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【HPコラム 2025・11】

詩になった大型トラック運転手の労働と生活――『生駒孝子詩集 光る轍』

志真斗美恵 

『生駒孝子詩集 光る轍』は、国鉄詩人連盟から9月に出版された。作者は、トラック運転手である。国鉄詩人連盟がなぜトラック運転手の詩集を出したか疑問を持つ方がいるだろう。歴史ある国鉄詩人連盟に、今JRで働く人はいない。OBが詩作をつづけて、詩誌を年3回発行している.
 メンバーの1人である地引浩さんは、退職後も浜松で活動している。彼が中心になって発行している詩誌『草々辺』に掲載された詩は『国鉄詩人』に毎号転載され、そのメンバーは、国鉄詩人連盟に所属している。生駒さんはその1人になる。
『生駒孝子詩集 光る轍』の発行に力を発揮した国鉄詩人連盟の矢野俊彦さんに『草々辺』の読み方を問い合わせた所、地引さんに聞いてくださった。「くさぐさのあたり」と読み、「労働し生活する現場からの視点で表現していこう」としてつけられた造語だとの返事をいただいた。
 生駒さんは、日夜11トントラックを運転するドライバーで、工場から工場へとトラックで荷物を運び、フォークリフトを運転し、積み降ろしの作業までする。それを、生駒さんは20年以上、定年になるまで続けた。
 詩集におかれた地引さんの「素敵な詩人が誕生した」と題された文章は、生駒さんが、どのようにして地引さんと知り合い、詩を書き始めたかを明かしている。
 文章は次のように書きだされている。「二十年も前になる。古びたビルにあった地域ユニオンのドアをノックして入ってきたのは小柄な女性だった。」彼女は、働いている運送会社の労働組合幹部から執拗なハラスメントを受けていた。その日から地域ユニオンの組合員になった彼女に、しばらくして、詩誌を準備していた地引さんは「詩を書いてみないか」と誘う。生駒さんを含め4人で『草々辺』がスタートする。
 彼女は、「あとがき」で、地引さんから詩を、と言われ、地元でいちばん大きな書店に行き「詩の書き方」の本を求めに行ったが見つからず「途方に暮れた」。その後の彼女は「詩を書くことで支えられていたのです。喜びも悲しみも怒りも言葉にする事で自分の中で整理され向き合うことができる」ようになった

彼女が詩で描いた世界は、トラック労働について無知な私を打ちのめした。
 1次下請け、2次下請け……と下請け工場から工場へと出来上がった部品を運ぶ。労働は、早朝、深夜にも及ぶ。年休も取れない。年休を取ることは、他の人への迷惑になるだけでなく、時間外手当がなくなり、少ない手取りが一層減ることを意味する。労働時間に含まれない仕事−−それをしないと後々困ることが見える。
 詩集冒頭の「ある朝の詩」から引き込まれる。天竜川を渡る大型トラックのフロントガラスから「紅く熟れた月のような太陽が」駆け上がり、体を貫く。1日が始まる。次の詩「朝」では、彼女の優しさ、連帯感を知る。まだヒーターの効かない走りはじめ、闇の中に灯をさがす。「あった」と1つ窓の灯りをみつける。うずたかく重ねられた材料を前に働く女工を見つけ「ああ、同じ朝だ」と思う。「さあ、今日も1日が始まる」と詩は結ばれる。コンビニで1人労働に従事している女性に声をかけ、前を通るたびに最徐行して通る生駒さん。リストラされた工場のトイレの掃除婦に対する詩人の感情も丁寧に描かれる。深夜、ベッドから落ちひとりで元に戻れない母を勤務時間の中、抱え上げて元にもどしに行く作者。もちろんそれができないこともあった。そうした生活も詩の中に生きている。
 詩集のはじめの1頁目に、102歳の国鉄詩人連盟員・福田玲三(労働者文学会員)さんの「推薦の言葉」がある。
「著者は大型トラック運転手として働きながら、未開拓の詩の荒野に分け入り茨(いばら)の道つくりに挑戦した。肌は傷つき血を流しながらひるむことのない意欲は読者の共感を誘うだろう。そしてその先駆者としての栄冠は彼女の頭上に輝き続けるだろう。」
 ぜひ皆さんに読んでほしい。
(書店では扱っていないので、希望者は、国鉄詩人連盟・矢野俊彦さん zc282428@kg8.so-net.ne.jp まで連絡を)

【HPコラム 2025・10】

青木実氏とは

秋沢陽吉

 
 青木実氏(1927―2025) 2015年夏に初めてお会いした。私の入選作について。「井上光晴は『地の群れ』についていけなくてそれ以来読むのをやめていた。切実感をもう一度確かめようとは思わなかった。だが、今回の評論で目が醒めた。いい評論だ」当時のメモに書いてある。別の合評会の折に、木下昌明さんがこのメンバーの中には凄い人がいるとおっしゃった。青木実さんもそのひとりと思った。詩の審査では求める水準が高くほとんどを認めなかった。国鉄の全国ストを指令するときの緊張感に触れたこともある。ある時は私の恋人ですと福島瑞穂氏の応援名刺を渡された。

 「操作場にて 日記抄3」(労働者文学賞佳作1991年)は素晴らしい詩だと感銘を受けた。全部を読みたくて探したがなかった。『青木実詩集 機関士霊歌』(1984年)を手に入れて読んだ。「「BEDの対話」「機関士霊歌」「事故・T」「事故・V」「ある始発駅風景?」「時計について」はとてもいい詩だと思った。他にも闘いを鼓舞する詩がある。
 「自然主義的な生活派の、現実をそのまま写しとるという、従来あった方法から、青木の詩は一歩抜け出している」という評は的確だ。実験や様々な試みを行うところに個性が横溢している。55年頃は国鉄詩運動が盛んで、詩サークルの全盛時代だったと青木実は書いている。様々な詩誌に作品を発表し、編集にも携わった。62年には針生一郎と武井昭夫の推薦で新日本文学会に入会した。
 この詩集の「「あとがき」に変えて」が実に面白い。波乱万丈と言いたいほどの華々しい活躍が描かれている。何といっても秀逸なのは国鉄新人賞を受賞した「BEDの対話」についての内容だ。選ばれるまでの顛末、毀誉ではなく褒貶の数々。そして大阪文学学校の講師が青木実の詩は論外であると否定する批評に対して抗う、歯に衣着せぬ物言いに驚く。青木実自身によって優れた作品であることが明らかになるところが読みどころだ。
 労働者が自分の詩をひっさげて闘う姿勢はおそらくは労働運動の現場でも存分に発揮されたのではと想像する。略歴から引用する。41年に国鉄に就職。45年大宮機関区でSLの機関士となる。55年気動車運転士兼務で田端機関区へ転勤。61年、動労東京地方本部役員となり、68年公労法18条で不当解雇。翌69年より動労本部役員。法対、組織本部長から書記長を経て、現在特別中執。(現在とは84年)
 この方と労働者文学会で同じ部屋で共に時間を過ごせたことを誇らしく思う。
 国鉄民営化とは何か。地方の鉄道を潰し、都会の資産を売り食いして儲けようという企みだ。失敗ではなく資本が目論んだ通りになった。だから組合は邪魔ものだった。

【HPコラム 2025・10】

連れ合いの誕生日によせて

北山 悠 

 我が連れ合いの誕生日は9月17日だ。この日前後においしいものを食べるのが我が家の年中行事のひとつだ。この日はまた、小泉純一郎・金正日による日朝会談が行われた日であり、平壌宣言が出された日だ。それは2002年のことだから、今年は23周年になる。日朝首脳によって国交正常化を目指すことが約束されたが、こんなにも長い年月が経っても見通しは暗い。日本は懸案事項が解決されなければ、国交正常化交渉はしないと決めた。安倍政権以降の日本政府は、この安倍路線を踏襲してきた。懸案事項とは、拉致問題と核・ミサイル開発だとされた。一方朝鮮側は、拉致問題は基本的に解決済みであり、核・ミサイル開発は自衛権に属するとしている。ちなみに、ここでは北朝鮮という用語は使わない。それは地理的概念であり、北朝鮮と呼ぶのであれば、韓国は南朝鮮と呼ばなくてはならないからだ。朝鮮を国家を認めていない証しだ。東北アジアでは、正式な国名から漢字二字で呼ぶのが普通だ。「日本」、「中国」、「韓国」と呼ぶならば、「朝鮮」がもっとも相応しい。国として認めていないのは、他の言い方にも波及している。9月3日に北京で「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念式」があった。マスコミが「軍事パレード」と言っているものの正式名称だ。その壇上に中ロ朝の首脳が並んだが、習近平国家主席、プーチン大統領、そして金正恩総書記だ。金正恩だけはなぜか朝鮮労働党の役職名になっている。朝鮮を国と認めるならば、金正恩国務委員長と呼ばなくてはならない。新聞によっては、朝鮮の国家元首を「正恩氏」と表記しているものさえある。近平氏だの在明氏がありえないように、フルネームで呼ぶのが北東アジアの礼儀ではないか。
 岸田政権は政権末期に「前提条件なしの日朝首脳会談」を提案した。「前提条件なし」というのは、懸案事件の前進がなくてもいいという意味だ。しかし、実現しなかった。それは、「懸案事項が解決されなければ、国交正常化交渉はしない」という安倍路線の縛りが利いていたからだろう。2014年12月にアメリカ・オバマ政権はキューバとの国交正常化を決めた。懸案事項の解決よりも「国交正常化」を優先させた結果だった。日本政府はこのオバマ外交に学ばなくてはならない。日本政府のやっているのはブルーリボン・バッチを着けることと「拉致問題は内閣の最重要課題」と繰り返すことだけだ。連れ合いの誕生日が来るたびに、日朝国交正常化交渉の再開を願うばかりだ。ちなみに、今年の旨いものは確か寿司屋だった。  

【HPコラム 2025・9】

「トルストイ82歳のガンディーへの手紙」9月

  小林孝吉
 
 ロシアの作家トルストイ(1828〜1910)の82歳の最後の手紙は、ガンディーに宛てたものであった。トルストイは、ロシア帝国の時代に、ヤースナヤ・ポリャーナで伯爵家の4男として生まれる。若き日の放蕩三昧の生活、クリミヤ戦争の戦場体験、領地の農婦への愛欲、また1861年の農奴解放令など、19世紀の激変の時代を背景に、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などで作家としての名声を得る。反面、家庭内不和とともに50歳を前に精神的危機を迎え、『懺悔』などに描かれた人生への深い懐疑を経て、新たな精神的誕生により、死の代わりに光と遭遇した『イワン・イリッチの死』などの信仰的希望の文学へと至る。トルストイは、財産の罪悪視、著作権の放棄、飢饉救済活動、日露戦争批判、兵役拒否の思想等を実践し、その信仰は民衆へと向かい宗務院からは破門される。
 1910年10月28日、「私はこれまで生きて来たぜいたく三昧の境遇の中でこれ以上生きてゆくことはできない。だから私は自分と同年輩の老人が普通することをする――つまり自分の生涯の最後の日々を孤独と静寂の中で過すために、俗世の生活から去る……」(川端香男里『トルストイ』)と妻への書き置きを残し、寒い秋の日に家出をする。リャザン・ウラル線の小駅アスターポヴォで病に臥し、11月7日世を去った。
 82歳の9月7日、トルストイはガンディー宛に最後の手紙を書いている。手紙は、「あなたの雑誌Indian Opinionを受け取りました」と始まり、こう記されている。――そこに書かれていた無抵抗主義の人々のことを知り、私の心に生まれた考えをあなたに聞いていただきたい。無抵抗の本質というのは、愛の法則にほかなりません。愛は人間生活の最高にして、唯一の法則です。愛の法則は、ひとたび抵抗という名の暴力が認められると無価値になり、権力という法則だけが存在します、と。当時ガンディーは、南アのトランスヴァールで、反英抵抗運動をつづけていた。その非暴力・不服従の勇気を鼓舞したのがヒンドゥー教の聖典「神の歌」であった。
 2022年のロシアのウクライナ侵攻、2023年以降の殺戮と飢餓に蔽われた、旧約以来の約束の地パレスチナのガザ地区の極限的惨状、子ども・女性・市民を含む死者が日々増えつづける、この戦争の新世紀に、「愛の法則」ほど求められているものない。しかも、ひとたび抵抗の暴力が容認されたとき、それは「権力という法則」へと堕落する。そこに希望はない。
 眼前には、そんな権力の法則とともに、世界の分断と社会のディストピアの風景は止めどなく広がりつづけている。いかに迂遠に見えようとも、トルストイとガンディーの愛の思想に、改めて眼を向けなければならないであろう。未来のために。  
【HPコラム 2025・7】



 森下千尋

目の前にいても君は気付かない

体温が交わりそうなくらい近い息遣い

AIにない警戒 恋愛にない正解

データにない敬愛 宴会になり寝ない 眩暈

人間らしさに限界は無しだ

実験は足場 記憶がフラッシュバック

昨日は浦島 マシになったのか暮らしは

停滞した経済で育つ逞しさ

アブラカダブラ 達磨はカルマ

明日が分かるなら歌は桜

散り行く存在咲かす瞬間

生きている現在を切り取り出発

未来に思考が向けば心配や不安で

過去を振り返る情けはつまんねえ

無断で使用したイメージは無関係

頭は此処にいないで企んでいる


体温、呼吸、たっぷりのユーモア

自虐的に固有の人生を全うしよう

息を吸って吐く流れサイクルにある

躍動する生命の活動を記録しよう

人工知能が発達高度なコミュニケーションや

クラス一の秀才を余裕で超える勉強家

そんな時代に人間に残るものを考える

ハナから何も無かったのにねって少し笑える


スマホを手放して 娘の宿題を手伝おう

スマホを手放して 妻と一日を振り返ろう


感情の揺れ動き

状況や関係性に宿る実体験

成長と共にあった喜びや失敗へ

そんなことをつまみにして

同時代に生まれたすべての友と

一杯やりてえ


しっかり安定の人生を設計

小っちゃいことに囚われない大人になりたい

間違いを謝れなかった事にあった

交わり 恥かき グラスの中の

ウイスキーに深み増す味わい

熟成ってやつが安定を鑑定すると

価値があるのは不完全な数%

反省を繰り返す半生と

スーパー銭湯 流す労働後の汗を

大浴場から見えた海に沈むサンセット

美しいと想う心が

確かにここに在ると映した万華鏡 

 
  【HPコラム 2025・7】

―世界でいちばん貧しい大統領から日本人へー

         映画「ムヒカ」を観て

穂坂晴子
 塾の教室の窓辺に色々な本を置いている。本を読まなくなり、自分の感情を表現する機会が少なくなった生徒が多い中で、心に触れると思われるもの、平和を願ったもの、絵本、漫画での歴史などである。その中の1冊が「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」だ。
 ある時、6年生の生徒がぽつんと言った。「このムヒカ大統領ってこの前、死んじゃったんだよね」「この人は貧しい人たちに自分のものをあげてたんでしょ」そして、、でも悪いことをしたんでしょ。ずっと捕まってたんでしょ」
 生徒の質問はこの本を読んで、ニュースを聞いていた! と思った。気づきと疑問が大切。何かのきっかけになるよう私たちが種を蒔くことの嬉しさを感じた。自分で考えることを促す。ヒントを与えつつ。そんなことを思っていた矢先、1枚のチラシとの出会いがあった。近隣の地域ホールでの「ムヒカ」の映画上映のお知らせだ。ぜひ観たいと駆け付けた。
 ムヒカ元大統領の2016年の国連のスピーチは参加者を驚かせ、大量消費社会を批判し、人間の大切にするものを訴えた。「貧乏とは少ししかもってないことではなく、限りなく多く必要とし、もっともっとと欲しがることです」「私たちは発展するためにこの地球上にやってきたのではありません。幸せになるためやってきたのです」
 映画は夫婦で農場の質素な住まいに住んでいるムヒカの姿から始まる。映画は彼にほれ込んだ1新聞記者が監督になり、3年間取材したものである。優しい穏やかな目で彼は言う。「人生で一番大事なことは成功することではない。歩むことだ」「人間は同じ石に何度もつまずく唯一の動物だ」「今は世界とつながっている。だが自分自身との繋がりを絶たないでほしい。自分の外部の求めるのではない。自分の内部と深く対話すること。なぜなら自分自身のなかに『世界』があるからだ。」
 ムヒカは2016年、来日した。彼が一番行きたかったのは広島、長崎であり、会いたかったのは日本の若者だという。広島、長崎で日本の文化を語り、東京外語大学で生徒からの
「あなたの考え方で全世界が幸せになるのは可能だと思いますか」の質問に「確かに私たちは神ではない。しかし、自分ができることをすれば幸せになり、周りの人も幸せになる。自分の幸せを人の幸せに貢献できる。世界は変わらないけど、君自身は変わるんだ」と応えている。当時の独裁政権と闘い、12年間耐えた獄中生活から学んだ哲学でもあるのだろう。
 今年、地元でノーベル平和賞受賞者田中煕巳さんの講演会を行った。被団協の苦労を客観的に語る姿と私たちに託す思いに多くを学んだ。高校生の「私たちは何をしたらいいですか」の質問に「まず学んだあなたたちが自分で考え、行動しなさい。分からなかったらいつでも相談しなさい」と答えられた。講演は多くの参加者の心を打ち、我がこととして受けとめた。
 ムヒカの言葉は今の私たちにとって大きな示唆である。国連演説で聴いた人はなぜ感動したのか、今深刻な戦争が起きている中で、どう受けとめるか、小学生の彼はその後どう思ったのか、見た後の思いが今も渦巻いている。見つめなおし、自分のこととして、そして普遍的なこととして考えていきたいと思う。
 
  【HPコラム 2025・6】

近況報告

田中透
 △今年4月、ウェブ担当のMさんから連絡があり、「君の作品をまたHPコラムに載せたいので、何か書いて欲しい」とのこと。そこで、あれこれ考えた末、前回は『自己紹介』でしたので、今回は『近況報告』にしました。
△昨年7月15日に食品(だし)製造会社を辞め、翌日(16日)に交通誘導の会社に入りました。その理由は、毎月の給料が手取り13万円前後ではとても暮らしていかれなかったから。もっとも、その後、現在の会社から15〜18万円もらっていたのですが、今年に入ってから少しずつ仕事が減り、ここ数ヶ月は9〜12万円しかもらっていません。
△私の場合、仕事のある日は5時に起き、朝飯を食べ、弁当を作り、現場には7時30分頃着くようにアパートを出ます。
△誘導員の勤務時間は8時から17時まで(休憩は12時から13時まで)になっていますが、朝の通勤通学時間を避けるため、じっさい工事は8時30分から始まります。
△作業人員は、たいがい1人か2人で、3〜5人の時もあります。
△業務内容は、片側交互通行や通行止めといった車両、歩行者の誘導ですが、作業員さんを見守ることも大事な業務です。とはいえ、実情はかなり複雑でして、ダンプカーや重機の出入りに合わせ、歩行者はいないか、一般車両は来ないか、と周囲の安全を確認しながら、矢印板やセーフティ・コーンを置いたり取ったりしています。
△先日も3人で片交をしていて、私は工事区域の中程に立っていたのですが、何をしたらいいのか、まったく分からず、とりあえず様子を見ていると「何ぼーと突っ立っている!」「早くあのコーンを動かせ!」と先輩たちから怒鳴られてしまいました。こんな調子ですので、先のことを思うと、不安です。
 

【HPコラム 2025・6】
 
戦後80年の感想
福田玲三

 

「戦後80年 『戦後』は終わったのか」の問いかけに、北岡伸一・東京大学名誉教授は、その答えを、次のように結んでいる。(朝日新聞25年4月22日付)

 「……私は、10年前に安倍晋三政権が出した戦後70年談話の作成に関わりました。その中では『侵略』『植民地支配』という言葉を使った。歴史的な事実だったからです。

 石破首相は80年談話の代わりに、国民へのメッセージを出す方針のようですが、もう『おわび』の要素は入れる必要はないと思います。歴史を伝えることと、いつまでも謝罪を続けることは同じではありません。戦後80年に意味があるとすれば、歴史を正しく知り、今後の日本がなすべきことを考える機会にすることではないでしょうか。」

 この回答を読んで思い出したのは、安倍政権の戦後70年談話だ。この談話は、上辺は戦後50年の村山談話の「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」を引継いでいると見せながら、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と結び、村山談話の誠意を台無しにする、面従腹背、安倍の得意技だった。

 今回の北岡回答をみると、一度はやむなくおわびしたが、もう二度と謝罪したくないと、まるで地獄の底でつく溜息が聞こえるかのようだ。

毎回、おわびをするごとに、今後の日本のあり方を考える、それが誠意ではないか。

 北岡回答を見て、また思い出したのはホー・チ・ミン北ベトナム主席の次の言葉だ。「人にいいことをされたら、永遠に忘れない。こちらが人にいいことをしたら、それは忘れてもいい。」(本多勝一著『北爆の下』p.379) この言葉はベトナム解放戦争を支援した諸国の人民に向けられた謝意のようだ。

 いま、北岡回答をホー・チ・ミン主席の言葉に移せば、「人に悪いことをされたら、永遠に忘れない。こちらが人に悪いことをしたら、それは忘れてもいい」となろうか。まるで逆の教えだ。

 30年にわたる民族の命運をかけた戦争を勝利に終えた指導者の大きな心と、15年にわたる侵略戦争を敗北で終えた国の教授の小さな心の、その開きは明らかだ。

この風格の違いを、いま私は実感している。

【HPコラム 2025・4】

蕎麦掻き

土田宏樹 
東京でも桜が満開となった4月初めの某夜、郵便局で働いていた頃の仲間たちと神田の蕎麦屋で飲んだ。菊正宗の熱燗。5人連れだったので肴はあれこれ少しずつ注文して分け合う。鰊の棒煮、卵焼き、焼き鳥・・・。蕎麦がきもたのむと、塗り物の湯桶が運ばれてきた。熱い湯が満たされ、蕎麦粉を掻いたのが浮かんでいる。
 大江健三郎を誘って神田の蕎麦屋に入り、蕎麦がきを食べた話をむかし安岡章太郎が書いている(雑誌『文藝』1974年2月号)。

 
「そばがきといふのは、私は子どもの頃から何となく貧乏臭い気がして好きではなかったが、大江氏が食ひたいといふので、付き合って食ってみると、これがじつにウマかった。」

 安岡は店名を明記していないが、われわれが行ったのは、おそらく同じ蕎麦屋である。そして蕎麦がきというのはじっさい貧乏くさいようで実にうまい。そば切りにする前の、鉢で捏ねられた蕎麦のかたまりだ。

 安岡のその文章はもう半世紀前で、安岡章太郎も大江健三郎も今やこの世の人ではない。私が最近読んだ中で蕎麦屋が登場するのは津村記久子の小説『水車小屋のネネ』(2023年)だ。題名にある水車小屋は山あいの、近くを川が流れる蕎麦屋に併設されていて、水車の動力によって回る臼で蕎麦の実から蕎麦粉が挽かれる。小説の中に蕎麦についての蘊蓄などいっさい出てこないが、きっと美味いに決まっている。蕎麦がきが出される場面もあった。
 ネネというのは、水車小屋に棲むヨウムという鳥の名。オウムの一種で賢い。18歳と8歳の姉妹が事情があって家を出、姉は蕎麦屋で働く。彼女たちをめぐって1981年から2021年まで40年間のクロニクル(年代記)のような作品だ。

 読後感が爽やかなのは私が蕎麦好きだからだけではないと思う。 
 
 【HPコラム 2025・4】

朝鮮戦争を終わらせることについて

(ファン) 英(ヨン) 治(チ) 
  本稿の執筆現在、イスラエルとハマスのガザ戦争の停戦合意は破綻し、イスラエル軍のガザ地区および西岸地区、レバノン南部への攻撃が再開された。また、ウクライナとロシアの停戦をめぐっては、実現に予断を許さない状況にある。そうであるがゆえに、なおさら、戦闘を停止し、当該地域に暮らす人びとや戦闘員たちを覆う死の影を払い、民意と国際法に沿った公正な「平和」への第一歩となる両地域の「停戦」を願う気持ちはさらに強まる。
 この思いに共感してくれる方は、決して少数ではないだろう。そこで私は、遠くのパレスチナ、ウクライナとともに、私たちの身近な戦争=朝鮮戦争の「停戦状態」が72年間そのままであることを忘れないで欲しい、とつけ加えたい。

「停戦」とは、「交戦中の両軍が何らかの目的のため、合意の上で一時的に戦闘行為を中止すること」(デジタル大辞泉)とされる。つまり、「停戦状態」とは「戦争状態の継続」ということになる。であるのに、日本の世論だけでなく、平和運動においても、「朝鮮戦争の(少なくとも)終戦」についての関心は低い。いや、ほとんどない、と言ってもいいだろう。
 しかし、朝鮮戦争はいやでも、「日本の戦争」である。実際、横田基地には「朝鮮国連軍後方司令部」が置かれ、「国連軍地位協定」によって7か所(うち3か所は沖縄)の在日米軍施設が「朝鮮国連軍」の使用可能施設だ。「国連軍」の主力は米軍で、駐韓米軍・韓米連合軍司令官が「朝鮮国連軍」司令官を自動的に兼任する。つまり朝鮮半島で、朝鮮人民軍と米軍・韓国軍の間に、(ここ数年頻度を増している韓米+日の合同軍事演習を引き金に)なんらかの軍事衝突が起きれば、それはただちに朝鮮戦争「停戦」体制の崩壊となり、日本は自動的に「朝鮮国連軍」の後方基地としての機能を再開する(と見なされ)、当該の米軍施設は、朝鮮人民軍の攻撃目標となる(この部分は、高林敏之・立教大学非常勤講師のフェイスブック投稿を引用した)。
 逆に、Imagine! 朝鮮戦争の「停戦」を「終戦」―平和協定の締結に導けば、朝米・朝日の国交正常化と、朝鮮と韓国の平和共存=漸進的な統一プロセスの軌道への進入によって、東アジアの冷戦はようやく終わることになる。そうなれば、実質的な軍縮=米軍の韓国と日本(=沖縄)からの削減―撤退、朝鮮人民軍・韓国軍・自衛隊の縮小の条件が整う。
 ちょっと待て、中国の軍事大国化―海洋進出、台湾問題―有事の問題はどうする? との声が聞こえてくる。そうであったとして、どうして朝鮮戦争を終わらせてはならないのか!

 パレスチナ、ウクライナ、そして世界各地の戦争―停戦状態が、一刻も早く公正な「平和」体制へと移行することを願う。その願いは、ただちに、朝鮮戦争を終わらせなければならないという、私(たち)の課題、それに寄与する仕事に参加する責任を生じさせる。
                        (3月24日記