本文へスキップ

労働者文学会 
労働と生活にねざした文化
                      
                      



 
 
 白川 一

宝くじ当たれと思う秋の夕

秋暑し特高騙る詐欺電話

なかなかに手強き痒さ秋の蚊は

暴れ蚊を許さず夕の草刈りに

秋の蚊は敬老の字も知らざるか

秋暑し季節外れの竹の花

稲光巡洋艦は黒く浮き

その灰を塵と見遣れば蝶の立つ

赤とんぼ暮れゆく陽さし飛び行けり


小澤康秀

勿忘草忘れる事の多き日々

青梅の浅漬け食みて目をつむる

紫陽花の終りの色は老の色

五月富士水車の廻るそば処

青嵐爭い盡きぬ地球星


加野 康

寂しさをぶらさげて一つ残り柿

今日を生き明日を知らぬ身秋刀魚焼く

儚なくて散る人生もよし遠花火

新蕎麦の謡い文句に暖簾(のれん)揺れ

蕎麦猪口を粋にかまえて残暑呑む


山寺博丸

処暑過ぎてハンディファンの乙女たち

秋高しAI時代の米騒動

炎天下介護に通う足重し

原爆忌「安上り」と言う馬鹿が増え

風吹かず季語も溶けゆく熱波かな


川柳  小林 晶

トランプとグルでガザ撃つネタニエフ

官邸にポーズで埋める原発土

猛暑日や今年も咲いた彼岸花

ウクライナ灯り掲げる安青錦

がんくびを並べる自民総裁選


増田勇

いつまでか九月下旬で炎天下

暑さなか作文したよ私の宿題

九月だが夏だ暑さだ毎日だ

冷房だ天丼まだだ夏終らない

暑し暑し下着一枚恥がない

ものごとを忘れに忘れ手が出ない

書いた場所忘れっちまいまた新た

今日もまた道を忘れてウロウロウロ

確かここいやそうでないはてどこだ

大宇宙起源がどこかわからぬまま


野沢英智

クビアカにモンクロで内憂外患

(かさ)を増すフラス根元に桜萎え

芽蜩(ヒグラシ)の声なき夕の空虚さよ

虫の音をBGMに夕餉採る

長丁場汗腺全開(しの)ぎきる

*クビアカツヤカミキリは外来種のカミキリ虫で成虫は全体が黒、首部のみ赤色、全体に光沢がある。おもにサクラ類の樹体内に穿し木部を食害する。モンクロシャチホコは大型の蛾で幼虫がサクラなどの葉を食害する。熊谷スポーツ文化公園、熊谷さくら運動公園などの公園・緑道、市内の小中学校でもクビアカの被害は甚大で、スポ文に隣接する側道のソメイヨシノはほぼ全枯れしてしまった。今期、市内江南地区の小中学校、看護学校では木部をクビアカが葉をモンクロが同一のサクラの木を同時に食害していた。初めて見る光景だった。
*樹幹穿孔虫害はコスカシバ、コウモリガなどの蛾の幼虫によるものもあるが食入孔から排出される木くず状の虫糞を一般にフラスと呼称する。中でも旺盛に食害するクビアカのそれは根元廻りに大量に堆積される。


篠原汀路

夏草や婆這いつくばって草むしる

海遠き地に住み重ねる寿司の皿

参院選ノウゼンカズラの一面落花

落雷か轟音ゴキブリ何処へか

しおれたるトマトをばっさり一しずく冬までに言わねばならぬ「最後までありが と」

 
 

徳江元雄は大正九年の生まれです。今生きていれば百歳を超えます。私は山形の、彼は群馬の文学伝習所に学ぶ縁で、生前に二度か三度主宰する小説家井上光晴の東京府中市にある自宅で会っています。ただこれといって格別の話をしたことはありません.
 歌集を出版したと聞き、連絡を取り送ってもらいました。約千首を収めた生涯でただ一冊の「歌集意地悪き鶏」(一九九三年五月影書房発行)に私は激しく心を揺さぶられました。「鶏飼ひ」と自らを呼ぶ農業に携わり一生を過ごしました。その仕事について、また、生きる悲しみや特異な家族ゆえのいさかいなど、どの歌も私をつかんで離しませんでした。今でも歌は少しも古くなっていません。
 私へのお礼の返事には、ぎくしゃくした文字で次のとおり書かれていました。「はじめてのことで不安で仕方なかったのですが皆様に励ましていただいて少し心も落ち着いて来ました。全く驚くほどの好評をいただいてゴウマンになってはいけないと自分に強くいいきかせている毎日です」望外の高い評価に喜びを抑えきれないでいる興奮が伝わってきます。一方、自らのナルシズムをえぐっていくこの人の性向の一端も感じられます。
 それからしばらくして、歌集にゴム印で押された群馬県佐渡郡玉川村の自宅に電話をしたりしました。確か老人ホームに入所している時も話しました。                          
  2
  虚弱児の吾がため祖母は鶏飼ひきつづきつづきて吾の養鶏
  幼くて吾ヘルニアを病みたりき人に言へぬかなしみ早く知りたり
  虚弱児の吾が殊更の泣虫に常争ひき吾押し黙り飯を食ひにき
 「村内の医師が五歳まで生きられないのではないかと言った程の虚弱児」(あとがき)だったといいます。
 こうした事情もあり、養鶏を生業とするようになったようです。
  桜の花片糸に通し椿の花を紐に通し友と遊べぬ少年なりき
  掘深くひそかに咲ける水車前草の花吾は幼く心寄せにき
  学校を怠け利根川に鴨の巣を見つけし喜び今に忘れず
 幼い子供の頃にすでに水車前草の花に心を寄せまた鴨の巣を見つけた喜びを歌っています。農村が未だ汚され穢されていなかった時代の自然を享受できる得難い資質を持っていました。
 だからこそ次の歌のように、働く姿の傍らにある麗しい光景を主題とすることができたのです。
  小千鳥は常にいづこにか鳴きゐたり霜けぶる土手を牛引きゆくに
  風にのり利根の瀬音の高き朝心すがしく鶏舎に向ふ
  夕餉終へ育雛小屋に戻る道麦の芽そよぐ月の照る下
 牛を引き鶏舎に向かい育雛小屋に戻る。その折の風景描写はあまりに美しく心が洗われる思いがします。
  二反歩の田を買ひ得たり鍬を買ひ来て籾を播くなり
 働いて蓄えた中からようやく田を買うことが出来ました。わずか二反歩であっても自分のものにできたこのうえない喜びが、新しい鍬を買い籾を蒔くという行為に晴れやかに表現されています。新たな大地を手にした神にも匹敵する気分ではなかったでしょうか。
  バラの接木百本ばかりやり終へてもう儲けた様に楽しい
  麦の間にたちまち硫安はとけてゆく心たのしく撒きてゆくなり
  吹きさらす麦野の光も今日は楽し人に言へぬたのしきことあり麦の作切る
 働くことはこんな風に楽しいものですが、労苦もあります。
  痛き腰にカイロを当てて朝より雛の嘴焼き切りて居り
 農作業は彼にとっては過酷であり、そのせいで六度も骨折をします。
  枇杷の花人の気付かず咲きつぎて吾が折れし足癒えつつありぬ
 生き物と共に暮らす仕事の中で、生きとし生けるものの根源的な命の悲しみを痛切に知らされもします。
  ふるえ居る仔牛押へて鼻輪を通すこのかなしみのながく残らむ
  淋しげに一羽鳴きゐるかのヒナは死にゆくものと馴れて思ひぬ
  八千のヒナの凍死の夢に覚め動悸はしばしおさまらぬなり
 また、心安らぐひと時もあります。
  一万羽のヒヨコ声なく寝静まる心安けく吾も眠らむ
  小屋深く寝たるヒヨコ等月射せばいつか窓辺に移り来て寝る
  逃げ出して居りたるヒナも夕暮れは鳴きて寄り来る吾が足元に
 こんな風に、売り渡すために育てたヒヨコと心を通わせもするのです。
 農業に真剣に取り組んで飯を食ってゆく人の短歌。他にもあるかもしれませんが、決して平凡ではなく、私には独自の光彩を感じられてなりません。
  易々と土に親しむと人は言ふに吾には一生言へぬ気がする
 仕事や暮らしを見詰める冷徹なまでの眼差し。他の人間が近づけない領分から発せられた歌に違いありません。
  こうした歌に触れてゆくと、貴族の作った歌ばかりを称揚する教科書に載るごとき古典文学なんぞ今は読む気がしません。

  銃持ちて人ゆきたるぞ草深くひそみてよ鳴くことなかれ

徳江元雄にとって雉子が特別の存在なのかもしれません。殺されぬよう鳴くなと懸命に祈りを込めて歌います。
 と思えば次のように小さな生き物を憎み殺す歌もあります。
  川原のここに散らばふ鶏卵の殻見るにいまいまし盗みしカラスここに食ひたる
  またたびの粉末買ひ来て毒を混ぜ鶏盗る猫を買ふ
  育ちおくれの栗の苗木のアブラ虫憎みてつぶす朝々を来て
 生業の中で、邪魔する生き物を容赦なく排除します。当然といえば当然ですが、やわな動物愛護者が目をひそめるかもしれません。
  土手の向こふの松の巣にゐるカラスのヒナ中の一羽の声悪きなり
 この歌には敵であるカラスであっても生きる命としてそれぞれの個性までを感じ取り、大切にする姿勢が潜んでいます。

 私は日々の暮らしのひと時に湧き上がる思いや自分の人生について詠んだいくつもの歌がとても好きです。
  人を恋ふ歌をくどくど吾が作り人におくれて生きてゐるなり
  鶏飼ひの狭き心は酔ふ度に人にからまり嫌はれている
  人に世に後れて一生鶏を飼ふ焦り心をあはれと思へ
  鶏飼ひて終わる一生を淋しとも甲斐あることと思ふときあり
 なぜ心に響くのでしょうか。自虐でもなく甘ったるい嘆きでもありません。辟易するナルシズムは全くありません。自身のエゴイズムを厳しく剔抉してゆきます。次の歌のように生きる思想の根本には、冷徹な人間自己観察があるのです。
  打たれたときだけ牛はいくらか早くなるかくのごとくに吾が生きてゐる
  やすやすと人に同情されて来ぬ父に生き別れしことより淋し
  妻子なく一生は過ぎる自堕落をおそれいましむると言ふにもあらず

 暮らしてゆく中で人と争い、人を傷つけることもありました。人を羨み憎むこともあります。そうした如何ともしがたい側面を浮かび上がらせた独自の歌は強く胸を打ちます。情感を込めて、花や水の流れの傍らにそっと置いてあります。そうした独自の手腕はなかなかのものです。
  考への同じ人とも争ひて枇杷の花咲く家に帰りぬ
  人を傷つけその折り折りに来て座るアカシヤの林も黄ばみ初めたり
  暗き過ぎし心は悔し水ごけのたゆたひながら流れるみれば
  吾が悪口日毎言ひ居る人あると聞きて吾にも憎しみの湧く
  胸張れる思ひなく過ぎ胸を張る人を羨みうとみて居たり
 そればかりではなく、楽しみもあります。
  農の処女と合唱し語り合い清々とゐるこの二三日
  メリーテーラーに妻子を乗せて畑に行く夢と言ふには小さきものを
 なかでも特に人と交流する楽しき歌はあたたかな光で歌集の一隅を照らし出します。
  仲間割れすぐにしそうな共同養鶏の組合長となりて三十年過ぐ
  墨田の友カリン持ち来ぬふたたびのカリン酒造る思はざりきうれしかりき
  今年また目白を捕りに来し老にさそはれ酒くむ利根川の土手
  河上肇の自伝読む会はじめるに若者たちまち多く集まる
 そして子供の言うままに希望をかなえてやる姿も実に好ましく輝いて見えます。
  昨夜轢かれし鴨持つ子等の言ふままに道辺の合歓の下に埋めたり
  鶏のヒナ飼ふ吾に飼わしめて子等は見にくる朝夕べに

 時代とともに日本の社会は変わっていきました。農村もまた彼の幼い頃とは大きな変貌を遂げます。農業のやり方も大きく変わりました。おそらくは進歩や発展とは思えず、徳江元雄にとっては必ずしも望ましいものではなかったのではないでしょうか。
  日に七八十台のトラック砂利を運び去る村をうるほすこともなきなり
  農の友等が土建屋の選挙運動する一日鶏糞百袋吾は詰めたり
  オートレース場近くに出来て村内の農民二人家財を亡くす
  親の安く貸せる桑畑のゴルフ場農継がぬ子等がゴルフす
  不動産屋土建屋連れ立ち鴨を撃ちに来る田中内閣よりの流行
  子の継がぬ農を互いになげき合ひ方策の誰にもなくて早きゆきすぎぬ
  pcp撒きし田水は澄み透り何の幼虫か死にて沈める
  休耕田水の光りてこの夕べ鴨の一群ひそかに居りぬ
  ダム底の村出で来しが父母を亡くし一家離散す五年が程に
  公害学者宇井純先生は助手のまま東京大学を遂に去りにき
 農村の貴重なかけがえのない財産を収奪する大きな動き。「田中内閣よりの流行」とあるが、列島改造以降の変容は果たして良策だったのでしょうか。農地や山林であった土地にゴルフ場やオートレース場を作って破壊し、人々の生活を誤らせたのではないでしょうか。金が人心を操り暮らしを衰退させたのでは……
 これらの歌は今となっては悲しいカナリアの声であったと痛感させられます。

 3
 あとがきによれば、父と生き別れた母は祖母も住む叔父の家に寄宿していました。徳江元雄はその叔父を父と呼ばされました。
  吾が心乱れ乱れて今日ありぬ物言わぬ吾に母はおどおどとゐる
  祖母と母の争ふ日々に吾が育ちませ悪口するどき少年なりき
  父と呼び育てられ来し叔父と吾があひ争へば母のなげきぬ
 母や祖母への情愛があればこそ、争いはひときわその身にこたえます。子どもの自立心が芽生えていくと、それがまた、一層家族のいさかいをもたらします。家族の誰もがそこから逃れることができません。争いと怒りの爆発と悲しい涙。互いに傷つけあい悔いにとらわれもします。それこそがこの世を生きることであり、その生きることの深い哀感が真正面から率直に歌われています。
 それにしても叔父への反感や抵抗は激しいものです。
  仕方なく叔父の言葉に従ふ時吾が反抗心は煮ゑたぎるなり
  怠け者と罵る叔父には怠けてもやりぬ嫌はるる気性一途に生きて来にけり
  吾を憎む叔父が吾が鶏に薪を投げつけてをるをいかりおさえて
 差別感情が剥き出しともいえる理不尽な叔父の仕打ちの数々。人としての尊厳を賭けて抗う叫びに心を打たれます。戸主である叔父に迎合しない、個の立場に立った短歌を生み出したことこそが大いなる価値のある事でしょう。
  いさぎよく叔父の家をば出ん思ひ一人の母のためにくづれる
 こんな時もあったがついに家を出てひとり住むことになります。
  叔父の家のためにただひたすら働きて来ぬこれからは吾がために働らかむ
 自立への出立でした。
  人を愛するは楽しからむに育てられ来し叔父を憎みて吾が生きており
  生きること悲しと思ふ一つ村に一人の母と別れ住むなり
 母と離れて住んだもののやがて共に暮らす機会が訪れます。
  八年の空白ありて共に住む母はまづ吾の腹巻を縫ふ
  言葉少なき母子の生活母のまきし松葉ぼたんの庭一ぱいに咲く
  稲刈りて疲れ帰るに菊の花てんぷらにあげて母は待ちゐき
  寝たきりの母ひとり置き八千羽のヒナを飼ひ居り時折淋し
  くらやみに寝たままの母吾を待つ点せば変らず笑顔を見せる
 母と子がようやく睦み合う歳月に恵まれました。その安らかな喜びや幸福感がよく感じ取れます。
 そして、父の存在もその人生に大きな影を落とします。
  生き別れし父をなげきて一生過ぐるまこと女々しと思ひ続けて
  ただ一度父に会ひにきもの言わず踵かへして戻り行きたり
  生き別れし父の死告げられぬ肉親の思ひすでに淡々し
  ふたたびは来ることなけむ父の墓人目はばかり急ぎ立ち去る
 女々しいとは思いながらも、思いは父に向かう時もありました。叔父との確執があまりにもつらい故に、今いるこの場所が苦しいゆえに、もし父と一緒ならと望んでしまうのです。その気持ちは痛いほどにじんわりと伝わってきます。
  母にしたしき人多く皆やさし賜ふ草餅母に供える
  老いぼれの歯のなき吾の発音は酔ひていよいよ分からなくなる
 いさかいもひとときの怒りも心の底に沈んだ悲しみをも、時はどこかに連れ去ってくれます。今はもう母も父もこの世にいません。そうして自分自身も年老いました。
 とはいえ折々の深い嘆きや悲しみは歌にくっきりと刻印され、今なお私たちの心を打ち胸に響きます。
 家族の間の小さないさかいや生き別れた父への思慕、叔父への反抗とそこからの独立。大状況からすればささいなことに見えようとも、家族のひとりひとりにとっては、しがらみにとらわれる苦しみやそこから逃れられない悲しみは並大抵の苦労ではありません。
 自らの体験と重ね合わせて共感する人がかなりいるのではないでしょうか。
 この歌集を貫く一本の太い流れとなっています。


 考えたいのは徳江元雄がなぜ歌を作ったのか、書くことのとらわれ人となったのかという不思議です。そして表現することは彼が生きるうえでどのような意味があったのかということです。彼のように、人はただ働くだけではなく、ただ生活するだけではなく、なぜ表現しながら生きる道を選ぶのかという人生の秘密を知りたいと思います。
 昭和二十六年三十二歳の徳江は若い友人を通して「ケノクニ」といううすっぺらなザラ紙の短歌誌を見せられ、その夜はじめて十首を作りました。編集者は斎藤喜博です。若くして土屋文明に師事した歌人で、教育実践家としても著名であり宮城教育大学の教授を務めました。本物の教育者であったと言っても間違いないでしょう。徳江元雄の短歌を斎藤喜博は良い作品だとほめ、勉強するように励ましました。そして、「なにも歌人にならなくてもよいのです」と言いました。
 「自由な時間も持てず、自由な考えも実行出来ず、将来の目標も持てず、気持ちの落ち込んでいた時の私にとって、これ程勇気を与えてくれたものは今迄になかった事でした。私の喜びは大変なものでした。」(「意地悪き鶏」あとがき)
 ここには徳江が表現を選び取った由縁が明かされています。勇気や喜びを与えてくれたものは何でしょうか。眼目は「自由」です。
 人は家族の中で、学校で、働く現場で何となく自分の感じていることや考えることが周囲とそぐわない、ぴったりしないという違和感を持ちます。その隙間に生まれた、まだ漠然とした何かを思い煩います。
 生きるためには働かねばならず、労働には数多の制約や不自由が待ち受けています。そして生きることは何と思い通りにならないことばかりなのでしょう。  そんな中で、ある種の人々は書くことを追い求めます。誰かに言わされた言葉ではなく、何とか自分の言葉で表現してみたい。それも空に消えてしまう言葉ではなく、しっかりとした形ある文字によって。ほとんどの時間を売り渡していても、自分だけの感慨や思想を明瞭明確な姿にしてみたい、そう思い定めます。
 小説家丸山健二は言います。真の創作者とは「どこまでも個人の自由という掛け替えのない精神と権利を求めずにはいられない」者のことだと。徳江元雄は間違いなくそのひとりでした。
 師斎藤喜博としてまとめられた中から三首を選びました。
  はげしさとやさしさたたへし君の面輪畏れ慕ひし三十年
  暗闇をまさぐる思ひあはれ先生に友におくれて吾が独りなり
  伊丹万作魯迅明平読ましめて鶏飼ひの狭き古きをいましめられぬ
 日本の戦後文学のプロレタリア作家として前衛を標榜した作家井上光晴に群馬文学伝習所において出会います。徳江元雄が初めて書いた原稿用紙四枚の「猫を殺す」の井上光晴の批評を聞いた一瞬の衝撃を次のように書いています。
 「私は体中に強い電流が走ったような衝撃を受けました。先生の知る筈のない三十年前、当時三十八歳の私が、自由と独立を得ようと、育てられた恩義ある叔父と争った時の心情をずばり言い当てていたのでした。作家のこわさ、凄さを腹の底から知らされました。(略)先生ほどの力を持つと、私たちの表面に表れない、形に表れない考えとか思いとかを、見透かし、その上その質まで見分けて、励まし、または戒められるのでした」(「意地悪き鶏」あとがき)
 優れた文学者との出会いを通して、文学の本質の何かを、文学の凄さをつかんだのです。すなわち、文学とは世俗を支配する道徳などのつまらぬあれこれを超えた、魂の倫理とでもいうべきものに到達しようとする営みであること。そして世の不条理を超えて、意味のある何かを求める営為であること……
 ここで、文学が応えるべき問いについての丸山健二の言葉に耳を傾けてみましょう。「果たしてこの世は生きるに値するのか。この世に在ることの意味とは何か。四苦八苦しながらこの世を過ごす喜びとは何か。なぜ、この世であらねばならないのか」徳江元雄は、この重い根源的な問いに、あがきながらも短歌という表現によって真摯に応えようとしたと言えるでしょう。
  先生の短歌に我は励まされ叔父と争い独立したり
  苦しみのもとに挫けぬ魂に吾があくがれて短歌習ひ来ぬ
  父あらば幸く安らに吾あらむ或いは短歌など知ることなしに
 人生の重要な道を定めてゆく折々に短歌がありました。誰にも何ものにも邪魔されることなく、文字によって自己の自由な考えを表現すること。それこそが書くことの真の意義であり、真に生きることなのだ。この文学の魔力に人々はしばしばとらわれます。徳江元雄はいつの頃からか、文学の本質の高みを目指し続け、その厳粛な回答として「意地悪き鶏」一冊を残しました。


 ここで私たちは文学をめぐってのもうひとつの重い課題に触れねばなりません。それは、文学の本当の難しさ、厳しさについてです。作品はあくまでも質の高さを要求されるという厳粛な事実。誰にもできそうなありふれた自己表現などと軽々しく言われるレベルとは違った高さをある種の読み手は求めます。書き手の間には、想像力の質の高さや技術のレベルの高さに歴然とした差があり、凡百の衆生は到底その高みに達することはできません。
 しかし、徳江元雄はいつからか凡夫の域を抜け出し、高みに到達することができました。
 私にはそのことを表現するこれ以上の言葉の力がないので、井上光晴亡き後歌集の出版を引き継いだ夫人慧眼の井上郁子の文章を引いて、その証とします。 「かなしい夕暮れの色にようやくなごむ胸になお抜き難く突き刺さっている一日の棘を歌い、自分を傷つける行為によってまた解放されもするという不思議を歌うことのできる力」
 まさにこれこそが徳江元雄の核心を言い当てています。
  意地悪き鶏は卵を良く生めりそれの事実を吾は肯う
  打たれたときだけ牛はいくらか早くなるかくのごとくに吾が生きている
  淋しげに一羽鳴きいるかのヒナは死に行くものと馴れて思ひぬ
 この三首を選び出したのは井上郁子です。私もまたこの三首こそ徳江元雄が達した文学の凄さを証立てる作品と思うようになりました。この歌を前にしては粛然とせざるを得ません。井上郁子は次のように書きます。
 「どう頑張ってみても、これらの三首の下の句を歌うことは私たちには容易ではありません。単に生活者としての感覚と読み過ごすには重すぎて、ぬるま湯になれた日常の足許を揺さぶられる思いがします」
 人がなぜ表現を欲するのかについては理解できます。それを味わう地点までは何とかたどり着けるでしょう。しかしこの三首がつかみとった魂に至るのは極めて困難です。誰もがなせる技ではありません。では、なぜ徳江元雄は歌い得たのでしょうか。背負う生まれ育ちの十字架の重さと心に宿った文学への執念。そして当代の優れた文学者斎藤喜博、井上光晴との一人ならず二人もとの稀有な出会い。いや本当のところはよくはわからないのです。
 もし文学の神がいるとすればその神が一瞬徳江元雄を拾いあげたとでもいうほかはありません。類い希なる出来事でした。懸命に努力したからなどとつまらぬことは言いますまい。報われないのがこの世であることは誰もが身に沁みてわかっているはずです。
 表現することの魔力にとらわれた人々は、その妄執のままに死ぬまで懸命に努めるしかないでしょう。あるかないかわからない、いつ巡ってくるか定かではない僥倖に向かって。