下北半島から北海道・泊原発への旅

 そこから見えてきたこと (二〇一六年)

 沢村ふう子



(はじめに)

 
二〇一六年一〇月初旬、青森・下北半島から北海道泊原発へ、反原発運動のキャンペーンに参加した。帰ってから、配布された資料を見たり、新聞記事や参考書籍その他を整理 してみたいと思い、書き始めてみたが、話が広がるばかりで、いたずらに時が過ぎた。福 島原発事故から六年も経ってしまった。
 
福島第一原子力発電所の事故の記憶は時折よみがえる。何が起こるかわからない不安と恐ろしさ。東京の人間でもマスクをしたり外出を控えたり「昆布」を大急ぎで買い求めたあの三月。テレビに釘付けで放水作業を見つめたあの三月。
 
現在もなお生活の基盤を奪われたままの被害者にとって、記憶はそのまま継続し現在までつながっている事実そのものである。記憶という言葉に事故の事実を包み込み過去の出 来事として忘れ去ろうとするのは、受益者たる都会に住む私たちの無神経さ以外の何ものでもない。足を踏みつけている人間は、記憶をたどってみなければ、もう忘却の世界に福島を追いやっているのだ。そうでなければ、事故の原因究明も責任も明確にされぬまま、「再稼働」へ向けて動いていいわけがない。たった六年で「喉元過ぎれば」の状態に陥っているのだ。「想定外」のことが起こったのに、また「想定」を作り、「新基準」に合格 したら「大丈夫だろう」と考える安全神話がよみがえっている。
 
あれから六年経っても原発事故被害者の救済はいまだ不十分である。それどころか住宅支援が打ち切られる(二〇一七年三月)など、「帰還強要政策」が推進されている。必ずしも線量の低くない地域へ住民を帰還させる動きが急である。「二十ミリ」を受忍させるいかなる権限を行政は持っているのか。子どもたちの甲状腺癌の多発、さらなる被曝による健康被害が予測される中、「健康調査縮小」のニュースが伝えられている。今、福島県 民をはじめ被曝地と考えられる他地域住民も含めての健康調査が求められているのに、事態は逆方向に動いている。食の安全は確保されているのか。米の全量検査が行われているというが、ベルトコンベアーで百秒はかるだけだそうである。
 
メルトダウンした福島第一原発の事故処理について正確な情報を私たちは聞けているの だろうか。汚染水の拡散は止められたのか。
 
鳴り物入りで建設された「凍土壁」も目立った効果を上げていない。海や大気への放射性物質排出は止まったのか。 また膨大な放射性廃棄物の処理も困難を極めている。福島ではあちこちに野積みされた黒いフレコンバッグの山が景観を壊すだけでなく近隣住民の健康を害している。さらに八千ベクレル以下のがれきを処理して建設用の材料にするという。放射性物質の拡散である。
 
政府や電力会社、そこに群がる官僚・学者たちの「原子力ムラ」は、何があろうと福島の「復興」、各地の原発「再稼働」まっしぐらの政策を推進している。

●ツアーの概

 
反原発運動の拠点の一つである「たんぽぽ舎」の人から誘われて、「十月八日・さよなら原発北海道集会」(札幌大通公園)に向けての自転車リレーデモ(十月三日から八日)の伴走車の役割を夫と二人で引き受けた。 出発一日目は、青森下北の六カ所再処理工場から、東通原発を抜け、むつ湾を展望し、大間原発建設現場へ(下北では自転車ライダーは1人)。二日目はそこからフェリーで函館に渡り、長万部まで百キロメートルを走破(函館からライダーは七人)。三日目から五日目までの三日間は、自転車リレー隊とともに走行しながら、泊原発周辺の一四市町村自治体への要請行動がメインになった。
 
その間ライダーの数は出入りあり、また思わぬパンクや故障、また厳しい風雨もあって、伴走車に自転車を積んで通った地域もあった。ワゴンの伴走車には大きく「泊原発再稼働反対・大間原発建設反対」の看板が掲げられ、後続の車二台とレンタカーに乗っている私たちの車の両サイドにもステッカーを貼り付けているので、パトカーに狙われているのだ。 事実函館から地元の放送局の車が最後尾を走っていて、スピード違反で捕まった。
 
 八日には札幌大通り公園での集会が開かれ、二五〇〇人参加、デモの後、倶知安へバス で移動、その夜と翌日の午前中は、「再稼働阻止全国ネットワーク・全国相談会」が行わ れた。九日午後は「泊原発再稼働阻止現地集会・デモ」が激しい風雨をついて、風船飛ばしも含め、予定通りに進行、デモの頃には雨もやんだが、シュプレヒコールが響いても、 岩内の町は静かで人通りは少なかった。十日には「現地見学会」(行動する市民科学者の会・北海道)があったが、私たちはそれには参加せず帰京した。

●下北半島を縦断

 
過疎の地であると知識では知っていても、人通りも人家もほとんどない風景を車のウインドウ越しに見て、東北最果ての地なのだとあらためて感じた。信州を旅する時には、手入れの行き届いた畑や果樹、のんびりと草を食む牛のいる牧場も見えて、直接人間が視界になくても、背後にその営みを想像することが出来る。しかしこの下北半島を北上していくと広大な原野ばかりが広がっていてより厳しい自然条件を感ずる。
 
青森に迎えてくれたのは「大間原発反対現地集会実行委員会」のNさんである。大きな看板を掲げたワゴン車に乗せてもらって、スタート地点である六ヶ所村の「日本原燃再 処理事業所」ゲート前に着いた。そこに弘前からやってきた自転車のライダーTさんが 到着、福岡から車でかけつけた青年Aさん、現地の運動をしているSさん、Kさんが集まった。 ゲート方面の写真を撮るとそこにいた警備員が「写真を撮るな」と言う。すぐにゲートが閉められた。かまわず何枚か撮ったが、その間三人のうちの一人が電話か何かで連絡している様子だった。私たちはそこで簡単な集会をやって出発した(一〇時一〇分)。
 尾駮(おぶち)を抜けて東通原発を目指し北上する。進行方向右側の広大な砂丘(鳥取砂丘より大きい)には米軍と自衛隊の射爆場があるとNさんが説明してくれる。車は反対運動の強かった泊地区に入り、一軒の家の前に止まった。古びた看板には「核燃から漁場を守る闘い」とある。社民党の種市登さんの家だった。Nさんが声をかけると種市さんが、積年の厳しい闘争を表すような日焼けした顔で家から出てきてくれた。
 
東通村に到着。二〇〇五年に運転開始した東北電力一号機は三・一一の後の定期点検で止まったまま。東北電力の二号機、および東京電力の一、二号機は計画中ないし建設中。 この東通に二つの電力会社で一〇基ずつ二〇基の原発を作る予定だったと聞いて呆然とする。原発 PR館は月曜で休館だった。立派な円形の建物があたりを睥睨している。村の中心部には役場・消防署、警察・学校など諸施設がすべて集中して建てられている。原発マ ネーの「おかげ」である。周囲の景観とちぐはぐなモダンなデザインの建物も目についた。 あちこちに散在していた小学校・中学校・高校を集中させて、スクールバスで通わせているという。この地では「反対」は漁民の一部のみだったと聞く。巨額の補償金を受けて、漁協は一九九二年から九五年にかけて漁業補償協定書を締結した。
 
自転車待ちをするうち、大ぶりの雨が降ってきた。
 
次に向かったのは「中間貯蔵施設」のあるむつ市である。むつ市のホームページによれば、二〇〇八年にむつ市・青森県・東京電力・日本原子力発電の四者で「使用済燃料中間貯蔵施設に関する協定」が締結され、それに基づいて「リサイクル燃料貯蔵株式会社」(RFS) が設置されたという。東京電力(八〇%)と RFS(二〇%)の共同出資となっている。 貯蔵建屋は二〇一〇年着工し現在完成しているが規制委員会の審査待ちとなっているそうだ。
 
本格的な雷雨の中、放射線漏れを起こし廃船となった「原子力船むつ」が、今、「科学技術館」として係留されている港を見渡せる筈の丘へ行った。かつての反対運動の「団結小屋」がそのまま残されていてそこから港が一望出来るはずだったが、風雨はげしく傘も 役立たぬ中、視界はぼやけて何も見えなかった。
 
この日最後の予定地、大間原発に着いたのは十五時一〇分、相変わらず雨は降り続いていた。ほの暗い薄闇に青い屋根のお椀を伏せたような建屋が見えた。建設中の大間原発にはまだ原子炉は装荷されていないそうだ。N さんによれば「送電線は完成している」とのこと。工事現場への入り口ゲート前では警備員三名がこちらを警戒している。宿に着いてからまた出かけて大間原発の全容が見える高台まで行った。反対運動の行われる場所や「あ さこはうす」で知られる場所の見当もNさんから聞く。
 
炉心建設予定地の地権者が買収に応ぜず原子炉設置許可申請の変更を経て、二〇〇八年着工に至ったが、二〇一〇年には反対する市民グループが函館地裁に提訴、さらに二〇一四年には函館市が東京地裁に提訴している。電源開発(Jパワー)は、運転開始予定とし ていた二〇二二年をさらに二〇二四年と発表した(二〇一六・九)。
 
大間原発は一三八万キロワット以上の発電能力を予定し、フルモックス燃料を装荷する 新たな原発となる予定だ。

●函館から長万部、その後泊原発周辺自治体への要請行動

 大間港から函館港まで一六キロだそうである。フェリーは時間通りに大間を出港した。 甲板に出てみると強風にあおられ、手すりにつかまっていないと吹き飛ばされそうだった。ほとんどの人が船室に下り、すぐに横になる人、隣り合う人と朝食の弁当を食べながらお しゃべりする人などさまざまな時間を過ごしている。そのうち函館港到着のアナウンスが聞こえた。一時間半はすぐであった。
 
私と連れ合いは予約していたレンタカー営業店に行って車を借りて、函館市役所に向か った。市役所前の広場には、色とりどりの旗が並び、自転車とともにライダーの服の赤や黄色、緑など鮮やかであった。車も数台駐車していた。ここからツアーに参加するのは自転車七台、車四台である。
 
出発前の記者会見、挨拶が続く。中でも「後志・原発とエネルギーを考える会」のSさんから泊原発周辺住民の死亡率が他の地域に比し高くなっているというデータが配られた。後で触れるが、「通常運転でも大変な放射能汚染」と題されたチラシを読む。
 
函館から長万部までひたすら自転車隊は走る。道の駅、コンビニ、スーパーと昼食やトイレ休憩をはさみながら、午後四時半に民宿「シャマンの里」に着く。ここのマスターは 反原発の運動家だそうで、格安で泊めていただいたばかりかカンパまで頂戴する。夕食時は地元からも反原発の活動家が参加し、にぎやかに活発な議論が交わされた交流会となった。
 
翌日からは自転車ツアーをしながら、泊原発周辺自治体への要請がメインになった。黒松内町、寿都町、蘭越町、ニセコ町(以上十月五日)、倶知安町、共和町、岩内町、泊村、神恵内村(十月六日)、積丹町、古平町、余市町、仁木町、小樽市(十月七日)の十四市町村である。このうち泊原発立地四町村は泊村、共和町、神恵内町、岩内町であり、これ らの町村は泊村「賛成」他の三町は「どちらとも言えない」と意思表示されている(北海 道新聞二〇一六年五月三日版)。他の一〇市町の内、明確に「反対」を意思表示しているのは、蘭越町、仁木町、積丹町、小樽市の四市町である(同)。
 
要請書概略は次のようである。泊原発再稼働阻止実行委員会のものを例示したい。宛先 は各自治体首長に向けてのものである。彼らに、内閣及び原子力規制庁など国の関係機関、 北海道知事、北海道電力に要請することを求める内容になっている。具体的に四点あげている。
(一)三十キロ圏内自治体の避難計画には実効性がなく、住民の安全を確保できない中での再稼働はしないこと。
(二)四月(一六年)から北海道電力が行った「新規制基準と泊発電所の安全対策」説明会では不十分であり、泊原子力発電所三号機の再稼働前に避難先自治体も含めた八十キロ圏内自治体へ丁寧な公開住民説明会を開くこと。

(三)泊原発三号機再稼働前に、避難先自治体を含めた八十キロ圏内自治体の再稼働の承認を得ること。 (四)一~三が行われないままで泊原発三号機の再稼働はしないこと。

 それぞれの自治体では、庁舎の中の応接室ないしは会議室、あるいは町長室等で要請団を迎え入れてくれた。三十分の約束時間の中で、前半に要請文を手交し要請の主旨をさらに追加補強する発言、及び地元からの参加者から発言を行い、最後に自治体側の考えを表明してもらった。
 
十月五日、三つ目の蘭越町では町長が対応、お茶の接待もあった。「原発再稼働反対」であり、「北電は説明責任を果たしていない。十六町村と安全確認協定を締結したが、立地町村とはやれなかった。その中に風評被害について補償するという文言をいれることが できた」「泊を動かせば電気料金が安くなるという言い方は人質を取っていることと同じ。火力を動かせばいい」「命と金とどっちが大事という問題だ」と力強い話があった。周辺自治体の反対運動の中心的役割を担っている町長である。安全確認協定は北海道・周辺自治体十六町村と北海道電力の間で結ばれた(二〇一三年)。
 
続くニセコ町では副町長が対応した。地元の発言は「北電の住民説明会で賛成意見は皆無、実効性ある避難計画なくして再稼働は許されないと思う。被曝ゼロの避難計画を策定しようとしたら、国の基準内に納めよと圧力がかかった」だった。他にもニセコには外国人が多いことから、避難連絡の困難さ等の指摘もなされた。副町長からは「役場が原発から三十キロ、避難計画を一年以上待ってもらって、国基準に一つプラスした。住民に報告し、泊の視察や議員との意見交換を始めた。住民とも意見交換していきたい」と回答があった。
 
次の日の倶知安町では地元の女性が「事故があったら子どもに薬を飲まさなければならないような発電方法はおかしいのでは。避難したとして一週間で帰れるのか」と発言。そのヨーソ剤の配布も進んではいないのが実態であるという。
 
町側のコメントは「再稼働には反対で最終的には廃炉にしてほしい。しかし代替エネル ギーの確保が難しい」。
 
岩内町での面会場所の窓から泊から泊一号機から三号機までよく見えた。こんなに近いと実感。 町側からは「国の審査にしっかり通ることが第一。補償は事業者がやっているし、国も補助している」と発言。福島の事故以前と全く変わらないことに驚く。
 
泊村の課長は「原発が出来た当時のことを知らない職員が多い。当時の国策であって誘致したものではない。札幌などいろいろ問い合わせがあるが、安心安全についてはよくわからない。福島事故のことを聞くと大変だなとは思っている。原発は村興しにはなっている。北電には東電のようなデータ改ざんはするなと言っている。地形にもよるがこの辺は 地震がないというか揺れない地域と思っている。癌の多発については、ズリ山の影響は知っているが」と述べた。この課長は自治労出身だそうである。
 
十月七日、朝一番の積丹町要請では、町長が対応、お茶をふるまってくれた。ここでは 町議会も反対を表明している。町長室の壁面いっぱいに地図が貼られていた。泊原発から五キロ、十キロ、二十キロ、三十キロ圏の同心円が入った地図である。要請者の側から「原因も責任もはっきりしないままの再稼働はおかしい。川内では自民議員への乗車拒否が起こったり、伊方では五十パーセント以上反対など最近の状況は変化してきている」に対して町長は「三・一一以後、自治体首長の集会で議論、蘭越町の町長が苦労されて、安全確認協定を結んだ。三十キロ圏に入る、入らないなどいろいろあるが、区切れる問題ではない。また電気料金の値上げなど違う次元の問題である。三号機の温排水反対の決議を議会で出した」などくわしく語った。
 
古平町も町長が対応、「将来的には全廃を願っているが出来ることからやっていきたい。 今回の行動は大変ご苦労様です」とねぎらってくれた。しかし「平成二十六年」の不況の折には水産九業者のうち、六業者が倒産、それに伴い多くの失業者が出た。危険の認識を 持ちながら、十分点検して国の基準に合えば再稼働やむなしと考える」と続いた。
 
余市町の町長は「福島の検証は不十分、再稼働にあたっては安全の確保等慎重な対応が必要、福島の教訓を活かしていきたい。漁業の漁獲高は減っていて農業より厳しいし、ニッカウヰスキーも本社は東京へということで縮小している。今、ワインで意欲のある業者が入ってきているのでワイナリーの誘致を核に据えていきたい。」
 ここで昼食をとった。ニッカ工場の付帯設備としてレストランや土産物販売店があり、大型バスが何台も観光客を運んできて賑わっていた。
 
午後は仁木町と小樽市にまわることになっていた。この二つの市町は「反対」を表明し ている。
 
仁木町では副町長の対応であった。「廃棄物処理の目途なくして再稼働なし。西風すぐそばという認識を持っている。要望書等国の方に出したい。今後、道外からワイナリーを経営したいという希望が来ており、六~七カ所増える見込みである。北電に対して言うべきことは言わなくてはいけないと思う。皆さんと連携しながらやっていきたい」という元気の出る発言をいただいた。この町の庁舎一階にはショーウインドウがあり町の産物が展 示されていた。その中に「ゼオライト」というものがあった。有数の産地なのだそうである。セシウム除去の時に聞いたことがあったのだが、それ以外にも用途があるのだとか。 その説明も気さくに副町長がしてくれ、駐車場の方まで出てきて自転車や車を見おくってくれた。その友好的な対応に驚くやら嬉しいやらであった。
 
最後の小樽市への要請に、私たちはレンタカー返却のため参加できなかった。後日、原発再稼働反対を公約にした小樽の森井市長が「泊原発一、二、三号機とも廃炉にしてほしい」という要望書を北電に提出したいと語ったそうである(共同通信、二〇一六年一一月 四日)。その後の記者会見でも「事故は起こりうるもの、北海道電力は泊原発に頼らない経営にシフトすべき」「小樽市は泊原発から三五キロであるが、事故が起きれば小樽市も 少なからず影響を受ける」(二〇一七年一月四日)と語っている。

● 「さよなら原発北海道集会」「泊原発再稼働阻止地集会」への参加

 
札幌の「さよなら原発北海道集会」(十月八日)は大通り公園で開催、二五〇〇人の参加だった。例年より少ないということだった。しかしビラを配っていて受け取ってくれる人は意外に多く、東京都心で感じる冷たさはなかった。
 
そこから倶知安へ移動、「再稼働阻止全国交流会」の後、現地集会(十月九日)へ参加 した。岩内港そばの広場に吹き荒れる強風と雨粒の中、赤や黄色、緑など旗があおられて、 参加者は雨合羽や長靴で装うも傘は全く役に立たなかった。にもかかわらず、鎌田慧さんをはじめ力強いスピーチが続き、寒さにふるえながら気持ちは元気になった。岩内市内にデモの隊列が進んでいく。人の通りは少なかったが、シュプレヒコールは途切れることなく最後まで続いた。その頃には雨も上がった。

●翻弄された下北半島

 このツアーから帰って、「最悪の核施設 六カ所再処理工場」(小出裕章・渡辺満久・ 明石昇二郎)(集英社新書 二〇一二)と「六ヶ所村の記録 核燃料サイクル基地の素顔」(鎌田慧)(講談社文庫 一九九一)を読んだ。

 
あらためて「再処理」の定義を確認しよう。「使用済み核燃料中に生成・蓄積したプルトニウムを取り出す操作」(前記著書小出さんの記述)である。そのために「燃料棒を細かく切断し、……硝酸に溶かしたうえで化学的にプルトニウムを分離する」(前記同)。この作業により、いわゆる原発防御の五重の壁と言われる中で、第一のペレット、第二の被覆管(燃料棒)が壊されることになり、「再処理工場は放射能で強く汚染される。……通常の原子力施設とは桁違いの放射能が、大洋と海洋に向けて放出されることになる。 ……再処理工場は原子力発電所が一年で放出する放射能を一日で放出すると非難される」(前記同)。小出さんはイギリスのセラフィールド再処理工場の例をあげている。アイリッシュ海は世界一放射能で汚れた海になってしまったのだ。
 
もし六ヶ所再処理工場で過酷事故が起これば、「青森県の基幹産業である農業と漁業を壊滅させる。……リンゴや長いも、にんにくは日本一の生産量をほこり、イカやヒラメ、ワカサギ、シラウオは全国一の漁獲高誇る。・・・…大間のマグロは日本で一番旨いマグロとして世界的な知名度がある。……すべて商品価値ゼロとなり市場と食卓から一挙に追 放される。……一般住民の被曝、強制的避難、不動産価値の消滅、地域農業や漁業の崩壊、長年続く放射能汚染、そして差別」(前記同)。ここに書かれた事態を私たちは既に 福島原発事故によって知らされている。さらに言えば、六ヶ所村再処理工場の事故による汚染地域は青森県にとどまらず広大な東北・北海道地域へ拡散することも私たちは既に知っている。北日本すべてと言っていいのではないか。
 
同書の第三章タイトルは「核燃料サイクル基地は活断層の上に建っている」である。著 者の一人渡辺さんは変動地形学・活断層の研究者である。下北半島東方沖には大陸棚外縁断層という一〇〇キロに及ぶ断層があり、「安全審査委員会」はそれを活断層ではないとしてきた。音波探査調査で明瞭に確認できないというのだ。しかし、「下北半島沿岸では……三〇メートル以上の隆起が見られ、その隆起が、下北半島の東沖に海岸と併走する 海底活断層、すなわち大陸棚外縁断層の動きによるもの」(前記渡辺さん)」。「海上保安庁水路部・現海洋情報部による調査結果(一九八二)を見ると、大陸棚外縁断層は南方で 分岐し、その一方は、核燃料サイクル基地が建つ台地のふもとにある尾鮫沼の北で陸に向かって伸びるように示されている」(前記同)という。「この六ヶ所断層の活動によって 撓曲した土地の上に、日本原燃の六ヶ所村核燃料サイクル基地が建設されている、……一二・五万年前には水平だった海成段丘面が撓み、曲がっている。地下には、段丘面の変 形と完全に調和的な地層の褶曲(撓曲)が見られる」(前記同)。
 
さらに渡辺さんの指摘は六ヶ所村再処理工場から二五キロ北の東通原発、下北半島北端の大間原発にも及ぶ。いずれも活断層による地震性の隆起が明瞭に認められる変動した地形の上に原発が建てられている、もしくは建てようとしているのだ。

 
鎌田さんの力作、「六ヶ所村の記録」からは半世紀以上にわたる六ヶ所村を中心とした、「開発」という名で国策として押しつけられた「住民の命と暮らしを奪う歴史」が描かれ ている。その時代を教育労働者の一人として東京の学校で働いてきた私の中には、六ヶ所 村の悲劇を想像することさえなかった事実に愕然とする。確か「新全総」という開発計画 とともに「むつ小川原」の名前には記憶がある。しかしそこに住む人たちの顔を思い浮かべることもなかったし、その後どうなったかという関心さえ持たなかった。
 
著者も「おなじ青森県でも、むしろ日本海にちかい小都市に生まれ育ったわたしにとって、このあたりはまったくの未知の土地だった。……鉄道からみはなされているこの広大な地域は、わたしの地図での空白地帯であって、集落があって生活しているひとたちがいるのを想像したことがなかった。」と冒頭で述べている。
 
一九六九年閣議決定された「新全国総合開発計画」(新全総)では「小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により、陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸、久慈一帯に 巨大臨海コンビナートの形成を図る」とされていた。それ以前は、米軍三沢基地関係で繁栄していた地域が米軍の地上戦闘部隊の大幅な撤退にともない、基地労働者の数は縮小さ れた。当時の革新勢力は「軍事基地から工業基地へ」をかかげるようになった。
 
鎌田さんの記述は続いて、その前後から高額の単価で土地の買い占めが始まったと伝える。「観光開発」と称していた。そして既にこの頃当時の県知事から「下北半島の原子力センター化」が発表されていた。日本経済新聞にも「核燃料の」濃縮、成形加工、再処理など一連の原子力産業の適地と言える」(六九年六月三日付)との記事が出ている。
 
しかし実際に具体化されるまでには十年以上かかっている。工業開発、石油備蓄基地がおしつけられ、一九八四年にいたって、電気事業連合(電事連)が青森県に対して、核燃料サイクル基地の立地を正式に要請した。鎌田さんの筆は厳しいタッチになる。「こうして下北半島には、石油備蓄基地ばかりか、東通村の原発基地、むつ市の原子力船むつの母港、その後始末のための関根浜新母港、半島の先端部にある大間町の A・T・R(新型転 換炉)、そして核燃料サイクル基地の建設と核施設が目白押しで、あたかも終末処理半島と化そうとしている。」 
 
 六カ所村の、また他の村々の農民、漁民の闘いも記述され、自治体のリーダーたちの人間像も活写されている。その合間に下北に入植してきた、古くは会津藩士が落ち延びて開拓をし、また満蒙開拓団の生存者たちが、厳しい自然の中で再び農業に生きようとした努力も描かれている。その彼らはまたも国策による原子力政策、核燃料サイクル基地の建設で生活の基盤が奪われていったのである。
 
末尾にある鎌田さんの言葉は一九九一年に書かれた。今現在でもすべて当てはまる慧眼には驚かされる。「むつ小川原開発は財界主流の経団連ばかりか、ほかならぬ政府機関が介在した国家的事業だったから、開発から核廃棄への突然の計画変更は、国家的欺罔とも呼べる。この欺かれた基盤の上に、核燃料サイクルが建設され、既にウラン濃縮工場では遠心分離機の搬入が続けられている。地盤の不安定な沼沢地に、盛り土されて集中配置されようとしている核施設は、世界でも例をみないほど過大なもので、将来、三〇〇〇トンの使用済み核燃料がもちこまれ、年間八〇〇トンの再処理がなされる計画である」「東北の太平洋岸の歴史には、大地震と大海嘯(津波)の歴史が刻み込まれている。地盤が脆弱で、なおかつ大活断層の存在が指摘されている地点で、人類とは相いれない。もっとも危険な放射性物質を保存し、加工しようとするのは、安全性の信頼とその押しつけによっているが、自然の猛威を完全に制御し、事故を完封できることを信じたがったにしても、それは利益に目のくらんだ、電力会社や電機会社の経営者たちの迷信でしかない。」「輸送、加工、貯蔵のサイクルによって、原発社会の無間地獄を拡大するにすぎないこの施設は、 六カ所村や青森県の境界を越え、日本列島、さらには世界へと恐怖を増殖してとどまることはない。それはまた、野放図に電力を消費している市民社会にたいする逆襲でもある。 無関心は、共犯である。」「まず、愚行の継続を中止するのがもっとも賢明な方法である。 そして原発の縮小とさまざまな代替発電による段階的な停止である。核廃棄物は移動、集中させず、国が安全と認定し、運転を許可した各原発の跡地で責任をもって管理する。それはいまだ安全性が確立されていない核燃料サイクルの新規稼働よりははるかに安全であろう。」
 
二〇一一年の三月一一日の東北大震災に伴う福島第一原発事故の後で読むこの指摘が正 鵠を得て余すところがないことに驚くとともに、今なお何も学ばず原発再稼働をすすめ、 核燃サイクル政策を推進し、さらに原発の輸出さえも国家戦略としていることに恐怖を覚える。

●大間原発差し止め裁判

 六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場をはじめとして核燃サイクルの要になっている下北半島最北端に大間原発はある。大間原発はフルモックス核燃料で稼働する予定だ(運転開始の目途は延期され続けて二〇二四年度になっている)。世界で初のフルモックス原発である。プルトニウムを効率的に循環・消費出来る切り札として宣伝されてきた。 その大間原発の建設に異議をとなえ裁判闘争をしているのは、意外にも青森県住民ではない。海峡を挟んで二十数キロしか離れていない函館市は風下になり、事故が起きたときにはもろに被害を受けることが予想されるのだ。そこで函館市民と函館市がそれぞれに「大間原発差し止め裁判」を起こしている。市民団体の訴訟は函館地裁(二〇一〇年)へ、市の訴訟は東京地裁(二〇一四年)へ提訴された。前者は二〇一七年六月三〇日で結審した (判決は来年三月までに出る予定)。後者は同じく四月に第一二回口頭弁論・八月に第一 三回口頭弁論が予定されている。

 
函館市民の提訴した裁判で、二〇一七年一月一〇日(火)に証言された 渡辺満久さんは、次のように述べた。
一、大間北方沖活断層は、変動地形学の科学的知識手法によって確認される。
二、海底活断層の長さは、少なくとも四〇以上とみられる。
三、海底活断層の長さは、北から南へ緩い角度で傾斜しており、大間原発の地下数まで推定される。
四、海底活断層の長さからみて、想定される地震の規模は、経験則からM七.五かそれ以上である。
 ①S-一〇やS-一一など、敷地内の地下に施設等に影響を与える可能性がある断層等は、存在する。 「原発は、安全なところに作るべき。大間原発の地盤は、非常に不安定。」と締めくくられた。

 函館市の起こした訴訟について、市長の工藤壽樹氏は次のように提訴の決意を述べている(二〇一四年四月)。「その後、国は、福島第一原発事故を踏まえ,万が一の事故の際には被害が大きく危険となる地域を、これまでの八~一〇㎞から三〇㎞に変更した ところです。その三〇㎞圏内に入る函館市や道南地域への説明もなく、また、同意を得ることもなく、建設が再開され、建設後には、大間原発の事故を想定した地域防災計画や避難計画を定めることを義務づけられることは、整合性を欠き、誠に理解しがたいものです。」「平成二四年一〇月、二五年二月には、国や事業者に対し、函館市をはじめ道南 の自治体や議会、経済界、農漁業団体、住民組織などが名を連ね、大間原発建設の無期限凍結を求めてきたところです。平成二五年七月には、福島第一原発の周辺自治体である南 相馬市と浪江町を訪問し、事故当時や現在の状況についてのお話しをお聞きし、原発事故が起きれば、周辺自治体も壊滅的な状況になるということを確認いたしました。そして、住民の生命、安全を守らなければならないのは、最終的に基礎自治体である市町村であることをあらためて強く感じたところです。」

 福島の原発事故後における、周辺各自治体の対応がかなり様々に違っていたことを知るにつけ、またそのことによって被曝線量も含めて住民の健康と暮らしに大きな違いが出たことは記憶に新しい。自治体が住民の命と暮らし守れるかどうかの分かれ道になっているのだ。だからこそ住民を守る自治体行政でなければならない。平常時も事故後も最善の判断をしてもらわねばならないと痛感する。またそれを可能にするように、県、国の行政が 動かねばならない。しかし国や県が「住民第一」の政策を進めているのか、現実の政治の有り様に愕然とする。正確な情報すら発信せず、不都合な事実は隠蔽する。これが福島原発事故で私たちが知ったことだった。その点で、函館市長の意見表明は住民の意思をすくいとったものであり、自治体の首長としてしごくまっとうな判断である。

●泊原発建設への反対運動

 泊原発周辺自治体への要請行動に参加されていた、元北海道議会議員(当時社会党)の吉野之雄さんが、「被害を受ける方が証明するのではなく、汚染源を出す方が証明するべきなのだ」と発言され、その言葉を印象深く聞いていた。その吉野さんが前述の「再稼働 阻止全国交流会」の会議にも参加されていたので、泊原発建設当時のことを記録に残されているのではないかと思い、「当時の記録やお書きになった物があったら教えてください」 とお願いをしたところ、二〇一六年一二月末日に小包が届いた。当時の新聞記事やパンフ レット、雑誌等貴重なものばかりであった。地域のことを知らない私にとっては、読み取ることが難しいものも多かったが、その中からいくつかを紹介したい。

 泊原発は、泊村大字堀株(ほりかっぷ)に立地、一号機(一九八九年営業開始)二号機 (一九九一年同)三号機(二〇〇九年同)があり、現在は新規制基準での審査中であり停止している。このうち三号機は「プルサーマル」運転を目指している(北海道電力ホームページ)。
 泊原発の建設の動きは一九六〇年代後半にまでさかのぼる。吉野さんが北海道教職員組合の機関誌号外資料編(一九七九年六月三〇日)に寄稿された文章には「原発の誘致問題 が起こったのは、一九六七年頃からである。岩宇四カ町村(岩内町、共和町、泊村、神恵内村)の理事者議会あげて誘致促進運動を始めた」と冒頭に書かれている。背景には、泊村茅沼炭鉱閉山など人口減、消費購買力減退、過疎化に対する危機感、町村財政における 税収増の狙いがあった。道も積極的に立地適合調査に乗り出したが、結局北海道電力が独自の調査を経て一方的に共和・泊地区に決定と発表(一九六八年)、道・通産局の反発を受けて翌年、協議の上という形で決定した(一九六九年)。(後一九七八年、北電は建設地点を一キロ離れた泊村茶津地区へ変更)。地元民を愚弄する「道随一の企業」北電の傲慢さが見て取れる。
 
以下は「原水禁北海道本部・北海道原発反対共闘会議」発行の資料(一九八〇年)による。年表を抜粋すると漁協・自治体・議会・労働組合の動きがわかる。

一九六九 北電と岩宇四町村が覚書を交わす(原発建設に全面協力)
一九七〇 岩内郡漁協「原発絶対反対」決議……「原子力発電所についてはいまだ世界的にその
       安全性と放射能障害高温冷却水の大量放出等により住民ならびに 漁業への影響
       など未解決の分野が非常に多く公害が発生することは明らかで ある。ーーーこ
       こにわれわれ漁民は、総力を結集し、父祖伝来の漁場を公害 から守るため共
       和・泊地区に建設されようとしている原子力発電所設置に断固反対するもので
       ある」以後、他の漁協とに、道・各省庁への反対陳情 ・北電に対する抗議・反
       対署名など

一九七一 岩内町民会議、町議会に「原発反対」の請願
一九七二 岩内町民会議、道議会に「原発反対」の請願、北電に対し計画中止を要望 岩内
       商工会議所
道議会へ促進請願 岩内町議会、「原発設置に反対する決議」
       可決(一二対一一)
一九七三 岩内町長と六団体(岩内町民会議、岩内郡漁協、岩内地区労、社会党支部、 共産党町
       委員会、公
明党支部)が確認書(町民の理解が得られない限り原発 に反対す
       る)を交換
一九七五 統一地方選……「原発賛成派」多数(北電の賛成派へのてこ入れと徹底した「原発隠
       し」)……
岩内町議会は「条件付き賛成決議」(一三対九で可決(一九七六)、
       他の三町村も同様の決議可
決に至った。
一九七七 岩内町長、北電と「新覚書」締結(上記六団との確認書の白紙撤回を意味 する)……
       これ
を受けて道は「建設推進」表明

 
以下は「泊原発反対運動(現地)年表」(ナナカマドの会編)による。この間、漁協を 中心に激しい反対運動が繰り広げられ、この後も一九七九年のスリーマイル島原発事故もあり、地区労などによる多数の「講演会」「学習会」、前田農協青年部の車両デモや共和町長リコール運動などがあり反原発のうねりは続いた。一九八二年には「反核・反原発全道住民会議」も結成された。
 
しかし一九八一年から八二年にかけて北電と各漁協の間で「補償金」についての妥結が相次いだ。泊村漁協……三〇億五千万円、盃漁協……七億八千万円、神恵内漁協……六億八千万円、岩内郡漁協……二三億五千万円という巨額なものであった。また堀株住民の会にも一戸一一〇万円が協力金として支払われた。
 反対する地域住民(漁業者、農業者を中心に)を切り崩す巧妙な策がいろいろ行われたと見られるがその一端を紹介したい。「北海道経済」(一九七五年一二月号)のトップ記事は「岩内原発裏面史ドキュメント」(浜田 洋)となっている。この原稿は、本来「政界」(一九七五年一一月・一二月号)に載るはずのものが突如中止され、それを転載した という。この中には、一九七五年の統一地方選で、北電の行った企業ぐるみ選挙の実態が 詳しく紹介されている。それは関連会社や下請けにもすすめられた。その「CR 作戦」と呼ばれる選挙運動を指揮したのは博報堂であった。指揮を取ったのは、そこに招かれた元警視庁刑事部の町田氏だそうである。選挙運動だけではない。地域住民の切り崩し策の白眉をなしたのは「北電もてなし旅行」である。「原発先進地」の視察者は岩宇四ヶ町村合計で二〇三〇名に達した(岩宇四ヶ町村原発対策協議会発行の「原発のひろば」一九七五 年七月)。内訳は、岩内八八一人(八・四戸に一人)、共和五五四人(三・九戸に一人)、 泊四五四人(二・二戸に一人)、神恵内一四一人(四・六戸に一人)である。一人平均五八〇〇〇円であるので、少なくみても一億一七七四万円を越えている。
 
飛行機や新幹線を使って東海・敦賀・美浜原発等を見学させた。中には「一流ホテルに泊まり、東京見物も出来る気楽な旅行だ」と誘われたという者もいた(「展望」一九七三 年六月)。参加者は「賛否は別にして原発を見学しよう」と思ってこのもてなし旅行に参加すると、電力会社のPR センターで賛成側だけの考えを聞かされ、反対していた人も消極的になった。さらに視察旅行の後、「岩内原発促進協議会の地区推進委員への委嘱状」 に推薦者五人を書いて提出させたのである。  吉野さんの提供してくれた資料の中に道議会の議事録があった。一九七五年度道議会の 記録である。共産党の川崎守議員が道当局に泊原発についての質問を繰り返し行っている。

「北電はウランも契約いたしましたし、もてなし旅行も現在までに四ヶ町村で二〇三〇 名を実施いたしております。博報堂を通じてCR作戦で反対派の切り崩しも行いました。新聞、ラジオ、テレビ、各種パンフレット、ニュース、映画、講演会等を通じてPRの徹 底もしてまいりました。また事前承認を得たかのように三億円をかけてPR館を建設するなど、強引な方法で建設許可前の運動をすすめております。」

 また温排水が水産資源に与える影響について追及がなされている。「今後ますます沿岸漁業の振興は重要になってまいります。スケソウダラが年三回にわたって産卵に来ると言われている岩内湾、水産水揚げ四〇億円、水産加工一〇〇億円と言われる岩内町、ここの 住民たちが原発の放射能や温排水による漁業被害に対して心配しておりますが、食糧基地北海道の知事として漁業振興の立場から考えても、そしてまた、住民の安全を守る責任上 から考えても、知事は責任を明らかに放棄しておると考えますがどうか」と切り込んでい る。さらに「温排水によって微生物とか海藻類がやられるのではないかということは、サケとかスケソウダラとかそういうものに大きく影響するということなんですよ。……こ れは北電に対して日本の数多くの学者の人たちが岩内に原発を建てるべきでないということを要請した文書なんですよ。……岩内湾は北部日本海スケトウダラ資源の安定した産卵場の南限であり……湾内への設置はこの漁業に破壊的な影響を及ばす可能性が考えられます。」

 岩内郡漁協の水揚高は、二六四五一トン・四一億円余り(一九七三年・岩内郡漁協事業報告書より)あったものが、現在は、その一八分の一である一四六一トン(二〇一五年・ 岩内町資料)に落ち込んでいる。漁獲高の減少は他の地域、他の魚種でもたびたび起こっており、その原因は複雑で温排水の影響のみとは言えないだろう。が、岩内湾が特にスケトウダラの産卵にに欠かせない環境を長らく保持していて、故にこそ当時の水産資源研究 者七〇名から「懸念」が表明され、原発建設の再検討の要望が北電に対して出された(一九七一年)のであり、その中で、「スケトウダラ資源の壊滅」の可能性が指摘されていた。
 川崎議員の追及は執拗である。「使用燃料棒の処理はどうするのか、この燃料棒の処理工場を北海道につくるのか、岩内につくるのか、泊につくるのか、しかも、北電がつくろうとしているのかどうなのか。一生懸命に燃料棒をたいて電気をおこして、たき終わったところのウランの棒をどうするかという問題についてどういう計画がなされているのかどうなのか。同時にまた、ウラン棒をもしほかにやるとするならば、運搬の手段というのは あるのか、どういう方法でもってこれを運搬しようとしているのか……知事の見解を聞きたい」と鋭く迫っている。
 
同月の予算特別委員会でも安全性を巡って川崎議員の追及は続いた。「たとえば美浜の状況でいきますと、私も調べてみたんですが、四五(一九七〇)年の一二月、四六年五月、 同じく五月、四六年九月、四七年の六月、四八年の九月、四九年の一月、四九年の七月、 四九年の一二月、五〇年の一月、五〇年の一月、これだけあるんです(事故)。……美浜と同型のを設置するというんですから、ここで設置をしてから運転を開始した。それから二、三年たって、たとえば燃料棒が平らになってしまったとか、そういうような形でもってつかえなくなっているわけです。たとえば細い管がたくさんある、その管に故障が起 きた、ですから、いまは七%ぐらいで、一号炉は廃止しなきゃだめじゃないのかといわれているわけです。……そしてまた、うっかりすると大きな事故が発生をする可能性をはらんだ事故を起こしている。……たとえばむつが事故を起こしたとき、あのときにずいぶん放射線や放射能の漏れなどはないということを、絶対安全だ安全だということをずいぶん言いましたよ、あのときも国でもって。……その後この問題が発生して、国会の論議の中で原子炉安全専門委員会委員の内田という東大教授はこういうことを言っているんです。日本の安全審査は、設置者が提出した書面について基本設計の瑕疵を判断するだけで、詳細設計や建設施工段階での審査はノータッチであるというようなことを言っているわけです。……アメリカと日本は大分違うんです。アメリカの原子力委員会というのは、 原子力発電所の立地から運転、こういうところまで全部調査をする、そういう権限を持っ ているわけです。ですからスタッフを見ますと、大体二〇〇〇人近いスタッフを持っておりますし、原子炉の安全問題担当だけでも一〇〇〇人からいるというんです。……しかも、アメリカの原子力委員会の場合、一つの基本設計をやり、あと公聴会が義務づけられているんです。公聴会で同意を得られない場合はこれは建設を許可しないんです。それから運転もまた許可しないんです。……そういう権限を原子力委員会は持っているわけです。日本の場合はそういう状況がないわけです。……人がけがをしない、放射能の被曝を外で受けない、死なない、だから安全だという、こういう感覚というのは、これは政府もそういうことを言っております。北電もそういうことを言っております。一連の同じような体系の中の物の考え方なんです。」
 さらに川崎議員は電力会社の信頼性を問う。「日本の原子力発電」(安斉育郎・中島篤 之助共著、一九七四年、新日本出版社)という本から引用している。「電力企業は信用できるか」「一九七三年八月二八日、福井県美浜町にある関西電力の加圧水型原子力発電所二号炉で人身事故が発生した。この事故をめぐる関西電力の対応をつぶさに検討してみると、原子力発電施設の安全性確保について、直接的にはもっとも重大な責任を負うべき電 力企業が、はたして十分信頼に足るものであるか否かが歴然としてくる」「事故発生直後、関西電力、三菱重工の職員数名がやってきて、現場にあった溶接・切断用の工具や電線その他いっさいのものを片付けた。N工業の従業員も片付けと掃除をてつだわされた。従業員がなぜそんなことをしなければならないかと問うと、ここにこんな物があるといけないのだと言われた。」「事故現場に入って作業していた労働者がN工業の所長に呼ばれ、あすは労働基準監督署が調査に来るので、口裏をあわせておかねばならない。みんなは余計なことはしゃべるなと言われた」「ふたたび従業員は所長に呼ばれ、きみたちもここでめ しを食っていくからには協力してほしいと要請された。」そして警察の取り調べを受けた時の答え方も指導されたという。

福島第一原発事故において、私たちは、正確な情報どころかむしろ情報を隠蔽してきた 東電の対応にあきれかえっているが、実は他の電力企業も含め、昔から電力資本は(その関連・下請け企業も)あまねく口先でごまかせると私たちを侮ってきたことがわかる。

 ●泊原発の今

一方、泊原発差止の裁判闘争は、札幌地裁に「一・二号運転機差止」訴訟提訴(一九八 九年)、請求棄却(一九九九年)となった。三・一一後、「一・二号機運転差止、三号機運転終了請求」の訴訟が始まり、二〇一七年六月には第二一回口頭弁論を迎えた。その裁判にも影響を及ぼすであろう新たな動きが起こっている。
 
 昨年には、「行動する市民科学者の会・北海道」の方たちが「安全審査のやり直しを」 求めて記者会見している(二〇一六年五月一〇日・札幌・NHK 報道)。
 
報道によると以下のようである。会見で「泊原発の敷地の下に活断層がある可能性は否定できないとして、引き続き安全審査を行っている原子力規制委員会に審査のやり直しを求めていく考えを示しました。泊原発の安全審査は去年、大きな課題となっていた基準地震動の議論がほぼ決着して山場を越えましたが、市民グループは独自に泊原発の敷地の下にある断層の調査を行っているということです。調査の中で、泊原発の敷地の下にある断 層を活断層ではないと断定するには根拠が乏しいと主張しています。その上で、地質の年代を特定するにはさらに広い範囲にわたって調査を行うことや活断層ではないとした科学的な根拠を情報開示すべきだとし……市民グループは引き続き泊原発周辺の地質を調査し、原子力規制委員会に審査のやり直しを求めていく」としています。「行動する市民科 学者の会・北海道」の小野有五事務局長は「議論の前提となる根本的な数字が正しいのかどうか、再度、検証する必要があり、北電は広く情報開示を行うべきだ」と話しました。
 
学者たちの批判の影響かどうか明確ではないが、今年になって泊原発三号機の「原子炉設置変更許可申請」を審査していた規制委員会が「地震性隆起であることを否定するのは難しい」と判断をした(二〇一七年三月一三日)。しかしこれに対し、北海道電力はそのホームページで「残念である」というコメントをすぐに発表している。
 
『「積丹半島西岸の海岸地形の成り立ち」につきましては、当社は「波の浸食によるも のであり、地震性隆起ではなく、活断層は認められない」と説明し、二〇一五年五月に原 子力規制委員会より大筋で認めていただいた上で、同年八月に「基準津波」、一二月には 「基準地震動」についておおむねご了解をいただいたものと考えていました。その後、昨 年七月の現地調査を経て、「積丹半島西岸の海岸地形の成り立ち」が再度論点として挙げられました。原子力規制委員会から、当社評価の説明性を高めるため、文献レビューや現 地調査によりデータの拡充を図るよう指摘があり、当社はこれらの指摘に対し、科学的・ 技術的に可能な限りのデータを拡充し保守的に評価していくという姿勢のもと、真摯に丁寧な説明を重ねてまいりました。こうした審査の経緯を踏まえると、今回の原子力規制委 員会のご判断は誠に残念であると申し上げざるを得ません。泊発電所の一層の安全性向上 を最優先事項として取り組み、一日も早い再稼働を目指すという当社の考えには、いささかも変わりはありません。当社は、今回の原子力規制委員会のご判断の内容を十分に確認 させていただいた上で、今後の対応方針について早急に取りまとめ、引き続き、審査に真 摯に対応してまいります』(二〇一七年三月一三日)。
 
なお六月の株主総会後の記者会見で、北電社長は「活断層の存在を仮定した上で、安全対策を再検討し(原子力規制委員会の)審査会合の場で(結果を)早期に示したい」と話した(日本経済新聞・二〇一七年六月二八日)。

 あくまで再稼働を目指す姿勢は強固である。安全対策が可能であるのか? 東京電力は指摘されていた津波対策の必要性を認識していながら実施をしなかった。電力資本の経営陣 ・会社トップの姿勢は東電に限らず他の電力会社にも通底している。また規制委員会も根深い「確率に頼る安全性」の考え方で次々と審査合格を打ち出し再稼働を進めている。これまでも規模の小さい事故は頻発し、しかも偶然的僥倖で大事故に至らなかった例も多かった。そこへ起こった福島原発の過酷事故であった。福島事故への反省はどこにあるのか。 政府も電力会社も規制委員会も、福島は過去の事故として記憶の底にパックされ、何事も なかったかのような「再稼働の申請許可」「審査合格」を進めているように思える。

 今年(二〇一七年)の八月一九日には小野有五さんの案内する「泊周辺巡検」が行われ、私も参加することが出来た。門外漢の私でも、岩内平野の地形・地質を実際に見て回り、何カ所もの崖に見られる地層は、三三万年前の段丘堆積物の上に洞爺・ニセコなど火山の火砕流や火山灰、河からの砂の堆積物であることがわかった。泊原発の立地地点も北電の主張する一二〇万年前のものではないのだ。基準の数値である四〇万年前以後の断層なら活断層ということになり、泊原発は認められなくなる筈だ。

●泊原発運転前後の後志地域の「死亡率」の変化

このツアーに参加する中で衝撃の資料に出会った。原発を止めるために泊村に移り住んだSさんが、函館市役所前で行われた自転車隊の出発式で、配布したプリントである。それらをまとめた「泊原発とがん」(斉藤武一著 寿郎社ブックレット)も発行されたばかりだった。早速入手し読んで見た。
 これは福島原発事故以前のことであった。二冊の本に触発されて斉藤さんは調査を始めたのである。「放射線の衝撃ーーー低線量放射線の人間への影響」(アメリカ医学博士ドネル・W・ボードマン著、肥田舜太郎訳、一九九一年)と「死にいたる虚構ーーー国家に よる低線量放射線の隠蔽」(アメリカの統計学者ジェイ・M・グールドとベンジャミン・A・ゴルドマン著、肥田舜太郎と斉藤紀訳、一九九四年)から、内部被ばくの怖さを知ったという。これら二冊の本は、大阪高裁の「原爆症認定集団訴訟」で、証拠として取り上げられて、入市被ばくが認められ、国は上告せず、原告勝訴が確定した。国がはじめて「内部被ばく」の影響を認めたのである。特に後者の著作から、「原発と乳がん」の相関関係 を画するラインが一六〇キロ圏内か圏外かにあることで、日本地図上に原発所在地からの 一六〇キロ圏のラインを描くと、ほぼすべての陸地が覆われてしまった。その中で、北海道だけは、泊原発から一六〇キロ圏外の土地があることに、斉藤さんは気づく。稚内や北見、帯広や釧路など道北、道東は圏外なのだ。つまり圏内の地域と圏外の地域が含まれる自治体が北海道である。それで北海道の各市町村ごとに乳がん死について調べ始めた。
 
驚くべきことは、誰でもが調べられる方法があったことだ。各地域の保健所にある「北海道における主要死因の概要」を丁寧に調べた斉藤さんは、予想通りの結果、あるいは予想を超える結果を得ることが出来たのである(二〇〇九年)。
 
原発の立地と乳がん死の相関関係が明らかになった。その上で斉藤さんは北海道で一番がんで死亡する人が多い市町村は、泊原発のある泊村であることを突き止めたのである。「標準化死亡比」という統計学上の操作については割愛する。「北海道における主要死因の概要6」(一九九六~二〇〇五)に、「悪性新生物の死亡比」について、北海道全体の平均値は男性一〇四、女性一〇三に対し、泊村では、男性一八八(全道平均の一・八倍)、 女性一五一(全道平均の一・五倍)という驚くべき数字が出てきた。さらに斉藤さんはこの「悪性新生物の死亡比」は総合的指標にはなるものの、すべての癌や悪性腫瘍を含むた め、たとえば「乳がんゼロ」の地域があればその地域の特徴が弱まることになると気づき 新たな指標を思いつく。「八がん」と名付けた整理の仕方は、七つのがん(食道がん、胃がん、大腸がん、肝臓がん、胆嚢がん、肺がん、すい臓がん)それぞれの死亡比に「悪性新生物の死亡比」を足して八で割る方法である(女性のがんである「乳がん」「子宮がん」 を除いたもの)。
 「概要八」(二〇〇三年~二〇一二年)で「八がん」を見るともっとも高いのは泊村一六一、全道平均は一〇八、二番目に低い中川町は六一になっている。中川町は泊原発から北へ二〇〇キロ離れた道北の内陸の町で人口は一七〇〇人でほぼ泊村と同じである。ところが死亡比は二・六倍である。この一〇年で悪性新生物で死亡した人は、泊村一二〇人、中川町五八人。
 
次は泊村と岩内町(泊村の隣町、原発の対岸六キロに位置)を同じ「概要八」で比較すると、泊村が「悪性新生物」でも「八がん」でも一位(一五三、一六一)を占め、岩内町 がそれぞれ二位(一三五、一三六)を占める。全道平均はそれぞれ一〇六、一〇八である。
 次に斉藤さんは、泊原発の稼働前(「概要二」)と稼働後(「概要八」)について、泊村は運転前は二二位(一一八)、運転後一位(一五三)、岩内町は運転前六三位(一〇八)、運転後二位(一三五)になっている事実に注目する。
 
岩内町以外の泊村近郊の市町村では、海岸線に面している町が高かった。寿都町三位、 興部町二位(岩内と同位)。内陸部の共和町(四二位)、蘭越町(一三九位)は低い。 原発以外の他の要因として、内陸でがんが多い町は炭鉱のあった夕張市や赤平市である。 石炭には微量のウランが含まれ、ウランはラジウムに変わり、ラドンガスが出る。原発からもラドンガスが出る。呼吸によって肺がんやその他のがんを引き起こす。
 
また全道の一七九市町村を海岸に面した市町村と内陸の一〇一市町村を比較している(「概要八」から)。海岸部は一一四、内陸部は一〇三で一一ポイントの差がある。斉藤さんは、海水に含まれるウランなどの有害物質が蒸発してガスとなり沿岸部の住民が呼吸を通して吸い込む結果なのではないかと推測している。
 後志地区の風向きを分析すると、泊原発の風下へ、「西北西の風」と「南西の風」が多い事がわかり、その風向と死亡比の順位との相関関係があることもわかったと斉藤さんは書いている。しかし原発のある泊村、岩内町、寿都町、島牧村は風下には当たらない。しかし泊原発から南西に延びる海岸線にある。そこで海流との関係を斉藤さんは疑う。
 
泊原発は「加圧水型」の原子炉で、技術的なことの詳細は割愛するが、「沸騰水型」と違ってたくさんのホウ酸をを使用する結果、多量のトリチウムが出来るという。トリチウムは体内に取り込まれると内部被ばくを起こす。温排水として海に捨てられたトリチウムは、二五年間(一九八九年~二〇一三年)で五七〇兆ベクレルにのぼっている。それは海流とともに蒸発しつつ流れていったと考えられる。また空気中にも原発の煙突から排出されていたが、測定はされていない。斉藤さんは仮説としながら、海に捨てられたトリチウムが蒸発し沿岸の泊村、岩内町、寿都町に押し寄せた結果、「がんの多発」が起こっていると記している。
 福島第一原発の汚染水タンクに含まれるトリチウムは八三四兆ベクレルと言われている。さらに破壊された原子炉の中には三〇〇〇兆ベクレルあるとされている。このトリチウムを海に捨てようとしているが、蒸発したトリチウムガスが沿岸を襲い「がんの多発」 を起こさせる危険を、泊原発が警告している。
 斉藤さんはさらに乳がんの原因分析も調べているが、ここでは触れないことにする。
 保健所にある誰でも見られるデータから北海道各地の死亡比を調べた斉藤さんの調査に私は驚きを禁じ得なかった。これは通常運転をしてきた泊原発がその周辺に「がん」を多発させてきたことを証明したものと言える。このブックレットに載せてある地図によれば 日本のほとんどの自治体は原発から一六〇キロ圏内に入ってしまうことがわかる。その中で北海道は圏内に入らない地域も含む自治体であるからこそ、「死亡比」の違いを分析す ることが出来たのだ。

 ●被曝……原発労働者、周辺住民

  「再稼働阻止全国交流会全国」の参加者の中に、「原発で働いていた」方がいた。朝食後、個人的に話をうかがった。東京出身で郵政労働者だったが、定年退職後、原発に仕事を求めたという。普通にハローワークで探して、はじめは除染の仕事に就いたそうである。 その時は個室の部屋で、日給一七〇〇〇円もらえた。その後福島第一原発の作業に下請け企業から派遣されて働いた時は、賃金はピンハネされて一四〇〇〇円(危険手当などあったはずなのに)しかもらえなかった。宿舎も古アパートの「たこ部屋」に押し込められた。 約一年働いて総被曝線量は七・二ミリシーベルトだったという。くわしい動機は聞いていないが、定年退職後であれば、受給の時期はもっと後かもしれないが、いずれ年金を手に出来る人であると想像出来る。が、そういう人はごく少数ではないのか。私が帰京してから手に取った本を参照したい。「被ばく労働を考えるネットワーク」(二〇一一年十月に 結成)が二冊の本を出している。「原発事故と被曝労働」(さんいちブックレット二〇一 二年)と「除染労働」(さんいちブックレット二〇一四年)である。

 
福島原発事故以前も問題であった労働者の被曝は、事故後一層過酷な様相となっているだろうことは推測出来るし、加えて新たに除染に従事している労働者の被曝も相当量であ ることも当然であろう。もちろん子どもを含めて一般住民も被曝していて、甲状腺がんや他のがん、白血病などの多発など影響が憂慮される。が県当局者や厚労省などは「影響と は考えにくい」を繰り返している。私は法律についてほとんど知らなかった。「労働安全衛生法」に基づく「電離放射線障害防止規則」(電離則)というものが、福島事故以前から制定されている(一九七二年労働省)。事故後の改正が二〇一二年にあった(厚生労働省)。また新たな事態に対応するため、「東日本大震災により生じた放射性物質により汚染された土壌等を除染するための 業務等に係る電離放射線障害防止規則」(「除染電離則」という)が制定されている(二 〇一一年厚生労働省)。
 前者の「電離則」では、「五年間で一〇〇ミリシーベルトを超えず、かつ一年間で五〇ミリシーベルトを超えない」(第四条第一項)とあるが、緊急時にはこの限度を超えることが出来、「一年間で一〇〇ミリシーベルト」(第七条第二項)となっている。ところが 福島事故の三日後、一時的に二五〇ミリシーベルトに引き上げる変更が行われた。この数字が適用されるのは福島第一原発の敷地内に限って、緊急、やむを得ない場合とされて(「緊急作業従事者」)いるが、既にこの従事者に当たる人数は二万人を超えているという(二 〇一二年一〇月発行の「原発事故と被曝労働」による)。さらに年を経て該当労働者はも っと増えているだろう。つまり法的に被曝規制の限度が五〇ミリ、一〇〇ミリ、二五〇ミ リというトリプル・スタンダードになったままである。
 「除染電離則」では、先ず「除染等業務」が「土壌等の除染等の業務」・「廃棄物収集等 業務」・「特定汚染土壌等取り扱い業務」と定義され、さらに復旧の進展に伴い、除染等 業務以外の業務を行う労働者も対象とすると決められている。外部被曝については、作業 場所の平均空間線量が二・五マイクロシーベルトを超える場所での作業の外部被曝を個人 線量計で測定するとされている。週四〇時間、五二週で換算すると五ミリシーベルトに相当し、「電離則」で定められている個人線量測定が義務づけられている管理区分に該当するからである。内部被曝については、三ヶ月に一度のホールボディ検査や毎日のスクリー ニング検査が行われる等の規定があるが、現実はマスクすらせず除染作業が行われている場合もある。三ヶ月ごとに渡されるべき線量記録も放射線管理手帳の発行も行われていないケースが多々ある。
 福島原発で働く労働者への被曝線量管理がいい加減であり、さらに除染に従事する労働者についてはそれを上回るいい加減さである。たとえば業者が準備すべき装備もなく、労働者は作業着や靴、軍手を自分で用意し、汚染土壌が付着した作業着のまま宿舎に帰ったり、食事や休憩をする場所も確保されずに作業現場近くにいるしかないケースも多いのである。こんな事例もある。マスクも支給されず、業者に言ったが聞き入れないので、最終的に環境省に訴えた労働者は、その後退職を強要されたという。
 まして地域住民の被曝は深刻である。立ち入り禁止ではなく、しかし除染が必要とされ た所では、掘り返した土壌や雑草を入れたフレコンバッグが校庭の片隅や住宅の隅に置かれたり、仮置き場に積まれたりしている。どれほどの空間線量があったのか定かではない。 さらに除染されても雨風などによってすぐに戻ってしまうこともしばしばだとか。二〇一 四、二〇一五年の夏に福島市でのシンポジウムに参加したとき、私の持っているあまり線量の高く出ない機種による計測でも、福島市内で道路脇の植え込みなどは驚くほど高く出るという経験をしている。にもかかわらずマスクをしている人はほとんどいなかった。
 福島県民の健康調査はどうなっているのか。東京新聞の記事がある(二〇一七年一月一七日)。甲状腺検査は、震災時に一八歳以下だったすべての県民を対象とした先行検査と、 事故直後に生まれた県民を加えた二巡目の本格検査、さらに二〇一六年四月に三巡目が始まったが、三巡目は希望者だけに縮小された。
  「不要だったかも知れない甲状腺がんの診断、治療のリスク」が指摘されているのだ(二 〇一五年三月「識者らが検査のあり方を検証する評価部会」の中間まとめの文言)。検査を受ける不安と受けない不安とどちらが大きいのか。通常の医療では間違いなく後者が重 要視される。中には「がんを公表すると差別を受けるよ」と医師に脅された患者もいた。 背景には「がん患者の存在が復興の妨げになる」という考え方がありそうだ。検査縮小も同じ隠蔽体質の延長線上にあるとしたらこれほど罪深い話はないと記事は結んでいる。
 最近の結果では、甲状腺がんもしくは悪性腫瘍と診断された人が一八三人にのぼっている(第二五回県民健康調査検討委員会 二〇一六年一二月、さらに二〇一七年二月には一八四人、二〇一七年六月には一九〇名となっている)。
 
また福島県立医科大学付属病院の記録によれば、事故前の二〇一〇年に比し二〇一二年 の集計で、「白内障」は二二七%、脳出血三〇〇%、小腸がん四〇〇%、大腸がん二九七%、前立腺がん三〇〇%に増えている(落合栄一郎さん「福島第一原子力発電所事故によ る健康被害」)。
 福島原発事故による被曝の被害は甚大なものである。福島県だけにとどまらない。政府、東北関東の各都県、市町村は、被曝の被害状況を調査し続け、対策を講じなければならない筈であるが、実際はどうか。
 現在の放射能規制基準値は事故前のそれに比べて驚くほど高い数値になっている。上水一〇ベクレル(以前と比較して二五万倍)、米一〇〇ベクレル(八三〇〇倍)、牛乳五〇ベクレル(四二〇〇倍)、根菜一〇〇ベクレル(一二五〇〇倍)、葉菜一〇〇ベクレル(六三〇〇倍)、魚類一一〇〇ベクレル(一一〇〇倍)である(日本分析センター平成二〇年 度事業報告書より)。従ってほとんどの食品は基準値を「下回り」問題ないとされている。

 さらに、原発事故後に出来た「放射性物質汚染対処特別措置法」(二〇一四年環境省) によれば、八〇〇〇ベクレル以上の高濃度指定廃棄物は国が処理し、それ以下は一般ごみと同様に、市町村が焼却などで処理すると定めている。宮城県では約四万トンの汚染廃棄物の内、八〇〇〇ベクレル以下の廃棄物はその九割にあたる三六〇〇〇トンあり、その多くは農家の軒先などに野積みされたまま、焼却を決めたのは仙台市と利府町のみと報道さ れている(東京新聞二〇一七年二月二六日)。村井県知事は一般ごみと混ぜる「混焼」を提案、しかし焼却炉付近の空間線量の上昇や土壌の汚染を心配する市民団体等の反対があり見送りとなっている。同紙には原発問題にくわしい山本行雄弁護士の指摘がある。「八〇〇〇ベクレルの線引きも一方的であり、焼却のように汚染廃棄物を希釈、拡散する政策ではなく、管理集約して封じ込める政策にすべき。そのためには原発事故を原子力公害と 位置づけ公害規制法の整備を行うべきである」。
 そう言えば東北大震災と福島原発事故後の膨大な廃棄物(放射性汚染物質を含む)を東 京や大阪をはじめ全国に運んで焼却処分したことがあった。含まれていた放射性物質は全 国に拡散されたのである。その上あらためて八〇〇〇ベクレル以下の廃棄物が焼却され、 その焼却灰を建設資材に活かしていくと言われている。いっぺんに放射能を浴びるわけではないが、広く拡散された放射能を呼吸を通じて、また田畑に降り積もる微少な汚染物質に接触しながら生育する野菜、畜産物等を摂取し続けることになるのであろう。

 
チェルノブイリの経験も活かされず、住宅支援の打ち切りなど「被曝者」を切り捨てる 政策が推進され、年間被曝「二〇ミリシーベルト」基準が押しつけられて、汚染地域への 帰還が強行されている。規制委員会は「原発再稼働促進委員会」と化し、政府は原発の輸 出に精を出す。

 (終わりに)

  世界規模で放射性物質による汚染を見れば、福島より先行している地域をあげるに事欠かない。被爆地広島・長崎、原子爆弾の製造に関わったアメリカのハンフォード地域をはじめ、イギリスのセラフィールド、フランスのラ・アーグでの再処理工場、全世界で二〇〇〇回にものぼる核実験(アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国・インド・パキス タン・北朝鮮・南アフリカ・イスラエルによる)が行われてきた。アメリカ国内のネバダ をはじめ、南太平洋の広大な地域、中国(ロブノール)やソ連(セミパラチンスクなど)、 どこで行われたのかわからない場所もある。その中で日本の第五福竜丸他漁船の乗員の被曝も忘れることは出来ない。操業していたのは第五福竜丸だけでなく他にも被害を受けた漁船が多くあったことも最近になって言われるようになった。チェルノブイリ原発事故における広大な地域の汚染もそうだ。
 
しかし重要なことは、原子力発電というものは、もし事故がなくても、ウラン採掘時点から労働者を被曝させ、原発周辺の空気や海水を汚染させ、原発で働く労働者はもちろん住民を被曝させ、癌や白血病などを増加させるということだ。まして重大事故が起きたときの被害の大きさ、深刻さは言葉にあらわせない。二〇一一年三月の福島原発事故がそれを物語っている。福島原発事故は大震災によって引き起こされた初の大事故であり、原子炉三機がほぼ同時にメルトダウン・メルトスルーしたのだ。その燃料デブリがいかような状態になっているのかさえ、今も知ることが出来ていない。
 
 そんな中、驚くべきニュースが入ってきた。茨城県大洗にある「日本原子力研究開発機構」の核燃料研究施設で、「袋の中から放射性物質の粉末が漏れ出し作業員五名の手袋や 服などが汚染された事故で、このうち一人の肺から最大二万二〇〇〇ベクレルの放射性物 質が計測された」(NHK ニュース、二〇一七年六月八日)。しかもその放射性物質はプルトニウムだという。ところがその後、五名が運ばれた「放医研」(国立研究開発法人放射線医学総合研究所)の発表では、肺への内部被曝「プルトニウム説」は否定されている。 皮膚に残っていたプルトニウムが誤って検出されたのだという(さらに続報によれば、被曝作業者の尿からプルトニウムが検出された)。事実が正確に把握できていないのか、発表されていないのか。
 放射性物質が貯蔵されていた容器は二重の「ビニールバッグ」に包まれていたと報道されている。一九九九年に起きた東海村にある核燃料加工会社での臨海事故の時は「バケツ」であった。この高度の原子力技術である核燃料の扱いが、私たちのまわりに日常的に存在するビニール袋やバケツに委ねられていることに驚かされる。それにしても内部被曝した五人の方たちの健康と命が心配である。この一例をもってしても核燃料を使用する安全性の保証など望むべくもないことが明かであろう。

 最近のニュースで韓国の「脱原発」宣言を知った(二〇一七年六月二〇日・東京新聞)。文大統領は「福島第一原発の事故は、原発が安全、安価ではなく環境にも良くないことを示した。……脱原発は逆らうことの出来ない時代の流れだ」と強調したという。既にドイツ、ベルギー、スイス、台湾、ベトナムが脱原発へ舵を切っている。福島事故を最も学ぶべき日本が原発再稼働一直線になっているのは何故なのか。

  「原発プロパガンダ」(岩波新書・本間 龍著)によれば、「国策として国が主導し、政官学と電力業界を中心とする経済界が展開した原発推進PR活動は、実施された期間と費やされた巨額の予算から考えて、まさしく世界でも類がないほどの国民扇動プロパガンダだった。……権力側の主張を無理なく効果的に国民に伝える……その役割を担ったのが、戦後、日本人の生活の隅々まで浸透した広告であった。……最も効果的な展開計画を立案し実行したのが、電通を頂点とする大手広告代理店であった。……原発は豊かな社会を作り、故人の幸せに貢献するモノだという幻想にまみれた広告が繰り返し繰り返 し、手を替え品を替え展開された。……一九七〇年代から三・一一までの四〇年間に使った普及開発関係費(広告費)は、実に二兆四〇〇〇億円に上っていた(朝日新聞社調べ)。……さらに……全国の電力一〇社による会費で運営され、任意団体のため活動内容と予算が公表されていない電気事業連合(電事連)は、電力会社の別働隊として、……地域や県に関係なく広告を出稿した。さらに経産省・資源エネルギー庁、環境省などの政府広報予算等……略……これら大量の広告は、表向きは国民に原発を知らしめるという目的の他に、その巨額の広告費を受け取るメディアへの、賄賂とも言える性格を持ってい た。あまりに巨額ゆえに、一度でもそれをうけとってしまうと、経営計画に組み込まれ、 断れなくなってしまう」のだ。

 今こそ、私たちは究極の問いを発しなければならない。「命が大事か、金が大事か」。 しかし恐ろしいことに、命の価値は平等ではない。原発で働く労働者や除染に従事する労 働者の被曝危険度は、あきらかにその他の人たちに比べて高い。たとえ廃炉が決まっても、 長い年月の被曝労働を担う人たちが必要であり、まして再稼働や新設が進められれば、想 像するだけで恐ろしい被爆による犠牲が広がっていくのである。

  九州川内原発一、二号機、四国伊方原発三号機に続いて、福井県高浜原発四、三号機が 再稼働された。私は二〇一七年五月七日に原発現地ゲート前での反対行動に参加、翌日の高浜町内を練り歩くデモにも参加した。そこで発言される一人の僧侶の言葉に心を打たれた。その人の名は中嶋哲演さんである。真言宗明通寺の住職であり、ハンストなど含め反原発運動の先頭に立っている。彼の話は「電力を使う側の消費地元、電力を作る原発が置かれている立地地元が連帯して、原発を止めることが出来なければ、福島のような被害地元を作ってしまうであろう」ということであった。自分自身のことで言えば、私は「消費地元」の立場であり、また多くの都民もそうである。電力自由化後、どれだけの消費者が 九大電力会社との契約を変更したのだろうか。せめての意思表示でしかないとはいえ、東電の黒字決算というニュースが出るようでは、私たちの怒りは既に鎮まってしまったのか。 それは「消費地元」の無関心とエゴが続いているからだ。「立地地元」はかつてのように 原発賛成一辺倒ではなくなっている。雇用や自治体への原発マネーという利益を受けない周辺の「立地地元」は危険ばかり押しつけられ、安全な避難経路の策定は困難を極めている。また直接の「立地地元」であっても、住民の中には、福島事故の惨状と継続的に長く 続く放射性物質の影響と完全な処理方法の欠如を知って、命と暮らしを守るためには原発 を動かしてはならないと感じ始めている人も増えている。高浜の町の路地から買い物に出てきた女性がチラシを受け取り、あるいはデモ隊に手を振っていくのだ。中嶋哲演さんの 掲げるピンクの幟にはこうあった。「欣求浄土南無阿弥陀仏 無核・無兵」。この「無 核・無兵」という言葉に、私たちの求めるべき世界が凝縮して表されていると私は思った。

  ここに東京世田谷区長を務める保坂展人さんを後援する団体の発行した「保坂のぶとの活動レポート」という冊子(№ 一一〇号)がある。六年前「脱原発区長」として就任、 もっとも力を入れてエネルギー政策を進めてきた。具体的な成果を見てみよう。「地域間連携」として、世田谷区と交流関係の深い自治体が取り組んだ太陽光、水力、風力、バイ オマス等の自然エネルギーを電力自由化を利用して、世田谷区内で購入するという方法をとった。五年前からそのための勉強会を一〇を越える自治体の市町村長と開催、その中に長野県の参加を得て、二〇一七年四月、世田谷区の四一区立保育園に長野県営水力発電所の電気供給が始まった。新電力の丸紅新電力・みんな電力が長野県から仕入れた電力を世田谷区で購入する仕組みが出来た。この方法は全国どの自治体間でも可能であると保坂さんは言っている。古いシステムを壊すためには新しいシステムを構築して旧体制からの移 行を迫る必要があるのだ。

日本政府は今や何でも力で押し切る事が出来る「独裁国家」になってしまっている。他の国が福島の事故に学んで脱原発に舵を切っている時に、原発を再稼働させ外国へ原発を輸出しようとしている。明らかに世界の流れと逆行するこの旧体制は、核燃サイクルをあきらめず、「核兵器」を持つことを夢見てプルトニウムをため込もうとしている。「世界の真ん中で輝く国」を目指すこの政権は民意を抑え込んで戦争の出来る国家への道を進も うとしている。

 今こそ、何にも屈することのない闘いに立ち上がる時なのだ。まさに中嶋さんの掲げる 「無核・無兵」が私たちの目指すところである。「国民の命と暮らしを守る」政策からもっとも遠いこの非民主的な政権を打倒するには、地方から各自治体から立ち上がることし かないのではないか。市民・住民のための政策(それはエネルギー政策だけではない、これからも起こりうる原発事故に際していかに被曝を最小にして避難できる方法を徹底準備 することも含め)を実現する地方自治の政治を作り上げなければならない。住民の命がかかっているのだ。世田谷区の取り組みから「立地地元」と「消費地元」の連帯が可能となる道の一つが示されている。まだまだやるべきことが沢山あり、それぞれのおかれた自治体の持つ条件に合わせた多様なかつ個別的な政策立案が必要であろう。中央政府にまかせていてはいけない時代になったとも言える。それはグローバル資本主義の行き詰まりから も明らかだ。地方からの突き上げが道を切り開くとも言えるだろう。
 そして小さな事ではあるが、一人一人がまずやれることは、北海道で小野有五さんが力説していたことだが、東電や北電との電力契約を新電力の会社に切り替えることが第一歩であろう。それは原発由来の電力を買わないということであり、インドの独立運動において、ガンジーの唱えた非暴力不服従運動の大きな柱でもあったボイコットであることを想起したい。「不買運動」が起こらない私たちの国では、怒りや憤りはどこへいったのだろ うか。

              二〇一七年八月に 沢村ふう子