶していなかったが、秀ちゃんの周りで見かけたことがあった。
「ああ、岡野さんだ」とその友達は言った。秀ちゃんが春子さんを紹介してくれた。教育学部を終えた春子さんは、地元の小学校に職を得て、もう四年目の教職生活をしていると言った。
「教員生活は面白いですか」と僕は聞いてみた。秀ちゃんとは違う答えを僕は期待した。
「とにかく子供って純心なのよね。こっちの対応次第でどんどん吸収するのよ、恐ろしぐらいにね。秀ちゃんが言うように、学校ってのは、社会の役に立つ駒を作ることなんだけど、それでも私にはやり甲斐があるわ」と春子さんは瞳を輝かせていた
 
大学時代の思い出話をしているうちに、僕らは夕食のテーブルに呼ばれた。鍋料理が準備されていて、アルコールも出された。秀ちゃんは綿入れのチャンチャンコを着て、鍋奉行を勤めていた。そのテーブルには秀ちゃんの母親と弟が席に着いていた。ときおり彼らの視線が僕に注がれているのが分かった。「この人が恋人なんだ」という視線だった。僕は戸惑っていた。秀ちゃんの「たまには家庭料理を……」という言葉を疑うことなく、それだけを思って出かけて行ったのだった。おいしい料理とアルコールで僕は気持ちよくなっていたが、母親らの探るような視線にいつものようには酔えなかった。ありきたりの世間話で時間は流れた。
 
二時間ほどの会食を終えると、春子さんと僕は汽車の時間に合わせて家を出た。秀ちゃんがオカズを入れたタッパの紙袋を僕に渡してくれた。僕らは秀ちゃんの見送りで改札口を通ったが、乗客は僕ら二人だけだった。雪はまだ降り続けていて、汽車を待つホームは寒風に晒されていた。汽車は空いていて、春子さんと僕は向かい合って座ることができた。改札口の向こうには秀ちゃんが立っていた。
 
汽車が動きだすと、
「やっとわかったわ。私が呼ばれたわけ。今日は岡野さんのお披露目なのよ。それに私が呼ばれたってわけなのよ。だって、私と秀ちゃんはこのところ付き合いがなかったのに、電話があって、どうしても今晩だっていうのよ」
「…………」
「秀ちゃんとはうまくいってるんでしょ」
「ああ、やっぱりそうだったのかな」
 
僕は秀ちゃんの母親や弟の視線を思い出していた。
「でも、今日の岡野さんは上出来だったと思うわ。好青年って印象だったわ、何よりも飲み過ぎなかったのがよかったんじゃない」
 
汽車はガタゴトと揺れていた。ときおり横殴りの雪が車窓を横切り、カンカンと音を立てて踏切を過ぎる時にはオレンジ色の光の中で雪が舞っているのが見えた。
 
汽車が駅に着いても、駅前にはまだ雪が舞っていた。春子さんは駅前の居酒屋に僕を誘ってくれた。二人の中年小母さんが切り盛りしている居酒屋にはカウンター席と座敷があった。僕らは座敷席に落ち着いた。
「ねえ、岡野さんは秀ちゃんのことどうなの。結婚してもいいとか、思っているの」
「…………」
 
テーブルには家庭料理の肴と燗酒があった。
「私が誘ったんだから、沢山飲んで…。なんか秀ちゃんの家では飲み足りなかったでしょ」
 
春子さんは僕の知らない秀ちゃんについて話してくれた。武闘派に加わった人が昔の彼氏で、秀ちゃんも一緒に行きそうだったと話した。その男は学内ではアナキーなグループにいたが、目立たない男だったと記憶していた。いつの間にか学内では見かけなくなっていた。僕は知らなかったが、その秀ちゃんの彼氏は小さな爆弾事件を起こしたという。その頃、小さな火炎瓶やら爆弾事件が多く、僕は気がつかなかったのも無理からぬことだった。春子さんは秀ちゃんから僕の気持ちを聞いてくれるように頼まれているのかも知れないと僕は思った。
「秀ちゃん、東京でもその彼氏と会っていたらしいんだけど、今は別れたみたいよ。ただ流れに流されている彼氏が許せなかったって秀ちゃん言っていたわ。その彼氏、今は沖縄のほうに流れて行ったみたいだけど、どこで何をしているか、秀ちゃんにも分からないようよ」
 
伝えられた秀ちゃんの言葉は僕にも当てはまりそうだった。あの時代、運動に参加することが風俗か流行のように感じられた。素直で純粋であればあるほど、流れに身を任せたものだった。理論的確信に裏打ちされたものではなく、秀ちゃんの言うように「流れ」だったのだと思う。あの時代、ある日を境に豹変する人々を僕は見ていた。キッカケは人によってさまざまだが、秀ちゃんはいつまでも「流れ」に流されている彼氏が許せなかったのだと思う。そして、それは僕にも当てはまることだと感じていた。
「秀ちゃんは料理も上手だし、真面目で素直な子なのよ。きっと岡野さんとはうまくやっていけるわ。秀ちゃんとは高校時代から友人だから、間違いないわ」
 
春子さんはかなり酔い、タクシーを呼んでもらって帰って行った。僕はまだ雪が舞う夜道をフラフラと家に向かった。街灯の光のなかには大粒の雪が舞っていた。
 
 5

 寝雪が溶けはじめた頃に、組織の会議があった。
 
数人のメンバーが集まっていた。学生も労働者もいた。山辺さんが司会をしていた。会議はいつも情勢分析から始まり、情勢の共有と組織の方針が確認された。それから、それぞれの職場や活動の報告となり、意見交換が行われた。公務員や教員の仲間は、職場での反執行部の左派フラクのための活動を報告し、組合の青婦部活動に進出しようとしていると報告し、郵便局の仲間はマル生攻撃や御用組合について報告した。学生の仲間は学生運動の退潮のなかでこれといった活動は報告されず、この日も仲間の一人が不参加だった。僕は活動の困難さが身に染みて分かったので、学内に組織を維持するのは難しいだろうと思った。もう僕らのいた頃の大学ではなかった。
 
僕は毎朝新聞輸送の状況を報告した。岩ちゃんの交通事故を契機ににわかに労働組合の結成への動きとなったこと。毎朝オフセット労組の沼田委員長はひとつの組合にしようという申し入れもあったが、僕らは自分たちの組合を作ることになった。組合の初仕事は、岩ちゃんの労災を認めさせることだった。運転手の何人かは自分のことのように積極的に関わってくれ、強硬姿勢を見せたので、会社は妥協を余儀なくされた。組合がストでもしようものなら、新聞配送ができなくなるばかりではなく、会社は損害賠償を払わされるか、最悪の場合には契約を切られてしまう可能性があったからだ。内勤の中島さんが委員長を引き受けてくれ、僕も執行委員のひとりになったと報告した。配送部門からも二人執行部に加わった。僕は今でも不思議に思う。あっという間に労働組合ができるなんて今では考えられないことだ。七〇年代の日本には労働運動が健在だったのだとつくづく思う。毎朝オフセット労組とは常に連絡を取っていて、一緒に使っている食堂や休憩室については同じ要求を掲げていた。組合は春の賃上げ交渉を目指して要求作りをしているところだった。組合活動は始まったばかりで、会社からの切り崩しにも対処しなくてはならない。それでも僕は、やっと学生運動から労働運動へと飛躍するチャンスに巡りあえてホッとしていた。組織の仲間からはオルグできそうな人はいないかと聞かれたが、できたばかりの労働組合には高すぎる要求だと僕は感じた。大衆組織である労働組合と政治的組織を安易に結び付けようとする意識には違和感があった。公務員や教員組織のように政治性がはっきりした労働組合とは違うのだ。でも、会社の労働組合活動だけでなく、地域の活動にも参加できるようになれば、それなりにやりがいのあることになりそうだった。会議が終わって鍋料理を囲んだが、外にはまだ冷たい風が吹いていた。
 
僕は内勤の仕事そのものには魅力を感じたことはなかった。誰でもできる単純な肉体労働だった。最後まで労働者になり切れないインテリだった。しかし、仕事ではなく活動に意義を見つけることが「潜り込むこと」なのだと思っていた。今から思えば、活動が楽しくなく、苦痛であったのは組織のどこかに無理があったのだろう。そんな思いのなかでも秀ちゃんとの関係は少しずつ前進していた。理知的でしっかり者であることが知れると、僕を支えてくれるに違いないと思い、秀ちゃんはだんだん僕の中で大きくなり始めていた。

 
その年の晩春、僕は空港建設反対の闘いで逮捕された。組織は民間にいた僕と学生を現地闘争に送った。組織防衛からみると、妥当な判断だったと思う。開港が延びたせいで、逮捕後の勾留は一年ほどになったが、明らかに報復的弾圧だった。その逮捕で地方都市での活動は一瞬にして停止してしまったし、秀ちゃんとの関係も終わってしまった。秀ちゃんはそれでも二回面会に来てくれた。東京の拘置所に移されてすぐと、とても暑い夏の日だった。今ではどんな話をしたかはっきりとは覚えていない。「田舎では大きく報じられたこと」「体はどうか」というぐらいの話だった。差し入れの本を何冊か入れてくれた。
 
しかし、その勾留は僕には辛いものではなかった。差し入れられた本をゆっくり読むこともできたし、何よりも自分の人生をリセットする機会を与えられたのだ。思いも寄らないことが人の人生を変えるのだとつくづく思ったものだ。それなりに労組活動をしながら、秀ちゃんとの生活を夢見たのだし、それが僕の人生だと半分は決めていたのだから。あの逮捕で地方都市での就職は不可能になり、それは秀ちゃんとの別れを意味していた。秀ちゃんちの人たちが賛成してくれるとは思えなかったし…。あの頃の僕は地に足がつかない、なんともフワフワした気分で過ごしていた。そんな僕にとって秀ちゃんは有り難い存在だった。たぶん、秀ちゃんにとっても僕の存在は有り難かったに違いない。あの頃の僕らはそんなもたれ合いの関係だったのだと思う。その後、秀ちゃんの情報は途絶えたが、秀ちゃんの消息をもたらしてくれたのは春子さんだった。秀ちゃんの言葉を伝えるように春子さんは「秀ちゃんだって別れたくなかったはずよ」と書き送ってきた。思い返してみれば、それも秀ちゃんからの依頼だったかも知れない。あの冬、春はもう少しでやって来そうだった。