そこから見えてきたこと (二〇一六年) |
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(はじめに) 二〇一六年一〇月初旬、青森・下北半島から北海道泊原発へ、反原発運動のキャンペーンに参加した。帰ってから、配布された資料を見たり、新聞記事や参考書籍その他を整理 してみたいと思い、書き始めてみたが、話が広がるばかりで、いたずらに時が過ぎた。福 島原発事故から六年も経ってしまった。 福島第一原子力発電所の事故の記憶は時折よみがえる。何が起こるかわからない不安と恐ろしさ。東京の人間でもマスクをしたり外出を控えたり「昆布」を大急ぎで買い求めたあの三月。テレビに釘付けで放水作業を見つめたあの三月。 現在もなお生活の基盤を奪われたままの被害者にとって、記憶はそのまま継続し現在までつながっている事実そのものである。記憶という言葉に事故の事実を包み込み過去の出 来事として忘れ去ろうとするのは、受益者たる都会に住む私たちの無神経さ以外の何ものでもない。足を踏みつけている人間は、記憶をたどってみなければ、もう忘却の世界に福島を追いやっているのだ。そうでなければ、事故の原因究明も責任も明確にされぬまま、「再稼働」へ向けて動いていいわけがない。たった六年で「喉元過ぎれば」の状態に陥っているのだ。「想定外」のことが起こったのに、また「想定」を作り、「新基準」に合格 したら「大丈夫だろう」と考える安全神話がよみがえっている。 あれから六年経っても原発事故被害者の救済はいまだ不十分である。それどころか住宅支援が打ち切られる(二〇一七年三月)など、「帰還強要政策」が推進されている。必ずしも線量の低くない地域へ住民を帰還させる動きが急である。「二十ミリ」を受忍させるいかなる権限を行政は持っているのか。子どもたちの甲状腺癌の多発、さらなる被曝による健康被害が予測される中、「健康調査縮小」のニュースが伝えられている。今、福島県 民をはじめ被曝地と考えられる他地域住民も含めての健康調査が求められているのに、事態は逆方向に動いている。食の安全は確保されているのか。米の全量検査が行われているというが、ベルトコンベアーで百秒はかるだけだそうである。 メルトダウンした福島第一原発の事故処理について正確な情報を私たちは聞けているの だろうか。汚染水の拡散は止められたのか。 鳴り物入りで建設された「凍土壁」も目立った効果を上げていない。海や大気への放射性物質排出は止まったのか。 また膨大な放射性廃棄物の処理も困難を極めている。福島ではあちこちに野積みされた黒いフレコンバッグの山が景観を壊すだけでなく近隣住民の健康を害している。さらに八千ベクレル以下のがれきを処理して建設用の材料にするという。放射性物質の拡散である。 政府や電力会社、そこに群がる官僚・学者たちの「原子力ムラ」は、何があろうと福島の「復興」、各地の原発「再稼働」まっしぐらの政策を推進している。 ●ツアーの概 反原発運動の拠点の一つである「たんぽぽ舎」の人から誘われて、「十月八日・さよなら原発北海道集会」(札幌大通公園)に向けての自転車リレーデモ(十月三日から八日)の伴走車の役割を夫と二人で引き受けた。 出発一日目は、青森下北の六カ所再処理工場から、東通原発を抜け、むつ湾を展望し、大間原発建設現場へ(下北では自転車ライダーは1人)。二日目はそこからフェリーで函館に渡り、長万部まで百キロメートルを走破(函館からライダーは七人)。三日目から五日目までの三日間は、自転車リレー隊とともに走行しながら、泊原発周辺の一四市町村自治体への要請行動がメインになった。 その間ライダーの数は出入りあり、また思わぬパンクや故障、また厳しい風雨もあって、伴走車に自転車を積んで通った地域もあった。ワゴンの伴走車には大きく「泊原発再稼働反対・大間原発建設反対」の看板が掲げられ、後続の車二台とレンタカーに乗っている私たちの車の両サイドにもステッカーを貼り付けているので、パトカーに狙われているのだ。 事実函館から地元の放送局の車が最後尾を走っていて、スピード違反で捕まった。 八日には札幌大通り公園での集会が開かれ、二五〇〇人参加、デモの後、倶知安へバス で移動、その夜と翌日の午前中は、「再稼働阻止全国ネットワーク・全国相談会」が行わ れた。九日午後は「泊原発再稼働阻止現地集会・デモ」が激しい風雨をついて、風船飛ばしも含め、予定通りに進行、デモの頃には雨もやんだが、シュプレヒコールが響いても、 岩内の町は静かで人通りは少なかった。十日には「現地見学会」(行動する市民科学者の会・北海道)があったが、私たちはそれには参加せず帰京した。 ●下北半島を縦断 過疎の地であると知識では知っていても、人通りも人家もほとんどない風景を車のウインドウ越しに見て、東北最果ての地なのだとあらためて感じた。信州を旅する時には、手入れの行き届いた畑や果樹、のんびりと草を食む牛のいる牧場も見えて、直接人間が視界になくても、背後にその営みを想像することが出来る。しかしこの下北半島を北上していくと広大な原野ばかりが広がっていてより厳しい自然条件を感ずる。 青森に迎えてくれたのは「大間原発反対現地集会実行委員会」のNさんである。大きな看板を掲げたワゴン車に乗せてもらって、スタート地点である六ヶ所村の「日本原燃再 処理事業所」ゲート前に着いた。そこに弘前からやってきた自転車のライダーTさんが 到着、福岡から車でかけつけた青年Aさん、現地の運動をしているSさん、Kさんが集まった。 ゲート方面の写真を撮るとそこにいた警備員が「写真を撮るな」と言う。すぐにゲートが閉められた。かまわず何枚か撮ったが、その間三人のうちの一人が電話か何かで連絡している様子だった。私たちはそこで簡単な集会をやって出発した(一〇時一〇分)。 尾駮(おぶち)を抜けて東通原発を目指し北上する。進行方向右側の広大な砂丘(鳥取砂丘より大きい)には米軍と自衛隊の射爆場があるとNさんが説明してくれる。車は反対運動の強かった泊地区に入り、一軒の家の前に止まった。古びた看板には「核燃から漁場を守る闘い」とある。社民党の種市登さんの家だった。Nさんが声をかけると種市さんが、積年の厳しい闘争を表すような日焼けした顔で家から出てきてくれた。 東通村に到着。二〇〇五年に運転開始した東北電力一号機は三・一一の後の定期点検で止まったまま。東北電力の二号機、および東京電力の一、二号機は計画中ないし建設中。 この東通に二つの電力会社で一〇基ずつ二〇基の原発を作る予定だったと聞いて呆然とする。原発 PR館は月曜で休館だった。立派な円形の建物があたりを睥睨している。村の中心部には役場・消防署、警察・学校など諸施設がすべて集中して建てられている。原発マ ネーの「おかげ」である。周囲の景観とちぐはぐなモダンなデザインの建物も目についた。 あちこちに散在していた小学校・中学校・高校を集中させて、スクールバスで通わせているという。この地では「反対」は漁民の一部のみだったと聞く。巨額の補償金を受けて、漁協は一九九二年から九五年にかけて漁業補償協定書を締結した。 自転車待ちをするうち、大ぶりの雨が降ってきた。 次に向かったのは「中間貯蔵施設」のあるむつ市である。むつ市のホームページによれば、二〇〇八年にむつ市・青森県・東京電力・日本原子力発電の四者で「使用済燃料中間貯蔵施設に関する協定」が締結され、それに基づいて「リサイクル燃料貯蔵株式会社」(RFS) が設置されたという。東京電力(八〇%)と RFS(二〇%)の共同出資となっている。 貯蔵建屋は二〇一〇年着工し現在完成しているが規制委員会の審査待ちとなっているそうだ。 本格的な雷雨の中、放射線漏れを起こし廃船となった「原子力船むつ」が、今、「科学技術館」として係留されている港を見渡せる筈の丘へ行った。かつての反対運動の「団結小屋」がそのまま残されていてそこから港が一望出来るはずだったが、風雨はげしく傘も 役立たぬ中、視界はぼやけて何も見えなかった。 この日最後の予定地、大間原発に着いたのは十五時一〇分、相変わらず雨は降り続いていた。ほの暗い薄闇に青い屋根のお椀を伏せたような建屋が見えた。建設中の大間原発にはまだ原子炉は装荷されていないそうだ。N さんによれば「送電線は完成している」とのこと。工事現場への入り口ゲート前では警備員三名がこちらを警戒している。宿に着いてからまた出かけて大間原発の全容が見える高台まで行った。反対運動の行われる場所や「あ さこはうす」で知られる場所の見当もNさんから聞く。 炉心建設予定地の地権者が買収に応ぜず原子炉設置許可申請の変更を経て、二〇〇八年着工に至ったが、二〇一〇年には反対する市民グループが函館地裁に提訴、さらに二〇一四年には函館市が東京地裁に提訴している。電源開発(Jパワー)は、運転開始予定とし ていた二〇二二年をさらに二〇二四年と発表した(二〇一六・九)。 大間原発は一三八万キロワット以上の発電能力を予定し、フルモックス燃料を装荷する 新たな原発となる予定だ。 ●函館から長万部、その後泊原発周辺自治体への要請行動 大間港から函館港まで一六キロだそうである。フェリーは時間通りに大間を出港した。 甲板に出てみると強風にあおられ、手すりにつかまっていないと吹き飛ばされそうだった。ほとんどの人が船室に下り、すぐに横になる人、隣り合う人と朝食の弁当を食べながらお しゃべりする人などさまざまな時間を過ごしている。そのうち函館港到着のアナウンスが聞こえた。一時間半はすぐであった。 私と連れ合いは予約していたレンタカー営業店に行って車を借りて、函館市役所に向か った。市役所前の広場には、色とりどりの旗が並び、自転車とともにライダーの服の赤や黄色、緑など鮮やかであった。車も数台駐車していた。ここからツアーに参加するのは自転車七台、車四台である。 出発前の記者会見、挨拶が続く。中でも「後志・原発とエネルギーを考える会」のSさんから泊原発周辺住民の死亡率が他の地域に比し高くなっているというデータが配られた。後で触れるが、「通常運転でも大変な放射能汚染」と題されたチラシを読む。 函館から長万部までひたすら自転車隊は走る。道の駅、コンビニ、スーパーと昼食やトイレ休憩をはさみながら、午後四時半に民宿「シャマンの里」に着く。ここのマスターは 反原発の運動家だそうで、格安で泊めていただいたばかりかカンパまで頂戴する。夕食時は地元からも反原発の活動家が参加し、にぎやかに活発な議論が交わされた交流会となった。 翌日からは自転車ツアーをしながら、泊原発周辺自治体への要請がメインになった。黒松内町、寿都町、蘭越町、ニセコ町(以上十月五日)、倶知安町、共和町、岩内町、泊村、神恵内村(十月六日)、積丹町、古平町、余市町、仁木町、小樽市(十月七日)の十四市町村である。このうち泊原発立地四町村は泊村、共和町、神恵内町、岩内町であり、これ らの町村は泊村「賛成」他の三町は「どちらとも言えない」と意思表示されている(北海 道新聞二〇一六年五月三日版)。他の一〇市町の内、明確に「反対」を意思表示しているのは、蘭越町、仁木町、積丹町、小樽市の四市町である(同)。 要請書概略は次のようである。泊原発再稼働阻止実行委員会のものを例示したい。宛先 は各自治体首長に向けてのものである。彼らに、内閣及び原子力規制庁など国の関係機関、 北海道知事、北海道電力に要請することを求める内容になっている。具体的に四点あげている。 (一)三十キロ圏内自治体の避難計画には実効性がなく、住民の安全を確保できない中での再稼働はしないこと。 (二)四月(一六年)から北海道電力が行った「新規制基準と泊発電所の安全対策」説明会では不十分であり、泊原子力発電所三号機の再稼働前に避難先自治体も含めた八十キロ圏内自治体へ丁寧な公開住民説明会を開くこと。 (三)泊原発三号機再稼働前に、避難先自治体を含めた八十キロ圏内自治体の再稼働の承認を得ること。 (四)一~三が行われないままで泊原発三号機の再稼働はしないこと。 それぞれの自治体では、庁舎の中の応接室ないしは会議室、あるいは町長室等で要請団を迎え入れてくれた。三十分の約束時間の中で、前半に要請文を手交し要請の主旨をさらに追加補強する発言、及び地元からの参加者から発言を行い、最後に自治体側の考えを表明してもらった。 十月五日、三つ目の蘭越町では町長が対応、お茶の接待もあった。「原発再稼働反対」であり、「北電は説明責任を果たしていない。十六町村と安全確認協定を締結したが、立地町村とはやれなかった。その中に風評被害について補償するという文言をいれることが できた」「泊を動かせば電気料金が安くなるという言い方は人質を取っていることと同じ。火力を動かせばいい」「命と金とどっちが大事という問題だ」と力強い話があった。周辺自治体の反対運動の中心的役割を担っている町長である。安全確認協定は北海道・周辺自治体十六町村と北海道電力の間で結ばれた(二〇一三年)。 続くニセコ町では副町長が対応した。地元の発言は「北電の住民説明会で賛成意見は皆無、実効性ある避難計画なくして再稼働は許されないと思う。被曝ゼロの避難計画を策定しようとしたら、国の基準内に納めよと圧力がかかった」だった。他にもニセコには外国人が多いことから、避難連絡の困難さ等の指摘もなされた。副町長からは「役場が原発から三十キロ、避難計画を一年以上待ってもらって、国基準に一つプラスした。住民に報告し、泊の視察や議員との意見交換を始めた。住民とも意見交換していきたい」と回答があった。 次の日の倶知安町では地元の女性が「事故があったら子どもに薬を飲まさなければならないような発電方法はおかしいのでは。避難したとして一週間で帰れるのか」と発言。そのヨーソ剤の配布も進んではいないのが実態であるという。 町側のコメントは「再稼働には反対で最終的には廃炉にしてほしい。しかし代替エネル ギーの確保が難しい」。 岩内町での面会場所の窓から泊から泊一号機から三号機までよく見えた。こんなに近いと実感。 町側からは「国の審査にしっかり通ることが第一。補償は事業者がやっているし、国も補助している」と発言。福島の事故以前と全く変わらないことに驚く。 泊村の課長は「原発が出来た当時のことを知らない職員が多い。当時の国策であって誘致したものではない。札幌などいろいろ問い合わせがあるが、安心安全についてはよくわからない。福島事故のことを聞くと大変だなとは思っている。原発は村興しにはなっている。北電には東電のようなデータ改ざんはするなと言っている。地形にもよるがこの辺は 地震がないというか揺れない地域と思っている。癌の多発については、ズリ山の影響は知っているが」と述べた。この課長は自治労出身だそうである。 十月七日、朝一番の積丹町要請では、町長が対応、お茶をふるまってくれた。ここでは 町議会も反対を表明している。町長室の壁面いっぱいに地図が貼られていた。泊原発から五キロ、十キロ、二十キロ、三十キロ圏の同心円が入った地図である。要請者の側から「原因も責任もはっきりしないままの再稼働はおかしい。川内では自民議員への乗車拒否が起こったり、伊方では五十パーセント以上反対など最近の状況は変化してきている」に対して町長は「三・一一以後、自治体首長の集会で議論、蘭越町の町長が苦労されて、安全確認協定を結んだ。三十キロ圏に入る、入らないなどいろいろあるが、区切れる問題ではない。また電気料金の値上げなど違う次元の問題である。三号機の温排水反対の決議を議会で出した」などくわしく語った。 古平町も町長が対応、「将来的には全廃を願っているが出来ることからやっていきたい。 今回の行動は大変ご苦労様です」とねぎらってくれた。しかし「平成二十六年」の不況の折には水産九業者のうち、六業者が倒産、それに伴い多くの失業者が出た。危険の認識を 持ちながら、十分点検して国の基準に合えば再稼働やむなしと考える」と続いた。 余市町の町長は「福島の検証は不十分、再稼働にあたっては安全の確保等慎重な対応が必要、福島の教訓を活かしていきたい。漁業の漁獲高は減っていて農業より厳しいし、ニッカウヰスキーも本社は東京へということで縮小している。今、ワインで意欲のある業者が入ってきているのでワイナリーの誘致を核に据えていきたい。」 ここで昼食をとった。ニッカ工場の付帯設備としてレストランや土産物販売店があり、大型バスが何台も観光客を運んできて賑わっていた。 午後は仁木町と小樽市にまわることになっていた。この二つの市町は「反対」を表明し ている。 仁木町では副町長の対応であった。「廃棄物処理の目途なくして再稼働なし。西風すぐそばという認識を持っている。要望書等国の方に出したい。今後、道外からワイナリーを経営したいという希望が来ており、六~七カ所増える見込みである。北電に対して言うべきことは言わなくてはいけないと思う。皆さんと連携しながらやっていきたい」という元気の出る発言をいただいた。この町の庁舎一階にはショーウインドウがあり町の産物が展 示されていた。その中に「ゼオライト」というものがあった。有数の産地なのだそうである。セシウム除去の時に聞いたことがあったのだが、それ以外にも用途があるのだとか。 その説明も気さくに副町長がしてくれ、駐車場の方まで出てきて自転車や車を見おくってくれた。その友好的な対応に驚くやら嬉しいやらであった。 最後の小樽市への要請に、私たちはレンタカー返却のため参加できなかった。後日、原発再稼働反対を公約にした小樽の森井市長が「泊原発一、二、三号機とも廃炉にしてほしい」という要望書を北電に提出したいと語ったそうである(共同通信、二〇一六年一一月 四日)。その後の記者会見でも「事故は起こりうるもの、北海道電力は泊原発に頼らない経営にシフトすべき」「小樽市は泊原発から三五キロであるが、事故が起きれば小樽市も 少なからず影響を受ける」(二〇一七年一月四日)と語っている。 ● 「さよなら原発北海道集会」「泊原発再稼働阻止地集会」への参加 札幌の「さよなら原発北海道集会」(十月八日)は大通り公園で開催、二五〇〇人の参加だった。例年より少ないということだった。しかしビラを配っていて受け取ってくれる人は意外に多く、東京都心で感じる冷たさはなかった。 そこから倶知安へ移動、「再稼働阻止全国交流会」の後、現地集会(十月九日)へ参加 した。岩内港そばの広場に吹き荒れる強風と雨粒の中、赤や黄色、緑など旗があおられて、 参加者は雨合羽や長靴で装うも傘は全く役に立たなかった。にもかかわらず、鎌田慧さんをはじめ力強いスピーチが続き、寒さにふるえながら気持ちは元気になった。岩内市内にデモの隊列が進んでいく。人の通りは少なかったが、シュプレヒコールは途切れることなく最後まで続いた。その頃には雨も上がった。 ●翻弄された下北半島 このツアーから帰って、「最悪の核施設 六カ所再処理工場」(小出裕章・渡辺満久・ 明石昇二郎)(集英社新書 二〇一二)と「六ヶ所村の記録 核燃料サイクル基地の素顔」(鎌田慧)(講談社文庫 一九九一)を読んだ。 あらためて「再処理」の定義を確認しよう。「使用済み核燃料中に生成・蓄積したプルトニウムを取り出す操作」(前記著書小出さんの記述)である。そのために「燃料棒を細かく切断し、……硝酸に溶かしたうえで化学的にプルトニウムを分離する」(前記同)。この作業により、いわゆる原発防御の五重の壁と言われる中で、第一のペレット、第二の被覆管(燃料棒)が壊されることになり、「再処理工場は放射能で強く汚染される。……通常の原子力施設とは桁違いの放射能が、大洋と海洋に向けて放出されることになる。 ……再処理工場は原子力発電所が一年で放出する放射能を一日で放出すると非難される」(前記同)。小出さんはイギリスのセラフィールド再処理工場の例をあげている。アイリッシュ海は世界一放射能で汚れた海になってしまったのだ。 もし六ヶ所再処理工場で過酷事故が起これば、「青森県の基幹産業である農業と漁業を壊滅させる。……リンゴや長いも、にんにくは日本一の生産量をほこり、イカやヒラメ、ワカサギ、シラウオは全国一の漁獲高誇る。・・・…大間のマグロは日本で一番旨いマグロとして世界的な知名度がある。……すべて商品価値ゼロとなり市場と食卓から一挙に追 放される。……一般住民の被曝、強制的避難、不動産価値の消滅、地域農業や漁業の崩壊、長年続く放射能汚染、そして差別」(前記同)。ここに書かれた事態を私たちは既に 福島原発事故によって知らされている。さらに言えば、六ヶ所村再処理工場の事故による汚染地域は青森県にとどまらず広大な東北・北海道地域へ拡散することも私たちは既に知っている。北日本すべてと言っていいのではないか。 同書の第三章タイトルは「核燃料サイクル基地は活断層の上に建っている」である。著 者の一人渡辺さんは変動地形学・活断層の研究者である。下北半島東方沖には大陸棚外縁断層という一〇〇キロに及ぶ断層があり、「安全審査委員会」はそれを活断層ではないとしてきた。音波探査調査で明瞭に確認できないというのだ。しかし、「下北半島沿岸では……三〇メートル以上の隆起が見られ、その隆起が、下北半島の東沖に海岸と併走する 海底活断層、すなわち大陸棚外縁断層の動きによるもの」(前記渡辺さん)」。「海上保安庁水路部・現海洋情報部による調査結果(一九八二)を見ると、大陸棚外縁断層は南方で 分岐し、その一方は、核燃料サイクル基地が建つ台地のふもとにある尾鮫沼の北で陸に向かって伸びるように示されている」(前記同)という。「この六ヶ所断層の活動によって 撓曲した土地の上に、日本原燃の六ヶ所村核燃料サイクル基地が建設されている、……一二・五万年前には水平だった海成段丘面が撓み、曲がっている。地下には、段丘面の変 形と完全に調和的な地層の褶曲(撓曲)が見られる」(前記同)。 さらに渡辺さんの指摘は六ヶ所村再処理工場から二五キロ北の東通原発、下北半島北端の大間原発にも及ぶ。いずれも活断層による地震性の隆起が明瞭に認められる変動した地形の上に原発が建てられている、もしくは建てようとしているのだ。 鎌田さんの力作、「六ヶ所村の記録」からは半世紀以上にわたる六ヶ所村を中心とした、「開発」という名で国策として押しつけられた「住民の命と暮らしを奪う歴史」が描かれ ている。その時代を教育労働者の一人として東京の学校で働いてきた私の中には、六ヶ所 村の悲劇を想像することさえなかった事実に愕然とする。確か「新全総」という開発計画 とともに「むつ小川原」の名前には記憶がある。しかしそこに住む人たちの顔を思い浮かべることもなかったし、その後どうなったかという関心さえ持たなかった。 著者も「おなじ青森県でも、むしろ日本海にちかい小都市に生まれ育ったわたしにとって、このあたりはまったくの未知の土地だった。……鉄道からみはなされているこの広大な地域は、わたしの地図での空白地帯であって、集落があって生活しているひとたちがいるのを想像したことがなかった。」と冒頭で述べている。 一九六九年閣議決定された「新全国総合開発計画」(新全総)では「小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により、陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸、久慈一帯に 巨大臨海コンビナートの形成を図る」とされていた。それ以前は、米軍三沢基地関係で繁栄していた地域が米軍の地上戦闘部隊の大幅な撤退にともない、基地労働者の数は縮小さ れた。当時の革新勢力は「軍事基地から工業基地へ」をかかげるようになった。 鎌田さんの記述は続いて、その前後から高額の単価で土地の買い占めが始まったと伝える。「観光開発」と称していた。そして既にこの頃当時の県知事から「下北半島の原子力センター化」が発表されていた。日本経済新聞にも「核燃料の」濃縮、成形加工、再処理など一連の原子力産業の適地と言える」(六九年六月三日付)との記事が出ている。 しかし実際に具体化されるまでには十年以上かかっている。工業開発、石油備蓄基地がおしつけられ、一九八四年にいたって、電気事業連合(電事連)が青森県に対して、核燃料サイクル基地の立地を正式に要請した。鎌田さんの筆は厳しいタッチになる。「こうして下北半島には、石油備蓄基地ばかりか、東通村の原発基地、むつ市の原子力船むつの母港、その後始末のための関根浜新母港、半島の先端部にある大間町の A・T・R(新型転 換炉)、そして核燃料サイクル基地の建設と核施設が目白押しで、あたかも終末処理半島と化そうとしている。」 六カ所村の、また他の村々の農民、漁民の闘いも記述され、自治体のリーダーたちの人間像も活写されている。その合間に下北に入植してきた、古くは会津藩士が落ち延びて開拓をし、また満蒙開拓団の生存者たちが、厳しい自然の中で再び農業に生きようとした努力も描かれている。その彼らはまたも国策による原子力政策、核燃料サイクル基地の建設で生活の基盤が奪われていったのである。 末尾にある鎌田さんの言葉は一九九一年に書かれた。今現在でもすべて当てはまる慧眼には驚かされる。「むつ小川原開発は財界主流の経団連ばかりか、ほかならぬ政府機関が介在した国家的事業だったから、開発から核廃棄への突然の計画変更は、国家的欺罔とも呼べる。この欺かれた基盤の上に、核燃料サイクルが建設され、既にウラン濃縮工場では遠心分離機の搬入が続けられている。地盤の不安定な沼沢地に、盛り土されて集中配置されようとしている核施設は、世界でも例をみないほど過大なもので、将来、三〇〇〇トンの使用済み核燃料がもちこまれ、年間八〇〇トンの再処理がなされる計画である」「東北の太平洋岸の歴史には、大地震と大海嘯(津波)の歴史が刻み込まれている。地盤が脆弱で、なおかつ大活断層の存在が指摘されている地点で、人類とは相いれない。もっとも危険な放射性物質を保存し、加工しようとするのは、安全性の信頼とその押しつけによっているが、自然の猛威を完全に制御し、事故を完封できることを信じたがったにしても、それは利益に目のくらんだ、電力会社や電機会社の経営者たちの迷信でしかない。」「輸送、加工、貯蔵のサイクルによって、原発社会の無間地獄を拡大するにすぎないこの施設は、 六カ所村や青森県の境界を越え、日本列島、さらには世界へと恐怖を増殖してとどまることはない。それはまた、野放図に電力を消費している市民社会にたいする逆襲でもある。 無関心は、共犯である。」「まず、愚行の継続を中止するのがもっとも賢明な方法である。 そして原発の縮小とさまざまな代替発電による段階的な停止である。核廃棄物は移動、集中させず、国が安全と認定し、運転を許可した各原発の跡地で責任をもって管理する。それはいまだ安全性が確立されていない核燃料サイクルの新規稼働よりははるかに安全であろう。」 二〇一一年の三月一一日の東北大震災に伴う福島第一原発事故の後で読むこの指摘が正 鵠を得て余すところがないことに驚くとともに、今なお何も学ばず原発再稼働をすすめ、 核燃サイクル政策を推進し、さらに原発の輸出さえも国家戦略としていることに恐怖を覚える。 ●大間原発差し止め裁判 六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場をはじめとして核燃サイクルの要になっている下北半島最北端に大間原発はある。大間原発はフルモックス核燃料で稼働する予定だ(運転開始の目途は延期され続けて二〇二四年度になっている)。世界で初のフルモックス原発である。プルトニウムを効率的に循環・消費出来る切り札として宣伝されてきた。 その大間原発の建設に異議をとなえ裁判闘争をしているのは、意外にも青森県住民ではない。海峡を挟んで二十数キロしか離れていない函館市は風下になり、事故が起きたときにはもろに被害を受けることが予想されるのだ。そこで函館市民と函館市がそれぞれに「大間原発差し止め裁判」を起こしている。市民団体の訴訟は函館地裁(二〇一〇年)へ、市の訴訟は東京地裁(二〇一四年)へ提訴された。前者は二〇一七年六月三〇日で結審した (判決は来年三月までに出る予定)。後者は同じく四月に第一二回口頭弁論・八月に第一 三回口頭弁論が予定されている。 函館市民の提訴した裁判で、二〇一七年一月一〇日(火)に証言された 渡辺満久さんは、次のように述べた。 一、大間北方沖活断層は、変動地形学の科学的知識手法によって確認される。 二、海底活断層の長さは、少なくとも四〇㎞以上とみられる。 三、海底活断層の長さは、北から南へ緩い角度で傾斜しており、大間原発の地下数㎞まで推定される。 四、海底活断層の長さからみて、想定される地震の規模は、経験則からM七.五かそれ以上である。 ①S-一〇やS-一一など、敷地内の地下に施設等に影響を与える可能性がある断層等は、存在する。 「原発は、安全なところに作るべき。大間原発の地盤は、非常に不安定。」と締めくくられた。 函館市の起こした訴訟について、市長の工藤壽樹氏は次のように提訴の決意を述べている(二〇一四年四月)。「その後、国は、福島第一原発事故を踏まえ,万が一の事故の際には被害が大きく危険となる地域を、これまでの八~一〇㎞から三〇㎞に変更した ところです。その三〇㎞圏内に入る函館市や道南地域への説明もなく、また、同意を得ることもなく、建設が再開され、建設後には、大間原発の事故を想定した地域防災計画や避難計画を定めることを義務づけられることは、整合性を欠き、誠に理解しがたいものです。」「平成二四年一〇月、二五年二月には、国や事業者に対し、函館市をはじめ道南 の自治体や議会、経済界、農漁業団体、住民組織などが名を連ね、大間原発建設の無期限凍結を求めてきたところです。平成二五年七月には、福島第一原発の周辺自治体である南 相馬市と浪江町を訪問し、事故当時や現在の状況についてのお話しをお聞きし、原発事故が起きれば、周辺自治体も壊滅的な状況になるということを確認いたしました。そして、住民の生命、安全を守らなければならないのは、最終的に基礎自治体である市町村であることをあらためて強く感じたところです。」 福島の原発事故後における、周辺各自治体の対応がかなり様々に違っていたことを知るにつけ、またそのことによって被曝線量も含めて住民の健康と暮らしに大きな違いが出たことは記憶に新しい。自治体が住民の命と暮らし守れるかどうかの分かれ道になっているのだ。だからこそ住民を守る自治体行政でなければならない。平常時も事故後も最善の判断をしてもらわねばならないと痛感する。またそれを可能にするように、県、国の行政が 動かねばならない。しかし国や県が「住民第一」の政策を進めているのか、現実の政治の有り様に愕然とする。正確な情報すら発信せず、不都合な事実は隠蔽する。これが福島原発事故で私たちが知ったことだった。その点で、函館市長の意見表明は住民の意思をすくいとったものであり、自治体の首長としてしごくまっとうな判断である。 ●泊原発建設への反対運動 泊原発周辺自治体への要請行動に参加されていた、元北海道議会議員(当時社会党)の吉野之雄さんが、「被害を受ける方が証明するのではなく、汚染源を出す方が証明するべきなのだ」と発言され、その言葉を印象深く聞いていた。その吉野さんが前述の「再稼働 阻止全国交流会」の会議にも参加されていたので、泊原発建設当時のことを記録に残されているのではないかと思い、「当時の記録やお書きになった物があったら教えてください」 とお願いをしたところ、二〇一六年一二月末日に小包が届いた。当時の新聞記事やパンフ レット、雑誌等貴重なものばかりであった。地域のことを知らない私にとっては、読み取ることが難しいものも多かったが、その中からいくつかを紹介したい。 泊原発は、泊村大字堀株(ほりかっぷ)に立地、一号機(一九八九年営業開始)二号機 (一九九一年同)三号機(二〇〇九年同)があり、現在は新規制基準での審査中であり停止している。このうち三号機は「プルサーマル」運転を目指している(北海道電力ホームページ)。 泊原発の建設の動きは一九六〇年代後半にまでさかのぼる。吉野さんが北海道教職員組合の機関誌号外資料編(一九七九年六月三〇日)に寄稿された文章には「原発の誘致問題 が起こったのは、一九六七年頃からである。岩宇四カ町村(岩内町、共和町、泊村、神恵内村)の理事者議会あげて誘致促進運動を始めた」と冒頭に書かれている。背景には、泊村茅沼炭鉱閉山など人口減、消費購買力減退、過疎化に対する危機感、町村財政における 税収増の狙いがあった。道も積極的に立地適合調査に乗り出したが、結局北海道電力が独自の調査を経て一方的に共和・泊地区に決定と発表(一九六八年)、道・通産局の反発を受けて翌年、協議の上という形で決定した(一九六九年)。(後一九七八年、北電は建設地点を一キロ離れた泊村茶津地区へ変更)。地元民を愚弄する「道随一の企業」北電の傲慢さが見て取れる。 以下は「原水禁北海道本部・北海道原発反対共闘会議」発行の資料(一九八〇年)による。年表を抜粋すると漁協・自治体・議会・労働組合の動きがわかる。 一九六九 北電と岩宇四町村が覚書を交わす(原発建設に全面協力) 一九七〇 岩内郡漁協「原発絶対反対」決議……「原子力発電所についてはいまだ世界的にその 安全性と放射能障害高温冷却水の大量放出等により住民ならびに 漁業への影響 など未解決の分野が非常に多く公害が発生することは明らかで ある。ーーーこ こにわれわれ漁民は、総力を結集し、父祖伝来の漁場を公害 から守るため共 和・泊地区に建設されようとしている原子力発電所設置に断固反対するもので ある」以後、他の漁協とに、道・各省庁への反対陳情 ・北電に対する抗議・反 対署名など 一九七一 岩内町民会議、町議会に「原発反対」の請願 一九七二 岩内町民会議、道議会に「原発反対」の請願、北電に対し計画中止を要望 岩内 商工会議所道議会へ促進請願 岩内町議会、「原発設置に反対する決議」 可決(一二対一一) 一九七三 岩内町長と六団体(岩内町民会議、岩内郡漁協、岩内地区労、社会党支部、 共産党町 委員会、公明党支部)が確認書(町民の理解が得られない限り原発 に反対す る)を交換 一九七五 統一地方選……「原発賛成派」多数(北電の賛成派へのてこ入れと徹底した「原発隠 し」)……岩内町議会は「条件付き賛成決議」(一三対九で可決(一九七六)、 他の三町村も同様の決議可決に至った。 一九七七 岩内町長、北電と「新覚書」締結(上記六団との確認書の白紙撤回を意味 する)…… これを受けて道は「建設推進」表明 以下は「泊原発反対運動(現地)年表」(ナナカマドの会編)による。この間、漁協を 中心に激しい反対運動が繰り広げられ、この後も一九七九年のスリーマイル島原発事故もあり、地区労などによる多数の「講演会」「学習会」、前田農協青年部の車両デモや共和町長リコール運動などがあり反原発のうねりは続いた。一九八二年には「反核・反原発全道住民会議」も結成された。 しかし一九八一年から八二年にかけて北電と各漁協の間で「補償金」についての妥結が相次いだ。泊村漁協……三〇億五千万円、盃漁協……七億八千万円、神恵内漁協……六億八千万円、岩内郡漁協……二三億五千万円という巨額なものであった。また堀株住民の会にも一戸一一〇万円が協力金として支払われた。 反対する地域住民(漁業者、農業者を中心に)を切り崩す巧妙な策がいろいろ行われたと見られるがその一端を紹介したい。「北海道経済」(一九七五年一二月号)のトップ記事は「岩内原発裏面史ドキュメント」(浜田 洋)となっている。この原稿は、本来「政界」(一九七五年一一月・一二月号)に載るはずのものが突如中止され、それを転載した という。この中には、一九七五年の統一地方選で、北電の行った企業ぐるみ選挙の実態が 詳しく紹介されている。それは関連会社や下請けにもすすめられた。その「CR 作戦」と呼ばれる選挙運動を指揮したのは博報堂であった。指揮を取ったのは、そこに招かれた元警視庁刑事部の町田氏だそうである。選挙運動だけではない。地域住民の切り崩し策の白眉をなしたのは「北電もてなし旅行」である。「原発先進地」の視察者は岩宇四ヶ町村合計で二〇三〇名に達した(岩宇四ヶ町村原発対策協議会発行の「原発のひろば」一九七五 年七月)。内訳は、岩内八八一人(八・四戸に一人)、共和五五四人(三・九戸に一人)、 泊四五四人(二・二戸に一人)、神恵内一四一人(四・六戸に一人)である。一人平均五八〇〇〇円であるので、少なくみても一億一七七四万円を越えている。 飛行機や新幹線を使って東海・敦賀・美浜原発等を見学させた。中には「一流ホテルに泊まり、東京見物も出来る気楽な旅行だ」と誘われたという者もいた(「展望」一九七三 年六月)。参加者は「賛否は別にして原発を見学しよう」と思ってこのもてなし旅行に参加すると、電力会社のPR センターで賛成側だけの考えを聞かされ、反対していた人も消極的になった。さらに視察旅行の後、「岩内原発促進協議会の地区推進委員への委嘱状」 に推薦者五人を書いて提出させたのである。 吉野さんの提供してくれた資料の中に道議会の議事録があった。一九七五年度道議会の 記録である。共産党の川崎守議員が道当局に泊原発についての質問を繰り返し行っている。 「北電はウランも契約いたしましたし、もてなし旅行も現在までに四ヶ町村で二〇三〇
名を実施いたしております。博報堂を通じてCR作戦で反対派の切り崩しも行いました。新聞、ラジオ、テレビ、各種パンフレット、ニュース、映画、講演会等を通じてPRの徹
底もしてまいりました。また事前承認を得たかのように三億円をかけてPR館を建設するなど、強引な方法で建設許可前の運動をすすめております。」
福島第一原発事故において、私たちは、正確な情報どころかむしろ情報を隠蔽してきた 東電の対応にあきれかえっているが、実は他の電力企業も含め、昔から電力資本は(その関連・下請け企業も)あまねく口先でごまかせると私たちを侮ってきたことがわかる。 ●泊原発の今一方、泊原発差止の裁判闘争は、札幌地裁に「一・二号運転機差止」訴訟提訴(一九八
九年)、請求棄却(一九九九年)となった。三・一一後、「一・二号機運転差止、三号機運転終了請求」の訴訟が始まり、二〇一七年六月には第二一回口頭弁論を迎えた。その裁判にも影響を及ぼすであろう新たな動きが起こっている。
このツアーに参加する中で衝撃の資料に出会った。原発を止めるために泊村に移り住んだSさんが、函館市役所前で行われた自転車隊の出発式で、配布したプリントである。それらをまとめた「泊原発とがん」(斉藤武一著
寿郎社ブックレット)も発行されたばかりだった。早速入手し読んで見た。
そう言えば東北大震災と福島原発事故後の膨大な廃棄物(放射性汚染物質を含む)を東 京や大阪をはじめ全国に運んで焼却処分したことがあった。含まれていた放射性物質は全 国に拡散されたのである。その上あらためて八〇〇〇ベクレル以下の廃棄物が焼却され、 その焼却灰を建設資材に活かしていくと言われている。いっぺんに放射能を浴びるわけではないが、広く拡散された放射能を呼吸を通じて、また田畑に降り積もる微少な汚染物質に接触しながら生育する野菜、畜産物等を摂取し続けることになるのであろう。 チェルノブイリの経験も活かされず、住宅支援の打ち切りなど「被曝者」を切り捨てる 政策が推進され、年間被曝「二〇ミリシーベルト」基準が押しつけられて、汚染地域への 帰還が強行されている。規制委員会は「原発再稼働促進委員会」と化し、政府は原発の輸 出に精を出す。
日本政府は今や何でも力で押し切る事が出来る「独裁国家」になってしまっている。他の国が福島の事故に学んで脱原発に舵を切っている時に、原発を再稼働させ外国へ原発を輸出しようとしている。明らかに世界の流れと逆行するこの旧体制は、核燃サイクルをあきらめず、「核兵器」を持つことを夢見てプルトニウムをため込もうとしている。「世界の真ん中で輝く国」を目指すこの政権は民意を抑え込んで戦争の出来る国家への道を進も うとしている。
二〇一七年八月に 沢村ふう子 |
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