デジタル労働者文学2号
短評・寸評

【2号の感想】  高見正吾
 文章の隙間から、労働者の臭いがプンプンする。労働者を否定しても、臭いがある限り、労働者文学は存在すると思います。

 また、どこにもない、労働者から見た批評精神が、労働者文学にはあると思った。
 臭いと批評。

 それを表現することーリアリズムの確かさ。その、表現を救いとる編集企画がなければ、いまの世の中、解体されてしまう。
 労働者文学は、本来、紙媒体だけど、解体しようとするネット文化の土俵においても、対抗できることを証明しているのではないだろうか?  
 とにかく、労働者文学を作る現場の、才能、アイデア、情熱、体力 には、ひたすら感動するしかないです。


【「夜明け前の夢」 (小林 晶 )】 三上広昭
 作者が定時制高校に学びながら小さな工場勤務をへて郵便局で働く姿が小さなエピソードを交えながら生き生きと描かれている。ここまでは作者のこれまでの作品にみられたが、やがて夜間大学にいくところは初めてだ。何といっても母親の精神に変調をきたすシーンがすごかった。「精神の変調」というやわな表現や「狂気」というにはきつ過ぎるところをユーモアを交え愛情をもって描ききっている。

「偶像の国の彼」 (森下千尋) 秋沢陽吉
 ディズニーリゾートのバイトリーダー。その仕事、その立場に対する批評があちこちに埋め込まれている。「ビターなのは自己責任な馬鹿と タダより安いものはないやろボランティア」 誰のことなのか、バイトリーダーはそうではないということなのか。「飼われてんじゃねぇ」のだから憐れむなということ。「困ってるやつに優しくねえ」とは実はこの人が困ってるのだろう。「この国の行く末に関心はない」「現実よりもリアルな夢に絶叫しよ」とは本当は現実よりリアルな夢なんて無いのだとよくよくわかっているのだろう。とすればなかなかに切なくてとても悲しいお話ではないかと思えて来た。精一杯突っ張って生きてるのだ。

「なめくじ」 ( 山中イツ )】 秋沢陽吉
 いい詩だと思う。心を動かされ胸を揺さぶられた。
 
自分をなめくじに見立てる。どの部分もなかなか良く書けていて、素朴さが生きている。
「それよりも最悪なのが 薄ら馬鹿同然で恥も外聞もなく 人生という道路に 拭い去りたい過去という気味の悪い粘液をどこまでも引きながらナメクジのように這いつくばって生きている」 「暗鬱な疲労だけを背負い家路に帰る そして先人達が作った道路から脱線し メランコリックな土壌を歩いて行く」 「不愉快だが 確実に生きていた証拠の線が引かれていた ナメクジは一歩にも満たない距離を一生懸命に進んでいた」 「家を出ても綺麗な花は咲いていない ナメクジは這うだけだ でもカタツムリじゃいられない」
 
不登校生活から抜け出してともかくも働いて生きている。そんな生がくっきりと定着された。どの節からも切なさや辛さがよく伝わってくる。
「指定された時間に…」から「…やっと気がついた」までの転機となった父との時間がとてもよく表現されていて、感動した。
 
この詩をもっとよくするにはと考えた。思い付きで言って見よう。「キャメル8ミリ…温かみはそこにあった」が3度繰り返される。一部表現を変えてはいるが何度も登場しなくてもよいのでは。最後はなくても良いと思うし、時間の変化に合わせて思い切って別な表現に変えた方が効果があるのではないか。
 何度も書き直して労働者文学賞に応募してはいかがでしょうか。

【「プロレタリア文学と労働者文学について」 (楜沢健)】 土田宏樹
 去年9月に行われた『労働者文学』No.93合評会は楜沢さんの講演があったことによって引き締まった内容になったと思う。その講演を文章化したものである。
 労働者自身が書いた<労働者の文学>と、前衛による<労働者のための文学>。どちらもプロレタリア文学であり、片方がよくて他方がダメというものではない。しかし今日の労働者文学は前者の性格を主に受け継いでいるだろうし、それでよかったと思う。葉山嘉樹の短編『セメント樽の中の手紙』に対する高い評価は、当日講演を聴いたとき強く印象に残った。記録することの大事さを説かれていたこともよく憶えている。私などはプロレタリア文学で一番好きなのは中野重治『汽車の罐焚き』で、この作品は後者(前衛による<労働者のための文学>)になるのだろうが、そうとばかり言い切れぬ気もする。楜沢さんはケン・ローチの映画についても再々触れている。ローチ作品を好きな私には嬉しかった。

【「角打ちの酒」 (土田宏樹)】 北山 悠
 
街の酒屋が店の隅にカウンターを作ってコップ酒なんかを飲ませるのを「角打ち」という。我が家近くの西新井大師参道にもそんな店がある。店で売っている乾き物なんかをツマミに一杯やっているのを見かける。題名から想像したのは、あちこちの角打ち放浪記なのかと思ったが、そうではない。成瀬巳喜男監督の映画『乱れる』が紹介される。酒屋を営む未亡人と義弟との悲恋の物語。そこからあちこち脱線しながら、映画ができた1963年頃の個人商店が直面した厳しい現実が紹介される。個人商店が衰退してスーパーマーケットの時代がやってくる。そして、その時代に農業や商工業の自営業者より雇用労働者が多くなったという社会学者・小熊英二氏の論考が紹介される。まさに日本資本主義が本格化した時代だった。小売業トップは、三越からスーパー「ダイエー」、そしてコンビニ「セブンイレブン」へと変わり、個人商店の衰退とシッター街現象の現在に繋がっている。



『花岡ものがたり』について」を読んで (首藤滋)】   穂坂晴子 
 
労文会議の後、「花岡ものがたり」の会の方の朗読を聞く機会に恵まれた。花岡事件に関しては、野添憲治氏の本を読んだ時の衝撃は忘れないが、57枚もの版画で作られた「花岡ものがたり」は知らなかった。1945年に起きた「花岡事件」を題材に地元で1951年に作られた木版の画集をもとに演じられた朗読は凄まじい「花岡事件」が語られた。
 
首藤さんの文を読んだ。花岡事件に触れ、地元大館市に首藤さんは行く。現地に行って当時のことを知り、今に戻り訴え続けようとしている首藤さんの思いは響く。怒りと祈りが伝わってくる。このことを今後しらべようという首藤さんの姿勢に同じ思いを持った。歴史が改ざんされたり、知る機会が少なっている今、私たちはその切り口を探し、考え伝えていくことが大切だと思う。
 
そして同時にもう一つ、私にこだわりがあることがある。その後の裁判のことである。花岡に強制連行されてきた中国人労働者は過酷な労働と虐待,飢えによる犠牲者の続出に一斉蜂起したが、蜂起は負け、多くの参加者が虐殺された。その中心だった耿諄氏はその後生き残った人たちと鹿島建設を許さず裁判を起こした。そして長い年月をかけ、当時裁判は日本の弁護士も加わり「和解」となった。その時に和解に抗議していたのが当時尊敬していた山邉悠喜子さんの声だった。山邉さんが訳した旻子著「尊厳」―半世紀を歩いた「花岡事件」―を読んだ。彼らがどれだけの状況下で殺されていったかが手に取るようにわかる。山邉さんは戦争が終わった時、「八路軍」に入り、一緒に行軍した方で、日本がどれだけのことを中国に行ったか、そして日本に帰国後私たちに問った。731部隊や毒ガスのことを著し、その中で大きく位置を占めていたのが「花岡事件」だ。耿諄氏たちが起こした鹿島建設との闘いで、高裁は全て棄却し鹿島との「共同声明」が発表され、その後2020年の「和解」が合意された。しかしそれは始めの「共同声明」とは違った内容のもので鹿島は謝罪はしていない、賠償金は10分の1に、記録を残す記念館の設置なしと、2019年に同意された声明とは変わっていた。耿諄氏も訳者の山邉さんも怒りに震えたという。
 
「花岡ものがたり」の版画を見て事実を知り、伝えることの大事さと共に今だからこそ、歴史に残る事件が忘れ去られようとしていることを見逃してはいけないと思う。


【「3.11菅直人政権の大罪」 (秋沢陽吉)】 稲田恭明

 『デジタル労働者文学』創刊号の「棄民政策――これは人間の国か、フクシマの明日」に続いて、秋沢陽吉氏の「3.11菅直人政権の大罪」が掲載された。単に福島原発災害が起きたときの首相であったというにとどまらず、菅直人政権には「国民を被曝から何としても守ろうとする考えがなかった」ために、事実を隠蔽し、被曝防護基準を恣意的に変更し、被害を極力小さく見せかけ、政府の責任を極小化するために、子どもを含む多くの福島県民を汚染区域に閉じ込め、意図的にひどい被曝に晒し続けた。緻密な事実の適示と厳密な論証によって、菅政権のこの大罪を暴露した秋沢氏の論考は極めて貴重である。「グリーントランスフォーメーション(GX)」などと訳のわからない言葉で原発の再稼働と新増設・老朽原発の運転期間延長を推し進め、あたかも3.11などなかったかのように原発回帰が進む今、「忘却させようとする力」に抗うために不可欠の記念碑的労作である。

【「鶴屋スーパーの夏」 (北山悠)】 高見正吾
 地方デパート鶴亀堂。他、スーパーチェーンを展開する鶴屋グループ。鶴亀だから長生きーとはいかず、デパート不況で身売り。本体の労働組合はバラバラ。雇用は、スーパーに引き継がれていく。鶴屋堂で知り合った男女。大野夫婦は、おめでた話があったのだが、死産。夏ではなく、冬を思わせる。

 死産なのだが大事にされ、次は子供のためにがんばると約束する。夫の大野は、鶴亀堂の組合を作った人。現在、鶴屋スーパー元町店の副店長をしている。労働組合はバラバラ。しかし、岡野、平井等ー昔の組合員がいて、そのつながりから、同じ職場で働く、地元、元町ユニオンに入った小母さん、斎藤の話を聞く。大野副店長は、斎藤に連れられて、元町ユニオンに行く。春を思わせる。
 鶴屋スーパー元町店に組合ができたのは、夏の終わりのことだったと、突然に書いてあった。
 デパート、スーパーの実体。雇用、組合の形態が具体的に描かれている労作だと思った。


【「三十八度の攻防」 (村松孝明)」】 志真斗美恵
 村松孝明は短編小説の名手だ。村松は『千年紀文学』に「夢千夜」を連載していて、ふとした小さな出来事を素材に言いたいことを鋭く書ける人だと、いつも感心していた。
 
今回もそうであった。タイトルを読んで、緯度38度で分断された朝鮮半島のことかと思った。本文を読み始めると体温の事だった。発熱して38度5分ある主人公が、寝ていて、暗い中、何度も目覚め、夢かうつつかわからないことを体験する。
 
最初に暗闇の天井に浮かび上がったものが克明に語られる。作者も題名も明かされない。しかしそれはピカソの「ゲルニカ」に他ならない。続いて、丸木位里・俊「原爆の図」、映画『100,000万年後の安全』(マイケル・マドセン監督)。それらを通して戦争の問題、核の問題が出てくる。「俺は宇宙の広がりの中で、球体になって浮かんでいた。その自分の姿を少し離れた場所から見ているもう一人の俺がいる。」最後は谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」を思わせる。詩人の死が、ラジオから聞こえる。周囲は明るくなり、目覚め、現実にもどる。村松の技に目を見張った。                  


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