魔人学園
パチっと、音がして部屋の中に灯りが灯った。
「年明ける前に帰って来れて良かったな。」
麻莉菜の荷物を持って、部屋の中に入った京一はそう言った。
「ごめんね、京一君に留守番させてしまって…」
「いいって。どうせ家に帰ったところでする事なんてないんだし」
荷物をテーブルの上に置いて、彼がそう言った。
「でも、家族の人と…」
麻莉菜がそこまで言った時、チャイムが鳴った。
「誰だ?」
「判らない…」
麻莉菜は、インターホンを取った。
ニ、三言喋ると、彼女は共同鍵を解除する。
「誰だったんだ?」
「京一君のお姉さんだって…」
「え!?」
すぐに、玄関のチャイムが鳴って、麻莉菜は鍵を開けに行った。
「姉貴!何しにきたんだよ」
案内されて入ってきた自分の姉―祐華―に京一はそう言った。
「何しにじゃないでしょう。ずっと家に帰ってこない弟の様子を見に来て何が悪いの」
「ちゃんと、親父とお袋の許可はもらってあるぜ」
「いくら許可を貰ったからって、一人暮しのお嬢さんの家に転がり込んでどうするの!」
すぱ−んと小気味いい音が響いて、京一の頭がはたかれる。
「痛ってな!いきなり、何すんだ!!」
「お黙り」
「あの…京一君はあたしを心配してくれて…だから、怒らないであげて下さい…」
「ああ、貴方は悪くないのよ。女の子をガードするのは男として当り前なんだから。
緋月さんだったわね?貴方みたいな可愛い子を護るのは当然よ」
「あの、でも…」
「どうせ、悪いのは俺だよ。でも、家には連絡いれてんだからな」
「威張るな、馬鹿者!」
祐華は怒鳴ってから、麻莉菜の方を向き直った。
「それにしても可愛いわね。どう?卒業したら、私の事務所に入らない?」
「こらぁ、麻莉菜を毒牙にかけるな!」
「言ってくれるわね、いい加減姉の仕事を理解したらどうなの」
「何言ってんだ、姉貴が今探してるのは、即戦力になる人間だろうが」
「中々、いないのよね、即戦力になりそうな娘って…あら?」
祐華はサイドボードに飾れていた写真に手を伸ばした。
「この端にいる茶髪の娘は知り合い?」
夏に仲間全員で撮った写真を見ながら、彼女はそう聞いた。
「亜里沙ちゃん…」
「知り合いだけど、何だよ。藤咲がどうかしたのか?」
「紹介しなさい。話がしてみたいから」
「ああ、判った、判った。そのうちに紹介してやるから、用事が終ったらさっさと帰れ」
祐華の背中を押して、京一は帰そうとした。
「あ、そうだ。これ、母さんから預かってきたのよ。どうせ正月も帰ってこないんでしょう。
お節の詰め合わせ」
風呂敷に包まれた重箱を麻莉菜に手渡す。
「あ…有難うございます」
「いいの、いいの。この馬鹿が世話になってるんだもの。これ位は当然よ」
麻莉菜が謝辞を述べたのに対して、笑って祐華が答えた。
その時、電話の音が鳴り響いた。
「…はい、緋月です。あ、雪乃ちゃん…え?良く聞こえないんだけど…」
電話に出た麻莉菜を見ながら、祐華は満足そうに頷いた。
「ちょっと、人見知りが強そうだけど、中々いい娘を見つけたじゃない。瞳を逸らさない所が
いいわね。あんたにしては上出来よ。気に入ったわ、今度家にも連れておいで」
「そのうちにな」
姉と弟の会話を麻莉菜の叫びが遮った。
「雪乃ちゃん達のお祖父さんが!?…桜ケ丘ね。すぐに行くわ」
「!?」
京一がその声に反応して、彼女に近づく。
「どうした?」
微かな音を立てて、受話器を戻した麻莉菜の手が震えていた。
「雪乃ちゃん達のお祖父さんが…怪我したって…」
「おい…それって…」
「詳しい事は判らないんだけど…桜ケ丘に運ばれたって…」
「行こうぜ」
「うん」
短い言葉に、何かを感じた京一は、麻莉菜を促した。
「何か忙しそうだから、帰るわね」
祐華も何かを感じたのか、立ち上がった。
「すいません、せっかく来ていただいたのに…」
「いいのよ、急に来た方が悪いんだから。それより今度、家の方にも遊びに来てね」
「はい…」
一緒に部屋を出た祐華に麻莉菜は謝った。
「京一」
エントランスの所で、祐華は弟の腕を掴んで耳打ちをした。
「あんた達が何に関わって何をしてるのかは、詮索しないであげるけど、自分の彼女くらい
しっかり護って、決して泣かせるんじゃないわよ」
「当然だろ、そんな事」
「判ってるならいいわ。じゃ、頑張っておいで」
京一の背中を力いっぱい一つ叩くと、祐華はその場から立ち去っていった。
「まったく…姉貴ときたら…。まぁ、いいか。麻莉菜、行くぜ」
溜息をつくと、京一は麻莉菜の手を握って走り出した。
桜ケ丘についた二人は、待合室にいた雪乃を見つけた。
「雪乃ちゃん、お祖父さんは?」
「一体何があったんだ?」
「判らないんだ。帰ってきたら、蔵が荒らされてて、祖父さんがその前に倒れてて」
「それで、怪我の具合は?」
「今、手術室に…。さっき、龍山の祖父さんも来てくれて」
「俺は、皆に連絡してくるから、先にそっちに行っとけ」
「うん、雪乃ちゃん、行こう」
麻莉菜と雪乃は手術室の方へ向かい、京一は公衆電話の方へ歩いていった。
やがて、仲間が全員集まった頃、手術が終了した。
「先生!祖父さんは?」
「安心おし、傷はそんなに深くないし、心配はいらないよ」
ストレッチャーで運ばれていく老人を見ながら、岩山は雪乃にそう言った。
「私達、ついていてもかまわないでしょうか?」
「ああ、あんた達は身内だから、構わないよ」
その言葉で、雪乃と雛乃は病室の方へ歩いていった。
「緋月、おぬし等に話しておかなければいかん事があるのじゃが、いいかの?」
龍山の言葉に、麻莉菜達は顔を見合わせた。
待合室に戻ってきた彼らは思い思いの場所に陣取る。
龍山が口を開きかけた時、消し忘れたTVから臨時ニュースを伝えるアナウンサーの声が
聞こえてくる。
「む…?すまんがもう少し音を大きくしてくれんかの?」
「はい」
TVの一番近くにいた麻莉菜がボリュームを上げる。
『…繰り返します。東郷神社に何者かが押し入り、宮司を傷つけて逃走しました。その際、
宝物庫に安置されていた宝物が何点か奪われた模様です…』
「東郷神社まで、襲われたか」
「龍山先生、ひょっとして…」
「間違いなく柳生の仕業じゃろうな。奴は『鍵』の在処を知っておったのじゃろう」
「『鍵』…龍命の塔を起動させるためのですね…」
「じゃ、もう、時間がないって事かよ!?」
「大丈夫〜星の動きが一番活発になるのは、一月二日の午前零時よ〜。その時二匹の龍が
目覚めるの〜」
待合室にいたミサがそう言った。
「ミサちゃん?」
「その時に全ての運命が決まるの〜。希望の未来か、滅びの未来かが〜」
「縁起でもない事言うなよ…」
京一が嫌そうな表情を浮かべる。
「滅びの未来なんて…認めない…。皆で生きる未来を選び取ってみせる…」
「ホッホッホッ、そんなに気負っていては勝てる勝負も負けてしまうぞ。明日は、必勝祈願も
兼ねて、地元の花園さんにでも初詣に行ったらどうじゃ?」
麻莉菜が表情を強張らせてるのを見て、龍山が進言した。
「そうだね、お爺ちゃんの言う通り、お正月なんだし、初詣に行くのもいいかもしれないね」
そう言って、小蒔は壁にかかってる時計を見上げた。
「あ!もう、こんな時間じゃない。カウントダウンしよう!」
その言葉に、全員が顔を見合わせる。
「いいな、オレも混ざるかな」
背後から、声が聞こえた。
「雪乃ちゃん、お祖父さんは?」
「うん、まだ意識は戻らないんだけどよ。明日の準備もあるし、取り合えず、俺だけ帰る事に
した」
「…」
「そんな顔するなって、命に別状はないんだし。神事を放り出したら、かえって祖父さんに
怒られちまうからな」
麻莉菜の泣きそうな表情を見て、雪乃は笑った。
「明日、花園さんに行くんだろ?。オレ達も明日巫女の手伝いで行ってるからよ。良かったら、
覗きに来てくれよ」
「うん、見に行かせてもらうね…」
麻莉菜は、そう言って頷いた。
「じゃ、カウントダウン始めるよ!5…4…3…2…い…うわっ!?」
突然、地面が大きく揺れた。
「じ…地震!?」
「龍命の塔の起動が始まりおったか…」
「そんな…」
「大丈夫じゃ。さっき、そっちの嬢ちゃんが言ったとおり、星の動きが活発になるまで、
まだ時間はある。龍命の塔が完全に姿を現すのはそれからじゃろう」
「麻莉菜、大丈夫だって。俺達は必ず勝つんだからよ。そうだろう?」
「…」
「うん、大丈夫だよ。ボク達だっているんだから」
「麻莉菜は一人じゃないでしょう?」
「そうだな、今更一人で気負う事もないだろう」
京一達に口々に言われて、麻莉菜は全員の顔を見た。
「えっと…、あの…ごめんね…」
麻莉菜は思わず謝っていた。
「何、謝ってんだ」
京一はいつもの様に、麻莉菜の髪の毛をかき回した。
「さてと、取り合えずいったん解散して、また、集まろうぜ」
「そうだね。皆で、初詣に行こう。アン子も誘ってさ」
「そう言えば、アン子ちゃん…卒業アルバムの編集を学校に泊まりこんでやってるって…」
葵が心配そうに呟いた。
「マジかよ!?」
「ええ、自分に出来るのはこれくらいだからって…」
「頑張るよね…ねぇ、麻莉菜。一緒にアン子を誘いに行かない?」
小蒔の言葉に、麻莉菜は驚いたようだった。
「え?」
「いいんじゃないか?あいつも気晴らしは必要だろうし。麻莉菜、引っ張り出してこいよ」
「へぇ、随分物分り良くなったじゃない」
京一の言葉に、小蒔が突っ込みをいれる。
「正月が明けたら、ゆっくり話をしようじゃないか。美少年」
「誰が、美少年だ!」
「…またか…成長したのかしてないのか判らない奴らだな」
醍醐が相変わらずの言い争いを見て、こめかみを押さえた。
「フフ…でも、いつもどおりでいいんじゃないかしら」
「ああ、そうだな。妙に緊張しているよりはいい」
葵の微笑みながらの言葉に、醍醐も笑ってみせる。
「ね…ねぇ、二人とも、ここ病院だよ…」
麻莉菜が二人を止めようとする。
「麻莉菜が止めようとするのも、いつもどおりね」
「ああ、だがそろそろ、引き離しておくか」
醍醐はそう言って、京一と小蒔を引き離した。
「二人ともいい加減にしろ、そろそろ帰るぞ」
京一の襟を掴んだまま、彼は玄関の方に歩いていった。
「私達も帰りましょうか」
「う…うん」
麻莉菜は眼を大きく見開いたまま、葵の言葉に頷いた。
「じゃ、後でね。学校の前で待ってるから」
マンションの前で、葵、小蒔、醍醐と別れた二人は、建物の中に入っていった。
「さてと、少し休んでおくか…麻莉菜?」
外の闇を見つめていた麻莉菜は、その声に振り向いた。
「どうかしたのか?」
「京一君、お正月なのにお家に帰らなくてもいいの?」
「麻莉菜だって、家に帰ってないじゃないか」
「だって…あたしは家が遠いし…」
「俺は、何時だって帰れるさ。別に、今、帰らなきゃいけないって事はないしな」
「でも、お正月なのに…」
「親父もお袋も俺が帰ってくるなんて思ってないさ。だから、姉貴に料理を持って来させたん
だ」
「いいの…?」
「俺は麻莉菜と正月を過ごしたいからな」
京一は、麻莉菜の頭の上に一度手を置くと、エレベーターのボタンを押した。
「それとも麻莉菜は俺と一緒に正月過ごすのは嫌か?」
「そんな事ない!」
京一の言葉を麻莉菜は即座に否定した。
「じゃ、戻ろうぜ」
彼は麻莉菜の手を握って、エレベーターに乗りこんだ。
部屋の鍵を開けて、彼らは室内に入った。
「本当に、年が明けてたんだね…」
京一がつけたTVの番組を見て、麻莉菜はそう言った。
「まぁ、しょうがねぇんじゃないか?」
「あ…!京一君、ちょっと待っててね」
麻莉菜は何かを思い出した様に、台所に走って行った。
「?ああ」
ソファに座った京一はTVを見ようとして、テーブルの上に置かれていた風呂敷包みに
気づいた。
「おい、麻莉菜。これ、冷蔵庫に入れとかなくていいのか?」
風呂敷包みを持って、京一は台所に入っていった。
「あ、さっきのおせち料理…忘れてた…」
鍋に水をいれて沸かしていた麻莉菜は、慌てて受け取ると、包みを解いて、冷蔵庫に入れる。
「暖房の中に置いとくと、腐っちゃうかもしれないものね。せっかく貰ったのに…」
「ところで何してるんだ?」
麻莉菜のやっている事に不審を覚えて、京一が尋ねた。
「うん、遅くなったけど…年越し蕎麦作ろうと思って…」
かまぼこやネギ、鶏肉を切りながら、麻莉菜は答える。
「出来たら、持っていくからリビングで待ってて」
「ああ、判った」
京一は再びリビングに戻っていった。
「京一君、お待たせ…」
しばらくして、彼女は盆に乗せたどんぶりを持ってきた。
「少し、薄味かもしれないけど…我慢してね」
テーブルの上にどんぶりを置きながら、麻莉菜はそう言った。
透明な出汁の中に、蕎麦とその上に彩り良くかまぼこやネギ、鶏肉がのっていた。
「おっ、美味そうだな」
京一は、箸を手に取ると食べ始めた。
「薄味だけどちょうどいいぜ」
「本当は、京一君はラーメンの方が良かったんだろうけど…」
「たまには、気分が変わっていいぜ。それに年越しなら、やっぱり蕎麦だろう?」
京一はそう言って食べ続けていた。
「もうすぐ…全部終るんだよね…」
「あ?」
「今まで、やって来た事が全部…」
麻莉菜が食べる手を止めて、そう呟いた。
「ああ、そうだな。どうせなら、勝って終らせようぜ」
「勝てるかな…」
「勝てるさ。俺達には運命にも逆らえる《力》があるんだから」
「運命に逆らえる《力》…?」
「人を信じる心、未来を選べる《力》が俺達にはあるだろう?だから、絶対に勝てるって」
京一の言葉に、麻莉菜は彼の顔を見つめてから、頷いた。
「うん、信じる…。あたしにもその《力》がある事…。皆から、京一君からその《力》を
貰ってる事を…」
麻莉菜はゆっくりとそれだけの言葉を紡いだ。
「さてと、もう何時間もないけど、眠っておこうぜ」
食べ終わった京一は立ち上がった。
「先に休んでて。後片付けしてから、あたし寝るから…」
食器を片付けながら、麻莉菜はそう言った。
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。すぐに済むから…」
京一の申し出を断ると、彼女は洗物を始めた。
「そうか?じゃ、リビングの方にいるから、何かあったら声かけてくれな」
「判った」
水音と食器が軽くぶつかり合う音が響くのを聞きながら、京一はぼんやりとTVを見ていた。
「京一君、終ったけど…」
麻莉菜がリビングに来た時、京一はソファに座ったまま寝息をたてていた。
「京一君、風邪引くよ、起きて…」
軽く、肩を揺すっても、彼が起きる気配はない。
「京一君てば…」
彼女は、少し困って、先程より強く揺する。
「ねぇ、起きて…」
その声に薄く目を開けた京一は、麻莉菜の姿を認めると自分の腕の中に彼女を抱き締めた。
「きょ…京一君!?」
驚いた麻莉菜は、彼の腕から抜け出そうとして、少し暴れる。
だが、彼の自分を抱き締める腕の力があまりにも強くて、彼の顔を見上げる。
「…京一君?」
彼は、再び目を閉じて寝息をたてていた。
(嘘…どうしよう…)
困り果てた麻莉菜は、回りを見回してから、溜息をつく。
(京一君が起きるまで、こうしてるしかないのかな…)
彼女は側に落ちていたソファカバーに手を伸ばすと、それを引っ張って自分達にかける。
少し落ちついてきたのか、彼女の顔に笑みが零れる。
(なんか、いつもと逆で面白い…、京一君の寝顔を見る事ができるなんて…)
少し笑いながら、麻莉菜は京一の胸に頭をつける。
(京一君の腕の中って、やっぱり暖かい…)
そうして彼女も瞳を閉じる。
暖かな部屋に二人の寝息が流れていた。
「う〜ん」
京一は差し込む朝の光で目を醒ました。
「もう、朝かぁ?」
起き上がろうとした彼は自分の腕の中で眠っている麻莉菜を見た。
(え…?ええっ!?)
パニックを起こしかけた京一は、自分の置かれている状況を把握しようとした。
(えっと、確か…昨夜、一緒に蕎麦食って…麻莉菜が片付けしてて…俺はTVを見てて…
その後…)
リビングでくつろいでいた後の記憶を思い出せずに、冷や汗が流れる。
「俺…まさか…約束破って、手ぇ出したんじゃねぇよな…」
麻莉菜を抱き締めたまま、彼は自分達の様子を見る。
(…服は着てるから、それはなさそうだけどよ…。でも、一体この状況は…)
その時、麻莉菜が目を擦りながら、僅かに身動きして起きた。
「京一君、おはよう…じゃなくて、明けましておめでとう」
「あ、ああ…おめでとう」
「もう、こんな時間!?ごめんね、お腹空いたでしょう。すぐに用意するから」
「あ…あの…麻莉菜?」
自分の側から離れて、台所へ歩いていこうとした麻莉菜に京一は声をかけた。
「何?」
「昨夜…俺…どうしたんだっけ?」
「え?」
京一の質問の意味が判らなかったらしく、麻莉菜は首を傾げた。
「どうしたって?」
「い…いや、俺、まさか…その麻莉菜に何かしたか?」
「?」
「麻莉菜との約束を破ったなんて…事は…」
「京一君、疲れてたみたいで、眠ってたけど…。起こそうとしたけど、良く眠っていて」
「それだけか…?」
「一度、眼を醒ましかけたけど。また眠っちゃって」
(じゃ、麻莉菜を抱き締めてたのは、その時か?俺、そこまで麻莉菜に飢えてるのか?
無意識で抱き締めちまうくらいに…)
麻莉菜の説明を聞いて、京一は内心物凄く焦る。
「京一君の寝顔見てたら、あたしも何か安心しちゃって。そのまま眠っちゃったの」
少し申し訳なさそうに彼女は言った。
「もしかして、寝苦しかった?」
「あ、いや。そんな事ねぇよ」
麻莉菜の言葉に、彼は慌てて否定した。
「良かった…。あ、少し待っててね。すぐご飯の用意するから」
ぱたぱたと台所に走っていく彼女の後姿を見ながら、京一は複雑な溜息をついた。
(やべぇ…。我慢できずに手を出しちまったら、どうすりゃ、いいんだ…)
「京一君、お餅二つ食べる?」
京一の焦りに気づいていないのか、麻莉菜の明るい声が聞こえてくる。
「ああ、それでいいぜ」
返事をしながらも、京一の焦りは納まらない。
(麻莉菜が決心してくれるまで、俺の理性…持つかな…)
その焦りを胸の中に潜ませながら、彼はソファに座り直して、麻莉菜が食事を運んでくるのを
待っていた。
「でもね、あたし嬉しかったの。京一君の寝顔が見れて。いつも、先に眠っちゃうから、京一
君の寝顔を見れるなんて、滅多にないんだもの。京一君が、安心して眠れる場所をあたしも
作れたんだと思うと凄く嬉しい…」
汁椀をテーブルの上に置きながら、少し恥ずかしそうに麻莉菜はそう言った。
「図々しいかな…ここが京一君の家になってるって思うのは…」
「そ…そんな事ないぜ。俺はとっくにここを家だと思ってるし」
「良かった…」
彼女は本当に嬉しそうに笑った。
それから、二人は向かい合って昨日届いたおせち料理を食べていた。
「京一君のお母さんの作ったおせち美味しい。どうやったら、こんな風に衣かつぎを煮たり、
きんとん、綺麗に作れるのかなぁ」
「お袋、こう言う料理だけは張りきって作るからなぁ」
「これが京一君のお家の味なんだ…。関東風の味付けなんだね。ねぇ、ひょっとして、
お雑煮口に合わないんじゃ…甘すぎない?」
麻莉菜が作った雑煮は京風の白味噌仕立てだった。
「…珍しいけど、甘いって事はないぜ」
「お澄ましにすれば良かったかな。お餅あぶって…」
「それはずっと、食べてたからな。たまには変わった方が目新しくていいぜ。…それより、
麻莉菜。時間、いいのか?」
「え?あ、いけない!葵達と待ち合わせしてたのに。京一君、ゆっくり食べてて。帰ってきて
から、片づけるから」
麻莉菜は、そう言い残すと、自分の部屋に入っていった。
扉がしまる音を聞いて、京一は溜息をついて箸を置いた。
(雑煮…上手いんだろうけど…。さっきの事が気になって、味が良く判らない…)
「なんで、あんな真似しちまったんだ…。無意識だからってなぁ…」
麻莉菜を抱き締めて眠っていた事が、気になって、彼は食事の味が良く判っていなかった。
(麻莉菜は、何も気にしてなかったみたいだけど…。でも、それ以上の事、しちまったら…
やべぇよな…。約束破っちまうのと同じだしよ)
彼は何度も溜息をつく。
「京一君、先に行ってるね」
そんな彼の思いを知らずに、桜色の振袖を着た麻莉菜が部屋から出てきて声をかける。
「食器とかはそのままにしておいてくれたらいいから…」
「あ…ああ、判った…」
「じゃ、行ってきます。後で、花園神社でね」
「気をつけてな」
「うん」
「あ、麻莉菜」
玄関の方に歩き出した麻莉菜に、彼は思い出したように声をかける。
「何?」
「あ…その振袖…似合ってるぜ」
「ありがとう」
彼女は、嬉しそうに笑うと出かけていった。
(俺も…そろそろ支度するか…)
麻莉菜が出かけてから、ソファにもたれかかっていた京一は、のろのろと立ち上がった。
何とか食べ終わった食器類を台所に運んでいって、流しに水を張ってつけておく。
そして、残った料理を冷蔵庫にしまうと、コートを手にとって戸締りを確かめる。
「行くか…」
玄関の鍵をかけると、コートのポケットに突っ込んで歩き出した。
(少し歩いてりゃ、頭も冷えるだろう)
どうしても結論が出せない問いを抱えて、京一は正月で賑わう雑踏の中をゆっくりと歩き
だした。
「あ、麻莉菜。こっちだよ!」
真神の正門の前で大きく手を振る小蒔を見て、麻莉菜は手を降り返した。
そこには、もう既に葵も来ていた。
「ごめんね、二人とも遅れちゃって…。あ、明けましておめでとう」
「大丈夫だよ。ボク達も今来た所だから。」
「明けましておめでとう。麻莉菜。綺麗な振袖ね。良く似合ってるわ」
麻莉菜の振袖を見た葵は微笑みながら、そう言った。
「ありがとう…京一君も誉めてくれて…。お母さんが送ってくれた荷物に一緒に入ってたの」
「お正月は振袖着ないとね。でも、やっぱりちょっと苦しいけどね。葵も麻莉菜もよく平気
だよね」
「あたしは、お店で着る事があったから…」
「私も少し苦しいわよ。やっぱり着慣れないものだものね」
「葵でも、そんな事あるんだ…。あれ、麻莉菜、それ何?」
麻莉菜の着物の襟元から見えた皮紐に気づいて、小蒔が尋ねた。
「これ…御守なの…。大事な物だから、なくしたくなくて…」
その問いに、麻莉菜ははにかんだ様に答えた。
「そっか、御守なんだ。じゃ、なくさないようにしないとね」
「うん」
彼女は、胸元をそっと押さえた。
「アン子ちゃんが待ってるんだよね。そろそろ行かない?」
「あ、そうだね」
三人は校内に入っていった。
「うわ、休み中の学校って何か怖いね…」
「アン子ちゃん、一人で大丈夫かしら…」
「一人じゃないよ〜」
背後からかけられた声に、彼女達は振り向いた。
「ミサちゃん」
「うふふ〜あけましておめでとう〜みんな、着飾って何処行くの〜」
「おめでとう、ミサちゃん」
「初詣に行くんだけど…、ミサちゃんも行く?」
「初詣も面白そうだけど、まだやる事があるから止めておくわ〜」
「そう?」
「それより、今夜は必ず行くから、待っててねぇ〜。置いていったりしたら、呪っちゃうから」
「ありがとう、ミサちゃん」
ミサの言葉に、麻莉菜は頷いた。
「それより、ミサちゃん。一人じゃないって…他にも誰かいるの?」
葵が、ミサにそう尋ねた。
「マリア先生が来てるのを見たよ〜。さっきも職員室にいたみたい〜」
「マリア先生…?」
「進路の事とか、いろいろあるのかもしれないね。そうだ、後で行ってみようか」
「そうね、ご挨拶もしたいし」
麻莉菜の不審そうな声に気づかずに、葵と小蒔が笑いながらそう言う。
「じゃ、早くアン子を誘いに行こうよ」
小蒔は新聞部の部室に向かって歩き出した。
「じゃあ、ミサちゃん。後でね」
「そうだ、ミサちゃん、これ…。アン子ちゃんに食べてもらおうと思って持ってきたんだけど
良かったら食べて」
麻莉菜は、持っていた紙袋の中から、小さな包みを取り出して、ミサに手渡した。
「ありがとう〜。皆と食べさせてもらうわ〜」
ミサの言葉を聞きながら、麻莉菜と葵も、小蒔の後を追っていった。
「アン子、いるの?」
部室の扉を開けた小蒔は、室内に向かって声をかけた。
「アン子ちゃん?」
「アン子?いないの?」
「ねぇ、アン子ちゃん、寝てるよ…」
小蒔の後から部室に入った麻莉菜は、奥の方を見つめて、そう呟いた。
「あら…」
「もう、しょうがないなぁ。アン子、アン子ってば。起きてよ」
「うーん、大丈夫だって…必ず間に合うから…」
「…アン子ちゃん、夢の中でも編集作業をしてるのかしら…」
彼女の寝言を聞いた葵は苦笑を浮かべる。
「アン子ちゃん、起きて…」
麻莉菜は杏子の肩を揺すった。
「う、う〜ん。あ、麻莉菜、おはよう」
「おはよう、アン子ちゃん。これ差入れ」
麻莉菜は、さっきの袋を杏子の前に差し出した。
「朝食、まだでしょう?」
「ありがとう、麻莉菜。ここのところ、インスタントばかりだったの」
受け取った杏子は、麻莉菜に抱きつかんばかりの勢いで礼を述べた。
「いいなぁ、麻莉菜の作った料理食べれるなんて…」
小蒔が心底羨ましそうに言った。
「小蒔ったら…」
「じゃ、今度何か作るから、食べに来る?皆一緒に」
「え?いいの?」
「うん、簡単な物しか作れないかもしれないけど…」
「麻莉菜、本当にいいの?」
「うん、いいよ。葵も良かったら来てね」
「あ、じゃ、私もお邪魔しちゃおうっと」
差入れを食べ終えた杏子はそう言った。
「あんた達全員が集まるなんて、取材のしがいがあるもの」
「もう、ちゃっかりしてるんだから。アン子は」
小蒔は呆れたように言った。
「いいの、約束だからね。麻莉菜」
「うん」
麻莉菜は、大きく頷いた。
「ねぇ、食べ終わったなら出かけない?醍醐君と京一が待ってるよ」
「そうだったわね。アン子ちゃんも初詣行くでしょう?」
「そうね、作業も一段落したし。気分転換になるから、一緒に行くわ」
杏子は彼女達の誘いに頷いて、立ち上がった。
「ねぇ、そう言えばマリア先生もいるって、ミサちゃんが言ってたよね。職員室覗いて
みようか」
廊下に出たところで、小蒔が提案した。
「そうね、ご挨拶もしたいし、初詣にお誘いしてみるのもいいかもしれないわね」
「じゃ、行ってみよう」
一階に下りて職員室の前に来た彼女達は、扉を開けた。
「マリア先生。明けましておめでとうございます」
先頭に立って中に入った小蒔の声に、窓際に立っていたマリアは振り向いた。
「あら、お揃いでどうしたの?」
「明けましておめでとうございます。マリア先生」
後から入っていった麻莉菜と葵が、マリアに向かって頭を下げる。
「フフ。おめでとう。今年もよろしくネ」
マリアは微笑みながらそう言った。
「それから、遠野サン。あまり無理はしないようにネ」
「はい!」
自分を気使うその言葉に、杏子は元気良く答えた。
「今日は、これからどこかへ行くのかしら?」
「ええ、これから花園神社へ初詣に行くんですけど、よろしかったらマリア先生もご一緒に
どうかと思って…」
「アラ、ワタシも行ってイイの?」
「マリア先生、いつもボク達の事を心配してくれてるんだもの。たまには気晴らしする
お手伝いしなきゃ」
「そうネェ…どうしようかしら。緋月サン、ワタシが一緒でもイイかしら?」
職員室に入ってから黙っていた麻莉菜に、マリアが問いかけた。
「え…ええ。勿論です」
麻莉菜は頷きながら、マリアを見つめていた。
(なんだろう…マリア先生…いつもと違う感じがする…)
「ありがとう、じゃ、仕事が片付いたらすぐに行くから、先に行っていてチョウダイ」
「じゃ、マリア先生が来るまで、ボク達、お参りしないで待ってるから、早く来てくださいね」
「エエ、出来るだけ早く行くワ」
マリアの声に送られて、四人は職員室を出た。
「じゃ、花園神社に行こうか」
「ええ、そうね。麻莉菜…?どうかしたの?」
振り向いて職員室の扉を見つめている麻莉菜に気づいて、葵が尋ねた。
「ううん、何でもないの。行こう、京一君達も待ってるし」
彼女は不安を振り払う様に笑って見せた。
(きっと、気のせい…だよね。色々、あったから、神経質になってるだけだよね)
そのまま、彼女達は学園を後にした。
「遅かったな。何かあったのか?」
花園神社の鳥居の前に立っていた京一達が、麻莉菜達の姿を見つけて近づいて来た。
「ううん、何もなかったよ」
麻莉菜は、京一の問いに首を横に振る。
「そっか?なら、いいけどよ。さっさとお参り済ましちまおうぜ」
京一は彼女の手を握って、社殿の方へ歩き出そうとした。
(出来るだけ普通にしとかないとな。麻莉菜はカンがいいから気づかれたら、呆れられちまう)
彼は、さっきの考えを気づかれない様に振舞う事に決めていた。
「待って、京一君」
「ん?」
その彼を麻莉菜が引き止めた。
「マリア先生が後から来るんだよ。一緒にお参りしようって約束したからさ」
「ああ…じゃ、ここらへんで待っているか」
彼らは道路が見渡せる場所で談笑していた。
それから三十分くらい立った時、マリアが急ぎ足でやってくるのが見えた。
「ごめんなさいネ。待たせてしまって」
近づいて来た彼女がそう言って謝った。
「いいって。それよりもマリア先生も大変だな。新年早々、仕事なんてよ」
「フフ。教師ですもの。当り前だわ」
「誰かさんが心配ばかりかけてるからじゃないの?」
小蒔が京一の方をチラリと見ながら、そう言った。
「そんな事ないわよ。皆、ワタシの大事な生徒ですモノ」
「くだらないことばっかり言ってないで、さっさと行くぜ」
京一は、先に立って人で溢れている境内に向かって歩き出した。
何とか社殿に辿りついた彼らは、賽銭を投げて手を合わせる。
(皆が笑い合える毎日が、一日も早く来ますように…)
麻莉菜は、眼を閉じてしばらく祈っていた。
「さってと…これからどうする?」
お参りを済ませて、鳥居の所まで戻って来た時、京一が全員に尋ねた。
「ワタシはまだ仕事が残っているから、戻るワネ」
「先生、帰っちまうのかよ」
「ゴメンナサイネ。ドウシテも今日中にやらなければいけない仕事があって…。ソウダ、緋月
サン。後で学校に来てくれないカシラ?大事な話がアルの」
「はい?」
「大丈夫、ちょっと聞きたいコトがあるだけだから。そうね、夕方…七時頃がイイワ。待って
イルワネ」
マリアはそれだけ言うと足早に去っていってしまった。
「なんだろう。麻莉菜、心当たりある?」
「ううん、特に…」
小蒔の声に、麻莉菜は首を横に振った。
「だが、何か気になるな。行ってみた方がいいだろう」
「そうね、マリア先生。何か思いつめているみたいだったし…」
「うん、行ってみる…」
仲間達の言葉に彼女は頷いた。
「アン子ちゃんはこれからどうするの?」
「今日はさすがに家に帰って寝るわ」
杏子は眠そうに目をこすりながらそう言った。
「そうだな、今日は家にいた方がいい」
「うん、家から出ない方がいいよ」
醍醐と小蒔もそう忠告する。
「…詳しい事、何も話してくれないから判らないけど…でも、後で、ちゃんと話してくれるん
でしょう。全てが終ったら」
「うん、アン子ちゃん」
杏子の言葉に麻莉菜は笑ってみせる。
「もう一つの約束も忘れないでよ。あたし、楽しみに待ってるんだからね、麻莉菜」
「うん、約束する」
「じゃ、また始業式に会いましょう」
麻莉菜達の顔を一通り見回した後、杏子は帰っていった。
「なんだ?約束って」
「料理…食べてもらう約束したの」
「そっか、じゃなんとしても守らないとな。破ったりしたら、何を言われるか判らネェからな」
「そうだな。何せ遠野だしな」
ポンポンと麻莉菜の頭を叩いて、京一が言った言葉に醍醐も頷いた。
「ところで、これからどうする?時間はまだあるが」
「一度、家に戻ってくるわ」
「うん、ボクも。この格好じゃ身動きとれないし」
「そうだな。今日は家でゆっくりと食事するのもいいかもしれないな。俺も一度帰ってくるか」
「じゃ、後でね。麻莉菜」
「うん、後で」
麻莉菜と京一は三人を見送った。
「さてと、じゃ俺達も帰ろうぜ」
「うん!」
麻莉菜は京一の手を握って歩き出した。
「マリア先生の話って何だろうな?」
「判らないんだけど…でもマリア先生。いつもと違う気がした…」
「そっか。一人で大丈夫か?」
「うん…本当に話だけかもしれないし」
彼女は、明るく笑って見せた。
マンションに帰ってきた二人は思い思いの行動をしていた。
数時間後、ソファに座っていた京一の前に、麻莉菜が姿を現わした。
「京一君。あたし、先に行ってるね」
真神のセーラー服を着た彼女は、寝室から出てきてそう言った。
「もう行くのか?」
「うん…マリア先生の用事が何か判らないし…少し、早めに行こうと思って…。あ、夕食
作ってあるから、食べておいてね」
「ああ、判った」
京一は、ソファから立ち上がった。
「それにしても、制服で行くのか?」
「うん…これが一番いいと思って…。最後の闘いだし…」
「そっか…そうだな。今の麻莉菜に一番似合うのは制服だものな」
彼は、麻莉菜の頭を何時ものようにぽんぽんと叩いた。
「後で、迎えに行ってやろうか?」
「ううん、大丈夫だと思う…だから、心配しないで」
麻莉菜はゆっくりと歩き出した。
「じゃ、行ってきます」
パタンと玄関の扉が閉まる音を聞きながら、京一は溜息を漏らした。
(気づかれなかったみたいだな…)
朝の出来事を京一は思い返していた。
「俺もそろそろ準備するか…」
もう一度、溜息を漏らしながら、京一は自分の部屋に入っていった。
「マリア先生…どこにいるんだろう…」
職員室を覗いた麻莉菜は、マリアの姿を見つけられず、校舎のあちこちを見て回っていた。
何処にも彼女の姿はなく、最後に残った屋上の重い扉を開ける。
「…マリア先生?いらっしゃいます?」
闇に包まれかけた空間に向かって声をかけた。
「緋月さん…ああ、もうこんな時間になっていたのね。ゴメンナサイ」
「良かった…。いらっしゃって…」
謝辞を述べるマリアに麻莉菜は笑って見せた。
「それで…お話ってなんですか?」
「…ねぇ、緋月さん。あなたは何よりも大事なものってあるかしら?」
「え?」
「命より大事にしたいと思うもの。そんなものがあなたにはある?」
一瞬、質問の意味が判らなかった麻莉菜は、すぐに力強く頷いた。
「あります、何よりも大事にしたい存在が」
「そう…」
マリアはその答えを聞いて、少し俯いた。
「マリア先生?」
「緋月さん、あなたを寛永寺には行かせないわ」
「え!?」
仲間以外、誰にも言わなかった事を、マリアに言われて麻莉菜は動揺した。
「アナタのその《力》がワタシには必要なの…。ワタシの大事なものの為に。だから、
アナタも自分の大事なものを護る為に命を賭けなさい」
「!」
マリアの呼びかけに集まった蝙蝠達が麻莉菜に襲いかかる。
「マリア先生!止めてください!」
蝙蝠を払いのけながら、麻莉菜が叫んだ。
「なんで、こんな事をするんですか!?」
「アナタにはもう判ってる筈ヨ。ワタシが何者かを」
マリアの瞳が紅く光る。
「だからって、あたし達が闘わなきゃいけない理由はない筈です!」
「理由?それなら教えてあげるワ。ワタシの望みを適えるのに何としても、アナタの《力》が
必要なの。黄龍の器としての《力》が。昔のように人間に闇の恐怖を教える為にネ」
「そんな…」
麻莉菜は絶句した。
「判ったデショウ。このまま、ワタシに屈するか、アナタの大事なものを護る為に戦うか
どちらかを選びナサイ!」
「ど…どっちも嫌です!だって、マリア先生はあたしの大事な先生じゃないですか!」
「まだ、そんな甘い事を言っているの?それなら、アナタの目の前で蓬莱寺クンや美里サン達
を嬲り殺しにしてアゲマショウカ?アナタがその気になるように!」
防御一方の麻莉菜に、マリアが最後通牒をつきつける。
「京一君や葵達を…」
「さあ、どうするの!?」
マリアの背中に黒い翼が広がる。
「…!」
麻莉菜は涙を溢して、マリアを見つめていた。
「先生にとって、あたしは生徒じゃなかったんですね…。ただ…望みを適える為の《力》を
持ったものだったんですね…」
彼女は拳を握り締めた。
震える拳でマリアに向けて攻撃を放った。
「あ!?」
攻撃は、マリアを捉えて、彼女は後ろに吹き飛んだ。
「やっと、本気になったみたいネ。それでこそ、ワタシも闘いがいがあるというものだわ」
傷ついた羽を仕舞い、マリアは笑って見せる。
「ゼッタイにアナタを手に入れてみせるワ」
マリアの放つ蝙蝠達の群れをかいくぐって、麻莉菜は一気に距離を詰めた。
「あたしは…マリア先生のものになる訳にはいかないんです…。それだけはあたしにも
判るから…」
彼女は、小さな声でそう呟いた。
「それにあたし自身が必要だって…言ってくれてる人達がいるから…『黄龍の器』じゃなく…
『緋月 麻莉菜』を認めてくれる人達の為にも…諦める事はできないから…」
そう言って放たれた麻莉菜の技は、マリアから全ての力を奪い取り、膝をつかせるのに、充分
な威力を持っていた。
「…フフ…やっぱりアナタは強いワネ。どんな事にも立ち向かえる《強さ》を何時の間にか
身につけていたのね…。あの人の言った通りだった…」
冷たいコンクリートに跪きながら、マリアは目の前に立っている麻莉菜を見つめる。
その顔には何故か笑みが浮かんでいた。
「光溢れる世界…それがアナタが望んだ世界なのね…」
マリアが鉄の柵に掴まって立ちあがりかけた時、大きく校舎が揺れた。
「!?」
「!」
マリアが掴まっていた柵が崩れて、彼女の体が空中に投げ出された。
「マリア先生!」
咄嗟に麻莉菜は手を伸ばして、マリアの手を掴む。
「緋月サン…何故…」
「あたしがマリア先生にとって生徒じゃなくても…あたしにとってはマリア先生は、先生
だから…」
残っている柵を掴んで、自分の身体を支えながら、麻莉菜はそう言った。
「それにマリア先生もあたしにとっては…護りたい存在の一人だから…」
麻莉菜の腕からマリアの腕に紅い液体が流れ落ちる。
それに気づいて顔をあげたマリアは、彼女の腕に酷い傷があるのを知った。
「緋月サン…アナタ怪我してるジャナイ!離しなさい!このままじゃ二人とも落ちるわ!」
「出来る訳…ないでしょう…そんな事…!」
傷の痛みと腕にかかる体重に顔を顰めながら、麻莉菜は手を離そうとしなかった。
「諦めないで下さい…きっと、誰かが気づいてくれます…」
「緋月サン…一つだけ聞かせて。ワタシはアナタ達にとってイイ先生だった?」
「当り前の事を聞かないで下さい!マリア先生はあたし達にとって大事ないい先生です!」
「アリガトウ。それだけ聞ければジュウブンよ」
マリアは微笑むと、空いていた方の手の指の爪を麻莉菜の手に突き刺した。
「痛ッ!」
その痛みに思わず手を離した麻莉菜の目の前から、マリアの姿が消え去った。
「マリア先生!」
何もない空間に向けられた麻莉菜の叫びが響き渡る。
「やだ…どうして…!?」
その場に蹲ってしまった麻莉菜を嘲笑うように何回も校舎が揺れる。
「緋月!こっちに来るんだ!」
その時、彼女の腕を掴んで背後から立たせようとする人物がいた。
「早く逃げるんだ。この校舎は長くは持たないぞ」
「犬神…先生…?」
「辛いからと言って、蹲っている暇があるのか!?お前には待っている奴がいる筈だろうが!」
動こうとしない麻莉菜を無理やり引き摺りながら、犬神は階段を駆け下りていった。
「ここでお前が死んでも、何もならないだろうが。哀しむ者が続出するし、何より、『凶星の者』
を喜ばせる事もないだろう」
校舎の外に出ても蹲ったままの麻莉菜の側に立って、何時もどおり煙草に火をつけながら、
犬神はそう言った。
「彼女の事は忘れろ。所詮、お前とは生きる世界が違ったんだ」
「!」
その冷たいとも思える言葉に反応して、自分に怒りの眼を向ける麻莉菜を見て、彼は薄く
笑った。
「それとも、お前なら全ての生物を助けられるなどと思い上がっていたのか?」
「そんな事…!」
「お前が為すべきなのは、自分の出来る事を精一杯やることじゃないのか?
それが『人』としての正しい姿だろう」
犬神は、麻莉菜の腕を掴んで立たせる。
「お前達が戻って来るまで、は護っていてやる。思う通りに行動してくるといい」
それだけを伝えると、彼は麻莉菜を校門の外に放り出した。
「そろそろ、迎えが来るだろう。そこでしばらく頭を冷やしておくといい」
そして、犬神は姿を消した。
一人残された麻莉菜は、何時の間にか振り出した雨の中、壁にもたれて蹲っていた。
「麻莉菜!」
遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、彼女はゆっくりと顔をあげた。
「大丈夫か?何か胸騒ぎがして来てみたんだけどよ。さっきの地震…この近くだったろう?」
「京一君…あたしって…誰?」
「え?」
蹲ったままの麻莉菜の問いに、京一は戸惑った。
「答えて…あたしは何者?」
「何って…麻莉菜は『緋月 麻莉菜』だろ?それ以外、何者でもないじゃねぇか」
「あたしは、本当に『緋月 麻莉菜』なの?どうして、皆…『黄龍の器』でいろって言うの?」
「え?」
「あたしはあたしなのに…『黄龍の器』になるしか存在価値はないの?どうして…」
「良く、判らないけど。俺の目の前にいるのは『緋月 麻莉菜』だろう?俺が惚れてる…
たった一人しかいない麻莉菜じゃないのか?」
「あたし…マリア先生を助けられなかったの…」
「…」
京一は、麻莉菜の呟きを聞き逃さなかった。
「マリア先生も…『黄龍の器』の《力》が欲しかったんだって…。だから…」
そこまで話しかけた麻莉菜を膝まづいた京一が抱き締めた。
「泣いていいぜ。辛かったら、泣いちまえよ。麻莉菜」
自分の腕の中に彼女を抱き締めながら、京一は言葉を紡ぐ。
「詳しい話は、後でゆっくり聞いてやるからさ。今は泣けよ。辛いのに我慢する事ねぇよ」
「ふっ…!」
抱き締められた腕の温かさに気が緩んだのか、麻莉菜は涙を溢して、大声で泣き出した。
麻莉菜が泣き止むまで、京一は彼女を抱き締めながら背中を擦り続けていた。
(なんで、麻莉菜を一人で行かせたりしたんだ。しかもあんなくだらない事で悩んで…。
今がどんな時か判っていたはずなのに!)
麻莉菜を抱きしめ続けながら、彼の胸の中に悔恨が生まれていた。
その時、泣きじゃくっている麻莉菜の腕が傷ついてるのを見た京一は、持っていた木刀の袋
から、中身を抜き取るとその袋を麻莉菜の腕に縛りつけた。
「もうすぐ、美里達が来るからな。そしたらちゃんと治してもらえよ」
まだ泣き続けている麻莉菜の耳元で、彼はそう呟いた。
「ごめんな、一人で行かせて…」
彼女を抱きしめる腕に力が入る。
「辛い思いさせたよな…」
京一には、他の言葉を見つける事が出来なかった。
ただ、彼女の髪の毛を梳き続けるだけしかなかった。
やがて、麻莉菜の泣き声が小さくなっていった。
「麻莉菜…?」
「ごめんね…京一君。あたし、もう平気だから…」
彼の腕から脱け出ると、彼女は微笑んだ。
「皆、もうすぐ来るのにこんなんじゃ駄目だよね…」
麻莉菜はゆっくりと立ちあがった。
「ありがとう…京一君。手当てしてくれて…」
その笑顔があまりにも痛々しくて、京一は無意識に再び抱きしめていた。
「京一君。あたしもう本当に大丈夫…」
抱きしめられた麻莉菜は、そう呟いた。
「俺が麻莉菜を抱きしめていたいんだ…しばらくこうさせていてくれよ…」
京一の言葉に、麻莉菜は眼を閉じてじっとしていた。
冷たい雨がやむまで、二人はじっとしていた。
「麻莉菜!」
やがて、やってきた葵達と合流した彼女達は、真神の前から続く道を見つめた。
「行こうぜ。他の奴らも待ってる」
「うん…」
葵に腕を治してもらった麻莉菜は、自分の横に立っている京一の言葉に頷いた。
「これで最後なんだよね…」
「ああ、これが最後の戦いだ」
彼女の頭をポンと叩いて、京一は歩き出した。
「勝とうね」
「これまでの事を無駄にする事はできないからな」
続いて小蒔と醍醐も歩き出す。
「行きましょう。私達の未来を掴むために」
葵も麻莉菜に向かって静かに微笑むと歩き出した。
「…」
彼らの後姿を見つめていた麻莉菜は、背後に建っている真神学園の方に振り向き、
その校舎を眺めて、一度深く頭を下げた。
そして、先に歩いている仲間達の元に向かって駆け出していった。
自分に向かって差し出された手を掴み、彼女は光へと続く闇の道をゆっくりと歩き出した。
全ての決着をつける闘いに赴く為に。
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