デジタル労働者文学 2号

2025年1月1日 発行 



目次
 (編集委員・前記)  土田宏樹
小説 夜明け前の夢 小林 晶 
偶像の国の彼 森下千尋
散文詩 なめくじ 山中イツ
講演記録 労働者文学賞2024記念講演会
「プロレタリア文学と労働者文学について」
楜沢 健
評論 角打ちの酒 土田宏樹
評論 2024年の文学賞小説部門の受賞作を読んでみて 橋本敏夫
ルポ 『花岡ものがたり』について 首藤 滋
書評 「七月八日、猛暑日」黄英治著 三上広昭
評論 3.11菅直人政権の大罪 秋沢陽吉
小説 鶴屋スーパーの夏 北山 悠
小説 三十八度の攻防 村松孝明
 (編集委員・後記)   北山 悠.・秋沢陽吉三上広昭

デジタル労働者文学2号 短評・寸評


労働者文学会(公式)HP


                 
(編集委員・前記)

 2024年に読んだ本でことに印象に残ったのはG・ガルシア-マルケス『百年の孤独』とハン・ガン『少年が来る』であった。つい最近ハン・ガンさんが受賞したから、どちらもノーベル賞受賞作家ということになるが、それに釣られたわけではなく、偶々だ。秋沢陽吉さんが<小説のトレーナー>と強く推す丸山健二の作品では『眠れ、悪しき子よ』を読んで、まずは筆力に圧倒された。25年は丸山作品をもう少し読み込んでみたい。

 それにしても暮れに飛び込んできた韓国「非常戒厳」宣布のニュースには驚いた。わずか6時間でそれをはね返したところに韓国の人びとが辛苦のすえ闘い取ってきた民主主義の強さを思う。『少年が来る』が前回戒厳令下で起きた光州事件(1980年)を背景にしていることにそれは象徴的だ。ハン・ガン作品は<暴力に抗う文学>と言われる。いま必要とされている文学はそうしたものだと思う。(土田宏樹)

【デジタル労働者文学 目次


夜明け前の夢

小林 晶

「ちわー、貯金の集金です」
 U商業高校通りの左側の家のガラス扉を開けると、玄関の板の間に手をついて、伸行は家の中からの返事を待った。
 
以前、女の人の声がして、「風邪をひいていて起きられないのよ、上がって箪笥の上の引き出しにお金と通帳が置いてあるので、持って行って頂戴」と言われたことがあった。
 少し待ったが返事がないので、そっと障子を開けて見た。寝巻姿の若い女の人の背中が見えた。
「あのう、貯金の集金なんですけど」と伸行はその人に話しかけた。
「あら、ごめんなさい。今日は学校で試験があるのでその予習をしてたの」
 
彼女はU第一女子高校夜間部に通っていたのだった。
「ぼくは、U高校夜間部に通っています」と伸行。
 
夜学二年生の時に生徒会が結成され、友達のKは体育部を作り、《お前も、何か作れよ》と伸行に呼びかけた。誘われた伸行は文芸部のサークルを立ち上げた。
 集まった六人の部員で「高村光太郎の智恵子抄」を取りあげ読んでいる様子を話した。
「私は中勘助の『銀の鈴』の透明感が好き」と彼女。
 夜学生同士の親近感だった。

 
伸行は新制中学卒業の年に、企業から採用募集の案内があって、国家公務員募集と民間企業の中村製作所の初任給が高く(月給三千六百円だった)試験を受けた。
 
その中村製作所からの採用通知は、卒業式前の三月二十二日に出勤されたしの通知。少しでも労働力の確保をしようとする競争の時代だった。
 中村製作所は、県内一の宮の氷川神社入り口が中山道の入り口にあり、その端にある平屋の建物だった。先輩格の二人がこうもり傘の錆びた鉄棒をグラインダーにかけて磨き、磨かれたその何本もの鉄の棒は、六畳間の広さの部屋に硫酸液が入れられた中に吊るす。
 
その作業を、一人は「トンコ節」の歌を飽きもせずに繰り返し唄い続けていた。
 昼食時、グラインダーをかけていた新入社員がマス クを外すと鼻のまわりは鉄粉で黒く、お互い指差しあ って笑った。

 
伸行は一週間でその職場を辞めた。伸行と一緒にU 高夜間部に通う友人が、若井光学を紹介してくれたからだ。
 
伸行が履歴書を用意して、その会社の事務所に提出したが、履歴書は事務机の上に置いたままにして、頭の禿げた事務所の男は伸行を工場内の一階から二階へと案内した。
 一階は四角のガラスを凸レンズや凹レンズに研磨する研磨機が呻り立てていた。建屋の壁際の階段を二階に上がると廊下の両側が作業室になっていて、バルサム課と書かれた間口三畳の作業室に女性が一人座っていた。
 
彼はそのバルサム課に配置され働くことになった。
 電熱器が一台置かれてあって、電源が入れられるとニクロム線が赤く焼け、その電熱器の上に置かれた鉄板の上に凹レンズを置き、バルサム液をのせ凸レンズを合わせる作業だった。
 
彼女は、その電熱器の前に彼を座らせ、彼の後ろから覆いかぶさるようにして作業手順を教えてくれた。
 それも長続きしなかった。

 
国家公務員試験を受けておいた郵政省からの採用通知が届いたのだ。四級職試験といっても、中卒と高卒以上の二種類の資格があって、高卒者は内勤事務、中卒者は外務員だった。
 
伸行は一ヵ月間、内務者から作業内容を教わり、その後、外務員室で働くことになった。
 駅通りに面したU郵便局の建物の後ろ側は、渡り廊下でつながっていた建物で、小使室、その上は畳敷の二階の休憩室、その建屋を通り過ぎると奥のトタン屋根の建物が貯金課の外務員室だった。
 
北向きに三列、事務机が並べられており、通路脇に石炭ストーブ。冬(十二月から三月)は当番が勤務時間よりは三十分早く出勤して古新聞に火をつけ薪を燃やした上に石炭をくべて燃やした。
 勤務時間前、そのストープに手をかざしながら、「昔は薪が無えと腰板を引っぺがして燃やしたもんだ」と、外務員仲間が敗戦直後の物不足のどさくさ時代の話しに花を咲かせた。
 仕事は北向き最後列の席に伸行、その隣が女の富沢さん。(彼女の夫は戦争で徴兵され、その穴埋めの採用だった)富沢さんは自転車に乗れないので、郵便局の周りの地域を歩いて集金してまわった。
 
伸行を含めた他の六人の男たちがU市内や市外地を自転車で集金した。
 市外地の集金で昼になると、伸行は郵便局に戻らず、農家の土間を借りて弁当を広げた。その家の主婦がキ ューリの味噌漬けを出してくれた。
 
黒猫がやってきてそのキューリをかじった。
 集金範囲は、市内と市外に分けられ、市外地は農村地帯だった。その市外地の一画に三棟の鶏小屋を経営している家があったが、ある時、その鶏小屋に近い木の枝から舗装道路にドサッと落ちてきたものがあった。伸行は驚きとっさに自転車でよけた。卵を呑み込んだ蛇だった。

 
市内地は賑やかな商店街だったり、サラリーマンの住宅地だったりした。商店街では、雑貨屋で笊を吊るしたその中に、無造作に紙幣や硬貨が投げ込まれている店があった。鴨居から吊り下げられた笊(ざる)の中から、硬貨の百円玉を十枚千円の棒状に立て、十円は十枚の棒 (百円)を並べ、集金額の四千円になると、積み立て貯金額を、通帳に割り印をして、新聞紙に硬貨を包み込んで集金鞄に入れた。
(誰も見ていないのでねこばばしたい誘惑にかられた)
 また、「ヘソクリのお金を積むからね、上がって頂戴」と、その家の奥さんに奥の座敷へ上がるように言われた。
 
一瞬、情事に誘われる雰囲気だった。奥さんが言う。
「ここの畳を持ち上げて頂戴」伸行が畳を持ち上げると、奥さんは床上の紙袋から、へそくりの紙幣を取り出した。

 
個人宅以外に、会社や学校、病院で働く人が積立貯金をしていて、昼休みに事務所へくる人を受付で個々人ごとに集金することもあった。
 
U西高の事務所で、団体貯金の集金作業をする。個人で積み立て貯金をする生徒もいて、中学の時の同級生だった女生徒と視線があった伸行は、外務員の帽子を被った中卒の自分を意識し.恥ずかしさで顔を赤らめた。
 一日の積み立て貯金の集金が終わると、集金表に氏名、掛金額を記入し、内務者の集金係に渡し、午後五時になると夜学に向かった。
 
伸行がU高校夜間部の授業を終え、音楽部の友人と国電K駅へ向かっている途中、U第一女子高校帰りの彼女と偶然に出会った。友人は冷やかしを入れて先に帰っ て行った。

 その頃には、彼女の父親は東芝の副部長に昇格し、白幡の住宅からU市の東方の領家、U高校を含む東側の新開地に庭付きの一軒家の新住居に転居していたのだ。  音楽部の先生が青少年のためのシンフォニーコンサートの入場券を分けてくれた時、その一枚を伸行は彼女に郵送した。
 夕闇迫る後楽園でドボルザークの『新世界』が演奏され、フレアーつきの真っ白なワンピース姿の彼女と並んで聴いた日のことが甦り、彼はなぜか足ががくがくした。

 その年の暮れ、彼女の誕生祝を兼ねて、伸行は領家の新居に招ばれた。父親と姉妹が炬燵に入り、食事のあとトランプゲームなどでひと時を過ごした。彼女の名前は「純子」と知っていたが、スミコと呼ばれるのを初めて知った。伸行より一つ年上だった。 「今日はもう夜遅くなったので泊まっていきなさい」
と、はじめての集金の時、風邪で寝込んでいるので、家に上がって貯金を持って行けといった母親だった。
 
ふかふかの夜具布団を敷いてくれて伸行はその中にもぐりこんだ。
 姉妹たちは襖で仕切られた隣りの部屋だった。いっとき姉妹の会話が聞こえた。

 正月の三日は、海原家へ出かけ、姉妹の父と四人で炬燵を囲み、トランプゲームに興じた。姉は母親似の丸顔で、妹は父親似の面長顔だった。薄化粧している顔が印象的だった。

 ある日、領家方面を集金している年配の武笠が伸行に話しかけてきた。
「おめえ、海原さんの家へ行くのはよしたほうがいいぞ。奥さんが興信所に頼んで、おめえんちのこと調べてもらったらしいぞ」
 娘が親しくしている伸行について、母親は集金担当の武笠に調査依頼したことを伝えたのだ。

 気狂いの母がぼろで継ぎはぎのかっぼう着で箪笥の引き出しから、衣裳をわしつかみにして店の外の往還へ 裸足で踊り出て投げ捨てる。
 
通勤客が立ち止まり、投げ捨てられたそれらの衣裳を好奇心の眼で囲むように見入っていた。
 布団の中で、位牌など飾った二段重ねの戸棚の店の後ろ側で息をひそめていた伸行は、その情景に我慢できずに飛び出して
「見世物じゃねえやい」
と、投げ散らされた衣類を抱えると家の中に運び、そして、動こうとしない見物人になぐりかかった。

 
不意に父が現れた。明治生まれの父親は尋常四年の時、東京上野の仏具店街に丁稚奉公に出され、三十歳の時に暖簾分けさせてもらって、高崎線O町で塗師屋の店を始めた。寿司屋の飯台も受けたが、位牌など仏具商品も扱った。日中戦争の最中で、漆の原料も途絶え勝ちになり、仏具店の生活は苦しく、近くの被服省で見張当番役の仕事でその日暮らしだった。

 その父に手を引かれて、伸行は生まれて初めて汽車や電車に乗って、天皇の親政を掲げる右翼の立憲養正会本部に連れられて行ったことがあった。路面電車が走る踏切を渡って、狭い玄関の家に入って行った。そこで父は会長の書いた本を風呂敷に包んで背負って、薄暗くなった夜道を、電車に乗って赤羽駅まできた。列車の窓から高いところを明かりの点いた電車が走っている。それはお伽話の世界だった。
 
 その立憲養正会の本を父は地下足袋にゲートルを巻き、母はすり減った駒下駄で立憲養正会の会員宅に売って歩いた。

 
戦争で赤紙の徴兵用紙が、立憲養正会の同志にも届き、店の飾り戸棚を西側の障子に寄せて、広くした八畳間に父と同志は盃に酒を注いで、出征祝いの歌で景気づけた。「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ」と、父が歌い、酒に酔った同志は座布団を三角に折って抱く姿で「しっかりせよと抱きおこし」と踊った。
 
母は近所の魚屋さんや酒屋さんから、干物の魚と酒を仕入れてきて、二人につまみを出した。
 この頃には、生活費を叔母や姉に工面してもらって いたが、その工面もつかなくなったある日、母は発狂した。

 小学校の帰り道、人が大勢集まっていて、小学四年の伸行は、中の様子を見ようと、大人たちの足の間をくぐって開けた場所に出た。軽トラックの上に人がいて、「助けてください。助けてください」と、軽トラックの上で後ろ手に縛られた母が叫んでいた。そのそばで突っ立ったままなすすべのない父がいた。
 
思いがけない情景に、伸行は大人の足から抜け出して、夢中で家にかけて帰ると上り口に仰向けに倒れこんだ。
 誰も居ない家は森閑としていた。涙がしきりと目尻から流れた。
 
母はW市の精神病院に入院させられた。

 母のいなくなった家では、年上の姉が母替わりで家の仕事をした。
 
U高の夜学四年生になった伸行は、高卒資格で四級職試験を受け、外務職から内務職変更となり、郵便課で働くこととなった。法政大学の夜学生となり、郵便課の夜勤専門となって、大学の昼に通うべく、U市の白幡で六畳ひと間の下宿生活を始めていた。

 ある日、「ここだ、ここだ……」と言いながら、兄、姉、弟たちが、下宿の狭い階段を上ってきた。
 
父が子供たちに相談せずに、病院から母を連れて帰 ってきたのだという。
(病院の入院費が払えなくなっていたのだ)
 母が家にいた頃、姉が母替わりに家の中のふき掃除を始めたとき、母は不意に逆上して姉の髪の毛を掴み、家の中を引きずって歩いた。
「やめてやめて」引きずられながら姉が叫んだ。
 
ろくに家にいない父と、家に一人残された母が心配で伸行は兄弟たちと入れ替わるように家に帰った。
「ケンちゃんかい大きくなったね」柱に寄りかかってトラコーマでしぼんだ小さな目で、欠けた歯を見せ一人笑いしながら母が伸行に話しかけてきた。

 
大学の四時間目の授業は途中で抜け出さないと、U 駅始発の高崎線最終列単に乗れなくなる。列車は尾久、赤羽の次は大宮、大宮からはM駅、A駅、O駅と各駅停車で家に帰りつくと、午後11時を過ぎていた。
 
母が小さな組み立て式のお膳の上に、ごはん、竹輪を並べた。毎回同じ夜食に伸行は、ふいに抑えがたい衝動にかられ「こんな夕食、食いたかねえやい」と、そのお膳を足でひっくり返し、ふとんを被って食事も摂らずに寝た。母は逆立ちしたお膳を元通りにして、散らばったご飯の入った茶碗、散らばった竹輪を拾って皿の上に並べ、「食べるかどうか置いておいてみよう」と独り言を呟いた。

 兄弟が下宿した板橋のアパートに時々、伸行は救いを求めて家での様子を話した。毎晩の同じパターンの夕飯に、イラついた伸行はお膳をひっくり返したのだが、母の(食べるかどうか置いてみよう)という呟きを思い出した時、なぜか不意に笑いが込み上げてきた。
 
笑いのとまらぬ伸行に兄弟が何があったのか催促した。
 涙を流しながら「猫じゃあるまいし」声つまらせて言
う伸行に、姉も兄も弟も腹を抑えて大笑いをした。

 日曜日、早番勤務を終えて伸行が帰宅すると、畳の上にヒヨコがちじこまって死んでいた。ヒヨコの足は空を掴んで丸まっていた。
「ヒヨコが死んじゃっているよ」伸行が母に言う。
「そのうち卵を産むんだからね。そしたらお前の弁当に卵焼きを作ってやれるんだからね
 
母は柱に寄りかかって欠けた歯を見せながら一人笑いをしていた。

 何故か伸行には、隣りの家の床屋の庄ちゃんと麦わら帽子を被り、バケツを持って、赤堀川へザリガニ捕りに行った夏のことが浮かんだ。
 
途中、田んぼに入りアオガエルを見つけてその尻に麦藁棒を差し込み、息を吹きこみ膨らんだ蛙の皮を剥いで、その足を紐で篠ん棒のさきに吊るし川の中へ流す。
 ザリガニがその蛙の足を飲んで食いつくのを引っ張りあげる。バケツ一杯になったそのザリガニの尻尾をむしり取り頭のほうは石で漬して、鶏の餌にしてやる。母はしょうぎの笊に人参牛蒡、さつま芋、インゲンや紫蘇などとザリガニも天麩羅に揚げて食卓に飾る。その時の母ほ気違いではなかった。

 「ここから連れて行っておくれ」「お金は持っているんだからね」と、収容された玄関で母が伸行に言う。
 
着物の襟の中から四つに折った千円札を広げる。何回も広げては、また、たたまれた、千円札の折り目は破れて穴があいていた。
「わかったよ」伸行が母に背を向けてしゃがみ込むと、母は伸行の肩に両手をかけた。小さい体なのに母は重くて伸行は立ち上がれなかった。
 
満身に力を込めて(ううん)と伸行は眼を見開いた。
 窓から明け方の空が見えた。

           『いてんぜ通信』16号から転載

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偶像の国の彼

森下 千尋

集合 スーパーバイザーの言葉ではじまる

一日の労働はサービスと笑顔

おもてなしの国 メイドインジャパンだ

舞浜 ディズニーリゾートおこしやす

どちらの国からいらっしゃった

がちがちのマニュアルで閉ざしてるシャッター

だけどオープンな笑顔オーバーにならない気遣い

多くを語らずともトークに混ぜる笑い

甘い甘い秘密のまじない 時給とやりがいをシェイクする味わい

チップすらないのに美徳とやらで飲み込んでいくカカオ

ビターなのは自己責任な馬鹿と

タダより安いものはないやろボランティア イエー

バイト前の裏アカをご覧になる 遺影

責任者 正社員 バイトリーダー

法と神の元では対等になる?

iPhoneの新しいやつ買いたくて残業

人生は結局正しいやつが完勝

残響 鬼滅 決めつけんなバカ ねえ?

制服を脱いだ瞬間にあっかんべぇ

飼われてんじゃねえ 終わってんな

憐れんでんじゃねぇ 停まってんだ

困っているやつに優しくねえヤツこっちからシカト

そう 彼は夢の国のバイト

 

この国の行く末に関心はないし

現実よりもリアルな夢に絶叫しよ

前職よりも好待遇よりもない退屈

毎分を捧げてパーク内のガイダンス

おれは夢の国のキャスト 体感中

今宵もヒリつくトラブルと相対する

無形のホスピタリティを倍返す ことで

バイトリーダーの信用奪い返す

【デジタル労働者文学 目次



なめくじ


中山イツ

家を出た時、玄関前の通りに五センチばかりのなめくじがいた

小さな生物は、人々から忌み嫌われる醜悪な外見を持ちながら

大胆不敵な面持ちでゆっくりと進んでいた


キャメル8ミリ、水道水、炎天下、打ちっ放し、サンダーの音

精液のシミ、腐った汗、日々の徒労、モルタルのぬかるみ

温かみはそこにあった

 
電車は過ぎ去った。

もうしばらくは来ないだろう

時刻表を見ている間に、彼方に消えた

プラットフォームに独り佇むと

どうすればいいのかと思う

いや、一人ではなかった

改札を抜けたときに遅れていることに気が付いた

過ぎ去る電車の音と共に、気が付いた

 
労働で流した汗は

テレビで見ていた野球少年達の汗より

気持ちの良いものではないし

褒められたものでもない

ただ生活に何かを求めるための必須品だった

働いたら家に帰る。風呂に入って寝る

高校を退学してからというもの、成り行きでそんな感じだった

 
ケヤキ並木が綺麗な駅の通りを少し抜けた

奥のほうのシックなペンキが剝げかけた

場末の飲み屋街にあるファミレスで

血尿のようなゲロを吐きながら、退職届を出しに行った

この世の終わりのようなその日を呪った

 
そう今日は成人式だ

他の客の和服姿で改めて気付かされた

遮断していても、いやにも情報は入ってくるもので

ネットニュースに載っていた二分の一成人式で書いた手紙

新成人達、読み返すという見出しだ

机の奥に置き去りにされた手紙の内容を思い出した

 
拝啓、十年後の僕へ

大学に入学して、楽しい生活を送っているでしょうか

今は、勉強は嫌いだけど

将来は好きになっていたらうれしいです

また夢であった小説家にはなれているでしょうか

これからも頑張ってください

 
思い起こす文章の稚拙からは

自分の失われた純水が心に蘇った

その純粋はひたすら己を睨んでいるようで

 
少年時代の自分に呪い殺されるように嘔吐するしかなかった

それよりも最悪なのが

薄ら馬鹿同然で恥も外聞もなく

人生という道路に

拭い去りたい過去という気味の悪い粘液をどこまでも引きながら

ナメクジのように場違いに這いつくばって生きている

 
キャメル8ミリ、水道水、炎天下、打ちっ放し、サンダーの音

精液のシミ、腐った汗、日々の徒労、モルタルのぬかるみ

温かみはそこにしかなかった

 
悲しいことに日々は誰にも評価されることはない

働きに働いてもTVに映る同い年の野球少年のような

さわやかな汗は流れなかった

暗鬱な疲労だけを背負い家路に帰る

そして先人達が作った道路から脱線し

メランコリックな土壌を歩いて行く

 
数ヶ月続いた不登校生活に終止符を着けるために

久方ぶりに外に出た

冬の冷たい風が暖房で温くなった肌に

ずきずきと突き刺さるようだった

 
指定された時間に間に合うように

ほとんど行かなかった高校に行くために

小走りで駅に向かった

学校に着いた後の手続きはあっさりしていた

ほぼ初対面の担任と

普段は見ない父親の社会人然とした対応の反復を見ながら

いよいよ陰鬱な高校時代の終わりを感じ

やるせなさと

少しの希望の混沌が心に押し寄せた

 
鉄筋コンクリートの硬い印象の学校をあっさり去り

駅で帰りの電車を待っていた

父との会話はラーメンを食べるか食べないかの

何気ないもので

プラットフォームの時間はどこかゆっくりしていた

 
「ラーメンはいらないよ」

下を向きながらそう答えた

「そうか」

耳に電車の音が入ると同時に父の答えが帰ってきた

電車の風は何かを気が付かせようと、強く甲子園の応援団のように体を震わせた

下を向いていた、目の前の電車を見上げようと前を向いた

昔よりどこか小さくなった背広姿の父が

ハンカチで目をぬぐっていることにやっと気が付いた

 
高校をやめてからは現場仕事に就いた

毎日の退屈な労働は、浮かれた同世代の若者達に

以前は抱かなかった憧れを抱かせた

仕方ない着ける仕事がそこしかなかったんだ。だけど

肉体労働は慣れれば快適だった

 
何か変化を求めていた

とにかく変わりたかった

だからあんなに急いで転んで、独りよがりに絶望していた

走らなければ転ばない、今度はゆっくり歩いてみよう。余裕をもって

 
白い背中が動き出した、背中に幽霊がまとわりついていた

一日の労働を終えて家に帰った

不愉快だが、確実に生きていた証拠の線が引かれていた

ナメクジは一歩にも満たない距離を一生懸命に進んでいた

その線は私の汗のようだった

汗は長引き、血に染まる

 
キャメル8ミリ、水道水、炎天下、打ちっ放し、サンダーの音

精液のシミ、腐った汗、日々の徒労、モルタルのぬかるみ

温かみはそこにしかなかった

 
家を出ても綺麗な花は咲いていない

ナメクジは這うだけだ

でもカタツムリじゃいられない


【デジタル労働者文学 目次


労働者文学賞2024記念講演会

「プロレタリア文学と労働者文学について」

 講師 楜沢 健(文芸評論家)
2024年9月1日 
文京区・涵徳亭 別間

【消される「労働」と「労働者」】

 楜沢です。本日のテーマは、プロレタリア文学の遺産をいまどのように読み、生かし、「労働者文学」とつなげていくのか、ということですが、現在「プロレタリア」も「労働者」もほとんど使われず、死語に等しい扱いです。死語というよりもむしろ、「労働者」という言葉を意図的、政治的に消す動きが顕著で、たとえば、最近、ケン・ローチが映画『家族を想うとき(原題Sorry We Miss You)』でも取り上げていましたが、宅配の「フランチャイズ制」「業務委託契約制」はその典型です。「個人事業主」は労働基準法上の「労働者」ではない、というのを盾に、事実上「労働者」という概念を無意味化、死語化する動きが進んでいます。「「労働者」「プロレタリア」という言葉を空無化、消す流れは、さかのぼれば高度成長期に一般化した「サラリーマン」や「会社員」という呼称だってそうですし、現在の「正社員」「非正規」「派遣」「契約社員」「パート」という身分制的な分断の呼称も同じでしょう。あからさまな身分制的な呼称への薄気味悪い配慮ゆえか、いまでは「非正規」「パート」「契約社員」と呼ぶ代わりに「スタッフ」「クルー」「キャスト」「アテンダント」「コンシェルジュ」「従業員」「働き手」「人材」「人財」といった、まるでキラキラネームのような呼称が氾濫、一般化している始末です。
 
「労働者」「プロレタリア」という言葉が使えないと、「搾取」や「資本主義」や「社会主義」という言葉も使えなくなります。そして現に使われなくなっている。「搾取」は「分配」や「賃上げ」の問題にすり替えられ、「資本主義」は「自由主義」「市場経済」「格差社会」と言い替えられ、「社会主義」「共産主義」はいつのまにか「権威主義」「独裁主義」などと呼び変えられている。すべて「敵」を想定しない、消去する言葉の言い替えなので、「たたかい」「闘争」も無意味化、消されてしまうわけです。

【怪しげなカタカナの氾濫】

 今回、労働者文学賞を受賞した岡田さんの『印字された内容』は、そうした「労働」「労働者」の不可視化、ブラックボックス化が、コロナ禍でいっそう深刻にすすんでいる現状がとらえられていたと思います。輸出用コンテナの仲介業社が舞台で、そこではコロナでリモートワーク転換がすすみ、電子上のやりとり、書類転送が労働の中心です。営業対面の機会はなくなり、新入社員は積み込みの現場を見る機会さえ奪われている。電子上の画面やメールをにらみながら、しだいに何をしているのか、電子画面の向こうで何が動いているのか、自分たちは何を動かしているのか、分からなくなってゆく。労働そのものが見えなくなってゆく。そうした労働の死角に、コンテナ輸送の中抜き、すり替え、不正が次々と忍び込む。最初は違和感や疑問を抱くが、慣れてゆくにともない、じょじょに無批判、無感情、無感覚に陥っていく。
 
いかがわしい手数料商売、仲介業、税金の中抜きが、この間のコロナ禍でタガが外れるように蔓延、常態化するようになりました。電子決済だって、いうなれば中抜き、仲介手数料商売です。当然その分、商品の価格が上がります。上げられない小売店はその負担をみずから被るしかない。消費税と同じです。
 「スタッフ」「キャスト」「シフト」と同じく、コロナ禍では数々の怪しげなカタカナ用語が氾濫しました。「エッセンシャルワーカー」もそうですね。「社会基盤を支える上で不可欠な労働者」の言い替えのようですが、医療、保育、福祉、運輸、清掃、小売……、要するに新自由主義政策で長らく切り捨てられてきた主に「公共」にかかわる「低賃金労働・労働者」のことですよね。離職者が多く、人手が足りない、高齢者も多い。なぜカタカナによる言い替えなのか。言い替えによって、新自由主義が見直され、待遇や地位が改善したというのでしょうか。「エッセンシャルワーカー」という、まるで化粧品広告のようなキラキラ用語の名の下で、最低賃金すれすれの「クルー」や「パート」や「スタッフ」が、ますます増えているだけではないのか。物語は主人公が「転職サイト」を通じて面接を受ける場面からはじまりますが、「抽象的輸入貿易物流会社」の英語頭文字からとった社名の「アイトル」(まるで消費者金融の会社名)からして隠蔽とすり替えと詐欺を暗示していて、目を引きます。
 
「ステイホーム」「ロックダウン」「オーバーシュート」「スーパースプレッダー」「ソーシャルディスタンス」……。こうした面妖でいかがわしいカタカナ語の氾濫を、いったいどう受け止めればいいのか。それが何をあらたに指示しているのか、意味しているのか、ということ以上に重要なのは、いったい何を消去し、あるいはすり替え、隠蔽しようとしているのか、ということだと思います。そこから、コロナ禍の嘘くささ、陰謀や利権が透けて見えてくるような気がします。 「リスキリング」「エビデンス」「コンプライアンス」「ダイバーシティー」「SDGs」「ジェンダー」「ケア」「リベラルデモクラシー」などなど、コロナ以前からカタカナだらけです。こうした面妖で執拗なまでのカタカナ語の氾濫、言い替えへの違和感と警戒をずばり指摘していたのが、本日詳細は省きますが、先日、芥川賞を受賞した九段理江『東京都同情塔』だったと思います。

【不意打ちとショック作用】

 『印字された内容』は、「手紙」と「メール」のちがいはあれど、葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』を想起させる内容でした。『セメント樽の中の手紙』が一九二六年ですから、九八年前、おおよそ一〇〇年前の作品ですが、手紙の使い方、構成、想像力、目のつけどころは、ほとんど変わっていない。返事、返信することなく終わっているところも共通している。そこが何より目を引きました。不思議な感じがします。
 
スノーデンが暴露しましたが、メール通信はほぼ監視されているでしょう。政府はもちろん、会社内でだれがどういうやりとりをしたか、サーバーを通じてチェックできるし、不正や中抜きをしている会社ほど、やっているのではないでしょうか。それをかいくぐって、会社の枠をこえて、どう互いに連絡をとりあえるのか、どんな方法がありうるのか、興味がわきますね。スノーデンのように証拠のデータを盗み出して暴露しようにも、そういう事態を先回り想定して、内部告発制度は有名無実でしかないのが現状でしょうから。
 『セメント樽の中の手紙』は、ダム建設現場でセメント袋を運ぶ労働者が主人公ですが、単調なベルトコンベア作業のくりかえしで、『印字された内容』同様、自分が何をしているのか、労働そのものが見えなくなっていく。右から左へ、機械のように動いているだけです。そのような労働者が陥った慣れと放心、無感情、無感覚の放心状態を狙い撃ちするように、セメント袋から「手紙」が出現します。手紙はセメント袋を縫う女工からで、恋人がクラッシャーに落ちてセメントになってしまった、事件は隠蔽され、恋人が入ったセメントはそのまま出荷されてしまった、このセメントには恋人が入っています、だから使わないでください、もし使ってしまったら、せめて何に使ったか教えてください、ぜひぜひお返事を下さい。手紙にはそう書いてある。
 
こういった不意打ち、ショック作用に焦点をあてた構成は、葉山嘉樹をはじめ、初期のプロレタリア文学に多く見られるものです。それまで見慣れていた世界が、見慣れないものに変容する。主人公は全身セメントまみれで、鼻の穴もその粉塵で塞がっている。何より、完成まぢかの巨大なダム建築のオーラ(威容)がはがれて、労働者が塗りこめられたコンクリートの塊に変容する。見ていた現実から見えていなかった現実が、だまし絵の地と図が反転するように「フワッと」浮かび上がってくる感じでしょうか。このように現実の虚飾、メッキがはがれ落ちる一瞬が、理屈や説得ではなく身体的な違和の感覚とともに、印象深くとらえられているのが、この作品の特徴だと思います。無感情、無感覚の放心状態から主人公が解き放たれて、自らの労働や現実がそれまでと別の意味や光景をもって立ち上がってくるような一瞬に直面する、そういう感じでしょうか。いっきに「高み」から労働や現実を俯瞰的に把握できるというわけではありませんが、ほんのわずか、慣れて見えなくなっていた日常や労働の死角が、ぼんやりと浮かびあがってきます。

【「あなたは労働者ですか」】

 なかでも目を引くのは手紙に出てくる「あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい」という問いかけです。山間部の飯場で働く主人公の松戸与三にとって「労働者」という言葉は、おそらくそれまで使ったこともない、意識したこともない、のみならず、そう呼ばれたことさえもない、寝耳に水の、不意打ちの言葉だったと思われます。実際、「労働者」という言葉は当時あたりまえのように使われていたわけではありません。とりわけ飯場なら「土方」「人夫」という蔑称が一般的だったでしょうし、じっさい、葉山の他の作品ではその呼称が使われています。手紙の書き手もみずからを「女工」と呼んでおり、彼女はそういう労働者を身分制的に差別、分断する蔑称を自虐的にふまえて、それをのりこえることを目指して「あなたは労働者ですか」「あなたが労働者だったら」という問いかけ、呼びかけをしているわけです。自分が何であるかがわからなくなってゆく、そういう違和感に、主人公はつつまれる。そこにこの手紙の出現の仕方とあわせた不意打ちとショック作用が効いているように思います。
 
このように、『セメント樽の中の手紙』をはじめ、初期のプロレタリア文学には、こうした自然発生的な偶然の不意打ち、ショック作用を通じた「小さな」認識の転換、逆転の一瞬をとらえたものが多くみられます。
 「手紙」という媒体も不意打ちで、意表をついています。労働災害の告発なので、普通なら「ビラ」を想定するはずです。当時、こういう労働災害事故はたくさんあったでしょう。しかしビラを配布しようにも組合も組織力もない職場で、多くが泣き寝入りで事故は闇に葬られていたにちがいありません。実際、この作品は、葉山が名古屋セメントに勤めていたときの見聞が、もとになっていて、次のような「草稿メモ」が残されています。
 
「妙な名札、囚のいたづら」「一人のいたづらな労働者……製品のレッテルに印をつけた。『人間入りセメント』『此のセメントは労働者の真実の血を含む、このセメント〈の上の〉によって固められコンクリートはダンスホールの基礎か、何か同志……』」
 「いたづら」ですね。葬っても、このように事故のうわさは広がります。この手紙は怪文書に近い。しかし怪文書よりももっと労働者が広く共有していたであろう「遊び」や「いたづら」が複雑に織り込まれていて、うわさや伝聞をもとにしたホラー小説の語りをなぞるような創作の痕跡が見られる。要するに、この「手紙」自体が「いたづら」ということになるでしょうか。
 
たとえば、「細く細く、はげしい音に呪の声を叫びながら、砕かれました」や「立派にセメントになりました」といった箇所から創作の匂い、すなわち第三者による代筆、要するに手紙の背後に複数の声、集団の気配が感じられますね。「お返事ください」という文通を求める構成も、当時女学生のあいだで盛んだった文通文化の痕跡が認められます。当時から指摘されてきたことですが、同時期に読まれた江戸川乱歩をはじめとする「新青年」系統の怪奇小説や吉屋信子の少女小説を彷彿とさせる語り口が、葉山嘉樹の小説にはあります。『セメント樽の中の手紙』をそうした文脈で評価する学者や評論家も多いです。「ビラ」ではなく「手紙」という媒体がでてくるのも、こうした背景が関係しているはずです。

【『女工哀史』の記録性】

 「手紙」による「いたづら」の発想がどこからきたのか、大変興味深い。労働者と手紙の関係について知るには、たとえば細井和喜蔵のルポ『女工哀史』(一九二五年)を読むと、その一端がわかります。通信の管理について一章割いている。手紙はすべて検閲されます。手紙をセメント樽の中に忍び込ませる以外に、工場内で、あるいは寄宿舎内で何が起きているのか、なかなか表に出てきようがない。ブラックボックスですね。加えて、女工の多くは教育がなく文字が書けない、読めない。だから書ける人が代筆してあげるわけです。どんな本や雑誌を読んでいたか、という読書の記録も重要です。それが詳細に書かれている。葉山が『女工哀史』を読んでいたかどうかはわりませんが、ベストセラーでしたから目くらい通していたでしょう。「手紙」のリアリティは、少なくとも、こうしたルポの記録に支えられていた面があったように思います。
 
プロレタリア文学はナップ以前とナップ以後で思想はもちろん、内容や手法をめぐっても対立があり、評価が難しい。労働者によるプロレタリア「の」文学か、啓蒙と外部注入にアクセントを置いたプロレタリア「のための」文学か、福本主義の是非もあわせ、今なお評価は一枚岩ではなく分裂したままです。そうしたなかにあって、ナップ以前のプロレタリア文学にあってナップ以後に希薄になったものをひとつあげるとすれば、「記録」へのまなざしだと思います。『女工哀史』はその典型で、いわゆる「記録文学」「ルポ」に分類されていますが、こういう取材記録を重視したドキュメンタリーは当時少なく、その意味でも新しいジャンルでもあったわけです。
 とくに『女工哀史』は、当時、毎年六〇〇〇人の女工が結核で死んでいるとの調査が明らかにされていた紡績工場内部の詳細な記録です。女性の労働、子どもの労働の実態、労務管理、募集方法や前借金の詳細、虐待や搾取、食事や栄養状態から、教育や教養、友情や恋愛、娯楽など、記録は多岐にわたりますが、中でも重要なのは、「小唄」「替え歌」の採集です。湯地朝雄は「『女工哀史』一編は、この『女工小唄』をめぐっての記録であり、解説であるといってもよいくらいである」と指摘していますが、小唄との出会いが『女工哀史』執筆の動機であり、はじまりだったということです。
 
地方から身売りや出稼ぎできていた女工たちの多くは、子守をさせられていたりと、俗謡や子守歌(民謡)が身体に染みついている。それが工場で集団的な替え歌として広まり、共有されていくわけです。いわば労働歌というやつです。そういう女工たちが潜在的に身につけている集団的な掛け合い、言葉遊びの「知恵」と「才能」に、細井は驚愕するわけです。民衆知、階級知といえるでしょうか。まさに労働者によるプロレタリア「の」文学の発見です。その驚きが『女工哀史』の基調になっています。

【多喜二の「驚き」と「興奮」】

 ナップ以前のプロレタリア文学の形成に大きくかかわっていた記録文学としては、『女工哀史』のほかに『種蒔き雑記』、賀川豊彦『貧民心理の研究』(一九一五年)、『死線を越えて』(一九二〇年)、横山源之助『日本の下層社会』(一八九九年)、『職工事情』(農商務省、一九〇三年)などがあげられますが、おおむね戦後になってからの再評価です。ナップ以後になると、こういう記録へのまなざし、労働者が潜在的にもっている「知」や「力」への関心が薄れていったように思います。
 
もっとも、小林多喜二『蟹工船』には、こうした『女工哀史』とつながる「知」や「力」への強い関心と驚きが見て取れるように思います。『蟹工船』執筆にあたり、入念な取材と記録を下敷きにしていたことは今日ではよく知られています。最近ですが、柳広司が『アンブレイカブル』(二〇一九年)のなかの「雲雀」という短編で、蟹工船に乗っていた労働者に取材する多喜二を描いていましたが、『蟹工船』にはカムチャツカでの労働はもちろんですが、そもそもカムチャツカがどういうところであるのか、その気候や自然に関する知識や知見や知恵が、労働者がつかう独特の比喩をとおして、奇想天外に描かれています。悪天候の予兆を海の表情、波のうねりから読み取り、それを「兎」の比喩でとらえるところなどはその典型で、ほかにも「霧雨でボカされたカムチャツカの沿線が、するするとヤツメウナギのように伸びて見えた」であるとか、労働者のことを「自分の手足を食う蛸」に例えるなどさまざまです。もちろん『蟹工船』には「替え歌」も出てきます。「ストトン節」の性的な替え歌です。「手紙」にも注目しています。
 
このような労働者の視点や言葉遊びの力、知見に出会ったときの多喜二の驚きや興奮が、『女工哀史』と同じく『蟹工船』の基調になっていたことがよくわかります。労働者を啓蒙、意識化しようとするだけでなく、労働者の視点によって自分の在り方や世界のとらえ方もまた意識化される、そういう一方向ではない、相互の認識や世界観をめぐるダイナミズムに注目しているところが面白い。そうした驚きや発見がないと、何を書いても予定調和でご都合主義なものの押し付けになってしまう。プロレタリア文学、とりわけナップ以後のプロレタリア「のための」文学の落とし穴です。

 【ケン・ローチとブレヒト】

  さきほどケン・ローチにふれましたが、最近、一九六〇年代の彼の作品を見る機会があったのですが、ドラマとドキュメンタリーを合体させて、記録やデータ資料を活用する映画をつくっていたのには驚きました。現在のドラマ主体のものとはかなり作風も手法もちがう。
 労働者階級の少女の堕胎のドラマに、実際の医者のインタビューを挿入したり、若い母親がホームレスになるドラマに市民のインタビューや住宅問題の統計などを活用したり、演じている主人公が最後に自分の未来や人生についての質問にカメラに向かって答えるシーンを加えるなど、斬新な試みの連続でした。もちろん、こういう手法は、かつてブレヒトが叙事的演劇でさかんに試みたことで、それを意識して発展応用させたのだと思います。
 ケン・ローチ、ブレヒト、プロレタリア文学を読み直すと、現在の「文学」や「映画」のとらえかた、製作の手法も享受のありかたも、いかに狭いか、ブルジョア的であるか、階級芸術とは程遠いものであるか、「労働」や「労働者」の不可視化に荷担してしまっているものにすぎないか、が、残念ながらよくわかるような気がします。「支配的思想は、いつの時代も、支配階級の思想である」とマルクスは言っていますが、いま読まれていないもの、読もうとしないもの、忘れられたものにこそ、学ぶべきものがある、ということだと思います。

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角打ちの酒

土田宏樹

 去年9月5日の午後NHKBSで『乱れる』という映画が放映されるのを視た。成瀬巳喜男監督による1964年の作品だ。成瀬巳喜男は、女性を主人公とした作品が優れているという定評があるらしい。たしかに、林芙美子原作の『浮雲』『放浪記』をやはり成瀬が監督した映画をNHKBSの同じ時間帯で視ているけれど、それぞれに良い映画だと思った。『乱れる』には原作となる小説は無く、松山善三のオリジナル脚本だという。
 
嫁いできて僅か半年で夫を亡くした未亡人と、その義理の弟(亡夫の弟)の悲恋が描かれる。ヒロイン礼子は高峰秀子、義理の弟になる幸司は加山雄三が扮していた。この映画での高峰秀子(1924-2010)は、現在の女優さんでは常盤貴子がちょっと似た雰囲気のような気がした。もっとも一緒に視ていた連れ合いにそれを言うと「似てないよ」とのことである。加山雄三(1937-)は高齢者向け運動器具のTVコマーシャルなんかで今やすっかり好好爺だが、60年前はさすがに美青年だ。黒澤明『赤ひげ』(1965年)で長崎帰りの青年医師・保本登に扮する前年である。去年夏に死んだアラン・ドロン(1935-2024)とほぼ同世代。
 
礼子の夫の死因は映画の中では明示されていなかったように思うが、没年と敗戦の年が同じであるのは明かされているから、おそらく戦争に関わっているのではないだろうか。
 
礼子が嫁いだのは静岡県清水市の商店街にある酒屋だ。戦争が終わって(夫が死んで)18年間というもの、彼女はほとんど一人で店を切り盛りしてきた。幸司は11歳年下で、彼がそんな彼女を慕う思いは、いつしか恋する心になっている。戦後18年といえば1963年だ。商店街にはスーパーマーケットが誕生して、小売店の経営は圧迫され始めている。近所の食料品店のあるじが、自分の店で1個11円の卵を新しく出来たスーパーでは5円で売り出したと聞いて「オレのところの仕入れ値より安いじゃないか!」と憤慨する場面があった。
 
私には既視感がある。私は55年生まれだから1963年には物心はとっくについていたが、記憶にあるのは時代がもう少し下って60年代の終わり頃だ。わが家は東京都国分寺市の商店街で菓子の小売りを営んでいた。1916年生まれの父は生来心臓が弱く、激しい労働ができないタチであった。復員してから菓子屋を生業に選んだ。子ども相手にアイスクリームや菓子パンを売るのなら心臓に負担が少ない。そんな身体だから、戦争には兵士としてとられたのではなく軍属での出征であったろう。戦争中のことを詳しく聴いておくことを怠ったのは私の痛恨事である。1984年に死んだ。さて或るとき、菓子問屋からわが家が仕入れるよりも安い値段で同じ菓子がスーパーに並んだ。煎餅だか、あるいはチョコ菓子のようなものであったか・・。父はもちろん心穏やかではない。そのスーパーに抗議に行くと母に話していた。
 
ところが、抗議した結果がどうであったのかは憶えが無い。文句を言ったところで洟もひっかけられなかったか、あるいは父自身がどうにもならないと思い直して行かずじまいだったのか。ともかく、そんなふうに商店街の小売店はスーパーの大量販売に押されていった。映画では食料品店のあるじは商売の先行きに絶望して首を括ってしまう。わが父が店をたたみ、国分寺も引き払って一家あげて千葉県に越していくのは1970年代になってからである。
 
ところで映画では礼子の酒屋でアサヒビールが売り場の一番目立つところに並べられていた。のみならず、義理の弟の幸司は
「金、払うからね」
とか言って、その自家の売り物であるビールを1本さらって栓を抜き、茶の間に上がって飲んだりする。
 
思い出したのは小津安二郎とサッポロビールだ。
 
小津の映画の登場人物、たとえば遺作となった『秋刀魚の味』(1962年)において笠智衆が扮した初老のサラリーマンだが、その家の廊下の棚にさりげなくサッポロビールのケースが置かれてあったりする。サッポロの商標はあの★だからすぐわかる。あれはサッポロビールにとって、いい宣伝になっただろう。じじつ小津はサッポロから毎年ビール1年分を贈られていたそうである。
 
成瀬巳喜男は、そんな小津安二郎の向こうを張って、こちらはアサヒビールをことさら目立つように置いたのだろうか。成瀬へはアサヒからビールが贈られたかな?
 
脱線を続ければ、そのころ(1970年代くらいまで)街の酒屋には大抵、店の隅のほうにカウンター代わりに板が差し渡されていて、そこでコップ酒なんかを飲むことができた。酒のツマミには、着色料たっぷりの真っ赤なイカの燻製なんかが楊枝に刺されてセルロイドの大きな瓶に詰まっていたものだ。そういうふうに飲める一角を「角打ち」と言った。
 
ところが礼子の酒屋には、そういうカウンターが無かった。角打ちをやらないのは、店を切り盛りしているのは未亡人であり、女性としては店の中で酔っ払いが管を巻くようなことが万一あっては困る、ということであったろうか。国分寺の我が家の近くでも、商店街の道を挟んで斜め向かいに酒屋があった。ここは角打ちをやっており、客が所望すれば、あるじが一升瓶の栓を抜いてコップに一合なみなみと注いでやったものだ。子ども心にも、あれは味のある情景であった。あるじは丸い赤ら顔で、いつも「澤乃井」の商標が入った前掛けをして、注文が入ればビールのケースや一升瓶をバイクで配達もした。「澤乃井」は青梅市の地酒であって、多摩川も奥多摩の青梅まで上ってくれば渓流だから渓谷に蔵元がある。庭には北原白秋が詠んだ

 
西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉

という歌碑が建っている。三多摩地方一帯ではかなり浸透している銘柄である。純朴な辛口だ。
 
さて映画『乱れる』では、新興のスーパーマーケットに押されている苦境を乗り切るため、幸司は自店もスーパーマーケットにしてしまおうと思い立つ。実の姉の一人の嫁ぎ先は静岡市の銀行員で、彼に相談したところ融資の目途も立ちそうだ。スーパーに衣替えした暁には幸司は、自分が慕う礼子に重役になってほしいと考えている。
「戦後の苦しい時期を、お義姉さんのおかげでやってこられたんだから、それが当たり前じゃないか」
 
しかし、当の礼子は身を退いてしまう。夫に先立たれた嫁など婚家にとって所詮他人ではないかと思うし、義弟以外の周囲の目もそうだ。そうして二人は破滅への道を進んでいく。山形県新庄市にある実家に戻るつもりで家を出た礼子を追って、幸司はそのまま一緒に列車に乗ってしまう。新幹線はまだ開通していない。清水駅から東海道本線で東京駅へ、それから上野駅に出て東北本線で山形へ向かう。途中で宿をとった銀山温泉で幸司は礼子への愛を告白するが、義姉は10歳以上も年下の義弟をにくからず思いながらもそれを受け入れられなかった。宿を飛び出して居酒屋で酒をあおる幸司。銀山温泉に行ったことがある方なら、谷底のようなところに肩を寄せ合うように旅館が並ぶ温泉街の真ん中を川が流れているのをご存じだろう。彼の遺体が川で発見されたところで映画は終わる。
 
それにしても、もし幸司の思い通りになって、礼子を重役に迎え、銀行から融資を受けて酒屋をスーパーマーケットに衣替えするのに成功したとしたら、どうだったろうか。幸司は酒屋の若旦那として普段から周りの商店主たちと親しく付き合っている。肉屋や乾物屋や菓子屋であるこれら店舗は、何でも揃っているスーパーマーケットがすぐ近くに出来たら確実に駆逐されてしまうだろう。すでに商店街の中には別のスーパーが経営を始めているのだから、幸司は競争に勝って生き残るために品物を揃え、安く売らざるを得ない。今までいくら親しくしてきたって、隣人に手加減するわけにはいかなくなる。
 
そのような散文的な結末にしないためにも、二人の破局は避けられなかったか。 映画の時代である1963年といえば、1955年に始まる戦後の高度成長はレールの上を順調に走っていたころだ。しかし、そのレールに乗れずに滑り落ちていく人もいた。東京都下国分寺市の商店街で小さな菓子屋を商っていた我が家なんかもそうであった。
 
歴史社会学者の小熊英二・慶応大学教授によれば「日本で雇用労働者の総数が自営業で働く人を超えたのは1959年である。それ以前は農業や商工業の自営業で働く人が過半数を占めていた。また雇用労働者にも、自営開業までの修業期間か、兼業農家の家計補助だと考えている人が多く、賃金が低くても大きな問題としない傾向があった。日本の非正規労働者や中小企業労働者の低賃金はその時代の遺産である」(朝日新聞2024年10月12日朝刊オピニオン欄)。
 
私が菓子小売りという家業を継がず郵便局員になったのは、自営業が減って雇用労働者が増えていくという趨勢に従ったことになるが、わが家が家業に見切りをつけた1970年代、雇用労働は正規雇用がまだ一般的であった。ところが90年代以降はこれが絞り込まれていく。上の小熊教授の発言から引けば「修業期間」でも「兼業農家の家計補助」でもなく、その賃金で生計を立てなければいけない労働者が、正規に雇用されず、とても食ってはいけない低賃金に抑えこまれた。さらに近年、実態は雇用労働なのに自営業者扱いして労働法制による労働者保護をすりぬけようとする「働かせ方」が拡がっている。これらとどう闘うか。角打ちの酒のノスタルジーに浸っている場合ではない。


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2024年の文学賞小説部門の受賞作を読んでみて

 橋本 敏夫 

 今年の労働者文学賞小説は三作とも異なる形式を持った作品が受賞しています。受賞の三作品について、私なりに独断と偏見を気にすることなく書いてみました。

 まず、文学賞受賞作品である「印字された内容」は、事実に基もとづくものなのか、または、ある事実から連想した創作なのか、まったくの創作なのかは分かりませんが、軍事産業と思われる企業の裏世界を通した産業界への影響力と不気味さが感じ取れる小説です。最初に読んだ時には、妻との生活を描いた箇所は不要と思えたのですが、再度読みかえしてみますと軍事産業と思われる闇の世界と権力との癒着が想像され、闇の世界とはまったく関係がない主人公の妻の身辺調査が秘密時に行われている怖さを感じました。そして、主人公の妻の仕事への影響をほのめかす闇世界の住民である小さな輸出貿易会社の堀切という60がらみの社長の凄みは、まるで権力と結びついた軍事産業と思われる闇世界の支配の強力さが感じ取れる作品です。また、良心とは無縁と思える主人公の感情の動きも味を加えているように思え、闇社会に通じる仕事は闇世界の住民一人だけが仕事内容のすべてを掌握し、他の職員は言われたことを黙々とこなし、機械的な処理以外は考えない無気力な人を求めるものだと、感じさせるのはさすがだと思いました。小さな輸出貿易会社の社長が軍需産業と思える裏社会の住民であるだけで、大手船会社を抑え込んでいる姿を匂わせるなど、頷くことが出来るストーリーになっており、感心しながら読んだしだいです。
 
なお、読み終わった後、国民の支配手段として利用されるであろうマイナンバーカードの恐ろしさと、ロッキード事件で明らかになった裏社会で蠢いていた児玉誉士夫と小佐野賢治を思い出したことを付け加えます。今後の著者の活躍が期待できる作品だと思います。

 
佳作の「ウィルタ」は樺太に住んでいた少数民族が日本の戦争に翻弄された事実に基づいて描かれた、ルポルタージュ的な小説です。選評で鎌田氏が書かれていたように、私もウィルタ民族の存在は知りませんでした。
 
この小説は戦前・戦中には日本人とされ、徴兵等により強制的に日本軍に組み込まれ、敗戦になると日本人ではないとされた、日本政府から棄民された民族の悲惨な姿を描いています。この小説を読み終わると、日本軍に強制的に編入され、軍隊内では日本人軍人から苛まれ、最下層の軍人として上司に逆らうこともできずに、日本人の軍人がやりたがらない汚い任務をこなしていた朝鮮民族などの外国人の日本軍軍人が、敗戦後の戦地において、侵略地の人への虐待等を理由に死刑とされたB級戦犯の姿が浮かびました。当時、彼らは日本軍の指揮命令システム上、上官の指示に従いざるを得なかった立場での行為の結果の死刑でした。そのうえ、敗戦後の在留2世の朝鮮民族の人の「韓国人でもなく日本人でもない」との言葉を私たちはどのように考えればいいのか。今だ敗戦を引きづったまま、解決しようとしない日本の姿をどのように考えるべきであろうか。このような想いが、「ウィルタ」の読後に湧いてきました。
 
我が国は、戦前に日本人として利用したウィルタ民族や朝鮮民族、沖縄の琉球民族などの少数民族を過去の約束を顧みることもなく、冷徹な感覚で棄民しました。この姿の行きつく先には、日本人でありながらも、弱い立場の少数な階層の人々を平気で棄民するような社会になっていくのだろうかと思うと、それは阻止をしなければと思います。しかし、能登半島の震災、その後に発生した大雨による二重の被災を受けた能登半島の被災者の人達も、ある意味、棄民された人々のように思えてきます。
 
小説としてはだらだら感を感じますが、ソ連に抑留された期間の描き方を日記調で書きながら、過去を思い出す形で主人公の感情を入れていくなどの変化を持たせると、引き締まった小説になったように思えます。描かれている内容は現在でも、未解決で重要な側面を抉り出しており、著者の今後に期待いしたいと思いました。

 もう一つの佳作作品である「片側交互交通」はまとまりのある作品であり、最近の商業文芸雑誌の新人賞に載るような形式と感じました。正直に言いますと、私はこのような形式の小説は苦手でして、評価しにくいのですが、主人公の女性の場当たり的な感情を上手に描いています。日本の若者は、世界的に見ても将来への希望を持っていないとの調査結果があります。そのような若者、自分に自信を持つこともなく、心を許せる友人を作ることもせずに、常に不安を抱えながら世の中を生きている若者の姿を描いているようにも思えました。そして、最後には労働者として、最も不安定で身分保障もない職場で働く交通整理員の中年男性の優しさに心を惹かれ、癒されていくストリーはありふれているようで、読者にはホッとした安心感を与える構成は頷けます。ただ、個人的には意志のある若者を描いて欲しいとの思いが残るのですが、小説は著者の感性がその下敷きになっているものである以上、この作風を極めるのも面白いようにも思いました。

 
文学賞の受賞小説3作を読んでいると、労働者文学会の存在価値の強さを感じました。その根底には労働者文学を築きあげ、守り育ててきた労働者文学の歴史が根底に流れていることを感じるにつけ、先達の人々の心を思い浮かべました。その歴史を背負って奮闘している者への感謝を持つとともに、来年度の文学賞を含む労文賞も期待したいと思っています。

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『花岡ものがたり』について

首藤 滋


 1942年11月27日、戦時内閣(東條英機総理大臣兼陸軍大臣、岸信介商工大臣ら)は、「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定した。その「第一 方針」はこう書かれている。「内地ニ於ケル労務需給ハ愈々逼迫ヲ来シ特ニ重筋労働部面ニ於ケル労力不足ノ著シキ現状ニ鑑ミ左記要領ニ依リ華人労務者ヲ内地ニ移入シ以テ大東亜共栄圏建設ノ遂行ニ協力セシメントス」
 つまりは、「戦争で重労働できる労働者は戦地に送ったので足りなくなった。労働者を中国から連行して働かせる」ということだ。産業界から労働力補充供給の要請が強くあった。
 この閣議決定に従って、内閣直属機関興亜院華北連絡部の指導の下、華北労工協会が中心となって、中国人俘虜(宣戦布告のない戦争=事変だから捕虜と言わない)やそれこそ道端で拉致して集めた農民・労働者約4万2千人が、日本全国 135か所の鉱山・港湾などに強制連行された。
 軍需に重要な銅などを産出する有数の鉱業所の一つに藤田組(現DOWAホールディングス)の経営する花岡鉱業所があった。
 花岡鉱業所にあった七ツ館坑の坑道は、花岡川の下に位置し、人の出入り口は隣の堂屋敷坑にしかなかった。1944年5月29日、河川敷が陥没し、坑内の日本人11名、朝鮮人12名が閉じ込められた。藤田組は家族や坑夫仲間の救出の願いを無視し、そこを埋め立ててしまった。生存者は朝鮮人1名のみだった。
 藤田組は他の坑への被害を予防すべく花岡川の水路変更を計画、この工事その他築堤工事などを請け負ったのが鹿島組(現鹿島建設)だった。鹿島組に届けられた中国人は、44年6月298名、45年5月587名など3度にわたり、計986名。うち7名は移送途中に死亡している。
 俘虜たちは山の中腹に建てられた中山(ちゅうざん)寮と名付けられた収容所に入れられ、厳重な管理のもと、毎日工事現場で苛烈な労働に従事させられた。劣悪で乏しい食事、「補導員」による殴打。衣服は厳しい冬にも一枚のみ。次々と斃れる仲間たち。
 45年6月30日中国人俘虜たちは、一斉蜂起して集団脱走を図った。日本人「補導員」ら4名、内通していた俘虜1名が殺害された。鹿島組、警察、特高警察、軍隊、憲兵、地元警防団員らが動員され、俘虜たちは次々と捕縛され、娯楽施設の「共楽館」前の広場に連行された。3日3晩の凄惨な拷問、飢餓などで100名を超える死者が出た。俘虜のうち13人は戦時騒擾殺人罪容疑で刑務所に移された。これが「花岡事件」だ。
 敗戦後、中山寮を知った連合国軍が鹿島組関係者を戦犯容疑で逮捕、1948年の軍事裁判で、鹿島組花岡出張所長に終身刑など、ほかに死刑、懲役刑などの判決が下されたが、1953年ごろまでに全員仮出所した。
 敗戦当時までに、中国人俘虜986名のうち、418名が死亡している。生存者のうち531名が帰国のため花岡を出発したのが45年11月だった。
 『花岡ものがたり』
[i]は一冊の木版画の画集である。
 この版画集は「1945(昭和20)年に起きた花岡事件を題材に創作された。鈴木義雄氏が企画、詩を喜田説治氏が、原画を新居広治氏が制作。滝平二郎氏と牧大介氏の協力を得て木刻し、1951年に完成。版画集「花岡ものがたり」として出版された。」(一部略)と記されている。
 花岡鉱山の姿から解きほぐして、中国人俘虜が連行され、水路変更の過酷な労働と劣悪な収容状況による死者、6・30の一斉蜂起、拘束者は苛烈な取り調べで次々に落命。日本敗戦後、遺骨が返されるまで57枚の版画と詩で表現する。その生き生きとした版画と詩は実に味わい深く、何度見ても決して飽きることがない。
 2023年11月4日、東京・小石川の文京区民センターでロシア革命106周年記念集会が開かれ、そこで『花岡ものがたり』が歌と朗読つきスライド上映の形で上演された
[ii]。私はスタッフとして参加したが、観客席で上演を観た。45分位の上演であった。
 その後「『花岡ものがたり』朗読の会」と名付けられて、短縮版が企画され、さらに上演の機会を探ろうではないか、という事になっている。

  二


 いくつか紹介された資料を眺めているうち、池田香代子編著『花岡の心を受け継ぐ』[iii]の末尾に載った20ページ弱の資料〈フィールドワーク〉「花岡事件の記憶をたどる」があった。「朗読の会」の仲間と「毎年あるようだ。慰霊式に参列して、フィールドワークに参加してみたいですね」と語り合った。そして2024年もフィールドワークがあることが確認され、その要綱を入手、6月に朗読の会の6名が大館市・花岡に行くことになった。
 6月29日午後の「フォーラムin大館」から始まるほぼ二日間の現地訪問は感動に満ちたものだった。5名の様々な面からの訪問記は、8月の『思想運動』紙に掲載された
[iv]
 関係者・遺族を含め、多く人々の粘り強い努力を経て、裁判を経て、2000年東京高裁で和解が成立した。和解条項に、鹿島建設と中国人殉難者聯誼会の間で次の共同声明が確認された。「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、……強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設はこれを事実として認め、企業としてもその責任があると認識し、当該中国人及びその遺族に深甚な謝罪の意を表明する」
 これとは対照的に、日本政府はその責任表明をかたくなに拒んでいる。2021年3月(花岡・大阪の)中国人の元労働者たちが日本政府も賠償責任を負うべきだと訴えた裁判で、最高裁は元労働者側の上告を退け、敗訴が確定した。一審の大阪地裁は2019年「日本政府の国策で連れてこられ、重労働に従事させられ多数の中国人が命を落とした」として、国策による強制連行の事実を認めたが「昭和47年の日中共同声明で、戦争で生じた損害について個人が賠償を求めることはできなくなった」として訴えを退け、2審の大阪高裁も同じ判断を示した。

 1989年から続く大館市主催の慰霊式と、フォーラム、フィールドワークへの初めての参加は、『花岡ものがたり』を超えて、現代に生きる人々の意志を学ぶ機会になった。とりわけ2010年に開館された花岡平和記念館
[v]の存在とその活動は、まぶしいほどの輝きを持っている。それは侵略戦争がもたらした悲劇をのりこえて、日中人民の友好平和をもとめるすべての人々のよりどころとなることを示している。
 「ハナオカ」って何ですか。2023年初夏のころ、私は聞いたことがない言葉を聞いた。華岡青洲の華岡? いや、秋田県大館市の花岡。それから1年半、不明を恥じ、いくつかの資料
[vi]に目を通すことになった。私は今や、その運動の深さに震えるほどの敬意をもって、学習と交流を深めていきたいと願っている。



[i]野添憲治編、新居広治、滝平二郎、牧大介『花岡ものがたり』(お茶の水書房1995年)など
[ii]『花岡ものがたり』朗読の会編・上演の栞『連環画・花岡ものがたり』(2024年)
[iii]池田香代子編著『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版2021年)
[iv] 『思想運動』紙1103号(2024年8月1日号)
[v]NPO花岡平和記念会編『花岡平和記念館 ―平和を心に刻む―』(花岡平和記念会)
[vi]松田解子『地底の人々』(『松田解子自選集第六巻「地底の人々」』(澤田出版・民衆社2004年。小説「地底の人々」「骨」・記録「花岡おぼえがき」など)など


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「七月八日、猛暑日」黄英治(ファンヨンチ)

 三上 広昭

 

(チェ)(ヨン)(ジュン)()美雪(ミソル)は築49年のマンションに暮らしている。一緒に暮らしていた二人の息子は朝鮮大学と同短大を卒業してそれぞれ自活している。蔡龍俊は在日K青年同盟→民主統一連合など勤めた後いまは著述を中心に、河美雪はマンションのローン、子供の学資にためにトリプルワークをしていたが今は週19時間以下の特別支援学校で働いている。
 マンションの西面を常磐線の快速線と緩行線が走り、ひどいときには間断なくすれ違い、その騒音は凄まじくヨンヂュンは〈魔の時〉とよんでいる。
 
夏の暑い日(七月八日)買い物に出かけたときに友人の張香淑(チャンヒャンスク)とばったり会い夕方一緒に暑気払いする約束をする。ヒャンスクは駅前に張香淑税理事務所を構えている。県の税理士会や総連系の人権協会の役職をこなし、本名を出して大丈夫かという問いに「この名前しかない」「要はどれだけ仕事ができるか」だと平然としている。
 スーパーでの買い物を済ませた二人は昼食を食べようとした時「安田(やすだ)(たく)()銃撃された」という連絡を息子から受ける。テレビでは次々とニュースが流れている。朝鮮高校の高校無償化制度からの排除などから二人は安田巧三を嫌っていだが、二人がまず思い浮かべたのは「犯人が在日だったらどうしょう……。もしそうだったら、わたしら、ヘイトの嵐におそわれるよ。」ということだった。
 
ここは在日のひとが持つ不安や恐怖心を理解しないとわからない。日本人は「日本人だから」狙われるという恐怖心はない。
 プロレス中継でリングアナウンサーが「「金一〈こと〉大木金太郎」と呼んでいたことについて、さらには森崎和江が「(キム)()()(寸又峡温泉立て籠もり事件の犯人)のまるはだかのおしり」といっていた言葉の意味を思い出す。
 
夕方に会う予定のヒャンスギも事件への不安から用事を切り上げ、事務所を臨時休業にし、オモニに戸締りをするようにして二人の所に来た。ネットでは早速〝ネットウヨ〟らが犯人は在日だという情報を流し、それが拡散されていく。ようやく犯人が日本人(海上自衛隊にいた)だとテレビが報じてもネットでは「帰化すれば……」と勢いは止まらない。ネットがマスコミを凌駕している時代が反映されている。
 ヨンヂュンはパレスチナでも生きるためには「パレスチナ人だけど、パレスチナ人じゃなくなればいい」と考えもあるとOさんの本のはなしをすると、ミソルは自分たちが子供を朝鮮学校に入れることで親族との仲が気まずいことになったと語る。それは〈〇〇でさえなくなれば……〉ということは同じではないか。その話を聞いたヒャンスクは張香淑税理事務所としたのは無意識に「ここに朝鮮人がいる」だったのだと気づく。
 
三人は明日また暑気払いをしようと約束する。だが、ヒャンスクがドアを開けるとやはり〈魔の時〉の騒音が三人に襲い掛かってきた。

 
 『架橋』VOL 35 「在日朝鮮人作家を読む会」  2024年10月30日

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3.11菅直人政権の大罪


秋沢 陽吉


  

 3.11の福島第一原子力発電所の事故時の首相は民主党の菅直人だ。2024年の国会議員の引退に際して「ありがとう、菅直人さん 原発を止めた総理大臣」と環境経済研究所のしかるべき立場の方が礼賛した。まともな民主党内閣と言えるのは菅直人内閣だけで、東電の現場からの撤退に反対し、中部電力浜岡原子力発電所に停止要請を行ったからだという。私はこれを読んで腸が煮えくり返った。フクシマで菅直人が犯した罪状を何にも知らないのだ。
 菅直人には国民を被曝から何としても守ろうとする考えがなかった。本人の著書や様々な関連本を探しても被曝を防ごうと心を砕いたとの発言は見出せない。最悪の想定では、半径250km以上の首都圏3000万人の総退避が必要とされる可能性があったが、偶然が重なって避けられた。そう菅直人は著書に書いた。最悪の事態が起きなくて幸いだったでしょう、と国民に向かって言っているのだ。原発事故が起きて人々がどれほど困っていても心を寄せる素振りはない。ましてや被曝してこれからどうなるのか心配だと考えた形跡はない。肝心要の重大政策が眼中にはなかったから、この世に決して存在してはならない原発を推進する経済産業省に対応を任せ切りにしたのだ。
 事故後ひと月も過ぎた4月22日に、年間追加被曝限度量を20ミリシーベルトというべらぼうに高い数値に上げて、避難区域の線を引き直した。それまでの1ミリシーベルトを20倍も高く設定した。つまり、20ミリシーベルト未満の地域は避難区域には指定されなかった。だから福島県の中通りの県庁所在地福島市や郡山市に住む人々が、放射線管理区域に匹敵するほど放射線量が高い地域に住まわされることになった。赤ちゃんから小さな子供までみんな一緒に。私は原発から60キロメートルの場所に住んでいる。避難区域に指定すらしなかった政府の施策の理不尽と不条理、この一点に絞って「これは人間の国か、フクシマの明日」(駱駝の瘤通信)で批判を重ねて来た。しかし、菅直人首相を名指しして政権の悪辣な施策を指摘するのは初めてだ。官僚批判に筆は及んだものの、その上層部を断罪するまで14年かかったことになる。
 事故当初に避難を命じられた原発近くの区域だけが原発事故の被害地だと思わせる政府の政策は残念ながらまんまと成功した。人々は刷り込まれたものを本当だと信じ込む。だから私たちの切実な希望や問題意識はなかなか理解されない。


  

 政府が国民を被曝から守るという重大な対策を放棄した証拠はいくつもある。最大のものはメルトダウンの事実を隠蔽したことと、SPEEDIを活用しなかったことの2点だ。通常の原発稼働だけではなく、福島第一原発事故でも東電や政府が情報を隠蔽し誤った情報を流し続けた。日隅一雄らは福島原発事故の記者会見に出席してそれらの悪事を『福島原発事故記者会見』で暴いた。東電も政府もメルトダウンを隠した。経済産業省の一機関である原発の規制当局保安院に所属するある審議官が3月12日に「燃料が溶け出している」、「炉心溶融」と発言した。メルトダウンの可能性を認めたと言える。けれども、東電も政府もその後はメルトダウンとは一切言わなかった。2か月も経った5月12日になってやっと東電と保安院がメルトダウンを認めた。そればかりか、東電も保安院も事故直後からその可能性を認識していたことが9月になって明らかになった。保安院は2号機については3月11日夜、午後10時50分に炉心が露出し、午後11時50分には燃料被覆管が破損、翌12日午前0時50分には炉心が溶融すると予測していた。予測結果は11日午後10時30分に菅首相に報告された。1号機については12日午前4時頃までに炉心溶融し、3号機については13日午前8時過ぎに炉心溶融すると解析していた。
 「メルトダウンが生じれば、核燃料の被覆管など放射性物質を閉じ込めるものが失われ、さらに高温の燃料が原子炉圧力容器、格納容器を破壊することを考えなくてはならない。そして原子炉内で水素爆発や水蒸気爆発が発生した際には、大量の放射性物質が広域に飛散する恐れがある」。電源を喪失しステーションブラックアウトの緊急事態になったのだから、こうした経過を当然認識していた。だからこそ政府が電源車を手当てするなど懸命に努力し、ベントを東電に命令し首相自ら原発近くを視察したのだ。14日に3号機が爆発すると、枝野幸男官房長官は、「1、3号機が炉心溶融を起こしている可能性は高い」が、「しっかりモニタリングを続けており、人体に影響を及ぼす可能性はない」と言った。メルトダウンという用語を使わず、炉心溶融を起こしている可能性は高いと悪質な言い換えをしてごまかした。さらに被曝という人体への影響が生じる可能性はないと大噓をついた。このように政府はメルトダウンとは認めずに、放射能汚染の真実を伝えずに次から次に国民を欺き続けた。あろうことか翌年菅直人元首相はメルトダウンとは知らなかったと雑誌のインタビューで平然と白を切った。住民を被曝から何としても守ろうとする姿勢は菅直人首相にはなかったのだ。「政府としては、メルトダウンの可能性を認識しているのであれば、避難区域の拡大、もしくは大規模な避難に備えた準備をする必要があった」
『福島原発事故記者会見』)。しかし政府の避難措置はあまりに遅すぎたし、狭すぎた。
 もうひとつ避難に関して重要なのはSPEEDI情報の取り扱いだ。SPEEDIは緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムの名のとおり事故時に放射性物質がどのように拡散するかを予測するものだ。この結果を基にして避難範囲や避難経路、被曝の影響を軽減するための安定ヨウ素剤配布の方針などを決めることとされていた。事故直後からシステムは運用され多数の予測データを持っていたにもかかわらず、一切公表はせず活用もしなかった。「政府が3月11日以降に出した避難指示は、本来ならば放射性物質の拡散予測、およびモニタリング結果に基づいて区域を設定する必要があったにもかかわらず、同心円状での区域設定がなされた。これはSPEEDIの結果が政府内で共有されなかったためである」。(『福島原発事故記者会見』)また気象庁も3月11日から拡散予測をIAEAに報告していたが、4月5日まで公表しなかった。(『放射能は取り除ける』児玉龍彦)。その後メディアから追及されてものらりくらりと言を左右にしSPEEDI情報を使わなかった理由を政府はとうとう明らかにしなかった。「共有されなかった」とは穏やかな言い方に過ぎず、活用する考えがなかったのだ。
 政府の避難指示の流れを追う。3月11日午後東北地方太平洋沖地震発生。約5時間後に緊急事態宣言を発出し半径3km圏内に避難指示、半径10Km圏内に屋内退避指示。翌12日午前3時にベント実施を公表。約2時間後に半径10km圏内に避難指示。午後3時過ぎ1号機原子炉建屋が爆発(原子炉圧力容器が破損)。約3時間後に半径20km圏内に避難指示。3月14日正午前3号機原子炉建屋が爆発。翌15日午前6時頃4号機原子炉建屋爆発、2号機圧力抑制室、格納容器破損。午前11時に半径20~30km圏内に屋内退避を指示。(『国会事故調報告書』) 政府は隠していたが、メルトダウンとメルトスルーが起きていたから相次ぐ爆発が生じたのだ。どの原発がどんな原因でどんな惨状を呈したかを未だに政府が公表しないから、詳しい実態は不明のままだ。事故から数日の間に避難区域を決定したのは官邸5階の中枢で菅直人首相が決めた。「根拠なき避難区域の決定」だとして、「合理的な根拠に基づく判断とは言い難い」と『国会事故調報告書』は断じる。避難は放射性物質からの防護を目的とする、住民の被曝を防ぐ唯一の手段だ。事故の進捗や汚染状況を把握した政府が、避難の範囲と時間を決めて指示を行う責務を有している。けれども避難は汚染状況に基づいたものではなく行き当たりばったりの思い付きだった。その後も政府は20km圏内までを避難区域とすることに強く固執した。30kmまでを屋内退避としたのは、被害を少なく見せるためだろう。チェルノブイリ原発事故の30kmより狭い範囲だとしたい思惑もあったと思われる。つまるところ政府が責任を持つべき避難区域をできる限り狭くしたいという方針に基づいたことにほかならない。広範な汚染地域を切り捨てて人々を見捨てたのだ。

  3

 その他の証拠の幾つかを次に列挙する。屋内退避は本来3日ほどなのに長期間継続したため、住民の生活に困難が生じた。だから南相馬市長が屋内退避による窮状を世界に訴えた。すると、政府はようやく10日後に自主避難勧告を出した。住民の判断に任せて責任を放棄したのだ。自主避難なのだから政府が賠償はしないという意味だ。
 川内村に富岡町と合同の災害対策本部があり、14日に1度は翌日に避難すると川内村長が決めた。居合わせた富岡町長が原子力安全・保安院に衛星電話を使って問い合わせると、保安院のナンバー2が「絶対、原子力発電所は安全だ」「だから大丈夫だ」と明言した。この発言は全くの虚偽である。原発から広く放射性物質が拡散し、原発が危機的状況にあるのを重々承知しているのに、安全だと騙して避難を阻もうとしたのだ。
 50kmも離れていた飯舘村は汚染されて高い線量であった。避難の指示はなく事故後1ヶ月も放置された。19日から県災害対策本部は放射線健康被害に関する世界的権威と称する山下俊一、高村昇の2人に放射線管理アドバイザーを委嘱した。形式は県の委嘱だが実際は政府からの派遣だ。その山下俊一らが何度も飯館村内で講演をし、さらに原子力・保安院がやってきて安心だと4月22日の避難区域の再編の直前まで言い続けたのだ。
 事故直後13日から県が7方部で行っている放射能の常時測定で、福島市が15日午後7時に通常の478倍の23・8マイクロシーベルトという高い数値が検出された。同日の午後3時の測定まで正常値で推移していたのに。県は「福島第一原発の水素爆発など一連の事故、トラブルの影響とみている」とし、「いずれの市町村の測定結果も健康に影響を与える範囲ではない」と明言した。山下俊一と高村昇が福島市で「健康にはまったく心配ない」と語った。理由はヨウ素の半減期は8日であるから減少して行くことや実際に体内に取り込む量が極めて少ないからだとした。また、屋内退避エリアを20km~30kmとした国の指示を「妥当な判断だ」とも言った。保安院は同日福島市で記者会見をした。4号機の爆発で飛散した放射性物質が福島市上空に達し、降雨により地上に落下したためだとした。防災指針で一定期間内に10ミリシーベルト以上の外部被曝が予想される場合、屋内退避の基準に達する。福島市では1ケ月程度で基準を超える可能性が出ているが、測定値が低下しているため緊急に対応する必要性は低いとした。またもや避難させずに汚染地帯への政府による閉じ込めが行われた。
 山下俊一らがいわき市で県内最初の講演をし「県民の健康に全く影響はない」と明言し、「いわき市を起点に復興に立ち上がろう」とメッセージを送った。国が決めた避難指示の圏内にしか被害はなく、その外にあるのは実害ではなく風評による被害だという考え方が明示された。政府が放射能の実態とは関係なく、いい加減に当初に引いた20キロと30キロの線を政府のすることが正しいのだから信じよと説いたのだ。
 原子力安全委員会が事故後急遽定めた暫定基準値を超えた放射性物質が検出され、ほうれん草などの農産物の出荷を制限した。山下俊一は現在の汚染された野菜を10トンぐらい食べても影響はないと断言。飯舘村の水道水から安全基準の3倍を超える放射性ヨウ素が検出されたことについては、基準値を超えている以上、飲むべきではないが、1年間1リットルを飲み続けても健康上の心配はないとした。また、半径20km圏外でも放射線量が高い数値であることについては、問題のない数値と考えていると言った。科学的に到底信用がならない100ミリシーベルト理論を根拠に、「福島市に健康被害はない、安全ということだ。安心して生活してほしい」と嘯いた。
 これが原発推進を最大の目的とする経済産業省が長年飼い続けて来た専門家とやらの正体だ。公害裁判や原爆の被爆被害で企業や国の責任を認めぬための似非科学の理論づくりや研究とやらに金をもらってせっせと精を出してきた輩だ。原発事故直後から官邸の中枢に参集して安心安全のイカさま論を説いた。

 4

 4月22日は実に重要な節目となる日付である。事故直後に半径20キロに避難を指示し30キロ範囲に屋内退避を命じた。これは放射能の汚染状況とは無関係に恣意的に行ったものだと先に述べた。その後ほぼひと月をかけて、政府は汚染状況に基づいた避難区域の再編を秘かに検討していた。そして、この日に20ミリシーベルト基準によって改めて線を引き直し、避難区域をまたしても得手勝手に決定した。それまでの1ミリシーベルト基準を20倍にも高くし、その完成形態をようやく明らかにした。100ミリシーベルト以上でなければ健康に被害はないという非科学的な出鱈目をさんざん流したうえでのことだ。
 20キロ圏内を避難区域から警戒区域と呼び方を変え、20キロ以遠でも高い汚染地域の飯舘村などに計画的避難区域という名称で、新たに避難指示を出した。そして屋内退避としていた30キロまでの区域のうち計画的避難区域を除いた比較的汚染が低い地域を緊急時避難準備区域とした。この措置によって当初の20や30キロの線がいかに汚染の実態に即していなかったかがあからさまになった。この決定によって20ミリシーベルトより低い地域はあっさり見捨てられたのだ。5ミリシーベルトや10ミリシーベルトのかなり高い地域がすべて放擲された。幾許かの期待を抱いていた私たちは心底落胆した。なぜかその10日後に「積算線量推定マップ」を公表した。事故直後から1年間にどれほど被曝するかの数値によって福島県に等高線を引いたものだ。どこがどれほど汚染されているかを全く知らされぬ闇の中に置かれていた。明かされた図はあまりに衝撃的であった。
 もう一点重要なのは、同じ日に原子力損害賠償紛争審査会を設置したことだ。この組織で原発事故の賠償に関する指針を定めることとした。後に指針に「政府による指示に基づく行動等によって生じた一定の範囲の損害」を賠償すると明示した。警戒区域、計画的避難区域、緊急時批難区域と実にわかりにくい名称にした挙句、この区域のみを賠償の対象地域として限定したのだ。避難区域の決定はその区域に限り損害賠償をすることと同義である。つまりは東電と政府が負担する金額をできる限り低く抑えるために検討を重ねていたのだ。ひと月以上も住民を被曝にさらして見殺しにした。
 政府は被曝を防護するという目的を放棄して避難の輪を狭め、被曝防護の基準を次々に高いものに変更した。そして健康被害は起こらないという言説を刷り込んだ。まさか政府がそんなひどいことをするなんて、ましてや政権交代後の民主党内閣がするはずはない。と考える人は多いかもしれない。だがまぎれもない事実である。
 福島第一原発事故は未曾有の自然災害が原因ではなく、明らかな人災で原発犯罪だ。その肝心要の避難指示について批判する論がいくつもある。人命と健康を守るべき政府が取ることができたはずの、取らねばならなかった対応策を提示したものだ。
(1) 原子力災害特別措置法に基づき、3月13日より本格的に検査を始めています。これは着衣や皮膚表面からのβ線を計測するサーべメイターを使い、住民の頭髪、着衣、皮膚、靴やリュックといった全身をくまなく調査する検査です。身体や着衣の汚染が基準値を超えた人を見つけ、必要な場合には全身除染や緊急被曝医療(安定ヨウ素剤服用を含む)を処置することになります。また、基準値を超える物品の持ち出しを防ぎ、周辺地域に汚染が拡大しないようにするといった目的があります。今回は医療関係者・研究者の協力を得て累計で3月13日から31日までの間に11万人を超える避難者や地元住民を対象とした調査を行うことができました。ところが今回の事故の初期対応では、スクリーニング基準値は従来の1万3000cpmから10万cpmに急遽引き上げられます。(略)
一歳児甲状腺等価線量が1000mSvを超えていた可能性も十分考えられます。このことは避難時にかなり大きな内部被曝がありながら、特段の処置もなく被災住民が放置されていたことを示しており、深刻な問題です。(略)
 1000cpm(IEAEが除染すべきとする基準)超が続出したと思われるスクリーニング結果を見たとき、もしも住民の安全と権利を確保することが最優先事項と捉えるとするならば、その時点で医師や専門家が下すべき判断は「より遠方への避難」であり、その科学的・医学的根拠と緊急性を明らかにすることだったのではないでしょうか。3月13日時点では原発の収束はまったく見通しが立っておらず、さらなる大放出の可能性もありました。そしてスクリーニング当初の深刻な検査結果を軽視したばかりに、3月15日以降の関東から東北にかけた広範な住民被曝を防ぐこともできませんでした。(『見捨てられた初期被曝』study2007) 
(2)政府が日本原子力機構、放射線医学研究所に動員をかけて直ちに放射線のプロに調査をさせるべきだった。また気象庁気象研究所はものすごい数の定点観測をおこなって精度の高い気象データを持っている。政府がこれらを活用していれば最も多量の放射線が放出・拡散した15日の被曝は避けられた。(木村真三「世界2011年9月号」)
(3)福島第一原発から100km以上離れていた茨城県東海村付近でさえ、ヨウ素131のガス・粒子成分による1歳児甲状腺等価(被ばく)線量は14mSvと計算されます。(略)呼吸による甲状腺被ばく線量はヨウ素131の寄与だけでも数mSvから40mSv程度の範囲にあったと想定されます。このことからも、子どもや女性については(少なくとも)100km圏外への早期避難が必要であったことがわかります。(『見捨てられた初期被曝』study2007)
(4)本来ならば事故直後から広域避難を実施し、汚染の少ない遠隔地での測定・身体除染を行う必要がありました。特に若年者に対しては入念な除染と測定、場合によっては安定ヨウ素剤の服用などが急務だったはずです。(『見捨てられた初期被曝』study2007)
(5)3月15日にヒラリー・クリントンが松本剛明外相に対して、今回のような事故が起きていれば米国なら50マイル(約80km)圏内の避難措置を取ると言った。また、17日にオバマ大統領は菅直人首相に、東京エリアに居住する米国民は同エリアから出るよう促す予定であると言った。実際同日午後、日本滞在中の米国人に対して出国勧告を発した。
 木村真三によれば、この避難の根拠はエアボーン・サーベイといって、グローバル・ホークを日本で飛ばして得られた放射線の動静を調査して得られた数値の結果に基づいているという。(世界2011年9月号)

  5

 かなり大規模な被曝被害が充分に予想できたのに、またその兆候が見出だせたのに、特段の処置もなく被災住民が放置された。知らない間に被曝させられた立場からしても、取り返しがつかないという点で深い失望を味わい、あまりに非情な政府への怒りが改めて湧いてくる。
 菅直人首相に住民を被曝から防ぐことが最も大切だという考えがありさえすれば、あらゆる手立てを講じて3月11日から測定が充分に可能だった。政府は事故直後から放射能の丁寧な計測を放棄し、初期被曝を防がなかった。放射能の汚染状況から見ると、少なくとも100km圏外へと避難させるべきであったのに、20kmという避難の区域はあまりに狭すぎた。大放出がとうに過ぎ去ってから1ヶ月も経過してから20ミリシーベルトという論外の高い基準で避難区域をようやく決定し、福島県内の放射能汚染の全体地図を公表した。その間住民はひどい被曝にさらされ続けた。
 政府は放射性物質の大放出と拡散をひたすら隠した。メルトダウンの事実を隠蔽し、避難のためにSPEEDIを活用しなかった。なぜならば、避難区域をできるだけ狭くしたいからだった。そして、ひどい汚染だと気付いて自主的に避難する人を減らしたいからだ。20、30kmという被災圏域を人々に刷り込み、原発事故の影響は原発近くにしかないという虚偽を信じさせた。ほとんどの福島県民を閉じ込めることにまんまと成功した。
 住民避難と被曝の防護について、菅直人首相は全く関心を示してはいなかった。彼の著書にも1文字も1行もない。経済産業省が行う事故後の処理を肯定し、1ミリシーベルトを20ミリシーベルトの基準に設定する棄民政策を進めたのだ。経済産業省に対してチェルノブイリ法のような住民の生活と健康を守る観点に立った政策を迫らなかった。官邸に巣くう専門家は民主党政権でも自民党政権でも変わりなく、同じ顔ぶれが生息している。菅直人政権は自民党と同様に経産省をはじめとする官僚に依拠した政権だった。官僚の支配から脱した政治主導を掲げた鳩山由紀夫政権からは大きく変質していた。自民党政権と変わりがなくなったのだ。
 安倍政権以降、政府は次々と賠償を打ち切り、原発至近の汚染地帯の真ん中にまで帰還させる。実際に帰る人が1割に満たなくても避難区域を解除したと言えれば良いのだ。フクシマを含めた国民に原発事故は終わったと思わせる政策をがむしゃらに進めている。許し難いことに、原発再稼働まで言い出した。子どもの甲状腺罹患者が200名を越えても未だに原発事故との因果関係を認めてはいない。他の健康被害を調査もしないから実態は不明の闇に隠されている。
 誤った政策の出発点である菅直人首相の棄民政策の重大責任を問い続けるべきである。決して許してはならない。取り返しがつかない人災である原発事故が起きたからといって、その非人間的な棄民政策が進んでいるからといって、その現実に抵抗は困難だからといって、仕方がないと認容し肯定してはならない。いつまでも執拗に、そのように進めるのは断じて間違いであると、たとえ小声でも言い続けなければならない。原発犯罪後まだ14年目だ。セシウム137の半減期は30年である。山や川や町中やあらゆる場所で蠢いている。


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鶴屋スーパーの夏

北山悠

 1

 大野誠は春の人事異動で鶴屋スーパー元町店に異動になった。県下にデパート鶴亀堂をはじめとするスーパー・チェーンを展開している鶴屋グルーブは、大手チェーンの進出に抗ってそれなりの経営を維持してきたが、経営不振が続いていた鶴亀堂を売却することで鶴屋グループを守る道を選択した。鶴亀堂には誠もかかわった労働組合があったが、会社は希望退職を募り、売却先の大手スーパーへの雇用継承やグループ企業への配置転換を提案してきた。身売りそのものに反対できる状況ではなく、労働組合は雇用保障を選択し、誠は鶴屋スーパーへの人事異動を希望し、自宅から通える元町店への異動となった。デパート時代の誠は紳士服や雑貨の担当だったが、スーパー業務は初めてだった。労働組合活動をしてきたメンバーはバラバラにされてしまった。
 
鶴屋スーパー元町店には一階に食料品店があり、二階には百均のテナントと衣料品と雑貨があったが、誠は副店長格で、二階の責任者となった。誠の仕事内容は、デパート時代に担当していた品目だし、流通本部のバイヤーとも顔なじみなので、それほど負担ではなかった。テナントの百均のほうは、品揃えも店員もテナントから派遣されていたので、誠はその売り上げだけを気にすればよかった。
 
誠はデパート鶴亀堂の職場結婚だったが、妻の希代子はテナントとして入っていた土産物店への転職を紹介され、その駅前店で働いていた。希代子とは同じ職場だっただけでなく、労働組合の活動を通じて親しくなった。楽天的で働き者の希代子は、ガリガリ気味の誠とは不釣り合いな小太りだった。細身の誠と並んで歩くと、人目を引いた。小太りが好みなのは、誠の母親がそうだったからに違いなく、マザーコンプレックスというやつだろうと誠は思う。希代子との結婚式は、労組の仲間や友達が集まっての賑やかなものだった。両家の両親には挨拶には行ったが、結婚式には来なかった。家同士の結婚ではないのだと誠たちは思っていたのだった。希代子には初めての子供が授かり、予定日まで二か月になっていた。
 
初出勤の日は八時半の朝礼に間に合うように出かけた。まずは店長に挨拶をし、朝礼で紹介された。その日は誠のほかにパートの主婦二人が新たに加わった。その店には誠も入れて四人の男性社員がいたが、そのほかは女性だった。テナント派遣の社員がいたり、シフト制だったりで、正確な人数は初日の誠には分からなかった。誠の仕事は、物流センターやメーカーから運ばれてくる商品検品と運び入れが午前中の仕事だった。その後はそれぞれの部署のスタッフが二次加工、ラッピング、値付けを行い、棚出しを行うことになっていた。男性社員は急に欠勤したところの穴埋めだったり、メーカーや流通本部スタッフとの打ち合わせだったり、店頭販売をする業者との打ち合わせだったりした。その日は、懐かしの歌謡曲のCD販売と贈答品のばら売りコーナーが店頭にあった。男性社員が交代で店頭販売の様子を見ることになっていた。元町店の営業時間は午前九時から午後八時までだったが、早出した誠は六時には退社することができた。初日の誠は「お客さん」のような感じで仕事を終えた。
 
誠はその日、不慣れな仕事を終えると、デパート時代の同僚と会うことになっていた。初日から定時に帰宅するのは店長にはすまない気もしたが、デパート時代同様に定時帰宅を貫こうと思ってもいた。今日会うことになっていた岡野はデパートのボイラー室にいた労働組合の仲間でもあった。鶴亀堂労組は五階までの副チーフを中心に組織されたが、そこにボイラー室の岡野まで参加するとは思いもしなかった。岡野はもう一人の年配のボイラーマンと一緒にボイラーの管理をしていたが、ボイラーの運転状況を見るのだといっては、店内を巡回して、その巡回が店内全体の把握のために役に立ったものだ。岡野はデパートを買い取った大手スーパーにそのまま雇い入れられ、同じボイラー室の仕事をしていた。
 
岡野からは駅前の居酒屋に着いたという連絡が入っていた。そこは組合活動の第二組合事務所と呼んでいたところだった。受付で岡野の名前を言うと、奥の小部屋に案内された。
「おっ、遅かったな」岡野の笑顔に迎えられた。

「誠、何にする。久しぶりだな。今日は初出勤だから、希代ちゃんも待ってるだろうによ」
「うん、あいつ、今日は棚卸しとかで遅くなるらしいんだ。ちょうどよかったよ」
「あれ、臨月も近いのに大丈夫なのか」
「あいつはデータを書き込むだけだって言ってたよ」
 
生ビールのグラスを合わせて乾杯した。岡野の女房はデパート時代の子供服売り場にいた姉さん女房だったが、子宝に恵まれなかった。いや、複雑な事情があって子供を作らないようにしているらしかった。
「ところで、今の職場どうなんだ」と誠は聞い
「デパート時代の組合仲間は、誠も知っているようにバラバラにされて、残ったのは俺ぐらいにものさ。それに、鶴亀堂からの情報提供もあったらしく、締め付けが厳しんだよ。でも、そこには全くの御用組合だけど、形だけの組合があり、俺も形だけ加入したというか、自動的にそうなってるんだ」
「そうか、そんな組合があるんだ。俺は今でも時々思うんだよ。鶴亀堂が廃業するとき、俺たち労働組合はもっと闘うべきだったんじゃないかって…・・・」
「それは無理だったよ。そもそも百貨店なんて業態はどこでも赤字ばかりで、消え去る運命にあるんだ。うちのような地方デパートではなおさらさ。時代の趨勢が闘いを許さなかったのさ。組合員の雇用不安を解消するために、鶴亀堂に再就職先の斡旋させたんだから、頑張ったほうさ」
「そうかな…」
「誠のところは元町店だったよな。あそこの鮮魚に鶴亀堂の地下にいたやつがいるはずなんだ。執行委員にはならなかったが、職場委員みたいのをやっていたはずだ。名前はたしか平井だよ。鮮魚なんで、皆にヒラメって呼ばれていたけどな。鶴亀堂が廃業する前の異動で移ったはずだよ」
「平井か、あいつは元町店の鮮魚の担当で、生鮮食品部門全体を見てるんだ。俺に挨拶してくれたけど、俺は思い出さなかったな、そうか地階にいたんだ」
「とにかく、大人しいやつだからな。ところで、今日は思いっきり揚げ物頼もうぜ。家ではほとんど揚げ物禁止だから」
 
誠と岡野は鶴亀堂時代の仲間の近況を報告し合い、お互いの家庭事情を語り合ったりした。
「希代ちゃんは順調なんだろう」
「ああ、順調だよ。そろそろ産休に入ってもいいんだろうけど、あいつはきっと職場で産気づくんじゃないかな」
 
岡野が頼んだ揚げ物がテーブルに並んだ。

 2

 何日かして誠は平井と待ち合わせて職場を出た。職場近くのコーヒーショップに落ち着いた。
「仕事はどうですか。慣れましたか」と平井が聞いた。
「まあ、なんとかやってますよ。平井さんがここに来たのはいつですか」
「鶴亀堂閉店の一年前かな。元町店で前任者が辞めて、転勤の話があり、俺もいつまでも鶴亀堂にはいられないと思ったんだ。鶴亀堂はいつ潰れてもいい感じだったからね」
「平井さんは鶴亀堂では職場委員でしたよね」
「転勤話があったときは職場委員ではなかったんだ。だから、会社もよく見ていたんだと思うよ。職場委員だったら、もめたんじゃないかな」
「なるほどね」
「俺も鶴亀堂労組ができたころは、スーパーにいる知り合いに話はしてみたんだが、いまいちだったよ。デパートに組合ができたもんだから、本部のほうからの締め付けが激しくなって、誰も及び腰だったよ」
「確かにそうだったな。俺もそうだ。職場が散らばっていたし、パートやアルバイトの人もたくさんいて、どうしたらいいかわからなかったなあ」
 
平井は苦笑いを浮かべて、コーヒーを啜った。
「あっ、誠さんは雑貨の希代ちゃんと結婚したんだったね。結婚式には行けなかったけど、楽しくやってるんですか。ちょっと意外なカップルの印象でしたね」
 
誠がよく聞く話だった。誠の自己評価はちょっと暗いほうなのに、希代子はいつも明るく、誰とも仲良くなれるほうだった。そんな希代子が職場をまとめてくれたものだった。
「今妊娠中でね、もうじきパパになるんだよ」
「へぇ、それはいいですね」
「平井さんはどうなの……」
「まあぼちぼちですよ。それより惣菜に斉藤さんって小母さんがいるんだけど、その小母さんがね、地域のユニオンに入ったんですよ。元町ユニオンって言うんですけど、元町のいろんな職場の人が入っているんです。俺も誘われているんだけど、決断できなくて……。誠さん、話してみたらどうです。でも、店長には気を付けたほうがいいな。誠さんには本部からの申し送りがあるようなんですよ」
「そう、今度話してみるけど、惣菜のバックヤードにはあまり行かないからな」
 
惣菜の調理場は、平井の管轄だったので、誠はあまり出入りしたことがなかった。
「じゃ、俺のほうから話しておくよ」
 
誠はこの小さな職場にもいろいろな人がいるものだと不思議な気がした。

 
誠が二階の棚出しをしているときだった。
「大野さんですか、私、惣菜の斉藤です」
 
バックヤードで白衣を着た惣菜の小母さんが誠に声をかけた。どっしりとした体格だった。
「ああ、平井さんに聞いています」
「今日はもう上がりなんで、時間がないんですけど、今度またゆっくり話しませんか。できたら元町ユニオンの事務所がいいかな。また、連絡します。鶴亀堂労組の人だったんですよね」
 
斉藤は笑みを浮かべていた。

 
誠が元町ユニオンの事務所を訪れたのはそれからまもなくだった。雑居ビルの五階の一室だった。遅くて小さいエレベーターが誠を事務所に運んだ。狭い玄関には履くものが溢れていて、土足厳禁がわかった。誠は「こんにちは」と声をかけた。事務所には事務机がふたつあり、コンピューターやコピー機、それに印刷機があった。中央にあるテーブルでは何人かが酒盛りをしていた。斉藤が鶴屋スーパーから買ってきたらしい肴がテーブルの上に並んでいた。
「あっ、誠さん」と斉藤が立ち上がった。
 
ほんのりと頬を赤く染めていた。
「皆さん、紹介します。うちのスーパーの副店長の大野誠さんです。あのデパート鶴亀堂に労働組合を作った人です。鶴亀堂がなくなって鶴屋スーパーの私の店に異動になったんです」
「………」
 
そこにいた人達から、「へえ」とか「ああ、この人か」という反応があった。それから、斉藤がそこにいた人達を紹介してくれた。元町ユニオンの書記長という人がいて、その他に長い解雇争議をしている人、業界紙の記者の人、不動産屋の労働者がいた。
「誠さん、ちょっと出ますか」と斉藤が言った。
「うん、それがいいね」と書記長が笑みを浮かべた。
「誠さん、晩御飯食べたの。私、もうちょっと飲みたいんだけど……」
「そうですね。僕も少し飲みたいな。今日も暑かったから、生ビールでも飲みたいですね」
「じゃ、中華でいいかしら」
 
斉藤が先を歩いていく。小さな商店街には、雑多な店が並び、怪しげな客引きの女性が声をかけていた。そのなかに中華料理店「上海苑」があった。赤い色が目立つ広い店内には、疎らな客がいた。
「この店、昼間は込んでいるんだけど、この時間は空いてるの。でも、美味しいのよ。料理人はみんな中国人だし……」
 
斉藤が隅の席に案内し、誠と向き合った。いつもマスク顔の斉藤しか知らなかった誠は化粧っ気のない顔に向き合うと不思議な気がした。
「どうしたの、私の素顔って初めてじゃない……」と笑った。
 
生ビールで乾杯をし、餃子とピータン豆腐が並んだ。
「ちょっと自己紹介するわね。誠さんより二十歳ぐらい年上かな。誠さんって三十歳くらいでしょ。私は、今は独身だけど、子供が二人いるのよ。そうだ、もうすぐ孫も生まれの。旦那と別れてから、パートの小母さんしてるんだけど、いつか小さな食堂とか居酒屋をするのが、夢かな」
「ぼくは高校出てからはふらふらしてたけど、結局紳士服のチェーン店に落ち着いて、それから鶴亀堂。鶴亀堂では若い仲間と組合を作ることになったんだけど、鶴亀堂が整理されちゃって、鶴屋スーパーに来たんです。組合作りは楽しかったけど、こんなことになってちょっと心残りかな」
 
ひとしきりそれぞれの家庭事情の交換になった。生ビールを飲み干した二人は、紹興酒に切り替えた。
「ねえ、誠さん、一緒に元町ユニオンに参加しましようよ。組合は二人以上いればできるんだから、鶴屋スーパー元町労組だってできるのよ。パートの小母さんたちも私の言っているのは理解してくれるんだけど、なかなか一緒にやろうって人がいないのよ」
「…………」
「やっぱり、誠さんも一緒か………」
 
誠は斉藤とは違う事情を考えていた。斉藤の雇用は元町店に限定して雇用されているが、誠は鶴屋スーパー本部に雇用されていたので、誠の組合加入を嫌えば、県下に展開する鶴屋スーパーのどこかに飛ばされる可能性があった。鶴亀堂の場合は別会社になっていたので別部門への異動は難しかったが、それでも出向などの名目で飛ばされた場合があった。平井にしても最初は出向だったはずで、鶴亀堂の清算を受けて鶴屋スーパーの雇用になっているに違いない。それは誠も同じだった。鶴亀堂が別会社だったからこそ、組合を組織することができたのかも知れない。誠は臨月を迎えようとしている希代子の顔を思い出していた。
「誠さん、もっと飲んで。今日は最初だから、ゆっくりやって行きましようよ。組合を作ることが目的じゃなくて、働きやすい職場になればいいのよ。私ももっと地道にやっていくわ」と斉藤は笑みを浮かべた。
「斉藤さんはどうして元町ユニオンに入ったんですか」
「私も黙っていられない性格だから、職場についていろいろ店長にも話したのよ、でもなかなか改善されず、悔しい思いをしているときに元町ユニオンのチラシを見たの。まあ、店長なんていっても権限はないんだし、上を気にしてたんじゃないかな。それで、組合を通じて話をしたら、よくなったの。それで、やっぱり組合は必要なんだと今は思っているの。それは店長にとってもよかったんじゃないかしら」
「そうですか。そんなことがあったんですか」
「私たち、パートの小母さんにとっては、年金の壁を考えながら、働いているの。会社も分かっていて、社会保険の負担が増えないようにしているわ。でも、中には手取りが増えるほうがいい人もいて、年収の壁以上に働きたいわけなんだけど、なにしろ会社がシフトに入れてくれなきゃだめなわけ。それが一番かな。でも、最近は少し変わってきたのよ。最近人手不足だから、多少の負担増になっても働いてほしいみたい。あとは時給のアップ、ずっと据え置きになってる。それと、私たちには有給もあるんだけど、なかなか取りにくいのよ。それでも、私が率先して取って、他の人にも話して順番に取るようになったのよ」
「僕も移ってきたばかりで、労働条件についてはあまり知らないんだ」
 
鶴亀堂勤務だった誠には、衣料補助が出ていた。背広が義務付けられていて、ワイシャツやネクタイの購入も馬鹿にならなかったからだ。それは組合の要求で出るようになった。それだけではなく、小さな労働環境を改善することで、労働組合は信頼されるようになったのだった。デパートに労働組合があったときには、衣料補助のような生活要求をいくつか実現していた。
「ほかにもあるんですか」
「そうね、社員割引にしてくれたらって、思っているの。一般商品もそうだけど、生鮮食品は売れ残ったらどうせ廃棄処分するんだし……。そうしてくられたら、随分助かると思うわ」
「ダメなんですか」
「ええ、生鮮食品は食あたりになったら大変とか、会社はいろいろ言うし、社員割引なんで頭にないみたいよ」
 
誠はいつになく酔った。職場の話ができたのは久しぶりだ。

 
3

 
その日、誠のスマホが鳴ったのは勤務が終わる一時間ほど前だった。
「大野さんのお電話ですか。奥さんを預かっている山城病院なんですが……」
「ああ、どうしました」
「とにかく、できるだけ早くこちらに来ていただきませんか」
 
希代子が病院に入ったのは、二日前だった。予定日が近づいていたし、誠の子どもは正常な位置ではなく、難産になるかも知れないと言われていたからだった。誠は店長に早退を申し出た。「どういうことなんだ。とにかく行ってみなよ」と店長は言ってくれた。
 
誠は裏の駐輪場で自転車に跨ると、病院に持って行くことになっていた荷物を思い出した。そこには退院するための希代子の着替えやベビー用品が入っているはずだった。誠は家に寄ってその荷物を前カゴに入れると、病院に向かった。むっとする夏の暑さが誠につきまとった。不吉な予感を覚えていた。なんでこうなんだと誠は思った。
 
ナースステーションに行くと、
「ああ、大野さん、先生からお話があります」というと、誠を診察室に案内した
誠が女医に会うのは二度目だった。
「大野さん、残念なことになりました。お腹の中から心音が聞こえません。お腹のなかで死産となってしまいました。そこで、次のチャンスのためにお子さんを産道から出したいのです。そうすれば、次のチャンスでは楽に生むことができます。奥さんはいやだと言っているのですが、もう一度旦那さんから聞いてみてくださいませんか。本当に残念なことですが……」
「分かりました。聞いてみます」
 
誠の不吉な予感は的中した。希代子は個室に入っていた。荒い息遣いをしていた。息絶えた胎児ではあったが、希代子に陣痛をもたらしていたのだ。
「マコちゃん、ごめんね。死産になっちゃったみたいなの」
「ああ、先生から聞いたよ。先生がね、次のために産道から出したほうがいいっていうんだ」
「うん、私も聞いてる。でも産声も上げない子供を産むのはいやなの。帝王切開で出してくれって……」
「そうか……」
 
長い沈黙が続いた。希代子の判断を優先するしかないと誠は思った。
「マコちゃん、分かったわ。次の子どものために頑張ってみるわ」
「ありがとう。先生に伝えるよ」
 
その間も希代子は荒い息遣いを繰り返した。誠は退院のための紙袋をベッドのわきに置くと、女医の部屋に向かった。
「どうでした」と女医がいう。
「はい、先生のおっしゃるように頑張ってみますと言っていました」
「そうですか。それはよかった。今の状況では明日には処置できると思いますので、また、明日の今頃来ていただきたいのですが……」
「はい、わかりました」

 翌朝出勤した誠は、前日の早退のお礼と死産の報告を店長にした。
「そうか残念だったな。まだ若いんだし、チャンスはあるさ」と店長は励ましてくれた。
「今日も病院に行かなくてはならないので、定時に帰宅したいんですが…
「ああ、もちろんかまわないよ」
 
誠が二階の商品点検をしているとき、斉藤がやってきた。
「誠さん、店長から聞いたわ。残念だったね。世の中には誠さんのように悲しい思いをする人はいっぱいいるのよ。元気出してね。誰よりも辛い思いをしているのは、奥さんなんだから、力になってやらなくっちゃ」
「ありがとうございます」
 
斉藤だけでなく、職場の仲間が励ましの言葉をかけてくれた。その度に誠は涙が出そうになった。誠の人生のなかでもっとも悲しく悔しい場面に居合わせたように思った。何よりも悲しく悔しい思いをしているのは希代子だと思いながらも、心のどこかで希代子を責めている自分を感じた。

 
仕事を終えて病院のナースステーションに向かった。産婦人科の廊下には何人かの見舞客が来ていて、ガラス越しに新生児の部屋を覗いていた。看護師に言うと、目当ての新生児を連れてきてくれ、対面できるようになっていた。何事もなければ、誠もそうやって我が子と対面しているはずだった。
「すみません、大野ですが……」と看護師に声をかけた。
「ああ、大野さん。奥さん、本当によく頑張ってくれました。褒めてやってくださいね。男の子でしたよ。無事に処置は終わったのですが、見ますか」
「えっ、子供をですか…。じゃ、お願いします」
「ではこちらです」と看護師が案内した。
 看護師は新生児の部屋を通り過ぎて、奥の部屋に誠を導いた。
「この冷蔵庫に入ってるんですよ」と看護師は申し訳なさそうに言った。
「冷蔵庫ですか……」
 
看護師が白いガーゼに包まれた誠の息子を抱いてきてくれた。白っぽい肌には赤みはなく、固い物体のようにしか見えなかった。髪の毛がふさふさしていると誠は思った。
「抱いてみますか」
「いえ……」
「あの、写真撮りますか」
「えっ、……」
「撮ってやってください」
 
誠はスマホを出して何枚か写真に収めた。いつか希代子が落ち着いたときに見せる機会もあるだろう。目頭が熱くなって誠は不覚にも涙を流してしまい、自分が最後に泣いたのはいつだっただろうと思った。看護師は葬儀会社が遺骨にしてくれるので、三日後にまた来てくださいと誠に伝えた。流産ではなく、死産なのでそうしなくてはならないと伝えた。
 
病室に行くと、希代子は寝ていて、誠は新生児用品を紙袋から出し、希代子のものだけを残して病室を後にした。

 
4

 鶴屋スーパー元町店に組合ができたのは、夏の終わりのことだった。店長が見せてくれた通知書には、元町ユニオンとともに鶴屋スーパー元町店労働組合の名前があった。斉藤以外にも加盟する人がいて、独自の労働組合になり、それが元町ユニオンに加盟しているのだという。団交の申し入れがあったと店長は伝えた。  何日かして誠は「上海苑」で斉藤と向き合った。
「誠さん、驚いた。私たちの職場に組合ができたのよ」
「うん、店長から聞いてる」
「この夏、とても暑かったでしょ。惣菜の揚げ物担当の人が熱中症になったの。今年は暑かったからねえ。その日、体調を崩して早退したんだけど、家に帰ってからも体調が芳しくなくてね。何日か炭のような便が出たんだって。それで、その人の話を聞いて、元町ユニオンで取り上げたの」
「そんなことがあったんだ」
「鮮魚の平井さんは知ってるはずよ。それで蛇腹のスポットクーラーを設置してくれて、それでその人が何人かを誘って元町ユニオンに入って、それで元町店の組合を立ち上げることにしたの」
「それで、どのぐらい組織できたんだい」
「惣菜部の人とレジ打ちの人も何人か。宗教団体に入ってる人を除いてはほとんどよ。もちろん正社員はいないけど……」
「………」
 
斉藤さんの様子には、あんたも入ってよという言葉を飲み込んだように感じられた。
「ところで、奥さんはどうなの」と斉藤は話題を変えてくれた。
「うん、あれから退院してね、今は仕事をしてるよ」
「惣菜の小母ちゃんたちもみんな心配してるのよ」
 
あれから葬儀屋から小さな骨壺が届き、誠たちは小さな木箱を仏壇代わりにしていた。希代子がいつも華やいだ花を飾り、その前で何度もごめんねと呟くのを誠は聞いていた。このままじゃ浮かばれないわと希代子は言って、二人目のために産声を上げない子を産み落としたんだから、次も頑張らなくちゃと希代子は言っていた。ようやく落ち着いた頃に死産の子は「誠一」と名付けられた。
「誠さん、一番悔しい思いをしているのは奥さんなのよ。世の中には流産や死産をした人はたくさんいるのよ。間違っても、奥さんを責めたりしないでね」
 
誠は斉藤さんの言葉にハッとした。誠のどこかに希代子を責めている自分がいることを感じていたからだ。希代子はいつも明るく元気いっぱいだっただけに、誠はこんな結果になるとは思いもしなかったのだ。誠の母親も、姉も驚くほどの安産だったので、今度のような事態になることを想像もできなかった。いかにも迂闊だった。
 
誠は、斉藤の組合結成の話に勇気づけられ、希代子を大切にしてくれたのが嬉しかった。

 
希代子はその日、遅く帰ってきた。お土産屋の同僚たちが希代子を励ます食事会を開いてくれたのだ。誠は元町店で買ってきた弁当をつまみながら缶ビールを飲んでいた。鉄製の階段をのぼる音は希代子のものだった。希代子はほんのりと赤い顔をして帰ってきた。
「楽しかったみたいだね」

「うん、皆に随分ハッパかけられたわ。子供授からなかったら、一生後悔するって…・・・」
「…………」
「マコちゃん、私、もう大丈夫よ」
「そう……」誠はビールの最後の一滴を飲み込んだ。
「それに、マコちゃん、職場に労働組合ができたんでしょ。マコちゃん、あんたも参加しなよ。私のこととか、家のことなんかを理由にしないでね。マコちゃんもきっと後悔するわよ。デパートの労働組合はこれからというところで駄目になっちゃたんだから、マコちゃんには心残りのはずよ。だから、斉藤さんたちのこと、話してくれたんでしょ」
「…………」
「自分がやれないのを私のせいなんかしないでね」
「そうだな」
 
誠は希代子に見すかれていたことを思い知らされた。確かに誠は踏み込めない理由を探していたのだ。平井にも話してみるか、誠はそう思った。なぜかしきりに斉藤の笑顔を思い浮かべた。


【デジタル労働者文学 目次へ】


三十八度の攻防

村松孝明

目が覚めていつものように起きると、体がフワフワしてなんだか変な具合だ。体温計をさがして測ると三十八度五分、妻のコロナが感染したに違いない。妻は昨日熱を出して近くの医院で、コロナとインフルエンザの検査を受けてコロナと診断された。鼻に綿棒を突っ込まれ悲鳴を上げるほど痛かった。その乱暴な扱いで鼻血が出たと怒っていた。あんなひどい医者だとは思わなかった。藪医者めぇとわめき、高熱の割には元気だった。藪医者が出した大量の薬は飲む気になれないと飲まずに、一日寝ただけで今朝から起き出して洗濯をしている。俺はそんな乱暴な検査は嫌なので、妻の薬を飲んで寝た。
 どれほど経ったか見当もつかないが、目覚めると真っ暗になっていた。街灯や隣家の光が全く入らない。時間を確かめる気力もなく長い間、暗闇の天井をぼんやり見ていた。すると薄っすらと明かりが見えてきた。中央より少し左の上に太陽の光が、いや、目のようだ。瞳の部分にフィラメントがはっきりと見える裸電球だ。そこから弱々しい光が放出されている。この奇妙な発光体の正体は何なのか。その光に照らされて少しずつ凹凸が見えてきた。目を凝らさなければ、何なのか見極められない。辛抱強く見ていると弱々しい光でも読み取れるようになってきた。光源の下には苦しいのか悲しいのか、大きく口を開けていなないている馬がいた。その左側に太い角を持った獰猛な牛が現れた。牛の下に母子だろう、ぐったりと死んだ赤ん坊を両手で抱きかかえて、天に向かって絶叫している。垂れ下がった黒い髪が床までついている。違う。これは獰猛な牛の肢だ。髪は向こう側に白く見えている。胸は、はたけ二つの乳房が垂れている。赤ん坊に乳を与えていたのだろう。
 
牛と馬の間の闇を凝視すると、徐々にテーブルが見えてきた。テーブルの上に羽を広げて、嘴を上に向け悲鳴を上げている鳥が現れた。ハトだろう。平和の象徴だとすれば、平和が壊れたということだ。
 母子の下にはバラバラに解体された兵士がいた。馬の蹄に首を載せて絶命している。折れた剣をしっかりと握った腕が、転がっている。鍔のあたりに一輪の花が咲いていた。荒廃した領土と荒れた兵士の心にも、花が必要だったのだろう。
 
もう一度馬に視線を移した。馬を照らすようにランプを握った手、その手をたどると長い腕が窓から伸びている。女の腕だ。その女の右には両手を上げて万歳する女の姿が浮かび上がってきた。上を向いて口を大きく開けて悲鳴を上げている。この顔は先ほど見た母の表情にそっくりだ。これは万歳ではないぞ。高所から落下しているのだ。建物の窓が見え、その辺りから炎が上がっている。火災が起きているのだ。空爆を受けて民衆が逃げ惑っている。女はその大勢の中の一人にすぎない。下の方を見ると人間の脚や馬の肢が見えて来た。なんでこんなに暗いのだろう。太陽のような裸電球の光が絶望を浮き上がらせているのだが、同時に微かな希望でもある不思議な光だ。
 俺はこの部屋にこんな仕掛けが、隠されていたとは知らなかった。高熱が隠されていたものを浮き上がらせてくれたのだろうか。不思議な現象を漠然と考えているうちに、また眠りに落ちた。意識が戻り天井を見るとまだ暗い。深夜なのが何の音も聞こえない。耳鳴りだけが聴こえる。俺は暗闇に手を伸ばして、妻が用意してくれたペットボトルを掴むと水を飲んだ。乾き切った喉、水を飲み込むと刃物で切られたような鋭い痛みが走った。横になってその痛みに耐える。まだ熱は上昇しているようだ。暗闇の中で天井がぐるぐる回っているような気持ち悪さが続く。何も考えずに耐える。目を閉じても開けても暗闇なので変わりないが、どちらが楽か試してみる。そのうち閉じているのか開けているのかあいまいになっている。
 誰かがマッチ棒を擦った。その光に数名の男女がぼんやりと浮かんできた。何やら真剣に議論をしている。だんだん鮮明に見えてくる。彼らの会話も聞こえてきた。日本人ではない。彫の深い白い顔、聞きなれない言語でしきりと論じているが、なぜか意味は通じている。岩盤の固い島に深い穴を掘って、原子力発電から出た核の廃棄物を十万年封じ込めるという。その間に掘り起こされないようにするには、どう伝えたらよいか侃々諤々の議論をしているのだ。
 年配の太った女は入り口の石に、警告文を刻むという。
「なるべく簡単な文字がいいですね。『危険‼ 掘るな‼』ぐらいでいいと思います。他に紙などに何を埋めてあるかを、しっかりとした資料として残します。英語やエスペランド語だけではなく、中国語、スペイン語、アラビヤ語、フランス語、ヒンディ―語、インドネシア語など世界の主な言語で残すのです」
「千年二千年単位ならともかく十万年となると言語の意味が変わると思います」
 
と言い出したのは、長髪の少女のような細身の女た。
「言語は生きています。例えば日本語のヤバイという言葉は危険や不都合な状況が予測されるようすで、状況や具合が良くない意味にも使われます。ところが若者の間では、この料理はヤバイなどと言います。料理が危険という意味ではありません。この料理は最高であるとか、すごくいいという意味で使うのです。いずれ本来の意味で使っていた人たちは死んで、若者たちの世代になります。そうなれば本来の意味で使う人はいなくなります。三十年も経てば反対の意味になってしまいます。ですから『危険‼ 掘るな‼』は『宝の山‼ 掘れ‼』という意味に変わっている可能性もあるのです」
「それは私も考慮しました」
 とさっきの女が続ける。
「言語管理局を創設して、例えば百年ごとに、それぞれの言語を修正します。どんなことが起きようと必ず修正することを、厳格に申し送りします」
「言語では十万年後まで正しく伝えるのは、どうしても無理があると思います」
 細身の女が反論する。
「それよりも絵や漫画のような視覚に訴えた方が、効果的です。絵で言えば恐怖心を与える、例えばムンクの叫びのような絵です。あれ以上の絵があればいいのですが……。漫画もいいと思います。四コマ漫画でここを掘ると大変な事態になる。バタバタ生き物が死ぬ絵を、文字は使わずに表現するのです。日本の漫画家にお願しましょう」
 
中年の髭面の男は重い口を開いた。
「十万年後、今の人類は残念ながら消滅していると考えるべきです。氷河期を生き延びるのはかなり難しい。その前に核戦争で人類は消滅しているかもしれません。おそらく新しい知的な生物が現れているでしょう。その場合、知的好奇心が危険なのです。彼らは必ず掘り起こすことを考えます。好奇心を抑えるだけの強いメッセージをどう伝えるか、とても難しい問題です」
 
小柄で骨ばった初老の男は、
「絵にしても文字にしても、どう十万年持たせるかが問題ですね。紙で残せば酸化する。石に掘っても風化して、何も残らない。ましてや核戦争でも起こったら、木っ端微塵です。どのような形にして残すか、とても重大な問題です」
 なぜかマッチを擦り、燃え尽きるとまた、マッチを擦る。暗くなって明るくなり、また暗くなる。その繰返しだ。議論はつきることなく続いている。
 マッチの炎が揺れるのを見ていると、また眠ってしまった。意識が戻った時は、まだ暗闇だった。天井の闇を凝視するとまた少し光が現れてきた。右側が薄っすらと赤い。それがだんだん濃い赤になる。火災が起きているのだ。物が燃えているのとは違う。大気が燃えている。その燃え盛る大気の中に、裸の人間が大勢いた。どの人も爆風にあおられて髪はばさばさで、ほとんどが全裸だ。折り重なった死体、そのかたわらに裸の赤ん坊が手足を広げて、眠ったように死んでいた。母親が両手で抱きかかえようとしている。その隣では親子が、死体に向かって手を合わせる。端には四人の女が全裸で、下を向いて呆然としている。死んでいる人も、生きている人も裸足で裸のままだ。服は爆風ではがされ、靴は履く暇もなく焼け出されたということか。こちらに背を向けてやせこけた死体が転がっている。栄養状態が悪いのか、後ろからでもあばら骨がくっきりと浮き出ている。大勢の人たちが真っ赤に燃える大気の中で蠢いている。地獄絵だ。
 
燃え盛る大気の境界には、大八車に乗せられた怪我人が救い出されている。それを囲むようにして裸の若い女とぐったりした赤ん坊を抱えた男。大八車を引っ張るたくましい、もんペ姿の女。女は藁草履を履いているが、その横で上半身裸の男は紐を右肩にかけて引っ張っているが裸足だ。女の足元には痩せこけた犬がヨタヨタと歩いているが、今にも倒れてそうだ。
 その先には天秤棒をかついた男が二人。先頭は鉢巻を巻いて上半身裸の初老の男。あばら骨が浮き出ているが、たくましく感じられるのは、前を見る目がしっかりしているからだ。戸板に乗せられた若い女の父親だろうか。しっかりと前を向いて迷いがない。ちょっとくたびれた体だが、大地に足をつけて全身に力をみなぎらせている。どんな困難も乗り越えるぞと言った強い意志が感じられる。そのたくましさが全体を引っ張っているようだ。ズボンに脚絆を巻いて、天秤棒を右肩で担ぎ左手は戸板の紐を掴んで揺れないように気を使っている。草履を履いているが後ろを担ぐ若い男は裸足だ。前の男より背が高く少し背中を丸めてバランスを取っている。この男も右肩に担ぎ左手は戸板の紐を掴んで揺れを抑えている。戸板に乗せられているのは、若い男の妻だろう。その女は進行方向とは逆に、夫の方に頭を置いて横たわっている。モンペ姿で横向きになり丸裸の赤ん坊が、落ちないように手を差し出している。胸には白い布が縫い付けられていて、名前や連絡場所が書かれているのだろう。いつ行倒れになるかもしれない状況下に置かれているのだ。うつむき加減の夫は妻の状態をのぞき込んでいるようだ。
 
それからまた眠りに落ちた。俺は宇宙の広がりの中で、球体になって浮かんでいた。その自分の姿を少し離れた場所から見ているもう一人の俺がいる。右も左も上下もない、自由と言えばこれほど自由はない。万有引力でお互いに引き合って、全体のバランスがとれている。静かな空間だ。気が遠くなるほどの過去に発した光が、このちっぽけな俺の身体に届いている。孤独である。俺が今受けとめている光は二十億光年の彼方から届いているらしい。いや、百億光年かも知れない。いくつもの偶然の重なりの中で、俺は今ここにこうして浮かんでいる。その奇跡に涙が溢れそうだ。
 つけっ放しにしておいたラジオの音が聞こえていた。途切れ途切れに音は聞こえていたが、意味のある言葉として認識できた時、国民的詩人が老衰のため九十二歳で亡くなったと報じていた。俺は宇宙を漂っている孤独な老詩人を思った。
 
赤ん坊の元気な泣き声が聞こえてきた。隣家の赤ん坊が目を覚ましたようだ。ゴミ収集車の音、犬の鳴き声、日常の生活音がやっと戻ってきた。今までの暗闇はいったい何だったのか。部屋は明るくなっていた。いつもと同じ何の仕掛けもなさそうな天井板。今までの不思議な現象は、この天井に映されたのか、俺の瞼に現れたのかあいまいになってきた。どのぐらい眠っていたのだろう。恐る恐る立ち上がると、少しふらつくが歩けそうだ。熱も下がったようで気分も悪くない。水しか飲んでいなかったので腹も空いてきた。ベランダに出ると冬の弱々しい日差しが、やたらと眩しい。目がくらんで立ち止まる。本物の太陽の光は久しぶりだ。空は雲一つない青空が広がっていた。ほぼ正面の富士山が遠く雪をかぶってくっきり見えた。俺が思わずくしゃみをした。電線に鈴なりの雀が、一斉に飛び立った。

参考資料
 カンヴァス世界の名画十七 ピカソ (株)日本アート・センター
 原爆の図 丸木位里・俊 角川書店
 続続・谷川俊太郎詩集 思潮社
 
映画 100,000万年後の安全 監督マイケル・マドセン 


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(編集委員・後記)

トランプが再登場した。接戦どころか圧勝し、上下院選挙でも優勢なのだという。日本製品への関税引き上げと米軍基地負担増を要求してくるのは確実だという。朝鮮有事や台湾有事ともなれば、日本は参戦を強いられ、日本本土も攻撃対象となるだろう。中国、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との友好関係を作ることが切に望まれる。日本国憲法は国際紛争を話合い=外交で解決せよと定めていることを忘れてはならない。
 デジタル労文の第二号が無事に配信された。会員外からの寄稿も寄せられた。知名度が上がりつつある証しだろう。日常生活では横書きのほうが優勢だが、文学の世界では縦書きが主流。特に短歌や俳句などの韻文はやっぱり縦書きがしっくりする。デジタル労文の課題のひとつとして考えなくてはならないと思う。順調に第二号が出たのは嬉しい限りだ。(北山悠)

珠玉の佳編、小説『夜明け前の夢』小林晶が掲載されています。主人公伸行と母の物語。「気狂いの母が」「母は発狂した」「その時の母は気違いではなかった」。実の母を伸行がこう語ります。いわゆる差別語が衝撃をもって突き刺さります。世間の冷たい仕打ち。病む人を理解しない社会。人世に居場所がない病者。その言葉だからこそこれらの一切を鮮やかに浮かび上がらせます。精神病院に収容されたものの、入院費が払えなくて家に戻ります。「家に一人残された母が心配で伸行は兄弟たちと入れ替わるように家に帰った」。その心根が語る母の姿のひとつひとつが、激しく胸を打ちます。過酷な宿命を生きる母と子をどう呼べばよいのでしょう。哀切… 挫けぬ精神… 崇高な魂…
 辛い、苦しい、悲しいといった感情の表現は一切ありません。「涙がしきりと目尻から流れた」といった行動によって表します。だからすべての場面がくっきりと心に刻まれるのです。かなりの腕前の書き手だと思います。この世の真実を描く20枚の短編。何度も読み返したくなる魅力をあふれるほどに持つ作品です。是非ともお読みください。(秋沢陽吉)

▼今回も2編の詩の投稿がありました。ありがとうございます。
 中山イツさんの「なめくじ」は自分をナメクジに重ねあわせ、そこから抜け出そうと苦闘している姿を詩にしている。高校中退し自分が出るはずの成人式をネットのニュースでみて、「独りよがりに絶望していた自分」に嫌気がさす。そして今は「暗鬱な疲労だけを背負い家路に帰る」日々。ラーメンをめぐるお父さんの会話、私はお父さんの気持ちのほうがよくわかります。
 竹島伊佐さんの「お昼時」は平凡な詩なのですが最後の一行で面白くなります。駅前の定食屋には様々な人がいる/スーツを着た人/作業着の人/おしゃれな人/学生服の人/ジャージの人/和服の人/テーブルでもカウンターでも/皆一様に/(はら)(ごしら)えを身につける
 あまりにも短いので追加の数篇を送ってもらいましたが「みたまま」「感じたまま」で編集員で協議した結果不掲載とさせてもらいました。ぜひまた応募してください。(三上広昭)

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